現在、主を心から信仰する兄弟姉妹たちの多くが日中に罪を犯し、夜にそれを告白するという生活に悩んでいます。彼らは罪の束縛を捨て去りたいのですが、どうすることもできないでいます。私も一度同じ状況に陥りましたが、今は罪を捨て去る道を見つけたので、もうそれに悩まされてはいません。従って、自分のした体験を兄弟姉妹たちと共有したいと思います。
私は中学生の時に洗礼を受けてクリスチャンになりました。私は結婚した後、息子と娘を授かりました。その後、私の夫がレストランを開店し、私はそこで忙しくなって子供たちの世話をする時間がなくなってしまいました。その後、私の娘は夜にゲームをして宿題をしなくなり、日中はいつも授業中に居眠りをしていました。彼女の成績は落ちていきました。私は頻繁に彼女の先生から彼女の状況について聞かされていたので、彼女のことをちょっしゅう大声で叱らずにはいられませんでした。私たちは次第に仲違いしてしまいました。他の時には、息子がサッカーをしていた最中に骨折をして病院に行ったのですが、私の夫はレストランのことはほったらかしで、私が全て対応することを当てにしているので、私は息子の世話をしてあげることができませんでした。結果、私は夫に対する不満が募り、彼と頻繁に口論をしました。
ある時、私たちが口論をしていると夫が私にこう言いました、「お前は自分を主の信者と呼んでるけど、主への信仰はこんな感じであるべきなのか?」私は彼の言葉を聞いて恥ずかしくなってこう思いました:「神は私たちに自分を愛するように他人を愛し、他人を何度でも許すよう教えてくださるけど、夫や子供の言葉と行動に納得いなかいと怒りが抑えられなくて、いつも彼らに腹を立ててしまうわ。」私はその後、罪悪感を感じて後悔し、絶えず主に祈りを捧げて罪を告白したものの、また同じようなことが起った時は依然として自制することができませんでした。その時、私は聖書にこの御言葉が書かれていることを考えました:「主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。」(詩篇98:9)主は全ての罪人たちを裁きにやって来られます。日中に罪を犯し、夜にその告白をしているような私に天の御国に入る資格などあるのでしょうか?
その後、レストランは売上が悪くなり、私たちのビジネスは次第に落ち込んでいきました。さらにその後、私は自分たちの日頃の経費を維持して、店員の給料を払うために借金をするはめにもなりました。私は一日中心配に駆られ、食欲を失い、睡眠を取らずに生活をしていました。様々なストレスの中で息苦しい思いをしていた私は機嫌がさらに悪くなっていきました。これを理由に、私は善良な姉妹たちと私たちの教会の牧師の妻に主の御言葉を実践する方法について助けを求めました。彼女たちの答えは、「私たちがあなたのために祈りを捧げますから、あなたは主を信じるべきです」、というものでした。しかし、私は心の中で疑念を抱くようになりました:「毎日主の前に行って祈りの中で助けを求めているのに、私はどうして主の御言葉を実践できないのかしら?」私は生活のプレッシャーに加え、魂がしなびていたことが原因でとても惨めな気分になりました。私はまるで見捨てられた子供のようで、夜になると頻繁にすすり泣きました:「ああ、主なる神よ!あなたは何処におられるのですか?私は辛い苦しみの中を生きています。どうか私をお導きください⋯⋯」
後に、私はインターネットでリアン兄弟と知り合いになり、彼は頻繁に聖書の中の節の話をして私を慰め、勇気付けてくれました。一度、リアン兄弟は私にこう聞いてきました、「あなたは罪を犯していると思いますか?」私はこう返事しました、「大きな罪は犯していませんが、誰でも犯すような小さい罪なら。」彼は続けてこう言いました:「罪を犯していることを踏まえて、私たちは天国に入れると思いますか?」彼の言葉は私を沈黙させました:「そうよ。罪深い私たちは天国に入れるのかしら?」これは常に私を困惑させる疑問でもありました。最後に、兄弟はこの疑問を兄弟姉妹たちと一緒に調査しようと私を誘ってくれました。この質問には混乱させられてもいたことを考えて、私は誘いを受けました。
集会の時、チェン兄弟が次の2パラグラフの聖句を送ってくれました:「イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。』」(ヨハネによる福音書 8:34-35)「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである。」(ペテロの第一の手紙1:16)チェン兄弟はこのように交流してくれました:「この聖句から、神は神聖な御方であり、汚れて堕落した人々が神の御国に入ることを神が許可されるなどあり得ないということが分かります。これ故に、神は私たちが罪の束縛を捨て去り、清められることを要求しておられるのです。私たちは罪を犯さなくなって、神に抵抗もしなくなって、初めて神の御国に入ることができるのです。」これを聞いて私はがっかりしました。私はこう思いました:「そうよ、どうして私は今までこの聖句に気が付かなかったのかしら?主は清らかな人々のみ神の御国に入れると仰っておられるけど、だとしたら毎日罪を犯す私は見込みがないってことなのかしら?」
私がこう熟考していた間に、チェン兄弟は他のパラグラフも送ってくれました:「罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質がどのように取り除かれるかという働きは人の中ではなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い性質は取り去られず残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、人がもはや罪を犯さず、罪深い本性が完全に取り去られ変えられるにはどうしたらよいかという問題を人は解決することができなかった。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。」。チェン兄弟はこのように交流してくれました:「このパラグラフから、主イエス様は十字架に磔にされて人類の贖いの働きをされ、私たちを罪から救ってくださったことが分かります。主の贖いにより、私たちは主の前に行って、主が祝福してくださる平安と喜びを受けることができます。しかし、傲慢、うぬぼれ、偽り、心の歪み、身勝手さ、そして卑劣さ等、私たちの堕落したサタンのような性質は私たちの中に深く根付いてしまっています。従って、私たちは依然として自分を抑えられず、罪を犯して神に抵抗しているのです。私たちは主を信仰してきたにもかかわらず、依然としてお金と名声を追い求め、自分の利己的な利益を守るために頻繁に嘘をつき、他人を騙します。他人の行いが自分の考えと合わない時、私たちは激怒します。時に、私たちは依然として邪悪なトレンドを追いかけ、常に罪に束縛され、耐え難い苦しみの中を生きています。私たちはサタンに極めて深く堕落させられており、罪を克服する力を持ってもいないため、成す術がないままサタンに自由に欺かれ、日中に罪を犯し、夜にその告白をするといった状態の中を生きているのです。地面に生えるにらのように、根こそぎにしない限りは一度刈り取ってもまた顔を出してくるのです。これ故に、私たちは罪に束縛されるのではなく、完全に清められるためには、神に更なる働きの段階を行っていただいて、私たちの内に深く浸透している堕落したサタンのような性質を完全に一掃していただく必要があります。私たちは堕落したサタンのような性質から抜け出して、自分たちの性質が変化を遂げた時に初めて神の御国に入る資格を得ることができるのです。」
私はチェン兄弟の交流にとても感謝しました。私はまた、自分たちが日中に罪を犯し、夜にその告白をするという状態の中を生きているのは、自分たちの内にあるサタンのような性質が払拭されていないことが理由であるとも理解しました。さて、兄弟が読んでくれたこれらの御言葉は一体どこから来ているのでしょう?それはどうして私の状態を解き明かすことができるのでしょうか?私は一度も耳にしたことがありませんでした。普通の人間が口にする言葉とは思えません。チェン兄弟は、神に来ていただいて働きのまた他の段階を実施していただく必要があると言いました。私はこれに対する好奇心でいっぱいになり、チェン兄弟による次回の交流がさらに楽しみになりました。