いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

クリスチャンの証し-成功を収めた後の喜びと悲しみ

2019-12-31 12:55:33 | 賛美の心

寄稿家:ヂィ(イタリア)

 私が小学生だった頃、毎年夏休みや冬休みになると私のいとこたちが車で家にやってきて沢山のプレゼントを持ってきてくれました。そして、家の中は親戚、友達、そして近所の人たちでいっぱいになりました。皆が自分のいとこたちを尊敬する目で見つめる様子を見て、私はとても羨望しました。その時、私は、「いとこみたいな立派な人になって、先祖に名誉と栄光をもたらし、貴族みたいな生活ができるように、一生懸命に努力して将来何かを実現してみせる」、と決心しました。

懸命な努力
 私は専門学校を卒業した後、運よく外資系企業で事務員の仕事に就くことができました。当初私は心の中で、「まあ事務所勤務だから、一応は知的労働者ってことになるわ」、と秘かに喜んでいました。しかし、地位と能力の低い私は事務所内で他の皆にこき使われることになるとは思っていませんでした。私は自尊心が傷つけられたと感じましたが、同時に私の中で野心が芽生えました。私は努力して人が私を見る目を変えてやろうと決意しました。従って、私は懸命に働き、空いている時間も全て社内規定と製品の専門知識を学ぶこと、そして専門的な能力を修得することに注ぎ込みました。毎日、私は朝から夜まで働き、年間を通して休みはほとんど取りませんでした。5年の間、私は寮、食堂、そして事務所以外は何処にも行きませんでした。そしてついに私の長年の努力は報われたのです。私は普通の事務員から営業員、製造部の役員、購買部のスーパーバイザー、輸出業務のスーパーバイザー、そしてついには社員から尊敬される社内マネージャへと昇格していったのです。以前私を見下していた社員は私の前で頭を下げてお辞儀をするようになりました。このような成功は栄光と誇りを感じさせてくれました。

 しかし、より多くの人々と関わるにつれ、私は自分よりも裕福で権力を持つ成功者たちが大勢いたことを知りました。こうして、私の満足感は次第にしぼんでいきました。私はこう思いました:「社内で高い地位と社員からの支持および尊敬を得たとはいえ、私は未だ人の下で働いている身だわ。’大きく成功するには夢中でないといけない’ と世間では一般的に言われているし、私はまだ若い、自分でビジネスを立ち上げるべきだわ。’人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる’ という古い諺もあるくらいだから、現状に満足しないで進歩していくことを求めるべきだわ」何年にも渡って培った経験は私に信念と勇気を与えてくれたので、私はマネージャとしての高給な仕事を辞めて、自分のビジネスを立ち上げました。

 その後、私は有名化粧品ブランドのエージェントとして働きました。会社に設定した高い業績目標を毎月達成していくために、私は店の対応をする以外にも様々なマーケティングプランを立てる必要がありました。私は日中の間は客がいるいないに関わらず常に店の中にいて、夜遅くまで帰宅しませんでした。私には祝日すらありませんでした。時に、私は疲労を感じることはありましたが、成功は手の届く所まできていると思い、全力を振り絞って耐え凌ぎました。その数年後、私はかなりの成功を収め、ある程度の収入を得ました。そして、私は店を拡大し、車と家も購入しました。私の親戚、同級生、そして近所の人たち全員が私のことを感心の目で見つめ、私の両親も私のことを誇らしく思ってくれました。

突然の病に見舞われ、私は耐え難く辛い思いをしました
 自分のキャリアの達成感を楽しみながら、休むことなくビジネスで多忙にしていた時、私は健康の問題を抱え始めました。私は頻繁に目眩がし、両手が麻痺していたのです。病院で検査を受けると、私は信じられないことに頸椎症と関節周囲炎を患っていたのです。医者は真剣な口調で私にこう言いました:「これらの病気は根絶することはできないんです。治療は痛みを緩和することしかできません。体を大事にして、もっと休んで働き過ぎないようにする必要があります。そうしないと、あなたの病気は増々悪化していきますよ。これらの病気は致命的なものではありませんが、悪化したらあなたの将来の生活に悪影響を及ぼします。あなたは未だお若いし、健康にはもっと注意する必要があります。このままの状況が続くと、筋萎縮症、それに四肢麻痺まで起こす可能性があります。」医者の言葉を聞いて、私は頸椎症と腰椎疾患に苦しむ人たちのことを思い出しました。彼らの仕事と生活はひどく影響を受けていました。体が麻痺しているようで何も出来ない人もいました。こう考えていると、私はひどく落胆しました。私は30歳にすらなっていない自分が50代や60代の人たちが患うような病気に罹るとは思ってもいませんでした。

 私は自宅に向かって運転している時、涙が顔を流れ落ちるのを抑えることができませんでした。この数年を振り返ると、私は自分が止まれなくてカチカチと回り続ける壊れた時計になっていたような気になりました。

 その後、私は定期的に病院へ治療を受けに行きました。私は頸椎症と関節周囲炎を治そうと、理学療法、マッサージ、吸い玉放血法、鍼治療、牽引、そして小針-メス治療を始めとするありとあらゆる治療法を試しました。これらの治療には沢山の費用がかかりましたが、何の効果もありませんでした。それどころか、これらは私の頭の中に暗い影を残していきました:治療の最中に聞こえた針治療の音が頭の中で響き続けるのです。病院に行く度に、私の心臓は激しく鼓動し、牽引と鍼治療の痛みを考えると、足に力が入りませんでした。私は何度もこう思いました:「私は一生懸命に働いてキャリアを築き、お金を稼ぎ、良い評判を上げてきたのに、健康な体を失ってしまうなんて。輝かしいキャリアを築くという野心のために人生のほぼ半分を注いできたのに、どうしてこの懸命な努力の結果がこうなってしまうの?」私は極度の落胆と悲しみの中を生きましたが、それからどうやって抜け出せばよいのか分かりませんでした。
神への信仰を開始した後、私は自らの人生を振り返りました
 私はひどく苦しんでいた時に神の御国の福音と出会いました。私は神のこの御言葉を目にしたのです:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。⋯⋯」

 私は神の御言葉を読み、そして兄弟姉妹たちと交流することで、自分の苦しみの根源を知りました。私は、幼かった頃に、いとこたちが各々のキャリアで成功を収め、そして親戚と友達全員が彼らを尊敬しているのを見て、自分も立派な人になろうと心の中で秘かに決心したのを思い出しました。社会に足を踏み入れた後、「他人を超える」、「先祖に名誉をもたらす」、「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった人生観に囚われていた私は普通の知的労働者であることに満足できなかったのです。立派な人になり、人から尊敬されるという望みを叶えるため、私は気が狂ったように働き、食べることも、寝ることも忘れてしまうほど学ぶことに没頭しました。外資系企業でマネージャになった後、それに満足できなかった私は、自分のビジネスを立ち上げようと懸命に努力しました。私は健康を損なうまで名利を追い求め続けたのです。現代社会では、大多数の人々が裕福で権力のある人々を尊敬し、その仲間入りをすることに熱心です。彼らは名利を求めて最善を尽くしますが、それはサタンが人間を誘惑し傷つけるために使う策略であるということを知りません。サタンは虚偽の考え方を用いて私たちを操り、私たちが神から離れるようにします。名誉、富、そして地位に囚われた私たちは苦しみの中を生きるのです。沢山の人々は成功を収め、存在を認められ、莫大な富を手にしますが、実際はとても虚しく憂鬱な気分に駆られているのです。中には相当な精神的苦痛によってうつ病になる人もいます。その中には快楽と肉欲を求める生活にふけたり、自らを麻痺させて苦しみを和らげるために麻薬中毒になってしまう人さえいます。自らの命を絶つために自殺を選択する人もいるのです。私は神の御言葉の啓示とこういった事実を通じて、立派な人になることは真の幸せではないこと、そして成功と名誉は真の満足感と確信をもたらしてはくれないことに気が付きました。

 聖書の伝道の書1:14には、「私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである」と記されています。マタイ16:26で、主イエス様はこう仰りました:「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」そうです。私たちはこの世で何を手に入れようと、この世を去る時には何も持って行けないのです、そして最終的にすべては空っぽになるのです。お金、名誉、そして地位のために苦労していては、私たちは極めて無知で愚かということになってしまいます。あの頃、私は立派な人になって貴族のような生活をしようと懸命に努力しましたが、今現在、私は健康を損ない、病気の苦しみの中で生活を送っています。こう考えると、自分はとても無知であったことが分かります。

 後に、私は神のこの御言葉を目にしました:「あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた。そしてこの宇宙を経営し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きるのである。」「それよりは神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことが最善であるとわたしは考える。そして、真にこれを実現できるならば、あなたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進みなさい。自分の将来や運命を自ら掌握しているのであろうか。」

 神の御言葉の御導きを通じ、私はこう気が付きました:「私たちの運命は神の御手の中にあります。神のなさる調整と采配に従ってのみ、私たちは神の祝福を授かり、真の幸せと安楽を手にすることができます。」しかし、私は神の主権を知らず、どれだけ辛く疲れていようとも、サタンの哲学に従いながら頑固なまでに追い求め続けていました。私は病気になるまでは、止まって内省することはありませんでした。私は自分が追い求めてみたものは全て苦しみしか生み出さなかったことに気が付きました。私たちは神の前に行って神の主権と采配に従い、名誉と地位へのこだわりを手放し、それらを求めて駆け回るのを止めた場合に限って、サタンの誘惑と害から距離を保ち、自由に抑制なく生きれるようになります。こう考えた私は今度の道を歩む方法を知ったのです。

 自分の観点を改め正し、自由を取り戻しました
 後に、会社はマーケティング戦略の変更に伴い、幾つかの店舗をモデル店舗として選定することにしました。モデル店舗はロケーションが良く、安定した客足があり、高い売上を挙げることが求められました。会社の幹部からこのプログラムの詳細を聞いた時、私は誘惑に駆られてこう考えました:「私の店舗がモデル店舗の最初のグループの1つになったら、会社から色んなサポートや高額ディスカウントが付与されるだけでなく、店舗を改装したら客が次々と来店してくるようになるわ。そうすれば、売上は右肩上がりだわ。」頭の中で見事な構想を思い描いていた時、この神の御言葉が私の頭をよぎりました:「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マルコによる福音書 8:36)。「もし再び選択を迫られるなら、あなたがたの立場はどうだろうか。依然として前と同じだろうか。」神の御言葉を熟考しながら、私はこのように内省し始めました:「一体私は何を選ぶべきなの?お金、名誉、地位、それとも私のいのち?今日、会社の新たな戦略を聞いた私はまだ自らの健康を無視してまでこの機会を利用してお金、名誉、そして地位を手にしたがっているわ。以前と同じ過ちを犯してしまうのに。体が麻痺してベッドに転がっていたら、どれだけ富があって、どれだけ人から尊敬されていても、全く何の意味もないわ。一番大切なのは自分のいのちなのよ。」神に感謝します。私は神の御啓示と御導きの下で自分の歩むべき道の選び方を知りました。その後、私は幹部の所に行って彼女にこう伝えました:「今私は体調が良くないので、店舗を拡大したら健康を完全に損なってしまいます。なので、モデル店舗は諦めることにしました。」こう決断したとたん、私は長い間掛けられていた足鎖から開放された気分になり、以前感じたことのないゆとり、自由、そして安堵を感じたのです。

 その後、私は店の経営に自分の時間全てを充てることはなくなりました。私は教会で自分の本分を尽くすことに最善を尽くしました。私は集会の時間には集会に参加し、仕事の時間になると自分の店舗に行きました。驚いたことに、私が集会に参加したり、本分を尽くすようになったにもかかわらず、店の売上は落ちなかったのです。これより、この全ては私自身の努力によって決まるものではなく、万物が神の御手の中にあるように、これもまた神の祝福と支配によって決まっていたということを私は明確に知りました。

 神の選定と救いに感謝します。教会生活を送り、兄弟姉妹と共に神の御言葉を読み、それぞれの個人的な体験を共有し合うことを通じ、私の憂鬱な心は次第に晴れていき、私の状態も好転しました。神に感謝します。私は神が私の内に指し示してくださった方向に向かって真理を追い求め、いのちの正しい道を歩み、神に従い、神を崇めていきたいと思います。全ての栄光、神にあれ。


あなたは神の「みこころ」を理解しているのか

2019-12-30 12:33:03 | 賛美の心

 昨日、わたしはインターネットでこういう物語を読みました。ある少年は外で大金を儲けました。そこで、彼は馬に乗って、喜んで家路をたどりました。しかし途中で大雨が降り出しました。そのため、彼の全身がびっしょりとぬれました。すると、彼はお天道様が意地悪をすると文句を言いました。彼が林まで行った時、拳銃を手にしている強盗は道に待ちかまえて彼の財物を強奪しようとしました。このような時、雷が鳴りました。少年の馬は雷におびえて走り出しました。強盗は発砲したいが、銃弾が湿ったため、発砲できなくなりました。こうして、少年は一難を逃れました。その後、運よく難を逃れた彼は絶えずこの大雨に感謝していました。

 この物語を読んだ後、わたしはこう思っています。多くの時、わたしたちはこの少年と同じように自分の好みや想像によって自分の身に起こることを扱いますが、わたしたちが思っているような「悪い」事の背後に神のみこころがあること、神のみこころが事物の背後に隠されていて、わたしたちには想像できないことを知りません。例えば、ヨセフは幼い時、兄たちによってひそかにエジプト人に売られました。そのため、彼は数多くの苦難を受けました。うわべでは、これは悪いことですが、でも最後にヨセフはエジプトを治める者になりました。各国が七年間の飢饉に見舞われる前に、ヨセフは神に祝福されて神の啓示を受けたので、前もって十分な食糧を貯蔵しました。彼の助けのおかげで、彼の家族は飢饉を切り抜け、彼の民族のすべての人の命は助かりました。

 わたしたちはまたアブラハムに起こることを見ましょう。彼は百歳で息子をもうけました。しかし、神は彼に彼の唯一の大事な息子を燔祭としてささげ、彼の息子を神に返すようにと命じられました。このこともわたしたちの観念にかないません。だが、アブラハムはどのように扱ったでしょう。彼は神と事の是非を論じず、また不平を言わず、神に逆らわず、神の要求にしたがって息子を山に連れて、祭壇を築きました。彼が刃物を取り、息子を屠ろうとした時、神は彼を制止されました。そして、神は彼の子孫を海辺の砂のように、天の星のように増やすと言って、彼を祝福されました。

 神はこう言ったことがあります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ書55:8-9)。

 よく考えてみましょう。わたしたちは塵にすぎないのに、どうして造物主の知恵を計り知ることができるでしょうか。実は、わたしたちの観念、想像にかなわないことにおいて、わたしたちの求めるべき真理があります。だから、わたしたちの観念、想像にかなわないことが起こったら、わたしたちは心を静めて神のみこころを探るべきです。これこそ、わたしたちの持つべき理智、態度です。もしわたしたちが自分の観念、想像だけによって判断し、神のみこころを求めないなら、わたしたちは神に逆らう者になり、神を犯すようなことをしでかして、神に懲罰され、呪われるかもしれません。例えば、あの時働きに来られた主イエスは人の観念、想像にかないませんでした。当時、人々はこう思っていました。メシアが王宮に生まれるはずだ、しかもメシアが威風堂々としていて、王者の風格がある、彼はきっと人々を導いてローマ政府の支配を覆し、人々が幸せで平穏な生活を送れるようにする、このようなメシアこそ人々の待ち望んでいる王だ、と。しかし主イエスは飼い葉桶の中に生まれ、普通の家庭で成長し、人に対する憐れみ、慈しみに満ちていました。彼は人々に、神に罪を告白し、悔い改めるべきだとか、神を愛するべきだとか、敵を愛するべきだとか、他人に寛容で、我慢するべきだなどと教えられました。主は来られた後、真理を発表して、人々を罪の中から贖い出されました。だが、当時の人は神のなみなみならぬ苦心を理解せず、かたくなに自分の観念を守り、主イエスの発表される真理を受け入れず、何はばかることなく主イエスに逆らい、主イエスを冒涜し、最終的に主イエスを十字架につけました。そのため、彼らが神に懲罰され、呪われ、すなわちイスラエル国が滅びました。

 今になっても、わたしたちのうちの多くの人は依然としてこの面の真理を理解しません。彼らは自分の観念、想像だけによって自分の身に起こることと神の働きを扱います。神のなさることが気に入らないと、「神のするこのことはよくない」、「神のするあのことは正しくない」、「神はこうすべきではなかった」、「神はそうするわけにはいかない」などと言って、神を誤解し、怨みます。わたしたちはこのように思ったり、あのように思ったりした時、「神のみこころは何ですか」と考えましたか。わたしたちは事の背後の神のみこころを本当に知っていますか。わたしたちはこの問題を突っ込んで考えるべきです。


罪の赦しについて、私は新しい解読がある

2019-12-29 13:21:58 | 賛美の心

2018年8月5日(日)曇り
 今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

2018年8月7日 (火) 曇り
 今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

 最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

2018年8月12日 (日)本曇り
 今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ
 今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」
 今、心は少し明るくなった。私たちの罪が許されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。


クリスチャンの日記-真キリストと偽キリストの見極め方

2019-12-28 12:00:05 | 賛美の心

 【編集者メモ】主は終わりの日に偽キリストが現れて人々を騙すと仰いました。ならば、どのようにして真キリストと偽キリストを見極めればよいのでしょうか?このエッセイの著者であるリー・シンは以前そう質問されました。しかし、以下の交流の後、彼女の心の困惑はついに解消されたのです。

2017年6月8日、木曜日、曇り

 今日の集会の最中、牧師はこう言いました。「終わりの日が到来しました。主の再臨の預言は基本的に成就しています。4つのブラッドムーンもその姿を現しました。大災害もすぐそこまで迫ってきています。私たちは主が来られるのを注意深く待つ必要があります。主イエスはこう仰いました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24章23-24節)終わりの日には、偽キリストと偽預言者が間違いなく私たちを惑わしにやってきます。なので、主イエスが再臨なされたと誰かが宣教する場合、偽キリストに惑わされて、主に捨てられても、不注意に調査してはなりません」。

 ここ数年の間、牧師たちはいつも私たちにこう言っています。「偽キリストが人々を惑わすために現われます、なので、主イエスの再臨を証言する人がいれば、それを聞いても、信じてもなりません。」 そして、私はその言葉に従ってきました。しかし、集会が終わった時、ある年配の姉妹が私にこう言ったのです。「牧師は主の再臨の知らせを広める人がいたら、それを調査しても、信じてもならないっていつも私たちに言うけど、主イエスはっきりとこう仰っているわ。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。』(マタイによる福音書25章6節) 主の再臨を宣教する人がいてもそれを調査しないということにこだわっていて、万が一主が本当にお戻りになることがあったら、私たちは主に会う機会を逃して、主に見捨てられてしまうのでないかしら?」

 私は彼女の言葉に考えさせられました。「そうだわ、私は今までずっと偽キリストが現れて人々を惑わすと信じていたわ。でもその結果、偽キリストを警戒することにしか注目していなかったのよ。積極的に神の顕現を求める方法については一度も考えたことがなかったわ。誰かが、『さあ、花婿だ』、と言っても、神の働きを求めないで調査もしなかったら、私は主に会う機会を逃してしまうわ。そうしたら、後悔しても手遅れになるわ。真キリストを知ろうとせず、偽キリストを警戒してばかりいたら、主には会えないし、まして神の御前に携挙されることなんて多分あり得ないわ。そんなの嫌よ、このままただじっと座って死ぬのを待っていたらいけないわ。自分から探求する必要があるけど、先ず最初は真キリストと偽キリストを見極めることに関する真理を理解する必要があるわ。こうしてのみ、偽キリストから自分を守って、真キリストに会うことができるのよ。主はかつて、『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。』(マタイによる福音書7章7節)、といって私たちに約束してくださったわ。だから、心から探求してさえいたら、主は必ず私を導いて理解できるようにしてくださるはずだわ」。

2017年6月13日、火曜日、曇り

 最近、私は一日中困惑しています。時に、主が夢の中に現われてそれを解決してくださると期待することすらありました。いいえ、私はただ待っているわけにはいきませんでした。牧師の意見を聞きに行く必要があったのです。外はどんよりと曇った状態で、雨が降りそうでしたが、それを気にしている場合ではありませんでした。私は急いで朝食を済ませた後、レインコートを掴み、電動スクーターに乗って牧師の家に向かいました。

 私はリー牧師の家に行き、それからワン牧師の家に行きました。彼らは私の困惑について「主イエスが受肉して再臨されたと宣教する者がいても、それは間違いなく虚偽です。惑わされないように、それを信じることは拒否しなければなりません」とだけ言いました。しかし、彼らは偽キリストの特徴と見た目に関しては、何もはっきりとした説明ができませんでした。私は彼らの返答にとてもがっかりし、困惑が解消されないままそこを後にしました。電源が切れた電動スクーターを雨の中で押しながら、私はまるでずぶ濡れになった猫のようでした。私は体と心の両方で寒気がしました。私は意気消沈してしまいました。

 夜になると、空に星はなく、月は分厚い雲の後ろに姿を隠し、空気中にはまだ蒸し暑さがありました。私は聖書を手に取り、主の御前で跪いて祈りを捧げました。「主よ!私は常にあなたの再臨を心待ちにしてきました。しかし、牧師と長老たちは見知らぬ人の言うことを聞いてはならないと私たち言います。それは惑わされるのを避けるためだと、彼らは言うのです。私には見極める力がありません、なのであなたの再臨を証言する福音には耳を傾けず、信じないようにしています。しかし、今あなたが再臨されるという預言はほぼ完全に成就しています。私はあなたの再臨をさらにお迎えしたくなりました。主よ、偽キリストに惑わされないためには、どうやって真キリストと偽キリストを見極めればよいのでしょうか?主よ、どうか私をお導きください。アーメン!」

2017年8月16日、水曜日、晴れ

 外は太陽が出て晴れ渡り、鳥たちはまるで良い知らせを広めているかのように、鳴きながらお互いをお追いかけ合っていました。さらに、主の信者であるリー姉妹が私に会いたがっていたので、私は気分が上々でした。彼女は、長年に渡って主のために働き宣教をしてきた姉妹が今日偶然彼女を尋ねてきているので、その姉妹とこの困惑について相談すればよいと言ってくれたのです。その姉妹と会った後、私は彼女の優しさを感じ、軽く挨拶をした後、単刀直入に自分の困惑を彼女に伝えました。

 私の話しを聞き終えたチェン姉妹は笑顔でこう言いました。「実は、主イエスは真キリストと偽キリストの見極め方についてかなり前から語っておられます。主はこう仰いました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24章23-24節) この御言葉から、偽キリストの持つ最も顕著な特徴は、人々を惑わすためにしるしと奇跡を行うということであることが分かります。彼らは神ではないし、真理を持ってもいないため、新たな時代を始め完結させるという働きはできません。彼らは神の働きの後ろに付き、神が以前行われた働きを真似て人々を騙すことしかできません。例えば、中国本土で言えばジー・サンバオとフア・シュエハ、韓国で言えばアン・シャンドンがそうです。彼らは全員しるしと奇跡を行うことができ、自分たちが神だと言い張ります。しかし、彼らは新しい働きをもたらすことができなかった上に、彼らが行ったしるしも神が既に以前の働きの中で行われているものでした。彼らは偽キリストです。しかし、神は決して同じ働きを繰り返されませんし、神は常に新しく、決して古くありません。律法の時代に人々を導くためにモーセを使って律法を発布された時も、恵みの時代に人間の罪を贖うために人の子となられ、十字架に磔にされた時も、神の各段階の働きは神の経営計画および人間が必要とするものに合わせてなされました。なので、終わりの日には、奇跡的なしるしと業を行うことできる人々を警戒しなくてはなりません。奇跡を起こして自らをキリストと名乗る者たちは偽キリスト以外の何者でもありません」。

 私は興奮してこう言いました。「主に感謝します。主はかなり前から偽キリストの特徴について語っておられたのです。どうして私はこんなに混乱していたのでしょう?これで私は 『偽キリストとは神が以前なされた働きを真似て、終わりの日に人々を惑わすために奇跡を起こす者たちのことである』 ということが分かりました。」 同時に私は突然こう考えました。「もし私の前に現われる人が自らをキリストだと宣言しても、不思議な業を起こさないとしたら、その人が真キリストだってことなの?偽キリストがその才能を見せなかったり、奇跡を行わないとしたら、どうやって彼らを見極めればいいのかしら?」こう考えると、私は思わず心配になって彼女にこう聞きました。「チェン姉妹、偽キリストはしるしと奇跡を行って、自らをキリストと名乗るとあなたは言われました。なので、彼らを見極めることが容易なのは分かりました。でも、自らをキリストと名乗るけれども、奇跡的な業を見せない人がいたとしたら、その人が真キリストということなんでしょうか?」


「キリスト」が何を意味するかご存知ですか

2019-12-26 16:01:26 | 賛美の心

 キリスト教徒として、私たちは皆「キリスト」という言葉に馴染みがあります。毎日イエス・キリストの聖なる御名においてお祈りするため、主イエスがキリストであると信じています。では、どうして主イエスを「キリスト」と呼ぶのでしょうか。キリストとは何を意味するのでしょうか。「キリストとは、油注がれた者を意味します」と言う人もいれば、「キリストは人の子です」と言う人もいます。見解は十人十色です。これらの見解に関して、皆さんはこう考えたことはありますか。旧約聖書の記録によれば、ヤーウェは神に用いられた人々を人の子と呼ばれました。神に用いられ、人の子と呼ばれたそれらの人々はキリストだったのでしょうか。

 聖書にも同様の記録があります。「彼はわたしに言われた、『人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう』」 (エゼキエル2:1)。 「彼はわたしに『人の子よ、あなたはこれを見るか』と言った。」(エゼキエル 47:6)。

 ここでは、ヤーウェはエゼキエルを人の子と呼ばれています。では彼はキリストだったのでしょうか。旧約聖書では、働きのためにヤーウェに用いられた人々は預言者や祭司などでした。神は彼らを人の子と呼びました。では彼らはキリストだったのでしょうか。答えは「否」です。キリストが油注がれた者という意味であれば、旧約聖書に登場する同じく油注がれた国王や祭司たちはどうでしょうか。どうして彼らはキリストではなかったのでしょうか。

 恐らくキリストの意味については私たちの誰もが多くの混乱を抱いているので、この問題について論じましょう。キリストとは一体何を意味するのでしょうか。

 神の御言葉が明確な答えを与えてくださいます。神はこう仰せられます。受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を行うためのものである。神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。」「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。」

 これらの御言葉から、受肉した神のみがキリストだということがわかります。キリストは神性の本質を有しておられ、真理を表して神御自身の働きをおこなうことができます。キリストは肉をまとって人になられる神です。表向きは普通の人のように見えるため、人の子とも呼ばれています。ただし、人の子と呼ばれていてもキリストではないかもしれません。使徒、預言者、祭司がその例です。彼らは人の子と呼ばれていましたが、その本質は人間性で、つまり神の創造物である人間でした。キリストではなかったため、神御自身の働きを行うことはもちろん、真理を表すことは猶更できませんでした。

 しかも、キリストは神の霊が具現化し、内在する肉です。それにキリストが油注がれた者を意味するとはいえ、油注がれた者は必ずしもキリストではありません。これがキリストと人の違いです。キリストは人の姿をしていますが、その本質は神の本質です。

 旧約聖書で、ヤーウェはどうしてキリストと呼ばれなかったのでしょうか。なぜなら当時、神は霊を用いて働きを為され、人の生活を律して、神を崇拝するよう導かれたのであり、肉となって働きをなさらなかったからです。そのため、キリストとは呼ばれなかったのです。

 キリストは、受肉された神のみを指す特別な言葉です。肉の中に生きる神御自身であり、表向きは普通の人ですが、その本質は他のいかなる創造された人とも異なります。

 キリストは神の受肉であり、神御自身の肉であり、神が肉をまとって地上に降臨されたお姿です。サタンがキリストに近づき、堕落させることはできません。それ故に、キリストは神御自身の働きを為され、真理を表すことで人間を罪から贖い、救うことができます。これはキリスト特有の神性です。キリストの本質は普通の人間性と完全な神性を組み合わせたものであり、地上における神御自身です。

 これでキリストの意味するところがもっと理解できたでしょう。しかし、私たちはこの側面の真理を継続的に探究し、熟考する必要があります。こうして初めて、私たちはこの真理に対する理解を深め、私たちの花婿、つまり終わりの日のキリストを迎え入れることができます。