いのちの源

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人生の虚しさを解放する道はここにある

2020-05-16 11:39:57 | 賛美の心

 【編集者メモ】人生の虚しさを埋めるため、彼はよく友だちと飲み食いや遊びに出かけます。しかし彼の霊はいまだに満足していないだけでなく、そのような人生は虚しさに苦痛をも加えます。神様を信じるようになったあと、彼は自分の虚しさの根源を理解するとともに、それを解決する道を見つけます。

寄稿家:思明(韓国)

 朝早く、私は窓際の小さな机の前に座って『カナンの良き地の幸せ』というダンスと音楽のビデオを静かに見ていました。私の心はメロディーに合わせて舞い上がり、思わず笑みを浮かべました。神様の御前に出ることの平和と確かさを心から感じていたのです。

罪に陥り虚しさと苦痛の中で生きる

 私はより多くの収入を得ようと数年前に韓国へ来ました。しばらくのあいだ必死に働いたあと、徐々により豊かな生活を送るようになりましたが、心の中で虚しさや無聊を感じることがよくありました。友人からしばしば食事や飲み会に誘われ、歌って踊るためにカラオケバーなどの場所へ誘われることもありましたし、帰宅が深夜になることも珍しくはありませんでした。当時、私たちのあいだではこんな言葉がはやっていました。「喜びの日をつかめ。人生は短いからである。」「今日は飲んで心配は明日にしよう」「若さの特権を生かして飲み食いし、浮かれ騒いで人生を楽しもう。歳をとれば何も楽しめなくなるのだから」私はこうした言葉に共感を覚え、自分たちはこのように生きるべきだと考えました。その後、友人たちが集まって出かけるたび、一緒に行かないかといつも私を誘ってきました。仕事が終われば何もすることはないしどうせ退屈なので、私は必ず一緒に出かけました。どこかへ食事に出かければ兄弟のように飲み食いし、話して笑い、とても幸せに感じました。飲み食いしたあとはカラオケバーや他の場所に行って歌ったり踊ったりします。宴とお祭り騒ぎが終わったあと、こんなに大勢の友人と一緒に話したり笑ったりして、これほど大いに楽しむのは本当に素晴らしいことだと感じました。ときどき友人たちが出かけたくないことがあっても、私は出かけたいと思いました。そうしたとき、仕事で感じていた退屈さ、人生に対するあらゆる失望、そして不満に思う一切のことが一瞬で消え去りました。私は徐々に、飲み食いして人生を楽しまないのは馬鹿げているとか、そのような人生だけが喜びをもたらし、自分をつまらない仕事から引き上げるのだとか考えるようになりました。仕事が終わると毎日のように際限なく酒を飲みましたが、その後時間が空いたとき、心は虚しさと孤独を感じたままでした。私はこう思わずにはいられませんでした。人はなぜ生きるのか。どうすれば霊の空白を埋められるのか。

 私は様々な思いを抱いていたものの、生活と仕事は続けなければなりません。雨が降ると同僚も私も仕事を中断せざるを得ないので、みんなは自由時間に雀荘へ行き、麻雀をして時間を潰していました。私も誘われたのですが、そのときこう考えました。「ちょっとだけやってみよう。どうせ自由時間なんだ。麻雀しながら時間を過ごして、退屈な日が続いても暇を潰せるようにしよう」こうして私は雀卓の前に一日中いるようになったのですが、いつも大きく負けるばかりで勝つことはあまりありませんでした。一日で二、三百万ウォン負けることもあったほどです。麻雀をしているあいだは本当に幸せで、心ゆくまで楽しんでいました。しかし家に帰れば以前と同じままで、負けたお金のことを思い出して恐怖を感じました。もう麻雀はやめるよう自分に言い聞かせても、次の日には例のごとく雀荘へ舞い戻ってしまいます。結局さらに負けてしまい、友人にお金を借りるまでになりました。私は自制できないことに対して自分に憎しみを覚えました。はじめは単に暇つぶしのため、楽しむためにすこしだけ麻雀をするつもりでしたが、虚しさにこれほどの苦痛が加わるなど想像もしていませんでした。その後仕事のプロジェクトが終了し、私は借りていたお金をなんとかすべて返済したため、別の現場へ向かうことになりました。

 そこに着いたあとも、私は引き続き友人たちと集まり、稼いだ金で飲み食いや遊びに出かけました。そのどれもがつかの間の幸福をもたらすものの、私の生活は虚しいままで、偽りの世界で暮らしているように感じられるほどでした。一緒に飲み食いしたり遊んだりして人生を楽しむなど、表面上はみんなが友人でした。しかし実際には、誰もが自分のことしか心配していなかったのです。特に自分の個人的な利益に関係することがあると、背後で互いに攻撃したり非難したりします。私は暇なときによくこう考えました。「俺はこのように人生を送るべきなのか。周りの無数の人間はみんな他人の足跡に従っている。それ以外に生きる道はないということなのだろうか」

人生の虚しさを解放する道はここにある

人の人生における虚しさの根源は何か

 ある日の仕事中、私は恩浩に出会いました。私たちは互いを知り、あらゆることを話し合い、親友になりました。あるとき会話の中で、私は心の中で感じていた苦悶を残らず彼に打ち明けました。すると恩浩はこう言いました。「君をある場所へ連れて行こう。そうすれば君の問題はすべて解決する」そうして結局、彼と一緒に教会へ行くことになったのです。私は兄弟姉妹に自分の経験を話し、率先してこう尋ねました。「人の人生はなぜこんなに虚しいのでしょう。いったいどうすれば人生の虚しさと苦痛を自分から取り除けますか」

 すると一人の姉妹が私に言いました。「兄弟、あなたがなさった質問は多くの人を困惑させています。いま人々の生活水準はますますよくなりつつあり、私たちはより多くの物質的な喜びを享受していますが、それでも霊の中の虚しさは日を追うごとに大きくなる一方です。それがなぜかを理解する人はいませんが、神様の御言葉が人類の苦痛と虚しさの根源を明らかにしてくださいます。神様の御言葉の一節を読みましょう。『人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。…何故なら、神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これ らのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への欲求や願望を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の將來にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。…人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。』

 神様の御言葉を読んでくれたあと、その姉妹は交わりを続けてこう言いました。「神様の御言葉は私たちの虚しさと苦痛の根源を完全に説明してくださいました。私たちはサタンによって堕落させられたあと、神様を避け始め、神様の御言葉のお導きと供給を失い、サタンの影響の下で生きました。人類がこのような虚しく苦痛に満ちた人生を送っているのはそれが理由なのです。私たちはみな人生においてお金や名声や富や肉体的な快楽のために争ったり走り回ったりしています。そしてこのような物事を追い求めれば追い求めるほど、私たちはより満足を覚えず貪欲になっていきます。それらの物事を手に入れると、物質的な生活水準は向上し、肉体は喜びを得ますが、それらを享受したあと心は再び虚しさを感じます。それらの物事を得られないとき、私たちはより大きな苦痛と無力感を覚えます。したがって、お金や地位を持たない人は虚しさを感じて人生に何の意欲も持ちませんが、それはまさにお金も地位もあって人生を大いに楽しんでいる人が感じることでもあるのです。彼らも虚しさを感じ、何の意欲も持っていません。霊の虚しさを埋めようとダンスクラブに行ったり、たばこを吸ったりお酒を飲んだり、旅行に出かけたりするなど様々な方法を試した人もいますし、中には麻薬を試した人さえいます。しかし私たちが何をしようと、どれも無駄なことです。お金や名声や富、あるいは肉体的な快楽が人類の虚しさを解決することはできず、私たちを幸せにも喜びに満ちた状態にもできないことを、それは示しています。私たち人類は神様によって作られたのであって、神様の御前に出て神様の救いを受け入れ、神様の御言葉によって生きることでのみ、私たちの心は安らぎと平和を感じ、この虚しさを自分から取り除くことができるのです」

 姉妹の話を聞いたあと、私は再び神様の御言葉について考え、それが私の心に直接語られたように感じました。当時、食べ物や着るものを買える余裕があるかについての心配はありませんでしたが、それでも人生に幸せを感じていませんでした。時間を潰して虚しさを取り除くため、よく友人と外出して飲み食いしたり遊んだりしていたものです。そうしたとき、私は肉体的に満足して表面上はとても幸せに見えました。しかし帰宅後、特に一人でいるときに信じられないほどの虚しさと無力感を覚え、自分には人生の目標がまったくなく、人生そのものが無意味だと思えるほどでした。気前よく散財したり、遊びにふけったり、際限なく飲酒したりする暮らしはつかの間の幸福をもたらしただけで、私が真の幸福を感じたことは一度もありませんでした。おそらく神様への信仰だけが、自分の霊的な虚しさを解決できる唯一の道だったのです。

自分から虚しさを取り除く希望を持つ

 それから姉妹は『神に救われていなければ』という賛美歌のビデオを再生しました。それを聴いた私は自分自身がその言葉を経験したかのように感じ、歌うあいだ自分の生活の一幕一幕が映画のように私の心に映し出されました。以前の生活では際限なく酒を飲んでばかりいて、人類がどこから来たのかも自分たちがどう生きるべきなのかも知らず、人生に何の目標も期待すべきこともなく、その代わりに「もがき罪に苦しんで虚しく、望みもなく」という賛美歌の歌詞どおり、何の目的もなく一日中ぼんやりしていただけでした。さらに、ビデオに登場する兄弟姉妹は神様を信じ始めたあと、自由で解放された人生を送っていることに気づきました。私はそのことに深く心を動かされ、神様は本当に私たちを虚しく苦痛に満ちた生活からお救いになれるのだと感じ、これからも神様の働きを勉強し続けたいと思いました。

 その後、神様の御言葉を読むことや、兄弟姉妹と集まって交わることを通じ、私は人類の堕落の源、サタンはいかに人間を堕落させるか、神様はどのように人間をお救いになるか、本当の人間らしさをどう生きるべきかといった真理の側面を理解するようになりました。全能神によって表現される御言葉はおそらくどんな人間にも語れなかったことを私は知り、また全能神の御言葉は私に人生で進むべき方向を示し、有意義な人生を生きるために何を追い求めるべきかを教えました。それらは私にとって大いに助けとなるものでした。私はその後教会に加わり、しばしば集会に参加して兄弟姉妹と神様の御言葉を分かち合いました。このように生きることで自分がとても豊かになったように感じ、私の霊はそれまで感じたことのない平和と喜びを体験しました。

誘惑に打ち勝てないことの根源

 ある日仕事が終わったあと、同僚がこれから出かけないかと私を誘いました。しばらく飲み食いに出かけておらず、生活が少し面白みに欠けるものになっていたことを思い出し、一緒に出かけて少しのあいだ気晴らしを求めるのもいいだろうと考えました。それで結局、私は彼らと一緒に出かけました。その夜帰宅したあと、私は心を静めて考えました。「俺はいま神様を信じているけれど、不信心者のようにこんな贅沢な生活を送ることは神様を喜ばせるだろうか。クリスチャンはこんな風に振る舞うべきじゃない」そこで私は神様の御前に出て祈りました。「神様よ。私はもう堕落に陥りたくありませんが、自分から誘惑を取り除くことができません。これらの肉体的な欲望と誘惑に打ち勝つ手助けをしてください」その後、私は神様の御言葉を読みました。「ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、墮落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲學、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の墮落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも墮落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。」

 神様の御言葉から、神様を信じることができながら同僚の誘いに耐えられないのはなぜか、彼らとこうした贅沢な生活を送ることで自分の心がいまだに喜ぶのはなぜかを理解するようになりました。それは社会の悪しき風潮によって生じた影響のせいだったのです。「喜びの日をつかめ。人生は短いからである。」や「酒に対いては当に歌うべし、人生幾何ぞ」などの誤った人生訓をはじめ、社会で流行しているありとあらゆる言葉が私の心に根を下ろしていました。人は人生の中で肉体的な快楽を追い求め、飲み食いしたり浮かれ騒いだりすることに集中すべきだと信じ、そうした生活だけが人に幸福をもたらし、この退屈な世界から引き上げることができる、そうすれば一生を無駄に過ごすことはないと考えていたのです。そうしたことがなければ人生がまったく無意味に感じられるので、しばらく飲み食いや遊びに出かけなかったりすると、私の心はそれを切望し始めるのでした。私は真理を持たず、何が正しく何が間違いかも知らなかったので、これらの悪しき風潮に捕らわれてしまい、罪深い快楽を楽しんだり、際限のない飲酒や堕落や放蕩から成る生活を送ったりしてしまったのです。肉体はつかの間の享楽を得るものの、霊は虚しく苦痛に満ちたままで、人生で追い求めるべき正しい目標を持たず、人生の意味にも気づいていませんでした。神様の御言葉の啓示を通じて、そのような人生訓はサタンに属していること、それらの考えや見方によって生きるのは方向を見失わせることしかできないことを、私はようやく理解しました。そのように生きていれば、罪の快楽の追求を正しいことと見なし、肉体的な快楽をやみくもに追い求め、ますます堕落し、真理を追い求めたり人生の正しい道を歩んだりする心を持たず、最終的にはサタンによって傷つけられ、食い物にされるでしょう。その事実の真相を見るようにしてくださったことに対し、神様に感謝いたします。

人生の方向を見つける

 私は神様の御言葉を読みました。「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」神様の御言葉は人生で進むべき方向を私に示しました。肉体的な快楽を追い求めるのは堕落の道だとすでに認識していたので、それを捨てて神様に従い、真理を追い求めて神様を崇拝する道を歩くほうを選ぶべきであることは知っていました。そうして丹念に真理を追い求め、社会の悪しき風潮を避け、以前のような贅沢な生活を絶対に繰り返さない決意をしました。

 時が過ぎて中秋節が目前に迫るころ、友人と親戚が私を呼び出して一緒に出かけようと誘ってきました。以前であれば、そうした休日に友人や親戚と一緒に出かけ、飲み食いしたり遊んだりするチャンスに飛びついていたでしょうし、大いに楽しめるはずだと信じながら外出して自分を甘やかしたでしょう。しかしいまは、真理を追い求めることでのみ平和と確かさを感じられると理解するようになっていました。一緒に出かけてもつかの間の肉体的な享楽しか得られず、私の心が神様を避けることになってしまい、その後はいまだに虚しさを感じたでしょう。それで私は丁寧に誘いを断わり、教会に行って神様の御言葉を読み、兄弟姉妹と真理について語り合いました。そしてそれまで感じたことのなかった幸福と確かさを感じたのです。

 私は自分が過去に誤った道を選んだこと、社会の悪しき風潮に捕らわれてしまったこと、罪の快楽をむやみに求めたこと、ますます堕落して人間らしさをすっかり失ったことを振り返りましたが、それはどれも自分の虚しさを埋めるためでした。私を神様の家に戻してくださったのは神様のご慈悲だったのです。神様によって表わされる真理を受け入れて初めて、私はこうした社会の悪しき風潮やサタンの人生訓についていくらか識別力を持ち、真の幸福とは何か、人生において追い求める価値が一番高いのは何かを知るようになり、人生における真の方向性を見つけました。心からの感謝を神様に捧げます。