いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

私はもう日中に罪を犯し、夜に告白するという生活に悩まされてはいません (I)

2019-06-30 21:13:26 | 賛美の心

  現在、主を心から信仰する兄弟姉妹たちの多くが日中に罪を犯し、夜にそれを告白するという生活に悩んでいます。彼らは罪の束縛を捨て去りたいのですが、どうすることもできないでいます。私も一度同じ状況に陥りましたが、今は罪を捨て去る道を見つけたので、もうそれに悩まされてはいません。従って、自分のした体験を兄弟姉妹たちと共有したいと思います。

  私は中学生の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。私は結婚した後、息子と娘を授かりました。その後、私の夫がレストランを開店し、私はそこで忙しくなって子供たちの世話をする時間がなくなってしまいました。その後、私の娘は夜にゲームをして宿題をしなくなり、日中はいつも授業中に居眠りをしていました。彼女の成績は落ちていきました。私は頻繁に彼女の先生から彼女の状況について聞かされていたので、彼女のことをちょっしゅう大声で叱らずにはいられませんでした。私たちは次第に仲違いしてしまいました。他の時には、息子がサッカーをしていた最中に骨折をして病院に行ったのですが、私の夫はレストランのことはほったらかしで、私が全て対応することを当てにしているので、私は息子の世話をしてあげることができませんでした。結果、私は夫に対する不満が募り、彼と頻繁に口論をしました。

  ある時、私たちが口論をしていると夫が私にこう言いました、「お前は自分を主の信者と呼んでるけど、主への信仰はこんな感じであるべきなのか?」私は彼の言葉を聞いて恥ずかしくなってこう思いました:「神は私たちに自分を愛するように他人を愛し、他人を何度でも許すよう教えてくださるけど、夫や子供の言葉と行動に納得いなかいと怒りが抑えられなくて、いつも彼らに腹を立ててしまうわ。」私はその後、罪悪感を感じて後悔し、絶えず主に祈りを捧げて罪を告白したものの、また同じようなことが起った時は依然として自制することができませんでした。その時、私は聖書にこの御言葉が書かれていることを考えました:「主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。」(詩篇98:9)主は全ての罪人たちを裁きにやって来られます。日中に罪を犯し、夜にその告白をしているような私に天の御国に入る資格などあるのでしょうか?

  その後、レストランは売上が悪くなり、私たちのビジネスは次第に落ち込んでいきました。さらにその後、私は自分たちの日頃の経費を維持して、店員の給料を払うために借金をするはめにもなりました。私は一日中心配に駆られ、食欲を失い、睡眠を取らずに生活をしていました。様々なストレスの中で息苦しい思いをしていた私は機嫌がさらに悪くなっていきました。これを理由に、私は善良な姉妹たちと私たちの教会の牧師の妻に主の御言葉を実践する方法について助けを求めました。彼女たちの答えは、「私たちがあなたのために祈りを捧げますから、あなたは主を信じるべきです」、というものでした。しかし、私は心の中で疑念を抱くようになりました:「毎日主の前に行って祈りの中で助けを求めているのに、私はどうして主の御言葉を実践できないのかしら?」私は生活のプレッシャーに加え、魂がしなびていたことが原因でとても惨めな気分になりました。私はまるで見捨てられた子供のようで、夜になると頻繁にすすり泣きました:「ああ、主なる神よ!あなたは何処におられるのですか?私は辛い苦しみの中を生きています。どうか私をお導きください⋯⋯」

  後に、私はインターネットでリアン兄弟と知り合いになり、彼は頻繁に聖書の中の節の話をして私を慰め、勇気付けてくれました。一度、リアン兄弟は私にこう聞いてきました、「あなたは罪を犯していると思いますか?」私はこう返事しました、「大きな罪は犯していませんが、誰でも犯すような小さい罪なら。」彼は続けてこう言いました:「罪を犯していることを踏まえて、私たちは天国に入れると思いますか?」彼の言葉は私を沈黙させました:「そうよ。罪深い私たちは天国に入れるのかしら?」これは常に私を困惑させる疑問でもありました。最後に、兄弟はこの疑問を兄弟姉妹たちと一緒に調査しようと私を誘ってくれました。この質問には混乱させられてもいたことを考えて、私は誘いを受けました。

  集会の時、チェン兄弟が次の2パラグラフの聖句を送ってくれました:イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである。」(ペテロの第一の手紙1:16)チェン兄弟はこのように交流してくれました:「この聖句から、神は神聖な御方であり、汚れて堕落した人々が神の御国に入ることを神が許可されるなどあり得ないということが分かります。これ故に、神は私たちが罪の束縛を捨て去り、清められることを要求しておられるのです。私たちは罪を犯さなくなって、神に抵抗もしなくなって、初めて神の御国に入ることができるのです。」これを聞いて私はがっかりしました。私はこう思いました:「そうよ、どうして私は今までこの聖句に気が付かなかったのかしら?主は清らかな人々のみ神の御国に入れると仰っておられるけど、だとしたら毎日罪を犯す私は見込みがないってことなのかしら?」

  私がこう熟考していた間に、チェン兄弟は他のパラグラフも送ってくれました:「罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。」。チェン兄弟はこのように交流してくれました:「このパラグラフから、主イエス様は十字架に磔にされて人類の贖いの働きをされ、私たちを罪から救ってくださったことが分かります。主の贖いにより、私たちは主の前に行って、主が祝福してくださる平安と喜びを受けることができます。しかし、傲慢、うぬぼれ、偽り、心の歪み、身勝手さ、そして卑劣さ等、私たちの堕落したサタンのような性質は私たちの中に深く根付いてしまっています。従って、私たちは依然として自分を抑えられず、罪を犯して神に抵抗しているのです。私たちは主を信仰してきたにもかかわらず、依然としてお金と名声を追い求め、自分の利己的な利益を守るために頻繁に嘘をつき、他人を騙します。他人の行いが自分の考えと合わない時、私たちは激怒します。時に、私たちは依然として邪悪なトレンドを追いかけ、常に罪に束縛され、耐え難い苦しみの中を生きています。私たちはサタンに極めて深く堕落させられており、罪を克服する力を持ってもいないため、成す術がないままサタンに自由に欺かれ、日中に罪を犯し、夜にその告白をするといった状態の中を生きているのです。地面に生えるにらのように、根こそぎにしない限りは一度刈り取ってもまた顔を出してくるのです。これ故に、私たちは罪に束縛されるのではなく、完全に清められるためには、神に更なる働きの段階を行っていただいて、私たちの内に深く浸透している堕落したサタンのような性質を完全に一掃していただく必要があります。私たちは堕落したサタンのような性質から抜け出して、自分たちの性質が変化を遂げた時に初めて神の御国に入る資格を得ることができるのです。」

  私はチェン兄弟の交流にとても感謝しました。私はまた、自分たちが日中に罪を犯し、夜にその告白をするという状態の中を生きているのは、自分たちの内にあるサタンのような性質が払拭されていないことが理由であるとも理解しました。さて、兄弟が読んでくれたこれらの御言葉は一体どこから来ているのでしょう?それはどうして私の状態を解き明かすことができるのでしょうか?私は一度も耳にしたことがありませんでした。普通の人間が口にする言葉とは思えません。チェン兄弟は、神に来ていただいて働きのまた他の段階を実施していただく必要があると言いました。私はこれに対する好奇心でいっぱいになり、チェン兄弟による次回の交流がさらに楽しみになりました。

  


「スーパームーン三連発」は異常なことが起こることを示しています

2019-06-29 22:09:35 | 賛美の心

  専門家の予測によると、2019年2月19日と3月21日に、続けてスーパームーンが現れるとのことで、1月21日に現われた「スーパーブラッド・ウルフ・フムーン」に続く宇宙の珍しい現象が発生するとなるとのことです。

  関連する情報によると、「スーパームーン」とは、満月が地球に最も近づく「近地点」のことを指しており、月の直径が通常より14%大きく見え、その光度も30%増します。それは肉眼で見ることのできる最も大きく、最も円形に近い月となります。今年はスーパームーンが3回現れるはずですが、これは非常に珍しい天文学的現象です。実際、ブラッドムーンやスーパームーンといった不思議な現象が近年引き続いて起きています。2011年と2013年のブラッドムーン、2014年から2015年にかけて4回連続して現われたブラッドムーン、152年前にも現われ、2018年に再び起きたスーパーブルー・ブラッドムーン、そしてスーパームーン、ブラッドムーン、ウルフ・ムーンという3つの天文学的現象を完璧に融合し、最も輝かしい天文学的現象と言われた2019年1月21日のスーパーブラッド・ウルフ・ムーンなどがその実例です。

 

  多くの預言者達が、ブラッドムーンの出現は何か並外れた、大きな事が起こる予兆だと預言しています。聖書の専門家の中にも、ブラッドムーンの出現はヨエル書2章29~31節に記されている預言の成就だと堅く信じている人がたくさんいます。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」 また、黙示録6章12節にはこうあります。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」ヨエル書の預言の中の「大いなる恐るべき日」とは大災害を意味しています。私たちはみな近年災害が深刻化していることを見ています。地震、飢餓、疫病、洪水などといった頻発する災害は私たちを恐怖に陥れます。世界情勢は混乱し常に変動しています。頻繁に戦争が勃発し、暴力事件やテロ行為はエスカレートし、地球は温暖化し、極端な気象や様々な種類の不思議な天体現象が絶えず起こっています。クリスチャンとして、これらの災害をどう捉えるべきでしょうか。これらの災害を通して、神様は何を啓示しようとされているのでしょうか。大災害が訪れる前には神様はどのような働きをされるでしょうか。ヨエル書2章29~31節にはこう書かれています。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。」この預言によると、大災害が発生する前には神の霊が言葉を語り、ご自身のしもべとはしために水を注がれます。黙示録の2章と3章では、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と繰り返し預言されています。そして黙示録の7章14節には、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」とあります。また黙示録の14章4節には、「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」とあります。そして2章の7節には、「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と書いてあります。これらの預言から、終わりの日には神様が新たな段階の働きをされることが分かります。つまり、神様は御言葉を表され、災害が起こる前に勝利者の一団を作られます。これらの人々は初穂であり、神に仕える人々であり、最終的に神がご自身の御国へ導かれる人々です。

  神様の御言葉はこの奥義を明らかにし、災害の前にご自身がなされる働きとは何であるか私たちに告げました。神様が表された代表的な御言葉の幾つかを一緒に読んでみましょう。

  あなたの目を開いて見回してみなさい。そうすれば、わたしの偉大な力をどこにでも見ることができるだろう。あなたはどこにいてもわたしのことを確信できるだろう。宇宙と広大な大空がわたしの大いなる力を拡大している。わたしが語った言葉は、天候の温暖化において、気候変動において、人々の異常と社会的原動力の無秩序、そして人々の心の欺瞞において、すべて現実となった。太陽は白くなり、月は赤くなり、すべてが混乱している。あなた方にはまだこれらのことが見えないのか。キリストの初めの言葉」の「第三十九章」より

  すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。「キリストの初めの言葉」の「第九十二章」より

  知らないうちに、世界各国の状況は緊張を増しており、日々崩壊し、毎日混乱に陥っている。各国の首脳はみな最終的に権力を得ることを願っている。彼らは予期していないが、わたしの刑罰はすでに彼らの上に来ている。「キリストの初めの言葉」の「第八十二章」より

  今日、世界の国々で、わたしは自分が着手した働きを行っており、それを完成させる。わたしは人類の真っただ中で動き回り、わたしが計画した働きをすべて行っており、全人類はわたしの意志に従って世界の様々な国々を解体している。地上の人々は注意を自分自身の終着点にしっかり向けている。その日は近づきつつあり、天使たちはラッパを吹き鳴らしているからである。もはや遅れはなく、創造されたものはすべて、すぐに歓喜して踊り始めるだろう。わたしの日を、自分勝手に遅らせ得る者がいるだろうか。地球に住む人間だろうか。それとも空の星だろうか。それとも天使だろうか。わたしがイスラエルのために民の救いを始めようと声を発する時、わたしの日は全人類の上にのしかかる。すべての人はイスラエルが戻るのを恐れる。イスラエルが戻る時はわたしの栄光の日であり、すべてが変化し、新しくされる日でもある。正しい審判が全宇宙に差し迫って近づいてくるにつれて、すべての人は臆病になり怯える。人間世界では義については聞いたことがないからである。義の太陽が現れると、東方に光が当たり、次に光は世界中に当たり、すべての人に届く。人が本当にわたしの義を実行することができれば、恐れるものなどあるだろうか。わたしの民は皆わたしの日の到来を待っている。皆その日を心待ちにしている。彼らは、わたしが義の太陽としての役割に従って、すべての人類に天罰をもたらし、人類の終着点を決めるのを待っている。わたしの国は全宇宙の上に形を取り始め、わたしの玉座は何億もの人々の心の中を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現されるだろう。わたしの子供たちとわたしの民は皆わたしが戻るのを息を殺して待ち、彼らが二度とばらばらにならないように再び結びつけることを強く望んでいる。わたしの国の多くの民衆が、わたしが彼らと共にいるのを喜んで、互いに駆け寄らずにはいられないだろう。これは対価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬に値する者として映り、すべての人の言葉によって宣言される。わたしが戻る時、わたしはすべての敵の力をさらに征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させるだろう。わたしは人々の王として支配するだろう。わたしは今まさに戻る。そしてわたしは今や出発する。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。そして彼らにわたしの日の到来を喜びをもって歓迎させよう。「全宇宙への神の言葉」の「第二十七章」より

  宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。「七つの雷が轟く——神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より


うつ病を克服する方法を見つけましょう!

2019-06-28 19:41:05 | 賛美の心

私の家族がうつ病になりました

  うつ病はここ数年で広く知れ渡るようになりました。官僚、有名人、学生、または賃金労働者など、多くの人々がそれに悩まされています。以前、私はニュースでその言葉を目にしたことがあるだけで、まさか自分の家族がそのえじきになるとは思ってもいませんでした。

  私の娘はかつて幸せな家庭をもっていました。私の義理の息子は散髪屋を経営する社交的で友好的な男性でした。彼は収入はさほどありませんでしたが、競合圧力もほとんどなく、気楽な生活を送っていました。しかし、子供が生まれた後、彼らは家計をやりくりすることができなくなってしまいました。私の義理の息子は友人の多くが車を持っているのを見て嫉妬で溢れていました。生活の質を改善させようと、彼は自分の店を閉店して、大きな美容院に働きに行きました。そこで足掛かりを築こうとした彼は朝から夜まで働き、夜の12時頃まで帰宅しないことがよくありました。彼は頻繁に自腹で中国や韓国に行って上級者向けの勉強会にも参加していました。なぜなら、彼の職場では常にスキルアップして客を引き付け、その客を維持していないと、解雇されることを逃れられないからです。日が経つにつれ、私の義理の息子は憂鬱になり、口数も少なくなり、あまり笑顔を見せなくなってしまいました。従業員は全員が月6万元以上の売上目標を達成することを会社から義務付けられていて、そのノルマを達成できない人は月例会議の際に全員の前でテーブルを3度はい回り、犬のように吠えさせられるんだと彼は口にしていたことがありました。笑い者にならないようにと、彼の同僚の中には自分のお金を足して売上目標を達成している人たちもいました。社内では、口が達者で上司にこびる人たちが昇格していました。私の義理の息子は上司の行動を嫌っていたので、決してお世辞を言いませんでした。これ故に、彼は上司から強い風当たりを受けていたのです。このようなプレッシャーの中で、彼はそこで働くのが嫌になってしまいました。しかし、同僚の多くが家や車を持っていることを考えると、彼は辞める訳にはいきませんでした。この結果、彼は精神的葛藤に陥り、それから抜け出せなかった彼は徐々に口をきかなくなり、怒りっぽくなったのです。その後、彼の状態は更に悪化していき、死ねば問題は全て解決するなどといったようなことを頻繁に口にするようになり、彼は私の娘に子供を育てて欲しいとまで頼んでいました。これを知った私たちは検査を受けさせようと彼を病院に送り、彼は精神科医にうつ病と診断されたのです。彼が病院にいた時、私はうつ病患者の大多数はオートローン、住宅ローン、仕事または感情的な理由で病を患っていた若者であったことを知りました。その中にはいい成績をとるプレッシャーが原因でうつ病に罹っていた10代の学生すらいました。活動的で明るい生活を送っているべき若者がどうしてうつ病などに罹っているのか、私は理解できませんでした。

 

現代の若者はどうしてうつ病の中を生きているのでしょう?

  後に、私はインターネットで偶然ある報告結果を見つけ、そこには中国におけるうつ病発症率は世界平均を上回っていると書かれていました。うつ病患者の数は9000万人に及び、毎年10万人以上が自らの命を絶っています。あるアンケートによると、職場や就職のプレッシャー、そして若者の精神状態が最も深刻であり、彼らは世間、住宅、そして子育てに関することから相当なプレッシャーを感じているとのことでした。このようなプレッシャーが緩和されずに長期間続くと、若者はうつ病になりやすくなってしまうのです。この報告書を読んだ後、私はこう思いました:「この現代社会で、一体どうしてこの若者たちはこのような苦しみとうつ病の中で生きるはめになってしまったのでしょう?」

うつ病の根源

  ある日、私の通う教会からワン姉妹が私の自宅にやってきました。私の困惑を知った彼女はハンドバッグからタブレットを取り出して、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「サタンが人間を虜にし、支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。」。 姉妹はこれらの御言葉をまとめてこのように交流してくれました、「若者はどうして激しいプレッシャーをかけられながら生きて、うつ病に罹っているのでしょう?それはサタンが名利を使って人間を閉じ込め操っているからです。それは、一旦名利を手にすれば、高い地位と大きな富を取得し、他人を見下ろすように生活し、全ての人から尊敬されると私たちに誤解させているのです。それは私たちが名利を全力で追い求めるようにするために、このような高い理想を抱かせるのです。その結果、私たちはこのサタンの思考の中に捕まって逃げられなってしまいます。そして、自分たちの目標や理想を手にすることができないと、私たちは困惑と苦しみに陥り、そこから抜け出すことができなくなるのです。あなたの義理の息子さんも同じです。彼は車や家を所有している人たちに嫉妬し、他人から尊敬されるためにそれらを手にしたいと思ったから、それらを求めて苦労しながら努力して、苦しい生活をしていたのです。しかし、彼は目標を達成できなかったので、苦しみに陥りました。生活面と精神的なものを組み合わせたプレッシャーの中、彼は常に神経が張り詰めた状態にあり、それが彼を精神的に参ってしまう直前まで追い込みました。そして、彼はこの苦しみから脱出するために死にたいとすら思ったのです。これより、若者は誰もがサタンの植え付ける人生観を指針として生活し、成功と他人の上を行くことを追い求め、名誉、利益、そして地位を求めて人生を過ごすということが分かります。彼らは望みを叶えることができないと、落ち込んで死にたいとまで思います。この時点で、彼らは抵抗する術なく、サタンから悪の巣窟におびき寄せられてしまっているのです。ついに、サタンは人間を地獄へ連れて行き、人間を虐待し貪り食うという悪質な目的を達成するのです。」

  私は姉妹の交流を聞いた後、サタンが人間を傷つけるために用いる手段はとても極悪非道たるもので、名利は人類を強く束縛するものであると感じました。人生の浮き沈みを経験してきた私たち年寄りですら名利の束縛から抜け出すことができないのに、若者にそれができるはずがありません。そして私は姉妹にこう尋ねました、「サタンは私たちを酷く傷つけるので、それから抜け出す方法はないのでしょうか?」

うつ病から抜け出す方法

  姉妹はこのように私と交流してくれました、「この苦しみを解消したければ、私たちは神の前に行なければなりません。それは、神の御導きがなければ、無知な私たち人間は人間に苦難を与えるというサタンの悪質な動機や策略を見抜くことができず、むしろ依然として名利を追い求めることは適切なことであり、前進する意欲の表れだと思い続けるからです。こうして、私たちは必然的にサタンの害を受け続けるのです。神の御言葉をもって読んでみましょう。そうすればもっと良く理解できるでしょう。『こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。』。従って、神の前に行って神の御救いを受けてこそ、私たちは生活の仕方とサタンに植え付けられた誤まった人生観と価値観を変え、サタンの引き起こす苦しい生活を一掃することができるのです。」

  姉妹の交流を聞いた後、私の悲しさは消えていき、私は義理の息子の助け方を知りました。私は、神を心から頼りにして神の御言葉に従って生活していれば、私の義理の息子はサタンの束縛と害から脱出し、うつ病からも抜け出すことができると信じました。なぜなら、神の御言葉は人間にいのちを与え、正しい道を示すことができる真理だからです。


終わりの日-イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか

2019-06-27 12:53:58 | 賛美の心

  朝食後、チェン・ユーハンは聖書を読み始めた時、ドアをノックする音が聞こえました。彼女がドアを開けてみると、そこには同僚のヘ・シングアンと彼の妻シンユーがいました。

  二人は中に入ってきて座りました。そしてシングアンは混乱した様子でこう言いました、「昨日の同僚会議の後、帰宅したら心の中で落ち着かない気分がしたんです。ご存知の通り、今は主が来臨される終わりの日の重大な時期です。沢山の人が主は既に再臨されたと証言していますが、リュウ牧師は主がいつ来られるかは誰も知らないと仰ったんです。それは聖書にこう記されているからだそうです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36). 従って、主が再臨されたことを説く証言は全て嘘ということになります。それに、私たちが騙されることがあれば、そのような証言に耳を傾けたり、目を向けたり、その証言をする人たちと連絡を取ってはならないと主は仰りました。私はこの主の御言葉について考えれば考えるほど、増々何かがおかしいような気がするのです。なので、私は主の御言葉を疑っています。主イエスが本当に再臨されているのに、イエス・キリストの再臨を証言するいずれの人たちの言うことにも耳を傾けず、目を向けず、その人たちと連絡を取らずにたら、どうやって主をお迎えできるというのですか?

  ユーハンはじっくり考えてこう言いました、「あなたが言ったことは本当に重大な問題です。主の来臨は慎重に対応するべきです。むやみにリュウ牧師に従ってはいけません。今現在、世界中で災害はどんどん悪化し、より頻繁に発生していますから、イエス・キリストの再臨をうたった預言は基本的に成就されています。今こそ、主が再臨される時なのです。私たちはイエス・キリストの再臨を切望しています。それが起れば、私たちは神との宴に参加して天国の祝福を授かるのです。今、私は沢山の人々がイエス・キリストの再臨を証言しているのを耳にしました。しかし、私が理解できないのは、」そして彼女は聖書を開き、続けてこう言いました、「主イエス様は明確にこう仰っておられるんです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36)。人の子ですらいつ再臨するか知らないのに、彼らはどうやってこれを知り得たというのでしょう?しかしながら、主がいつ再臨されるかを誰も知らないとしたら、私たちはどうやって主の救いを受ければいいのでしょう?そうしたら、主が再臨される目的は一体何なのでしょう?私はそれについても混乱しています。」

 

  シングアンは頷いてこう言いました、「これは本当に問題ですね。昨日の会議の後、私は帰宅してから主に祈りを捧げてこの節を理解しようとしてみました。今朝もう一回読んでみたら、突然理解できたんです。「その日、その時は、だれも知らない。」という節は、主がいつ再臨されるかは誰もしらないという意味ではありません。それは主が来られる日とその時間は誰も知らないという意味です。主が再臨された後、誰かが主に気が付くでしょう。そうでなければ、どうやって 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6) という主イエス様の御言葉が成就されるでしょう?「夜中に呼ぶ声がした」という節は、主が来られる時、誰かがそれを知るということを示しています。」

  シンユーは驚いてこう言いました、「凄い!これは神の御啓示だわ!この節は主イエスが再臨される日とその時間は誰も知らないことを明確にしているし、それは私たちは主が再臨される正確な日を知らないことを意味しているわ。でも主が再臨して人々の中で働きをされる時は、間違いなく主に気が付く人たちがいるってことよ。これは、『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」』(マタイによる福音書25:6) という節を確証しているわ。そう思いませんか?でも、リュウ牧師は聖書を誤解して主がいつ再臨されるかは誰も知らないって仰っていたわ。彼の解釈は人々を誤った方向に導いていませんか?ああ!私たちは本当に無知だわ!この節の内容はとても明らかなのに、どうして以前は分からなかったのかしら?主イエスがいつ再臨されるかを知る人は間違いなく現れるわ。」

  ユーハンはじっと考え込んでいました。彼女はシングアンとシンユーの話しを聞いた時、興奮しながらこう言いました、「主の御慈悲に感謝します。私は今日この交流を通じて、その節は主が再臨される正確な時は誰も知らないけど、主が再臨して働きを開始される時、誰かがそれを知ることになることを意味していると、やっと理解できました。主イエス様が恵みの時代に贖いの働きをするために受肉された時と同じです。預言者はメシアが来ると預言しましたが、何時どのようにして来るかは誰も知りませんでした。主イエス様が働きと説教を開始されたとたん、多くの人々が主イエス様に気が付きました。これと同じで、主が再臨される日とその時間は誰も知らないのです。しかし、主が再臨され、働きを開始されれば、間違いなく誰かが主に気が付くでしょう。そして主に気が付いた人たちはイエス・キリストの再臨を広め、その証言をするでしょう。そうですよね?」

  シンユーは興奮して言いました、「その通りよ!主の御啓示が主の御言葉を理解させてくださったことに感謝します。イエス・キリストの再臨は些細なことではありません。私たち信者は皆、主が来られて私たちを天国にお連れくださると期待しています、そうですよね?」

  ユーハンは嬉しそうに頷きました。そして、彼女はあることに気が付きました。彼女はシングアンを見てこう言いました、「主が再臨される正確な日を知らずにどうやって主の再臨をお迎えしたらいいんだろう?」

  シングアンは少し考えてからこう言いました、「私もそのことを考えているんですよ。私は主に祈りを捧げて答えを探求しました。そして主がかつてこう仰ったことを思い出したんです:『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。』(ヨハネによる福音書10:27)。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネによる福音書16:12-13)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(ヨハネの黙示録3:20)。これらの聖句は全て、主は再臨なさる時にまた真理をお話しになることを示しています。賢い乙女は主の御声を聞いてイエス・キリストの再臨をお迎えし、主との宴に参加するのです。私たちは賢い乙女たちと同じように、主の新たな御言葉を探しに行くべきです。私たちは、花婿が来た!と誰かが声を上げるのが聞こえたら外に出て主をお迎えするべきです。神の御声に気が付くことができたら、イエス・キリストの再臨をお迎えして神の足跡を辿りますよね?」

  ユーハンは嬉しそうに言いました、「もちろんです!主に感謝します!今日の交流は正に神から私たちへの御恵みです!これで、主の御声を聞き分けることが主を実際にお迎えするための道であることが分かりました!」

  シンユーは「これで主をお迎えする道が見つかったんだ…」、と感情を込めて言いました。

寄稿家:シア・ハン


神との関係が正常かどうかを判断する三つの基準

2019-06-26 10:31:04 | 賛美の心

  神を信じるすべての人は、自分が神と正常な関係を築いて、神に認められ、神に良しとされることを望んでいます。しかし、人が神を信じると、神に良しとされることができるというのではありません。パリサイ人のことを例にあげましょう。パリサイ人は神を信じながら、神に逆らうようなことをしていました。彼らは神と敵対関係にあり、神は彼らが神を信じる人だと認めません。この事実から分かるように、神と正常な関係を結ぶことは非常に重要です! では、どのようにわたしたちと神の関係が正常かどうかを判断すべきですか。これはきっと、神を渇望するすべてのクリスチャンがしきりに知りたがることです。

 


一、神の前で心を静め、真に神と交わるべきである。

  わたしたちが自分は神と正常な関係を持つかどうかを知りたいなら、自分は神の前で心を静め、真剣に神の言葉を読むかどうか、真に神と交わるかどうか、すなわち正常な霊的な生活を持つかどうかを、まず見なければなりません。わたしたちは毎日詩歌を歌い、聖書を読み、毎回欠かさずに集会に参加しますが、でも多くの時、神の前で心を静めなくて、形式的にそうするのです。例えば、わたしたちは神に祈る時、いつも心の中で家庭のことや仕事のことを考え、神に対しては適当にあしらう態度を取ります。わたしたちはいつも聖書を読みますが、でもわたしの目的は神の言葉を通して真理を理解することではありません。わたしたちは、神を信じる人が聖書を読まなければならないと思って、やむを得ず手順に従って、大ざっぱに聖書を読み、全然真剣に聖書の言葉をかみしめず、そのため、なんら啓き、光を得られません。日常生活、仕事の中で、わたしたちはいつも肉の欲するままに行動し、未信者たちと同じように言葉を言い、ことを行います。これらの言動は、わたしたちが心の中に神を持たず、霊の中で真に神と交わらず、また神の臨在を感じられず、いつも弱くなり、無力になり、全然神と正常な関係を持たないことを、証明しています。

  神はこう言われました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。神の言葉から分かるように、わたしたちが心の中で神に近づき、心を用いて神に触れてこそ、聖霊の啓きを得られます。わたしたちの仕事がどんなに忙しくても、神の前で心を静め、単一で誠実な心をもって祈り、清い心をもって一くさりの神の言葉を読むべきです。そうすれば、神の臨在を感じられ、また霊の中で充実感を得られます。わたしたちは家にいても、どんな場所にいても、神の前で心を静め、心の中で神に近づき、神の愛について黙想し、神の言葉をかみしめるべきであり、どんな困難にぶつかっても、どんなに弱くても、神に真情を打ち明けるべきです。そうすれば、わたしたちは聖霊がわたしたちの毎日の生活を按配し、顧み、守るのを感じることができます。こうして、知らず知らずのうちに、わたしたちが神の愛らしさを感じられるようになり、わたしたちの霊も強くなり、わたしたちと神の関係も親しくなります。

二、自分の意図を是正し、神の監視を受け入れるべきである。

  わたしたちはことを行い、言葉を言う時、自分の意図を是正し、神の霊の監視を受け入れ、神の言葉にしたがって実行しますか、それともすべてのことを自分の意志で行いますか。現実生活の中で、わたしたちは人とつき合うのにも、教会の仕事をするのにも自分の意図、目的があり、自分のすることなすことが神の心にかなうかどうかを考えず、自分に有利なことは何でもやります。例えば、わたしたちが働き、道を説く上で苦しみを受けるのは完全に祝福を得、神と取引するためです。わたしたちは小さな代価を払って大きな祝福を得ようと思い、神のために費やし、犠牲を払うことを、天の国に入るための手段としてしまいました。しかも多くの時、わたしたちは自分をひけらかし、自分が兄弟姉妹たちに重く見られ、指導者たちに高く評価されることを望みます。兄弟姉妹たちの霊的状態が正常でないのを見た時、わたしたちは表面的には彼らを助け、支えるのですが、わたしたちの目的は人を神の前にもたらし、人に神の御心を分からせることではなく、よい評判を残すことです。わたしたちの行ったことは全然神の前にもたらされて、神の監視を受けることができないのに、どうして神に良しとされることができるでしょうか。恵みの時代のパリサイ人のことを思い出してください。彼らは一生の中で労苦し、働き、犠牲を払い、費やしますが、彼らの目的は神を満足させることではなく、すべての人に重く見られること、地位、生活の道を得ることでした。だから、彼らがどんなに多くの苦しみを受けても、神は彼らを良しとしません。神の目には、彼らの行ったすべてのことは神と何の関係もありません。彼らは神を信じますが、神に良しとされず、神に悪を行う人だと言われました。主イエスが言われたように、「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。ここから分かるように、神はわたしたちの働き、苦しみによってではなく、わたしたちが神を愛し、満足させるかどうかによって、わたしたちが善いか悪かを判断されるのです。もし、わたしたちが神の監視を受けながら言葉を言い、ことを行い、何をするのも真理を実行し、神を満足させるためであり、私利を図らず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタ22:37)という主イエスの言葉を実行するとすれば、わたしたちの心を探る神はきっと、わたしたちのするすべてのことを喜んで受け入れられます。

三、試練を受ける時、心の中で神を愛することだけを求めるべきである。

  生活の中で不如意なことに会う時、わたしたちは神の御心を求めて、神を愛し、満足させることを追い求めますか、それとも神に対して観念を抱き、神を怨みますか。多くの時、わたしたちは神から来る恵み、祝福を享受することだけを望みます。一旦試練を受けたら、消極的になり、弱くなります。ひどいのになると、試練の中で神を激しく恨み、神と事の是非を論じ、神を誤解する者さえもいます。試練のゆえに、彼らと神の間のみぞがますます深まります。そのため、彼らと神の関係は完全に敵対関係であり、彼らの霊的状態は極めて悪いです。箴言書第17章3節で「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」と書かれています。実は、神を愛する人であればあるほど、苦難、試練の中で真理を求め、神に依り頼んで、響き渡るような良い証しをすることができます。例えば、ヨブは自分が災いを受けるか、祝福を受けるかを問題とせずに神を信じていました。試練が彼に臨んだ時、彼の巨万の財産が強盗に奪われ、彼の子女たちが災いの中で死に、彼の全身に重い皮膚病ができました。しかし彼は唇をもって罪を犯さず、むしろ神の前に出て神の御心を求め、彼の長年の経験のゆえに、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。そのため、彼は神に良しとされ、神のもっと大きな祝福を得ました。アブラハムもそうでした。彼は神の声を聞いた後、身を切られる思いで神に従い、独り子イサクを神に返し、響き渡るような良い証しをしました。そのため、彼は後人に「信仰の父」と呼ばれています。ペテロは一生の中で多くの試練を受けたが、神に不平を言ったことがなく、最終的に、神のためには逆さまに十字架につけられ、神を極みまで愛し、死に至るまで神に従うことができるようになりました。わたしたちの観念と一致しない様々なことが起こる時、わたしたちが彼らに倣って、軽率に結論を下さず、不平を言わず、真理を求め、神の支配と計画に従うなら、わたしたちと神の正常な関係を妨げ、破壊する人、事、物がなくなります。こうして、わたしたちは本当に神の御顔の光の中に生きるようになりました。

  神の働きは霊妙で測りがたいです。神の知恵は尽きることのないものです。神と正常な関係を築くことこそが、わたしたちが霊的な旅を始めるための第一段階です。