いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

スーパー「皆既日食」がアメリカを横断した――ニネベの町に対するヨナの警告の現代版

2020-01-31 16:32:10 | 賛美の心

 2017年8月21日は特別な日であった。その日、皆既日食は一世紀近くの間に初めてアメリカを横断した。幅約70マイルの皆既日食帯によって、多くの都市は暗くなった。昼は一瞬のうちに暗い夜になり、月が高く昇っているような光景が現出した。今回の皆既日食はまずオレゴン州の太平洋海岸で起こり、そしてアメリカ西南部の内陸を通過し、最後にサウスカロライナ州の大西洋海岸に着いた。その日、大統領もアメリカ国民も今回の珍しい皆既日食の奇観を見た。


 今回の皆既日食はアメリカにだけ完全に見られるけれども、世界の人々はインターネットでこのことに注目した。どこにも皆既日食を見る人があり、どこにも歓呼、驚嘆の声があった。同様に皆既日食を見るが、一部のクリスチャンは驚嘆するだけでなく、また聖書の預言の実現と神のみこころについて考えた。一人の博士はこう言った。「今回の皆既日食にはより深い意義があります。天体は神聖な、世の終わりに関する預言を寓します。それは神の警告です。解けない謎はもうすぐ解明されます。今日国が分裂したり、不法がはびこることは、神はわたしたちを召して、わたしたちが彼に悔い改め、立ち返るようにすることを示しています」と。旧約においても、ヨエル書においても、世の終わりの日食に関する預言がある。それはこう言っている。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」(ヨエ2:31)。これは主イエスの再来の兆しである。

 イスラエルのある学者はこう述べている。「日食は凶兆であり、罪悪の世界に対する神の警告です。皆既日食はアメリカを横断して七年後、もう一度起こます。聖書の中で、『七』は『完成』を象徴する数字です」。一部の聖書学者も「神が向こう七年間でいくらかの重大なことを成し遂げます」と言った。
 しかし、もっと多くの人はただ皆既日食を奇異な景観として鑑賞し、それを、好奇心を満たすための奇聞とした。これは百年に一度しか生じない珍しい奇観だから、この日は祝うべき日だと言う人もいる。2024年アメリカにもう一度皆既日食が起こるために歓喜する人さえもいる。

 皆既日食は本当にわたしたちの鑑賞に供する奇異な景観だけなのか。皆既日食が起こることにおける神のみこころは一体何なのか。聖書にこう書かれている。「それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が山々に広がる曙の光のように襲ってくる」(ヨエ2:2)。「その日が来ると、と主なる神が言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモ8:9)。「また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって」(黙6:12)。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」(ヨエ2:31)。

 今、これらの預言はもう事実になった。これで分かるが、神は日食によってわたしたちに目を覚まさせ、神の日がすでに来て、まれに見る大災難がいつでも起こり、世界の終末が目の前に迫っていることをわたしたちに知らせるのである。神の性質が義しいが、しかし神はまた憐れみ、慈しみがある。聖書に記されているこのことを回想しよう。ニネベの町の人たちは酒食遊楽にふけり、ぜいたくに遊び暮らし、罪の中に生きていて悔い改めようとしなかった。そこで、神はヨナを遣わして彼らに「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)と警告させた。ヨナの警告を聞いた後、ニネベの町の王と民たちは粗布をまとい、灰をかぶって、その手から不法を捨て、悪の道を離れた。ニネベの人たちが本当に悔い改めたので、神は彼らを赦して、その町を滅ぼさなかった。同様に、今日神はさまざまな、まれに見る兆しと、ますます大きくなる災難とを通してわたしたちに警告された。しかも神は、わたしたちがニネベの町の人たちのように神の前に出て本当に神に悔い改めて、神の憐れみと寛容を獲得し、もうすぐ起こる、ほとんど目にしたことのない災難の中で神に守られて生き残る、と望んでおられる。

 わたしたちが神のみこころを理解せず、また神のみこころを求めないなら、いつでも大災難に陥る。では、神の憐れみと赦しを得るためには、わたしたちがどのようにニネベの町の人たちに倣って神に悔い改めるべきか。これは、わたしたちが今回の天文の奇観を見て驚嘆した後、冷静に考えるべき問題である!

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2018年7月ブラッドムーンの再現-ヤーウェの大いなる恐るべき日来たる

2020-01-30 16:10:39 | 賛美の心

ブラッドムーンの再現

 珍しい天文現象である皆既月食が2018年7月27日の夜20:22:54 UTC(協定世界時)に再び現れます。

 ウィキペディアによると、今回の皆既月食では、月の赤経は20°28’12’’、赤緯は19°、半影部分の光度は2.679、そして本影部分の光度は1.609になるそうです。天文現象は全体としてほぼ4時間も続きます。部分月食は235分間、皆既月食は102分間続き、今世紀で最長の月食となります。それと同時に、月は目を見張るような赤色もしくは赤茶色になり、これが「ブラッドムーン」と呼ばれる由縁となっています。

 今回の月食は北米の観測者たちは見ることができないと言われています。しかし、NASAゴダード宇宙飛行センターの月科学者ノア・ペトロ氏はアフリカ、中東、南アジア、そしてインド洋の大半の地域では天候が良ければ十分に見ることができるだろうと考えています。観測者は特別な機器は何も必要ありません。裸眼または一般的な望遠鏡でこの目を見張るようなブラッドムーンを見ることができます。

ブラッドムーンの頻繁な現れが世界の注目を集めています

 今回の皆既日食は長時間続くので、天文学者たちの注目を集めています。さらに、キリスト教徒たちはこれをうけて、「ブラッドムーンの再現か、ヤーウェの大いなる恐るべき日は近々到来するのだろうか?」と考えさせられています。

 インディアナ州のキリスト教伝道者であるポール・べグリー氏は、7月27日は世の終わりではないが、使徒言行録第2章とヨハネの黙示録第6章に記された聖句はブラッドムーンが終わりの日に現れると預言しているという見方ができると考えています。

  ブラッドムーンは過去に何度か発生しています。特に、2014年と2015年の間に現れたブラッドムーンはユダヤ教の重要な祝祭日と同時期に発生しました。それぞれが、2014年4月15日と2015年4月4日(ユダヤ教の過ぎ越しの祭り)、2014年10月8日と2015年9月28日(仮庵の祭り)に発生しています。このような驚くべき現象を受けて、私たちは聖書に記されているブラッドムーンに関する預言にもっと注目するようになります。

 ヨハネの黙示録第6章12節にはこの記録があります、「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」。そしてヨエル書第2章29-31節はこの記録があります、「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」 これらの節から、フラッドムーンはヤーウェの大いなる恐るべき日が到来する前に現われることが分かります、すなわち、ブラッドムーンの現れは大災害の発生が近づいているというしるしなのです。

7つの封印が破られました、神の足跡はどこに?

 ヨハネの黙示録が終わりの日に関する神の預言であることはキリスト教徒なら誰でも知っています。7つの封印について、ヨハネの黙示録第5章1-5節にこう記録されています、「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」。

 これらの節から、神のみが7つの封印を破り、巻物を開けるこということが分かります。最近、ブラッドムーンは頻繁に現れています。それは主イエス様が戻られ、封印を破られ、巻物を開かれたというしるしなのでしょうか?そうだとしたら、主は何処におられるのでしょう?主が明らかにされた奥義とは何なのでしょう?主が開かれた巻物とは何なのでしょう?これらは次回ブラッドムーンを目にする時にキリスト教徒が最も探求べき重要な質問であると思います。

 ブラッドムーンの現れは大災害の始まりです。近頃、戦争、地震、干ばつ、洪水、ウイルス等の災害が世界中で頻繁に発生しています。ヨハネの黙示録にある預言は既に成就しています。ヤーウェの大いなる恐るべき日は近々到来し、大災害の発生はすぐそこまで来ています。

 主イエス様はこう仰りました、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイによる福音書7:7。私たちは、主イエス様が主を心から探求する羊たちを見放されはしないと信じています。兄弟姉妹の皆さん、私たちがすぐに主の足跡を見つけて主の再臨をお迎えすることができるよう、共に祈りを捧げ、主に助けを求め、私たちを啓き、動かしてくださるようお願いしましょう。私たちはこれを主イエス様の名に懸けて請います。アーメン!


聖書に預言したイエスの再来は二つの方法がある

2020-01-29 13:27:09 | 賛美の心

 ある日、インターネットで活気ある議論が行なわれているのを目にしました。西半球の夜空で四回観測されたブラッドムーンは最後の日を警告するものだとか、地球全体で大地震がさらに頻発しつつあるといったことが書き込まれていました。私はこう考えました。「ブラッドムーンがもう四回も観測されているし、天体現象も起きている。それに世界中で災害が頻発して、テロ事件も増えていて、いつもどこかで戦争が起きている……これらの現象はすべて、主イエスの再臨の預言が基本的に成就したことを示しているけれど、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、いまだに見ていないのはなぜかしら。主イエスはまだ戻られていないということなのか、それとも主はすでに戻られているけれど、自分がまだ主を見ていないということなのか。どうしたら主の再臨をお迎えできるだろう」この疑問が心の中を駆け巡り、私を当惑させました。この件について何らかの理解を得ようと、私は何度も主に祈り始めました。そして主の再臨をお迎えできて主に追い払われることがないよう、私を啓いて導いてくださいとお願いしました。


 それからしばらくして、数ヶ月ほど顔を合わせていなかった甘姉妹が私に会いに来ました。それが主の采配であることを私は知っていました。甘姉妹は長年にわたって主のために働き、思慮深く洞察力に満ちた人でした。彼女なら自分の問題を解決できるかもしれないと考えて、私はこう言いました。「甘姉妹、ちょっと混乱している問題があって、それを追求したいと思っているんです。聖書には次のように記されています。

 『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』(ルカによる福音書21:27)

 『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(ヨハネの黙示録1:7)

 それによると、主イエスはおいでになるとき、大いなる栄光と力をもって、雲に乗ってこられることになっています。主は公然と姿をお見せになり、誰もが主を見ることができるのです。だから私たちは、主が雲に乗っておいでになり、私たちを天へと導いてくださるのをずっと待ち続けてきました。現在、世界中で災害や地震や干ばつが絶えず、戦争が頻発し、加えて多くの天体現象が起きています。これらの現象はすべて、主の再臨の預言が基本的に成就したことを示していますが、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、私たちがいまだに見ていないのはなぜですか。いったいどういうことでしょう」

 甘姉妹は私の言葉に耳を傾け、少し考えてから言いました。「あなたのその質問は、主の再臨をお迎えしたいと願う私たち全員が理解したい問題です。主の再臨をお迎えしたいなら、まずは主が終わりの日に実際どうやっておいでになるかを知らなければなりません。それは重大な問題です。実を言うと、聖書の中には、あなたが言ったように雲に乗っておいでになる以外に、主がおいでになるもう一つの方法の預言があります。例えば、黙示録16章15節には『見よ、わたしは盗人のように来る』とあります。また黙示録3章3節には『もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない』と記されていて、マタイによる福音書24章44節にも『だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』とあります。これらの預言は、主は盗人のように密かに来られ、誰一人知ることはないと述べています。姉妹、ここでいま話した聖句を検討しましょう。その中には、主は公然と雲に乗って戻られると記されている箇所もあれば、主は密かに来られて誰一人知ることはないと記されている箇所もあります。それを考えたことがあるでしょうか。主の再臨という同じことに関する預言が、異なることを述べているのはなぜでしょうか」

 私は彼女の言うことがよく分かっておらず、心の中でこう考えました。「確かにそうだわ。黙示録1章7節には『彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう』と書かれているけれど、黙示録16章15節には『わたしは盗人のように来る』と記されている。それはどういう意味なのか。主は実際どうやっておいでになるのか」

 私は困惑して、甘姉妹にこう返事をしました。「これらの預言には、主は公然と降りてこられると述べているものもあれば、主は密かにおいでになると述べているものもあります。矛盾しているように見えますが、主の御言葉に欠陥はなく、単にいま自分が理解していないだけだということは分かります。どうかこの件について私と交わってください」

 甘姉妹は笑みを浮かべて言いました。「主は誠実でいらっしゃるので、これらの預言はきっと成就します。それはきっと起きるのです。矛盾しているように見えても、まったくそうではありません。『盗人のように』は、主が密かに戻られることを述べており、『雲に乗ってこられる』とは、主が公然とおいでになることを指しています。つまり、主は戻られるとき、まずは密かにおいでになり、それから公然と姿をお見せになるのです」

 「まずは密かに、それから公然と」私は驚いて声を上げました。

 「そうです。主は戻られるとき、まずは人の子として受肉なさることで密かに来られ、その働きを完了なさったあと、今度は雲に乗っておいでになり、すべての国のすべての人に公然と姿をお見せになるのです」彼女は辛抱強く説明してくれました。

 私は待ちきれなくて言いました。「つまり、主は最初に人の子として受肉なさって密かに来られ、それから雲に乗って姿をお見せになるんですね。そんなことは初耳です」

 甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書の聖句をもっと見ましょう。そうすれば理解できます。主イエスはこのようにおっしゃいました。

 『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう』(マタイによる福音書24:27)

 『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』(ルカによる福音書17:24-25)

 これらの聖句は『人の子』と『人の子の到来』に触れています。『人の子』は人間から生まれ、普通の人間性を有し、普通の人のように食べ、服を着、暮らし、行動なさいます。外見上、人の子は普通の人と同じようにしか見えません。しかし、人の子は神性の本質を有しておられ、真理をあらわして人類を救う働きがおできになります。それはまさに、主イエスが受肉された神様の御霊でいらっしゃったために『人の子』と呼ばれ、外見上こそ普通の一般人に見えたものの、その肉体は本質的に神様であり、完全な神性を有しておられたことと同じです。主イエスがキリストでいらっしゃり、神様ご自身でいらっしゃったのはそのためです。ゆえに、主イエスは『人の子』と『人の子の到来』に触れられたのです。それらはいずれも、神様が終わりの日に肉において戻られることを指しています。聖書には『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』とも記されています。私たち全員が知っているとおり、人が神様を神様として認識できないのは、神様が人の子として肉をまとわれ、人類のあいだに密かに来られる場合に限ります。人間は受肉なさった人の子を普通の人と認識しますが、そのせいで神様を拒み、誹謗し、裁き、ひいては受肉なさった神様に反抗して敵対しさえするのです。神様が『多くの苦しみ』を受けられるのはそのためです。主イエスは肉において現われて働きをなさったとき、人間による拒絶、誹謗、嘲笑、冒涜、断罪を受け、最後は十字架にかけられましたが、まさにそれと同じなのです。主が戻られるとき、雲に乗って降りてこられ、人々に公然と姿をお見せになったら、誰もがそれを見て恐怖に震え、神様の御前にひれ伏して崇拝するでしょう。誰一人、あえて神様に反抗したり敵対したりはしないはずです。それならば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という預言がどうして成就するでしょう。ゆえに、主イエスはまず肉において密かに再臨され、その後雲に乗って公然と姿をお見せになることが確かめられるのです」

 彼女の言葉を聞いたあと、私はそれを心の中で反芻しました。「つまり、主イエスは戻られるとき、まずは密かにおいでになり、その後雲に乗って公然と姿をお見せになるという主張には、聖書の中に根拠があるのね。何年もずっと聖書を読んできたのに、主の再臨に二通りの方法があると気づかなかったなんて、いったいどういうことなの。すごい。でも、主がまずは肉となられて密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜかしら。どういうことなの。訊かなくちゃ」そこでこう言いました。「甘姉妹、あなたのお話から、主の再臨がまずは密かになされ、それから公然と姿をお見せになることがわかりました。そう考えれば、もう聖書の預言に矛盾はないように思われます。でも、主がまずは密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜなのか、私にはどうしても分かりません。これに関する主の御心はどういうものでしょう」

 


死がわたしに迫ってきた時、奇跡が起こった

2020-01-28 11:40:37 | 賛美の心

 

 2016年3月3日、朝ご飯を食べた後、わたしは集会に行こうと電動自転車に乗って出かけました。村の狭い道路まで行った時、れんがをいっぱい積んだ大型貨車がバックしているのを見ました。行く手を阻まれたわたしは大型貨車を避けようとして、絶えず後ろへ下がり、場所が狭いため、他人の家の庭の戸口(その庭の門は高さが2メートルもある。庭の門の上部に乗せた、長さ3メートルものコンクリートブロックはもう道路に突き出た)にまで退きました。バックしている貨車がわたしの頭の上のコンクリートブロックにぶつかるのではないかと心配して、わたしは貨車の後部をじっと見つめていました。

 突然、1枚のれんががわたしのヘルメットに落ちました。わたしがれんがを取りのけようとすると、ドーンという音がしました。どういうわけかわたしはすでに地面に座りました。当時、ほこりがわたしの目の前に舞い上がっていて、真正面からわたしの顔に当たりました。わたしは足がきりきり痛みました。頭を下げて見ると、バックしている貨車にぶつけられた庭の門の上のコンクリートブロックが落ちました。そのコンクリートブロックは重くて長くて、ちょうどわたしのすねに落ちました。そのため、わたしは身動きできなくなりました。

 それでも、貨車はやはりわたしに向かってゆるゆるバックしていました。貨車がそのままバックすれば、わたしはきっと真っ先に車輪にひかれます。そのような場面を、わたしは想像していけなくなりました。だが、そのような時、わたしは全然避けられませんでした。

 貨車がまだバックしていました。車輪がわたしからほんの一メートルしか離れていませんでした。当時、わたしの心臓がのどから飛び出しそうになりました。わたしは急いで周囲を見回したが、一人も見かけませんでした。その時、だれもわたしを助けられませんでした! わたしは運転手に向かって声を限りに叫びました、「もう車をバックさせないで! 後ろに人がいるよ!」と。だが、運転手はわたしの叫び声が全然聞こえず、依然として車をバックさせていました。

 危機一髪という時に、わたしは神を思い出し、すぐ心の中で神に祈りました。「神よ、わたしの命はあなたの手中にあります。わたしが死ぬか生きるかは、あなたの決定にかかっています。わたしはわたしを完全にあなたに渡します」と。わたしは祈りながら顔をそむけ、もはやゆるゆる後退している車輪を見なくなりました。一秒、二秒、三秒……と時間が過ぎていきました。車輪はまだ後退していました。死がわたしに迫ってきました。わたしの胸がどきどきしていました。突然、わたしはわたしの方へ走ってくるだれかが「もう車をバックさせないで。あなたの車が人にぶつかったぞ」と叫ぶのが聞こえました。すると、貨車はすぐ止まりました。顔を振り向けて見ると、車輪とわたしの間の距離はまだ一メートル足らずでした。

 貨車を呼び止めたあの数人の通行人はすぐ走ってきて、わたしの足に落ちたコンクリートブロックを運んでいってしまいました。当時、わたしの頭がくらくらし、全身が痛く、足も思うように動かなくなりました。「足はだめになったかもしれない。」と、わたしは心の中で思っていました。

 しばらくすると、二三十人の人が見物に集まりました。彼らは口々にしゃべりました。「こんなに重いコンクリートブロックが足に落ちたんだから、この人の足はきっと不自由になる」、「こんなに若いですね。これから一生車椅子に座るかもしれないな!」彼らの言葉を聞いて、わたしが怖くなりました。「わたしの足は本当にだめになったのか。わたしは本当に車椅子で後半生を過ごすのか」とわたしが思っていました。だが、さっきのスリリングな場面を思い出した時、自分が命拾いをしたのは神のわたしに対する守りのおかげだと意識しました。そこで、わたしは心の中で神にこう祈りました。「神よ、あなたの守りがなければ、わたしはもう貨車にひかれて死にました。わたしの命はあなたから与えられるのです。わたしはもうあなたの大能を見ました。あなたに感謝し、あなたを賛美します! 神よ、わたしの足が不自由になるかならないかは、あなたの支配にかかっています。足が不自由になっても、わたしは不平を言いません。わたしはあなたの支配と計画に従います」。祈った後、わたしの気持ちが落ち着きました。救急車がすぐ事故現場に到着して、わたしを病院に送りました。

 わたしは救急車の中にいる時、聖書に書かれている次の言葉を思い出しました。「死の蔭の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩23:4)。「あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩91:7)。「あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難も降りかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」(詩9:9-12)。これらの言葉を考えている時、わたしは神がわたしのそばにいて、神の御手がわたしを支えていると感じました。そのため、心の中の、神に対する信仰がもっと大きくなりました。そして、わたしは心の中で神に祈りました。「神よ、あなたはいつでもわたしを顧み、守っていて、今までわたしを離れたことがありません。今日、あなたがわたしを守ってくださなければ、わたしはすでに死んでしまいました。神よ、あなたがわたしの砦の岩です。だから、わたしはあなたに依り頼み、あなたを崇め、わたしのすべてをあなたの手に渡します。わたしの足が不自由になっても、わたしはやはりあなたを信じ、あなたにつき従います。」。

 病院でわたしが診察を受けた後、医者は「まことに幸いですね。骨を傷めなくて、ただすり傷をしただけです」と言いました。医者の言葉を聞いた後、わたしは心の中で絶えず神に感謝しました。神の守りのおかげで、わたしはあんな危険な状況の中でちょっと軽傷を負っただけです。しばらくしてから、わたしの足は少し痛いですが、動けるようになりました。でも、すねはやはり青黒くはれていました。一時間ぐらいたってから、夫はわたしを家に迎えました。

 家に戻った後、神を信じない夫はまだ恐怖で胸がどきどきしていました。彼はわたしにこう言いまいた。「今日、病院へ行く途中で、一人の女が車にひかれて死んだのを見た。今日、3メートルのコンクリートブロックが落ちたのに、君はちょっと軽傷を負っただけで、死ななかった。バックしている車が君からほんの一メートルしか離れていないが、君は車にひかれなかった。君の信じる神は本当に君を守ったのだな。そうでなきゃ、君と話す機会はもはやなくなった!」。

 今度のことを通して、わたしは次のことを認識しました。現実生活の中で、あらゆる人は自分がいつどんなことにぶつかるか、いつどんな災いを受けるかを知りません。神の守りがなければ、人はいつでも災難の中で死ぬ可能性があります。今日、死がわたしに迫ってくる時、神はわたしを救って、わたしに第二の命を与えてくださいました。神のわたしに対する愛について黙想する時、わたしは神の愛に感動されました。そのため、神の前で、わたしは最後まで神につき従い、被造物の本分を果たして、神のわたしに対する愛に報いるという志を立てました! 神に感謝します。すべての栄光を神に帰します!


感謝の気持ちに関する記事 | 洪水の中で授かった御救い

2020-01-27 11:08:07 | 賛美の心

 私の妻と私は主イエス様の信仰者です。聖書にはこの記述があります:「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」 (テモテヘの第一の手紙 6:8)。私はこれらが主の御要望に沿った御言葉であることを知っていましたが、それでも急速に発展するこの社会で裕福になりたかった私は村にある山近辺に位置する氾濫原で黒色土壌の農地を耕し、よく命がけで働きました。そして私は辛うじて死を免れました。危険の中で、主イエス様が私を御救いくださったのです。主の御救いは私の記憶に深く刻み込まれたのです!

 

洪水が発生、行き場を失う
 2014年、氾濫原にある私の農地はついに肥沃な黒色土壌に耕作されました。出来るだけ早く利益を出そうとトウモロコシを植えると、それはとても良く育ちました。私は努力が報われてとても喜びました。しかし、真夏の間、雨が降らなかったために数十エーカーにも及ぶトウモロコシが緑色から黄変し、干ばつによって死んでしまいました。私はこう思いました:「これだと利益が得られないだけでなく、開業資金も失ってしまう。」こうして私は毎日雨が降るのを待ちました。7月4日の正午、天気は薄暗く、稲妻が光り、雷がゴロゴロと音を立て、豪雨が降り風も出ていました。私はとても興奮してこう思いました:「山の方でも豪雨が降っているに違いない。直ぐに洪水が発生するから、チャンスがなくなる前に作物に水をやりに行かなくてはいけない。」こう考えた私は素早くレインコートを身にまとい貯水池の方へと向かいました。ちょうど河道(幅およそ300メートル、水深3メートル)を通り過ぎていた時、私は河道に高さが3メートル以上もある波が私の貯水池に流れ込んでいるのを目にしました。水は河道の中で素早く舞い上がり、ダムは一瞬にして氾濫し、私の貯水池は瞬く間に満タンになってしまいました。

 私は状況は危険になりつつあり、今年の洪水は他のどの年よりも激しかったことに気が付きました。私はパニックになり、急いで山の頂上に向かいました。辺りを見渡すと、貯水池と河道の間に砂利の山があったので、素早くそこに向って走りました。私は足元を安定させたとたんに霰と雨滴まじりの強風に打たれました。私は砂利の山の上でしゃがみ込んでシャベルにしっかりと捕まりました。私がショベルの刃を頭の上に乗せると霰がそれに打ち付けて大きな音を立てました。同時に、空は真っ暗になり、回りが何も見えなくなりました。風が激しく吹く中で、凍えるほど冷たい雨が首の所から服の中に入り込み、霰に打ち付けられてために私は体中が痛くなり、感覚を失っていました。私は雨、霰、そして冷たい風のせいでどんどん弱くなっていき、とても怖くなって生きた心地がしませんでした。私はこう思いました:「風がこれ以上強くなったら私は河道に吹き飛ばされて間違いなく命を落としてしまう。」 こう考えれば考えるほど、私は怖くなっていきました。私は主に祈りを捧げ続けた間、身震いがしました:「ああ、主なる神様、どうか私を御救いください!もうこれ以上は耐えられません。私のいのちはあなたの手中にあります。私は死んでも生きても、あなたの御采配に従います。」 こう祈りを捧げた後、私は少し安心しました。それからおよそ20分後、霰は止み、風は穏やかになり、雷は次第におさまり、空は明るくなりました。

荒波の中で主に助けを請う
 私は安全だと思っていましたが、顔から雨水を拭きとった時、さらに恐ろしい光景を目にしました:私は河道から4メートルの所にいて、荒れ狂う川の水が波となって次から次へと私に向って押し寄せてきたのです。私の貯水池は洪水によって押し流され、ダムだけが残っていました。私が立っていた砂利の山は海の中心に浮かぶ小島のようで、激しい洪水が私を取り囲みました。砂利の山は冠水し、少ししか残っていない状態となり、私は行き場がなくなってしまったのです!これは私が50年の間に見た最大規模の洪水でした。私は怖くてしかたありませんでした!この時点で私は助かる希望はないと感じました。私はこう思いました:「これで万事休すだ!強風によって洪水に向って吹き飛ばされなくても、どうせ波に飲み込まれてしまう。」 私は思わず主に助けを請いました:「ああ、主なる神様!どうか私を御救いください!主なる神様!どうか私を御救いください」

 砂利の山の上で過ごした一瞬一瞬はとても長く感じ、私の心は恐怖感と絶望感でいっぱいになりました。私はこの時初めて、いのちは貴重なものであると心から実感したのです。私は洪水に流されてしまったら、一銭も稼げないどころが、いのちを失ってしまうのです。私は黙って主にこう祈りを捧げました:「主なる神様、私は今までお金を稼ぐためだけに一生懸命働き、あなたの御言葉を読むことにも、集会に参加することにも努力していませんでした。私はこれを生き延びることができれば、必ず善良な信仰者になる努力を致します!」こう祈りを捧げた後、私はとても落ち着きました。私は主は自分の拠り所であり、私は主を信仰する必要があると知ったのです。この日、私は荒れ狂う洪水に取り囲まれていましたが、私がそれに流されてしまうのか、私がいのちを落とすのか、または生き延びるのかどうかは全て主によって決定されていたのです。これに気が付いた私はあまり怖くなくなりました。

主は生死の間際で私を御救いくださりました
 私は心の中で主に祈りを捧げ続けました。この数分後、予想外のことが起こりました。私の回りで洪水の流量が減り、波の高さも大分低くなったのです。私は下を見てみると、自分が立っていた砂利の山はその砂利の殆どが流されていましたが、私が立っていた箇所だけは流されていなかったことに気が付きました。私はこれにとても興奮し、これは主から私への御加護であったことを知りました。私は思わず主に感謝し続けました。私はものの数分の間に、主の驚くべき御業を目の当たりにしたのです。私は死と向かい合わせになりながら、かすり傷1つ負わず、荒れ狂う洪水に流されずに済んだのです。主は私の祈りを御聞きくださり、私を御救いくださったに違いありません。

 私が遠くを見てみると、反対側では依然として洪水が猛威を振るっているのが見えました。10年稼働した隣人のダムは一瞬にして倒壊していました。彼の所有する5エーカー分のひょうたんは全て流されていました。しかし、私が立っていた小さな砂利の山はとても頑丈だったのです。私はこれは主の驚くべき御業であると分かっていました。主は私を大切にしてくださり、私を保護してくださったのです。この時、私は主の素晴らしさを実感し、とてもありがたく思ったと同時に、「主と一緒にいれば、風と雨が私たちに打ち付けてくることはない。主と一緒にいれば、私たちは災害を心配する必要はない。主と一緒にいれば、死は私たちに忍び寄ろうとすらしない」ということを実際に体験しました。

主の御加護を受け、平安と安心を手にしました
 時間は夜の10時、私は寒くてお腹を空いていました。周辺の洪水はまだ完全にはおさまっていなかったのですが、その時私は鉄道を通って山腹の河道を渡ろうと考え付き、重いブーツを引きずりながら重い足取りで歩き始めました。自宅までは一時間以上もかかりました。私が帰宅すると、私の妻は泥まみれになった私の姿を見て、心配そうにこう言いました:「洪水に流されちゃんじゃないかって本当に心配したんだから。どうやら向け出してこれたみたいね。」 私が妻に自分が目撃した主の驚くべき御業について話すと、彼女は嬉しそうにこう言いました:「大洪水からあなたを御救いくださった主に大感謝だわ!」

 翌日、洪水は完全におさまりました。私は河道の側に立って大きながれき、死んだ羊、ひょうたん等を見ていると、思わず怖くなってしまいました:昨日起こったような恐ろしい状況の中で、洪水が後数分でも続いていたら、私は間違いなく押し流されていたことでしょう。私は今日どうやってまだここで無事に立っていることができているのでしょうか?この思いがけない状況の中で、私は、災害に直面するとお金は何の役にも立たず、私たちは主の御気遣いと御加護を受けることのみによって確信、平安、そして喜びの中で生活することができるのだと実際に体験しました。

主の御恵みに対する感謝して、主の愛に報いる
 後に、私は主イエス様こう仰ったのを知りました:「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』」 (ルカによる福音書 12:15)。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」 (マタイによる福音書 16:26) 。主は私たちにお金に貪欲にならないようにと御警告されました。それでも私はお金を稼ぐために命がけで黒色土壌の農地を耕し、主の御加護がなければ洪水の中で命を落とすところだったのです。私の心は主に対する感謝の念でいっぱいです。今回体験したことは、私たちは災害に遭遇するとどれだけもろく無力であるか、そして私たちがどれだけ多額のお金を持っていようとも、それは私たちを救えはしないということを示してくれたのです。私たちは主を信仰し、主に従う場合に限って真の人間のいのちを生きることができるのです。

 その後、私は集会に参加し、教会で積極的に自分の本分を尽くすようになりました。私は裕福ではありませんが、豊かな生活を送り、心の中では安心感を得られていますす。今回の体験を通じ、私は主の素晴らしい御加護を授かっただけでなく、主への真の信仰を抱くようになったのです。私は最後まで主に従い、主の愛に報いたいと思います!