いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

説教師の悩み-主イエス・キリストの再臨をお迎えする方法とは

2019-07-31 20:17:39 | 賛美の心

  私は教会で説教師をしているのですが、宣教するに値することが何もなく、兄弟姉妹たちに有益な啓示をすることができません。彼らの信仰は全般的に弱く気が抜けてしまった状態にあり、集会になると彼らは居眠りをするか、小声でお喋りをするといった始末です。教会で普段からこういう状況を目にしていると、いつもとてもイライラしてしまいます。私は幾度となく主に祈り、何度も兄弟姉妹たちに集中して注目するように注意しているのですが、彼らは主の再臨を受け入れられていないので、信仰を失ってしまっています。私は何を試しても教会を蘇らせることができません。そして、今は終わりの日で、不信者でさえ大災害が近々起こることを知っています。だからこそ、主が再臨されると考えるのは当然のことだと言えます。ならば、どうして私たちは主をお迎えすることができていないのでしょうか?私たちは本当に、ただ単に雲と空を見つめているだけで主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?私の心はつい最近までひどく混乱していました。

  私がやる気をなくし、困惑していた丁度その時、私の同労者3人、リュウ姉妹、ヂャン兄弟、そしてワン兄弟が私を尋ねて自宅までやってきました。なので、私は彼らに自分の悩みを話しました。

  ワン兄弟は言いました、「荒廃した教会はもう既に宗教界全体でごく一般的な現象となっています。しかし、牧師と説教師たちの多くは自分たちの地位と生活を維持するためにこれを認めようとしません。なので、彼らは自分たちが得たものにしがみ付いているのです。しかし、災害はその勢力をどんどん増し、ブラッドムーンも既に4つ観測されており、それは聖書の中のヨエル書に記されたこの預言を成就しています:「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」近頃、私はこの預言についてよく考えるのですが、4つのブラッドムーンの出現は「日は暗く、月は血に変わる。」の部分を成就しているように思えます。この預言は、「ヤーウェの大いなる恐るべき日が来る前に」、とも述べています。そして、「大いなる恐るべき日」というのは大災害のことではないかと思うのです。さらに、「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」、という部分は大災害が起こる前の時期に神がなさる働きのことを指しているに違いありません。このように、私はこの預言の節を受け入れました。大災害が起こる前に、神の御霊は語り、それは神の御言葉を神のしもべとはしために注がれるように思います。私は聖霊が終わりの日に新たな段階の働きをなさるような気がしています。

  「ここで言う神の御霊の御言葉は、聖霊が教会に語りかけるというヨハネの黙示録に記されている預言に関連しているように思えます。聖書の説明者の大多数が、神は大災害の起こる前に勝利者の集団をお作りになると確信しています。これについて、私は、神の御霊が語ることと神が勝利者の集団をお作りになることは間違いなく関連していて、勝利者全員が神の目前で神のしもべとはしためになると思っています。」

  全員がこれに啓発されて、ワン兄弟に目を向けました。

  私がワン兄弟の言った内容について熟考していた時、ヂャン兄弟がワン兄弟に続いてこう言いました:「もし本当にそうだとしたら、私たちは聖霊の御言葉を探しているべきでしょう。私たちは神から排除されて大惨事を被ったパリサイ人のようになってしまうのを防ぐために、聖霊の御言葉のある場所を見つけるべきです。」

  これを聞いて、私は心の中で更なる希望を感じました。私は言いました:「あなたの交流を聞いていたら、主イエス様のこの御言葉が頭に浮かびました、「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書07章 07節)、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイによる福音書 05章 06節)私たちは急いで聖霊の御言葉を探して、聖霊が語りかけている教会を見つけるべきだと思います。そうしないと、うかつにぶらぶらしているだけでは主から捨てられてしまわないかと心配です。」

  すると、リュウ姉妹が抑えた口調で言いました:「神の御霊が語るということは、聖霊が教会に語りかけているということだとあなたは言われましたが、私はそれを受けて東方閃電の信者たちが全能神を主の再臨として証言していることについて考えました。全能神は真理をたくさん表され、教会を起点に裁きの働きをされ、現在は勝利者の集団を作っておられます。これは神の御霊が神のしもべとはしために神の御言葉を注いでおられるということに関連していると思いますか?もしそうならば、私たちは早急に東方閃電が神の御業なのかどうかを調査するべきです。」

  ワン兄弟はこう言いました:「はい、私もそう聞きました。主の再臨をお迎えすることについてですが、主イエス様はとても重要で、かつ重大なことを仰り、それは私たちが賢い乙女になることを後押ししてくださります。主はこう仰ったのです:「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25章6節)これより、主は再臨なさる時に人々を遣って、主を待ちわびている人々全てにその御声をお伝えになることが分かります。私たちは主の再臨を証言する人々がいると耳にしたら、賢い乙女になって、注意深く主の御声に耳を傾けるべきです。そうすれば、私たちは主の再臨をお迎えすることができるでしょう。」

  すると、リュウ姉妹がこう言いました:「私には遠く離れて暮らし全能神を信仰するようになった従妹がいるのですが、彼女は私に福音を説いてくれました。私はそれについて彼女と議論したのですが、私たちの教会の牧師が東方閃電の持つ書籍を読む人は除名すると脅かしてくるので、それ以上は調査しませんでした。私の従妹は主の預言について話してくれました。例えば、ヨハネの黙示録16章15節「 見よ、わたしは盗人のように来る。」、それからマタイによる福音書25章6節、「 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」、さらにヨハネの黙示録03章20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」主の御言葉によると、主は盗人のように来られ、誰かが 「夜中」 に 「花婿が来る」 のを目撃するということは、神は人々が知らぬ間に人の子として受肉され、御言葉を表して働きをするために静かに、そして秘かに来られるということだと、彼女は言いました。それは全ての人が知ることではありません。主の御声が聞けて、主の御心に気が付く人たちのみが主を受け入れることができるのです。 私の従妹は、主の再臨の証言する人がいると聞いて、注意深く主の御言葉に耳を傾ける人なら誰でも神の御座の前に引き上げられ、主と食事をするとも言いました。」

  ワン兄弟はこう言いました:「これらの預言の中で、主イエス様は再臨なさる時に人々全員が主の御姿を目にするわけではないと確かに仰っておられます。主の御声を聞く人々のみ、主をお迎えすることができるのです。主の来臨をお迎えしたければ、主の御声を聞くことにとても慎重な注意を払う必要があるようです。」

  ヂャン兄弟は考え込むように私たちの方を見てこう言いました:「あなたの交流はとても合理的です。天地は滅びても、主の御言葉は一画もすたることはないのです。主はこう仰りました、「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14章3節) これは間違いなく実現します。主の預言がどのようにして実現し、成就されるかについてですが、私たちには理解できない奥義と真理があるはずです。私たちはただ単に牧師に従って東方閃電を拒否し、非難するのではなく、急いで調査に取り組むべきのように思えます。そうしなければ、私たちは主に捨てられてしまい、それを後悔する時間すら無くなってしまいます!」

  ワン兄弟はこの題目について続けてこう言いました:「そうですよ、私たちは主の再臨をお迎えし、天国に引き上げていただくために人生の半分も主を信仰してきたのです。私たちは既に主の再臨について耳にしている訳ですから、探求して調査するべきで、牧師たちからの抑制に屈しているべきではありません。『タンジェリンは食べてみないと酸っぱいのか、甘いのかも分からない』、という諺があるくらいですから。」

  私は兄弟姉妹たちの交流を聞いて、自分の抱える困難を解決できたことを主に感謝します。私は宣教することがないという問題を解決するため、これ以上は時間を浪費せず、直ちに聖霊の働きが宿る教会を探しなければならないと思います。もし主が本当に再臨されておられるのなら、私は少なくともこうすることで、天国に引き上げられるという人生において極めて重大な出来事を兄弟姉妹たちが逃してしまう原因にはならずに済むことでしょう。


信者はどんな見解を持つべきか

2019-07-30 21:15:39 | 賛美の心

  人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。

 

  かつて、多くの人たちは野心や観念、そして自分たちの希望のために追求した。これらの事を今ここで議論はしない。あなたがた一人一人が神の前で正常な状態を維持することができ、サタンの支配の足かせから次第に自由になることができる実践方法を見つけることが鍵である。そうすれば、あなたは神に得られ、神があなたがたに願っている通りの生き方ができる。これこそ神の願いが成就できる唯一の方法である。多くの人たちは神を信じているが、神が願っていることは何で、サタンが望んでいることは何かを知らない。彼らはばかげた信じ方をし、盲目的に周りの人間について行き、クリスチャンとしてのまともな生活を送ったことがない。彼らは正常な人間関係を持つこともなく、神と正常な関係を持つことなど無論なかった。このことから、私たちは人間の問題や欠陥、神の心を邪魔する要因がたくさんあることが分かる。これは人が正しい軌道に乗っておらず、本当の人生を経験していないことを証明するのに十分である。それでは正しい軌道に乗るとはどういうことだろうか。正しい軌道に乗るとはあなたが神の前でいつも心を静め、神と正常に交わり、自分には何が欠けているか次第に知るようになり、次第に神についてもっと深い認識を得ることである。これにより、あなたの霊は日ごとに新たに目が開かれ、導きと示しを与えられるだろう。あなたは更に切望し、真理に入ることを求めるようになる。毎日新しい光と新しい認識が存在する。この道を通して、あなたは次第にサタンの支配から自由になり、あなたは霊的に大きく成長する。このような人こそ正しい軌道に乗った人である。あなたの実体験を評価し、上記に述べたことに照らし合わせて、神の信仰においてあなたが取った道を考察しなさい。あなたは正しい軌道の乗っている人だろうか。どんな事において、あなたはサタンの足かせとサタンの支配から自由になったのだろうか。もしあなたがまだ正しい軌道に自分自身を乗せていないなら、あなたとサタンのつながりを切断していない。そうであれば、神への愛を追求することは、本物で、献身的で純粋な愛が結果として得られるだろうか。あなたの神への愛はゆるぎなく心から出ているとあなたは言うが、あなたはまだサタンの足かせから自由になっていない。あなたは神をからかっているのではないか。もしあなたが神への純粋な愛を手に入れ、完全に神に得られ、神の国の民の中に数えられたいなら、あなたはまず最初に自分自身を正しい軌道に乗せなければならない。


娘の結婚、私はそれに口出しするのを止めます

2019-07-29 19:21:30 | 賛美の心

  私は娘の結婚の管理人、彼女が釣り合いのとれた相手を選ぶことをしつこく要求しました
ある日、私の娘が突然電話をしてきてこう言いました、「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。将来の義理の息子に求める必要条件って何?」

  彼女の言葉を聞いて私の心臓はビックリしました。私はこう思いました、「彼女は今お相手を選んでいるってことかしら?そうならちゃんと検討して自分に合った人を選んでいることを確認しておかなきゃいけないわ。私の夫のことを考えると、彼は大した学歴もないし、私たちが育った家庭環境も違うから、私たちはいつも意見が食い違って、それで喧嘩をしていたわ。人生の半分を喧嘩の多い家庭で暮らしてきたから、私はもうくたくたでがっかり。そんな結婚生活で幸せになれるわけがないわ。だから、娘に私が生きた道を歩ませるわけにはいかないわ。彼女は大学を卒業して、安定した仕事にも就いているから、最低でも学歴と家庭環境が同等で、素養と教養があって、彼女と同じ目標を持っている男性と結婚するべきだわ。そうすれば、彼女は幸せな結婚生活を送れるわ。」

  私はこう考えながら、真面目な口調で娘にこう言いました、「最低でも、彼の学歴はあなたと同レベル、またはそれ以上であるべきよ。彼の家族はそんなに裕福でなくてもいいけど、最低私たちと同じくらいであるべきね。それと、ひとり親家庭で育った人は駄目よ⋯」

  私は自分の考えを一息ですばりと言いました。しかし、娘は私の言葉を聞いた後、「そう、」としか言いませんでした。そして、彼女は話題を変えてしまいました。

  電話を切った後、私は落ち着くことができませんでした。夜になると、私はベッドの上で寝返りを打ちながらこう考えました、「明らかに、彼女はお相手を見つけているわ、それに電話で私の反応を探っていたわ。彼はどんな人なのかしら?彼が私の条件に合わなかったらどうしようかしら?」私は繰り返し考えました。ついに、私はこれに厳しい注意を払って、彼女の見つけたお相手が彼女と同等の人でなかったら認めない決意をしました。

  しばらくして、娘が電話してきた時、彼女は私にこう聞いてきました、「お母さん、学歴って結婚相手を見つけるのに本当にそんなに大事なの?」「もちろんよ!」と私は何も考えずに答えました。「それは人の文明的な質と資格、それとその人の地位を表すものなのよ⋯」

  私が喋り終える前に娘が割り込んでこう言いました、「お母さん、人の学歴がその人の質と等しいわけじゃないし、高学歴は必ずしも高い質や教養を表しているわけでもないわ。才能はあっても美徳が無いような人はどこにでもいるでしょ?成績が良くても能力が低い人だってあちこちにいるわ。お母さんは私よりも沢山の人に会ってきてるんだから、私よりも良く知ってるはずよ⋯」

  その時、私はもう全くそれ以上彼女の言うことを聞く気分にはなりませんでした。私は彼女の彼氏が私の要求からは遥かに遠いことに薄々気付きました。私は彼の学歴が私の基本要件に及んでいないことが分かりました。そうでなければ、娘が人の学歴はその人の質と資格に等しいわけではないなどと言うはずがないのです。

 私は私の要件通りに夫を選ばなかった娘に激怒してしまいました

  その後、私はこれについて何度も繰り返し考えていると娘のことが心配になりました。そうして、私は娘に電話をかけました。私はこう言いました、「もう私があなたの彼氏のことをどう思っているかなんて聞かなくていいから。彼のことを私に話してちょうだい。」一息おいた後、彼女は彼のことを全て話してくれました。その内容はあまりにもひどく、恐れていたことが現実となってしまいました。この男の子は娘の3歳年下で、中学校の教育しか受けていなかったのです。彼の母親は彼が11歳の時に白血病で亡くなり、それから彼の父親が再婚したので彼は祖父母と一緒に暮らしていたのです。そして彼は娘の務める会社の工業で作業員となっていたのです⋯私は娘の言葉に猛烈な打撃を受けました。私は突然頭痛がして、気を失いそうになりました。私は一瞬どうしたらよいか分からなくなって泣きそうになり、手は怒りで震えていました。私の娘がこのような相手を選ぶなんてことは全くの予想外で、私は彼女に何を言ってよいのか分かりませんでした。

  それまで娘には一度も怒ったことがありませんでしたが、私はわれに返った時、彼女に声を上げて説教をするように言いました、「あなたは私に逆らおうとしているわ!どうして私の言うことを聞かないの?あなたは私があなたの父親と一緒に生活して辛い思いをしているのを見ているでしょう?長年の間、私には不満を聞いてくれる人が1人もいなかったの。だから、あなたには同じ思いをして欲しくないのよ!」私は娘の気持ちを完全に無視して自分の怒りをぶちまけてしまいました。私がとても怒っていたことを分かっていた娘は心配そうな口調で私にこう説明しました、「お母さん、お母さんってば、ちょっと聞いてよ。お母さんが私のために言ってくれていることは十分に分かってるわ、でも信じてよ、彼は本当にいい人なの。お母さん、心配しないで。私は大卒で、洞察力があるのよ。私にとって大事なのは彼の性格なの。彼は私と違って高学歴じゃないし、一人親家庭で育っているけど、彼は大人で安定感があって、正直で誠実、落ち着いてるし思いやりもあるの⋯いつか彼を家に招待するわ。お母さんも彼に会ったら間違いなく気に入ってくれるわ。」

  娘は一生懸命になって私と話をしようとしましたが、私はどうしても聞いていられませんでした。私はもう感情が抑えられなくなり、涙があふれ出てきました。そして、私は心を鬼にして彼女に言いました、「やめて、彼には会いたくないわ。私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう言ってすぐに電話を切りました。

 神の御言葉は私の誤った観念を好転してくださりました

  それから何日も経ちましたが、娘は電話をしてこないので私はどんどん悲しくなりました。私は良識があって親思いな娘が私にいろいろ言われたからといって私と縁を切ることはないとよく分かってはいましたが、彼女は自分で決めたことを簡単に諦めないことも分かっていました。これ故に、私は心が痛み、次に何をしてよいのか分かりませんでした。すると、私の言った言葉が頭の中で響き渡りました:「私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう思いました:「彼女は自分の決めたことは諦めないわ、でもそれは私が譲歩しなきゃいけないってこと?」私は増々途方に暮れました⋯

  弱くて無力な私は神の前で跪き、涙しながら祈りを捧げました、「ああ、神様!私の娘はあのような相手を見つけてしまいました、私はこれを容認できません。私は娘の結婚生活が私のと同じように不幸にならないかと心配です。ああ、神様!私は今とても辛いです、私があなたの御旨を理解できるよう、どうかお助けください。」

  ある日、私は霊的献身を実践していた時、次の神の御言葉を読みました:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。」「この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。」

  この御言葉を読んだ後、私は次のことに気が付きました:「サタンに堕落させられて以降、私たちは神からどんどん離れていき、その結果として、今私たちは人生や価値に対して正しい見解を持てておらず、全面的にサタンの哲学を指針として生活しています。‘男は間違った業種に就くことを恐れる反面、女は間違った男と結婚することを恐れる’や ‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’ 等、サタンの誤った思考や観念の影響により、私は無意識のうちにこれらを肯定的なものと見なし、幸せな結婚生活の基準としていたのです。」これらに方向付けられながら、私は自分の娘が高学歴で、資格を持った良い家系生まれの相手を見つけることを要求し、私はまたそのような男性のみが素養と教養を持ち、そのような男性と結婚してのみ娘は幸せな結婚生活を送れるとも思っていました。私の娘が私の要求に合わない相手を選んだ時、私は彼女の気持ちを無視し、私の言うことを聞かないと縁を切るとまで言ってしまいました。この私の行動が原因で私たちは2人とも苦しい思いをしました。これは全て私がサタンの観念に束縛され操られていたことが原因で起こったのではないでしょうか?私は神を信仰していながら、神の主権を完全に信じておらず、神の御計画と御采配に従ってもいませんでした。私はサタンの持つ生き方のルールによって深刻なまでに堕落させていたにもかかわらず、それを認識していませんでした。私は極めて盲目で無知だったのです。

  その時、私はこの神の御言葉も目にしました:「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」「結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」

  この神の御言葉を読み終えて、私はやっとこう理解しました:「私は自分の結婚の判断もできないのに、娘の結婚を判断してあげれるはずがないわ。私は本当に傲慢だったわ。結婚は2人の運命に従って神が取り決めるになるものであって、それぞれが役割を持つものよ。各結婚はカップルが共通の目標を持って生じるものであって、外部からの影響が決めるものでなければ、人間の意思や努力で変えられるものでもないわ。これは神の権威で決定するものなのよ。でも、‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’といった観念に従って生きていた私は、カップルは学歴と家庭環境が釣り合う場合に限って共通の話題を分かち合って、その場合に限って幸せな生活が送れるものだと信じていたわ。私の考えは神が全てを支配されておられるという事実に背いていないからしら?私は神の主権と采配に抵抗していないかしら?」

  この時、私は今までずっとサタンの結婚における観念を指針に生きながら神に背き、抵抗していたことに気が付きました。これは私を苦しめただけでなく、娘を縛られて抑制された気分にしていたのです。そして、私は後悔の念と罪悪感に圧倒され、こう静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神様!私はとても愚かで何も考えていませんでした。私はあなたを信じていながらも、あなたの主権を全く知らず、サタンの毒を指針にして暮らし、学歴が低くひとり親家庭で育った男の子は大卒で立派な私の娘にはふさわしくないと常に思っていました。私はサタンに欺かれ、苦しみの中を生きていました。神様!私は今、自分の結婚であれ、娘の結婚であれ、それは全てあなたが支配し、定めておられ、他の誰かが決められることではないと理解しました。神様!私はあなたの御采配に従います!」

 娘の結婚を神に託す

  私が神の御旨を知った時、心の中に溜まっていたもやがやっと晴れていきました。私は娘の結婚を神に託し、その心配をせずに、神の御計画と御采配に従うことにしました。その後、私は娘の望みを受け入れて、自ら彼氏に会いに行きました。実際に会ってみると、彼女が言っていた通り、彼は良い性格をしていて、大人で落ち着きがあり、特に思慮のある人で、「低学歴でひとり親家庭で育った男の子は力量と教養に欠ける」という私の想像とは違いました。この事実は私の誤った観念に対するはっきりとた切り返しでした。その時、私は自分がこの結婚を邪魔をすることを神の御言葉が時にかなった形で妨げてくださったことをとても幸福に感じました。

  私の娘が結婚した後、私の義理の息子は彼女をとても大切にし、そして愛し、彼らの生活は幸せで恵まれていました。さらに、以前娘が言っていた通り、私はこの立派な男の子がとても気に入りました。特に、意外にも仕事熱心で現実的に働く義理の息子は会社のリーダーと同僚たちから認められ、一般作業員から会社にとって重要な技術員へと昇格し、技術指導を担う正社員となったのです。平凡な男であった義理の息子がこんなに立派になり、娘に対してもとても優しくしている様子を見ていると、私はとても驚かされました。

  これらの事実は、自分の観念がどれだけ不合理で無知であったか、そして自分の想像が真理とは違い、神の御采配と御計画とは正反対であったことを知らせてくれました。これは私の誤った観念に対する強力な切り返しとなりました。サタンが私に植え付けた「同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である」といった生存のルールが私を苦しめていたのです。それでもなお、自分の観念を新たに見直し、神を求め、神に従った後、私は神が娘のために用意してくださった結婚は完璧であったことを知り、それと同時に私の誤まった観念も改心されました。私は神の愛と御救いを実際に体験し、神への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

  神の御言葉が私の内で成し遂げたことの結果として、私は義理の息子に対する偏見を捨てることができました。さらに、私は神の御采配と御計画に従ってのみ、私たちは心の中で落ち着きと平安を感じることができるのだと心から感じました。これについて、神のこの御言葉があります:「⋯神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。」 私は個人的な体験より、サタンが私に吹き込んだ虚偽の観念は真理のみが解決できるものであり、私に光をもたらし、私の心を解放し、自由にしてくれたのも真理であったことを知りました。

   全ての栄光、神様にあれ!


職場の問題を解決する-お酒を諦める

2019-07-28 21:07:48 | 賛美の心

  一度、私たちの会社のスタッフは祝日で休みの時がありました。私たちの部署の部門リーダーが私に電話をしてきてこう言いました、「今日は部門のメンバー全員が休みだなんて本当に素晴らしい。みんな出て来て軽く飲んでるんだ。みんな来てるのに、お前だけが来ていないじゃないか。出来るだけ早く来てくれよ。みんなで待ってるからな。」この言葉を聞いた私は心の中でこう思いました、「私はもう飲まないって決めたんだ。でも、行かないとはっきり言ってしまったら、部門リーダーは間違いなく不満になって、私は彼の面目を潰していると感じるだろう。でも彼らの言う通りにしたら、私は飲んだ後に苦しい思いをすることになる。一体どうするべきなんだろう?」そして、私は心の中で神に祈りを捧げ、私がこれまでのサタンの考えと観点を指針にして生きて行かなくてもいいように、自信と力を与えてくださるよう請いました。そして、私は彼にこう言いました、「最近私は仕事で少し疲れているので、ちゃんと体を休めたいんですよ。なので、今日は遠慮しておきます。」私の言葉を聞いた彼はがっかりしてこう言いました、「了解、でも今度飲み会をする時は、絶対来てくれよ!」

  電話を切った後、依然として落ち着かず、心配だった私は心の中でこう考えました、「今回は飲みに行かなくて済んだけど、次回また彼らは飲みに行こうと誘ってくるだろう。彼らと一緒に行くのをいつも断っていたら、私は彼らの面目を潰していると思われないだろうか?彼らは私のことをどう思うだろう?でも、行ってしまったら依然として酒を飲むことの苦しみから抜け出せないでいることになってしまう。」従って、私は神に祈りを捧げ、自分の心の中の考えを伝え、私を御導きくださるよう請いました。後に、私は神のこの御言葉を目にしました、「神との正常な関係を持たなければ、あなたが他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようとも、また、そのためにいかに励み、いかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学に属するものであろう。あなたは、人々が自分を賞讃するように、人間の観点と哲学により、人々の間で自らの地位を維持している。あなたは、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。…正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立つのであって、人間の努力によって達成されるものではない。神なしでは、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常ではなく、情欲に耽溺することであり――それは神が嫌悪し、忌み嫌う関係である。」私は神の御言葉を受けてこう理解しました:「人々の関係は神の御言葉を実践することを土台に確立しています。それはお酒を飲んで維持することはできません。過去、私は昇給と昇格を手にしようと、常にお酒を飲むことを利用して同僚やマネージャーたちとの関係を維持したがっていました。しかし、私はその関係を維持すればするほど、増々疲れていきました。私は昇格できなかっただけでなく、沢山苦しい思いをしました。今、私は神を信じているので、物事を神の御言葉に従って捉え、神と適切な関係を築くべきなのです。それい、人々の関係はお酒を飲んで維持されているものではありません。人々がお互いに良い関係を持てていれば、それは一緒にお酒を飲まなくても変わらず良い関係になります。良い関係でなければ、一緒にお酒を飲んでも、悪い関係のままです。他人からどう見られようとも、私の全ては神の御手にあり、誰もそれを変えることはできないのです。」私は神の御心を理解したら、心が安心しました。

  翌日、私が仕事に行くと、皆は普段通りに挨拶してくれ、部門リーダーも私に怒ってはいませんでした。全てが普段通りに行きました。私は心の中で嬉しくなり、神の言葉に従って実践したから想像していたように皆から見下されるようなことにならなくて済んだと感じました。このようなことが数回あった後、皆が私を飲みに誘ってくることはなくなりました。

  一度、部門リーダーがまた仕事の後にお酒を飲みに行った後、車の事故を起こして2か月の療養期間を必要としたことがありました。マネージャーは私にこう言いました、「部門リーダーはいつも酒を飲みに行ってたから、仕事にいつも問題があった。それに、彼はたまに残業をした後ですら酒を飲みに行くことがあった。だから、彼が事故を起こすのは時間の問題だったんだ。お前はあまり酒を飲もうとしないし、物事にも現実的に取り組んでいる。私はお前を部門リーダーに指名する。今後一生懸命働いて、仕事の後、家に帰る道中は気を付けるんだぞ。事故は起こさないようにな。」私は繰り返し頷きました。私はマネージャーとほぼ半年近くお酒を飲んでいなかったことを思い出しました。にもかかわらず、彼は私に部門リーダーの仕事を引き継ぐように頼んできたのです。私はこれにより、人は他の人を夕食に招待したり、プレゼントを贈ったりして一時的な利益を手にすることはできるが、正直な仕事をしていなければ、将来的に周りの人たちの称賛を得ることはできないということを心から学びました。私はまた、神を信じるようになってから、何かを狙ってマネージャーの機嫌を取るのではなく、神の御言葉に従って実践するようになっていたことにも気が付きました。こうすることで、私の心が落ち着いただけでなく、他の人まで心が安らいでいたのです。

  神はこう仰ります:「神の本質は聖なるものであるので、あなたは、神によってのみ、人生を通して光ある正しい道を歩むことが可能となり、神によってのみ、人生の意味を知ることが可能となり、神によってのみ、真の人生を送ることが出来るようになり、真理を獲得し、知り、真理からいのちを得ることが出来るようになる。人間が邪悪を回避するのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことが出来るのは、神のみである。神以外に、あなたが苦しまないよう、辛苦の海から救い出すことが出来る人間や物は存在しない。このことは、神の本質により決定される。」その瞬間、私は神のみが人間に対して真の愛を抱いておられるということを更に深く学びました。以前、真理を理解せず、自分の面目と将来の懸念に支配されていた私は、邪悪なトレンドに従うことを嫌がってはいても結局は大衆について行き、苦しい思いをしていたのです。神の御言葉による御啓示と御指導のおかげで、私はサタンの誤った考えによる抑制と束縛から抜け出すことができたのです。今、私は面目と将来の支配力に抵抗し、神の前で生きられるようになりました。マネージャーは私が彼らと一緒に飲みに行かなからといって私を見下さなっただけでなく、むしろ私を信頼して育ててくれたので、私は神の御恵みと祝福を心から感じることができました。

  今、私は神の御言葉を頻繁に読み、その理解を兄弟姉妹たちと共有し合うことで多くの真理を理解できているため、邪悪なトレンドから距離を置き、真の愛情の意味を理解できています。現在、私はもう人間関係に悩まされてはいません。代わりに、私は物事を神の御言葉通りに捉え、神の御指導と主権に従うことで真の解放と自由を手にしています。私は神が私を御救いくださったことにとても感謝しています!

 


職場の問題を解決する-お酒を諦める

2019-07-27 20:44:11 | 賛美の心

  私たちの生活において、人々はお酒なしでは生きられないことが多々あります:人は他人から助けを求める時は、彼らをおごって一緒にお酒を飲む必要があります。部下が上司と食事をする時、彼らはお酒を飲む必要があります。友人と親戚たちもお互いの良い関係を保つためにお酒を飲みます。お酒は私たちの生活と仕事においてほぼ必需品であると言えるでしょう。

  「酒を飲まなければ人生が無駄になる」や「酒を飲まなけれは将来性は見込めない」という諺すらあるほどです。私は大人になった後、町に働きに出ました。次第に、私は次のことを知りました:「人は他の人たちから助けが欲しければ、彼らに夕食をおごってプレゼントを渡す必要がある。彼らは食事とお酒に満足してくれれば、期待通りに動いてくれる。」

 

  私の伯父はある会社のマネージャーをしていました。一度、彼に仕事を見つけるのを手伝ってもらおうと、私は両親と一緒に彼の家を訪れたことがありました。私たちが食事をしていた時、彼はお酒を取り出して私に一緒に飲もうと言ってきました。実は、私はお酒を全く飲まないし、アルコールの匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなっていたのです。私が少しだけ飲んだのを見た彼はこう説得してきました、「お前は仕事をしに行くのに、酒を飲まなくていいわけないだろう?将来出張に行くとき、お前が酒を飲まなかったら他の人たちの顔が立たないだろ。そうしたらお前は彼らの心を傷つけることになる。後で酒を飲む練習をしないとな。考えてみろ、今日の俺があるのは全て酒を飲んで他の人たちとの関係を維持してきたからだ。」彼の説得を受けながら、私は嫌々コップを飲み干しました。

  後に、私は機械製造会社で働くようになりました。それから間もなく、私たちはマネージャーから夕食に誘われました。私の同僚がこう言いました、「マネージャーは特に酒好きだから、これは私たちが認めてもらういいチャンスだ。」これを聞いた私はこう思いました、「私は大してお酒が飲めないのに。でもマネージャーと一緒に飲まなかったら彼は私のことをどう思うだろう?」私たちが食事をしようとしていた時、まだ全員が座ってもいないのに、ある同僚が私たち全員のジョッキをリキュールでいっぱいにしました。私の他の同僚が小声で私にこう言いました、「今日はマネージャーのおごりだから。彼の面目を立てないといけないよ。飲めないんだったら、ちびちび飲んでたらいいよ。」その後、全員が私たちのマネージャーと乾杯しました。私は飲んでいなかったので、マネージャーが先に飲んで私と乾杯してくれましたが、私はとても恥ずかしくなりました。私は飲まないと彼が不満になることを恐れたので、嫌々ながら一口飲むしかありませんでした。

  次の瞬間、私の同僚が私と乾杯しにやってきました。またその次の瞬間、他の同僚が乾杯しになってきました。全員と乾杯した後、私は頭痛がするようになり、ほっぺがとても熱くなっていました。私はなんとかコップに入っていたリキュールを飲み干しました。その瞬間、ある同僚がまた私にリキュールをつごうとしました。私はコップを手でふさいで飲むことをきっぱりと拒否しました。しかし、他の同僚がこう言いました、「全員飲むんだよ。どうしてお前は飲まないんだ?酒を飲まないと人生が無駄になるぞ。俺たちはいい友達なら、一緒に一気飲みする。言葉を交わす程度の友達なら、酒はたださっと一口飲むだけ。俺たちに深い友情があるなら、いくら飲んでも飲み足らない。さあ、飲むかどうかはお前次第だ。」彼はこう言った後、私のコップにビールをつぎました。その時、私はもう断ることができませんでした。しかし、私は一口飲んだとたん吐き気がしました。私はそれを無理やり抑えながらトイレに走りました。私は数回吐こうとしましたが、何も出てきませんでした。なので、私は指を喉に差し込むと吐くことができました。私はお腹が空になるまで吐き、とても惨めな気分になりました。私がトイレを出ると、私の同僚たちは全員酔っぱらっていましたが、それでもまだ乾杯していました。私はこう思いました、「マネージャーの機嫌を取るために、この人たちは体を痛めつけてでも我慢してお酒を飲んでいる。でも私はお酒を飲まないから、私が将来成長する見込みはないとマネージャーに思われてしまうのだろうか?」こうして、私は自分のコップに残っていたビールを無理やり飲み干しました。。。

  その後すぐ、私たちの部署の部門リーダーが仕事でミスを犯し、会社がクライアントに10万元以上の補償金を支払うことになりました。従って、会社は彼を解雇するつもりでした。しかし、彼は頻繁にマネージャーと一緒にお酒を飲んでいたので、マネージャーとはとても良い関係にありました。従って、マネージャーは彼がこの問題を解決するのを手伝い、会社側もただ彼の職務内容に調整を加えただけでした。私はこう思いました、「彼は本当に大きなミスを犯したのに、マネージャーは彼がそれを解決する手助けまでした。この’人間関係’というのは極めて大切だ。どうやら私はお酒を飲む練習をきっちりと行うする必要があるみたいだ。お酒が飲めなければ私は何の将来性も見込めない!」私はお酒をもっと飲めるようになろうと、仕事の後にスーパーマーケットに行って赤ワインを1ケース購入し、毎晩それを少しずつ飲むことにしました。私は、「こうやってしばらく練習すれば、もっとお酒が飲めるようになるだろう。そうしたら、次回みんなとお酒を飲む時はそんなに苦しまないで済む」、と思いました。

  一度、私の同僚が電話で夕食に行こうと誘ってきました。彼はマネージャーも来ているからそこに早く行くようにと私に言いました。お酒を飲むテーブルで、私は自発的にマネージャーと乾杯し、彼は満足気に頷きました。そして私は小型のグラスに入ったリキュールを飲みました。私の胃はむかむかしましたが、私は心の中でとても嬉しくなりました。その後、私たちは繰り返し乾杯し、私はどれだけ飲んだか分からなくなっていました。彼らと別れた後、私は自転車に乗って遠くに出ることなく我慢できず吐き出しました、家に帰る道中でまた吐きました。帰宅してからもまた吐きました。お腹は空っぽになった感じがして、私はかなり目眩がしました。私はベッドに倒れ込み、寝返りを打っても寝られず、こう考えました、「私はまだ若いけど、このまま飲み続けたら健康を崩してしまわないだろうか?私はまるでお酒を飲んで他の人たちとの関係を保つゲームをしているかのように自分の体を扱ってしまっている。これは正に苦しみ以外の何でもないじゃないか!私は彼らの言う通りにお酒を飲まないと、本当に大した将来を手にすることができないのだろうか?」

  後に、私は神の福音を受け入れ、神のこの御言葉を見にしました:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた…こうした社会動向は、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの判断が出来ない人間に、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、人生哲学、価値観を、次々と進んで受け入れさせる。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが述べた言葉や、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れる。この種の人々には強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏している。」

   神の御言葉を通じて私を覚まし、自分は常に「酒を飲まなければ人生が無駄になる」や「酒を飲まなけれは将来性は見込めない」といった誤った考え方の影響を受け、お酒は他の人たちとの関係を保つために極めて重要な保証であると思っていたのです。それ故に、私は素晴らしい将来を手にしようとお酒を使ってマネージャーを喜ばせて彼に給与を上げてもらい、私を昇進してもらおうと思い、自分のレベルを上げるためにどのような努力しようかということは考えていなかったのです。私は同僚、親戚、そして友人たちと良い関係を築くために無理やりお酒を飲み、完全に疲れ果ててしまうほど自らを痛めつけていたのです。私はお酒を飲むことがもたらしたのは苦しみ意外の何でもないことは分かっており、とても止めたかったのですが、他の人たちからのけ者にされたり、見下されるのを恐れていたのです。今、私は自分が苦しい思いをしていたのは全てサタンの思考と考え方に拘束されて、増々体力を消耗していくような生活をするよう仕向けられていたからであったことが分かりました。私はこう思いました:「私の周りにいる人たちの多くは胃出血を起こしてでもリーダーにごまをすったり、顧客と商談したり、友人の気持ちを傷つけないようにしている」。さらに、彼らは、’お互いに深い愛情を持っているなら、胃から出血しても構わない’、’私たちの心を傷つけるくらいなら体を傷つけた方がましだ’ そして’私たちの関係を壊してしまうくらいなら酒を飲んで胃穿孔を起こした方がましだ’ 等ということを口にします。これら全ては、サタンが私たちに「与える」生き方は邪悪であり、私たちを傷つけ、没落させるだけであることをよりはっきりと示しているのです。神の御言葉は私にこう決意させてくださりました:「私はもうこれまでのサタンの人生観に頼って自らを痛めつけるのは止めます。」