いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

カトリック教徒の信仰:私の天国の夢を実現させる望みがついに生まれた(II)

2020-05-31 09:10:25 | 賛美の心

寄稿家:シェイラ

清められて天国に入るための道

 リリー姉妹はこう言いました。「神様、感謝いたします。まったくあなたの言うとおりです。天国に入りたければ自分の罪深さという問題を絶対に解決しなければなりません。では、私たちはどうすれば自分の罪深い本性から逃れて清められることができるでしょうか。それには主イエスの働きと、それが成し遂げた結果、そして完全に罪を振り払う道を理解する必要があります。まずは神様の御言葉の文章をいくつか読みましょう。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

カトリック教徒の信仰, 私の天国の夢を実現させる望みがついに生まれた(II)

 リリー姉妹は交わりを続けました。「神様の御言葉から、神様はご自身の経営(救いの)計画と人類が必要とするものを基にして人類を救う働きをなさることがわかります。それはまさに、私たち人類がますます罪を犯し、律法も戒めも守れず、律法の下で死に処される危険に直面していた律法の時代の後期、当時の人々が必要としていたものに応じて神様が主イエスとして受肉なさったのと同じです。私たちが律法の断罪と呪いから自由になれるよう、主イエスは人類のために十字架につけられて人類の罪を贖われました。主イエスの救いを受け入れることで、私たちは自分の罪を神様に告白して悔い改める限り、それらを赦されて主のお授けになる恵みと祝福に浴することができるのです。これらは主イエスの働きによって成し遂げられた結果です。主は私たちの罪を贖われましたが、私たちの堕落した性質や罪深い本性をお赦しになったわけではありません。サタンに堕落させられて以来、私たちの性質は信じられないほど傲慢に、不正に、不正直に、自己中心的かつ卑劣に、そして邪悪で貪欲になり、真理を厭い邪悪さを愛するようになりました。私たちはこれらの堕落した性質に操られ、しばしば罪を犯したり神様に抵抗したり、他人と名声や利益を争ったり、嫉妬して不和を生じさせたり、嘘をついたり騙したり、自分を持ち上げて自分の証しをしたりせずにはいられません。例えば、私たちは自分の自己中心的な本性に操られ、何事においても自分の利益を守ります。他の誰かが自分の利益を侵した瞬間、私たちは腹を立てて争いを起こし、相手を憎み始めることさえします。私たちには他人への寛容さや忍耐強さがこれっぽっちもなく、私たちの働きや犠牲さえ、報いを得て天国に入るべく神様の祝福と引き換えになされるだけです。自分の傲慢な本性に支配され、頂点に立つことを常に望んでいるなら、他人が自分の言うことに従うよういつも望み、自分の見方にしがみつき、他人の意見を進んで受け入れようとせず、他人が自分よりも優れているとわかれば嫉妬して不満を抱え、さらには自分の地位を守るべく他人を押さえつけたり叱責したりするでしょう。自分の悪賢い本性に操られているなら、しばしば不正直になって偽りの発言を行ない、自分の利益や体面や地位を守るために自らの過ちを隠すでしょう。そのことから、これらのサタン的な本性は私たちを罪深さへと導くものの根源であり、それを取り除けなければいつまでも罪を犯して神様に抵抗するのをやめられないことがわかります。私たちは決して天国へ入るのにふさわしくはなれません。経営の働きを進める神様の目的は、私たちが神様の祝福とお約束を得られるよう、私たちを罪から完全にお救いになることです。私たちが罪の束縛を振り払って神様によって得られ、かくして私たちの天国の夢を実現できるよう、終わりの日の神様が主イエスの働きを基に、神様の家から始まる裁きの働きのその段階をなさり、私たちのサタン的な性質を完全に変えてお清めになるのは、それが理由です。それは主がかつてこう預言された通りです。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書12:48)主は終わりの日にお戻りになって多くの真理を表現なさり、御言葉を用いた人間の裁きと清めの働きを終わらせ、堕落した本性を取り除く道を私たちにお示しになると、主ははっきりとおっしゃいました。それによって私たちは完全に清められ、真に神様に従い、神様を畏れる人になれるのです。ゆえに、終わりの日における神様の裁きの働きを受け入れることでのみ、私たちの堕落した本性は清められます。それが天国へ入る唯一の希望なのです。

 リリー姉妹の交わりを聞いた私は、主が贖いの働きをなさったこと、そして主への信仰のおかげで私たちは罪を贖われたものの、内なる罪深い本性はまだ清められていないことをようやく理解しました。私たちが罪を犯しては告白し、再び罪を犯すという邪悪な循環の中でいまなお暮らしているのは、それが理由なのです。罪から逃れたければ、終わりの日に神様がなさる裁きと清めの働きを受け入れなければなりません。それが、自分の堕落した性質が清められ、私たちが真に神様を愛し、神様に服従できる人になって、天国へ入るのにふさわしくなれる唯一の道だからです。神様は私たちに罪の足かせから逃れる方法をお教えになるべく、お戻りになって真理を表現なさり、裁きの働きをなさるのだと聞いて私は感動し、またそのことは天国に入る希望を私にもたらしました。神様、感謝いたします。時間が遅くなっていたので交わりは続けませんでしたが、次の日に再び交わりを行なう時間を約束しました。

神様はずっと以前に戻られていた

 翌日の交わりで、姉妹リリーが「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」という朗唱の録音を再生してくれました。それを聞いて私は心から感動し、これらの御言葉には本当に権威があると感じました。神様がどうやって雲に乗ってお戻りになるかをはっきり説明するとともに、神様が雲に乗って空からお降りになるという私たちの望みが、ひとえに自分自身の観念と想像から生じるものであることを私たちに教えているのです。神様がお話しになっている白い雲は、空に見える物質的な雲ではなく、主イエスが終わりの日にお戻りになるときお発しになる御言葉を指しているのです。するとリリー姉妹が興奮した口調で私に言いました。「シェイラ、実を言うと私たちがずっと以前からお待ちしていた主イエスは、しばらく前にお戻りになったのよ。それは肉となられた全能神です。全能神はすでに多くの真理を表現なさっており、いまは神様の家から始まる裁きの働きをなさっています。昨日の集まりで私が読み上げた御言葉と、あなたが今日聞いた朗唱はすべて全能神が自らお発しになった御言葉です。全能神はおいでになって七つの封印を解き、巻物をお開きになって、私たちが何世代も前から一度も理解しなかった奥義を残らず露わにされています。また全能神は、私たちが救いを得て清められるすべての真理を私たちに授けられました。それはすべての諸教会に聖霊がお語りになったことです。現在、終わりの日の全能神の働きは全世界に広まっており、その御言葉は20以上の言語に翻訳されてオンラインで公開され、神様の出現を熱心に探し求める世界中の人たちがそれを考察できるようになっています。真に神様を信じ、真理を渇望するすべての教派の多くの人たちが、全能神の御言葉を読むことで神様の御声を認識し、こぞって終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神の玉座の前に戻って神様の足跡に従うようになっています。今日私たちが神様の御声を聞けるというのは、ひとえに神様のお導きです。私たちはみな大いに祝福されているのです」

 主がすでにお戻りになっているという知らせを聞いた私は、高揚して信じられないほど興奮しました。彼女が再生してくれた朗唱と私たちが前日に読んだ御言葉は、実はすべて神様の御言葉だったのです。かくも権威に満ちていたのも無理はありません。主の再来をお迎えできるなど、私は想像したこともありませんでした。私はとても幸せでした。

 するとリリー姉妹がさらに交わりを行ない、神様がどのように御言葉をお使いになって終わりの日に裁きの働きをなさるかを教えてくれました。そしてこのような全能神の御言葉を読んでくれました。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人が神の真の顔と、自らの反抗心についての真相を認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識して知り、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

 神様の御言葉を読んだあと、リリー姉妹は交わりを続けました。「神様の御言葉はとてもはっきりしています。終わりの日の全能神は御言葉によって人間の裁きと清めの働きをなさいます。人類が完全に救われるよう、受肉なされた神様はすべての真理を表現なさってきました。それらの真理は豊富にあり、神様の義、威厳、そして犯すことのできない性質を私たちにあらわすとともに、私たちのサタン的な本性と、神様に抵抗することの本性と実質をも露わにしています。それらは信仰に対する私たちの誤った見方や、神様に関する私たちの観念と想像を裁いて暴きます。それらはまた、いかにして正直な人になるか、どのような奉仕が神様の御心にかなっているか、そしてありとあらゆる環境においてどのように神様に服従し、神様を愛すべきかを私たちに教えます。さらに、いかにして神様への真の畏れを成し遂げるか、どのように悪を避けるべきか、どのようにしてキリストにふさわしくなるべきかも教えます。神様の御言葉を読んで神様の働きを経験することで、また私たちが現実と向き合う中で露わにされることを通じて、傲慢で、自己中心的で、卑劣で、邪で、不正直であるという、私たちのサタン的な堕落した性質がとても根深いものであり、私たちが何をしようとも常に自分自身の動機と目標を持っていることがわかります。私たちの働きや説教でさえ、それは名声と地位のためなのです。人が自分を見上げるよう、他人の前でいつも自分を誇示しています。それは神様を高く掲げることでも神様の証しをすることでもまったくありません。神様の働きが自分の観念と一致しないとき、私たちは神様を規定して裁きます。神様への真の服従がまったく欠けているのです。また自分の本分を尽くす中で肉の快適さを切望し、しばしばごまかしたり神様を騙したりします。私たちには神様への忠実さがまったく足りません。そのとき初めて、サタンが私たちをいかに深く堕落させてきたかや、私たちに良心や理知や人格や尊厳がまったく欠けていること、人間と呼ばれるにふさわしくないことがわかるのです。そして自分の堕落した性質を憎み始め、進んで肉を捨てて神様の御言葉を実践に移すようにもなります。私たちは神様の裁きと刑罰を経ることで、神様が正直な人や真理を実践に移す人を好まれる一方、不正直な人や、真理を十分認識しながら神様への反抗と抵抗を続け、自分の堕落した性質に頼る人を嫌悪なさり、憎まれることを知るようになります。私たちは神様の御心とご要求を理解し、神様の義なる性質について本物の認識を得るようになります。私たちの神様への畏れは徐々に増え、私たちに対する神様の裁きと刑罰が神様の愛にして救いであることを知ります。このように経験し続けることで、私たちは肉を捨てて神様の御言葉をよりいっそう実践し、サタン的な堕落した性質が徐々に消えていきます。そうして正直な人らしさを生き始めます。これはすべて神様の裁きと刑罰の果実なのです。

 彼女の交わりを聞いた私は、終わりの日における神様の裁きの働きが本当に信じられないほど実践的で、人を真に変えて清めることができると感じ、自分の天国の夢がついに実現する希望を得たように思いました。また人類をお救いになる神様の熱心な意図も感じました。私はとても感動して、全能神の御言葉をもっと読み、神様の裁きの働きを知るようになることを楽しみにしました。

 リリー姉妹はその後の交わりで、神様の受肉の奥義、サタンがいかにして人類を堕落させるか、神様がいかにして人類を一歩一歩お救いになるか、聖書の内幕、そして人類の将来的な終着点と結末といった真理についての交わりを、さらに私にしてくれました。それらはいずれも、二十年以上にわたる信仰の中で以前に聞いたことがないものばかりでした。全能神の御言葉を読めば読むほど、それが神様の御声であることを心の中で確信するようになりました。肉となられた神様だけが、このような権威と力を持つ御言葉を表現なさることが可能だからです。神様を除いて、いったい誰がサタンによる私たちの堕落の真相を暴くことができるでしょう。誰が私たちの信仰における過ちを指摘して正しい信仰の道に導くことができるでしょう。そして誰が神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をあらわし、私たちの将来的な結末と終着点がどのようなものであるかを伝えられるでしょう。神様だけが私たちをサタンの力からお救いになって罪の束縛から逃れられるようにしてくださり、清められて完全な救いを獲得する道を私たちに指し示すことがおできになります。そして神様だけが最後の美しい終着点へと私たちを連れて行くことがおできになります。全能神はお戻りになった主であり、終わりの日におけるキリストの御姿なのだと、私は心から確信しました。そして終わりの日の全能神の働きを大いに喜んで受け入れました。

 私を選んでくださったことについて神様に感謝いたします。終わりの日における神様の御言葉を聞き、裁きの働きを受け入れ、自分の天国の夢がかなう機会を持てるほど、私は幸運なのです。私は真理と性質の変化を熱心に追い求め、神様の大いなる愛に報いることができるよう、神様の御心を実践する人にならなければなりません。


カトリック教徒の信仰:私の天国の夢を実現させる望みがついに生まれた(I)

2020-05-29 20:42:59 | 賛美の心

寄稿家:シェイラ

天国の夢の種を植える

 私はカトリックの家庭に生まれ、幼いころに祖母が祈り方やカトリックの儀式の守り方を教えてくれました。15歳のときには善行をするとか他人を愛するとかいったカトリックの教義を実践し始め、教会のありとあらゆる儀式に参加していました。神父はよく、これらの教義を身につけることでのみ神様の真の信者になることができ、神様がおいでになったとき天国へ引き上げられると言っていました。だから私は、神様に愛される人になり、神様の祝福を得て天国へ引き上げられるよう、絶対に教会の儀式を守り、積極的に教会の活動に参加しなければならないと、しょっちゅう自分に言い聞かせていました。

罪の束縛から逃げられないなら、天国に入ることはできるのか

 大学に通っていたとき、教会の友人が集会に参加しているときはいつも敬虔そのものに見えながら、日常生活では喫煙や飲酒をしたり、狂気じみたパーティーを開いたりするなど、神様に背くことをたびたびしているのに気づきました。私はショックと反感を覚えてこう考えました。「私たちは心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして自分たちの神様を愛し、この世の喜びや試練や誘惑から離れなければならないと、主イエスは私たちにお教えになったわ。教会の友だちは表面上は神様を信じているように見えるけど、実際には神様のために働くことをまったく気に留めていない。それどころか、この世のものを欲しがったり、世俗的な快楽を求めたりしている有様だわ。それは主の教えを破ることじゃないかしら。私はあの人たちのようにはなれない。自分自身を費やすことと神様のために働くことに集中しなければいけないわ」こうした理由から、教会の友だちよりも私のほうが神様を愛していると思っていました。

 しかし、自分の霊の状態も神様のご要求を満たせないことがわかりました。教会ではすべての活動に積極的に参加し、熱心に働いていたものの、日常生活で神様の戒めを守ることができなかったのです。例えば、私がありとあらゆる困難や不運に直面している一方で、肉の喜びを追い求めている教会の友だちが幸せそうで自由に見えるとき、主を責めずにはいられませんでした。間違いを犯して家族に叱られたときはいつも自己弁護や言い逃れをして、叱られたことに腹を立てていました。ときには母親からこう叱責されることもありました。「神様は私たちに謙虚になって人を赦すようお教えになっているのに、あなたは神様の御言葉を守っていないわ」母親の言葉は平手打ちのようでした。自分が実際には神様の御言葉に従っておらず、強い自責の念を感じていること、そして自分が名前だけの信者に過ぎないことに気づきました。私はこう考えざるを得ませんでした。「どうして私は罪に打ち勝つことができないの。罪を犯したあとは必ず神父に告白して、その償いをするため多くの善行をしているのに、その後はまた同じ罪を犯してしまう。こんな信仰で本当に主の祝福を得られるかしら」しかし今度は、神父が私たちに教えたことを思い出しました。「罪を犯したあとで神父に告白すれば、私たちの罪は赦されます。自分自身を費やして神様のために働き、多くの善行をする限り、主のご慈悲と祝福を再び獲得できるのです。聖書にもこう記されています。『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……』(テモテへの第二の手紙4:7-8)」するといくらか慰められるのを感じました。頻繁に告白しに行って、神様のために働いて自分を費やし続ける限り、天国に入れる望みはまだ残っている。そこで私は忙しく善行を続け、一生懸命働いたり犠牲を払ったりしました。

カトリック教徒の信仰, 私の天国の夢を実現させる望みがついに生まれた

フェイスブックの投稿が考える糧を私にもたらす

 2017年のある日、私はその日の更新を確かめようとフェイスブックを立ち上げ、いつものようにスクロールしました。するとベティーという名の姉妹がこんな投稿をしていました。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない……『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)これらの言葉は本当に新鮮で、すぐに私の心を掴みました。以前にこうした話を聞いたことは一度もなく、特に最後のいくつかの文章はそれまでまったく考えたことのないものでした。私はこう考えました。「素晴らしい言葉だわ。誰が言ったのかしら。信仰の意義と神様を信じることの目的をこんな短い文章であらわすなんて」私はそれらの言葉をじっくり噛みしめ、初めて心を静めながら自分の信仰について考えました。カトリック教徒として何年もずっと、教会が組織するありとあらゆる活動や儀式にたびたび参加し、教会のために積極的に働き、地域社会で善行をし、少しの苦痛を受けて少額の代価を払ったにもかかわらず、実際には自分と家族が神様に祝福され守られるようにそのすべてを行なっていたことを思い出しました。さらに、それは将来自分が天国へ入れるようにするためでした。そのように追い求めるのが正しくて、そうした信仰が神様に認められて祝福と承認を得るのだと、私はいつも考えていました。しかしこの文章を読んだあと、神様を信じることの意義はとても奥深く、天国の祝福を得るのと引き換えに一生懸命働き、物事を捨て、自分自身を費やしても、それは真に神様を愛することではないとかすかに感じ始めました。そのような信仰がどうして神様の承認を得られるでしょうか。それは私の心を目覚めさせるモーニングコールのようなもので、自分自身の天国の夢について疑いを膨らませずにはいられませんでした。しかしそのとき、自分が信者だった二十数年間のことを思い出しました。自分は教会のために働くことにずっとこだわってきたけれど、自分の苦難と支払った代価は実はすべて無駄だったのでしょうか。

 ベティー姉妹の投稿をじっくり考えれば考えるほど、彼女がこのような話をさらに投稿して私の心の中の疑いを解消してくれるよう願いました。そこで彼女にチャットのリクエストを送信して親しい関係を築こうと決心しました。彼女はすぐに返信してくれただけでなく、リリー姉妹を紹介してオンラインで集まりを持ちましょうと言ってくれました。私は大喜びしてそれに賛成しました。

一生懸命働くことと天国に入ることの関係を理解する

 私たちは集まっているあいだ、まずそれぞれの信仰経験を打ち明けました。そして私は、ベティーの投稿を読んで感じたことを話しました。「あのお話しは本当に素晴らしくて、とても実際的でした。自分の神様への信仰は単に祝福を得るためで、神様への真の愛から生まれたものではないと気づきました。でもまだ少し混乱しています。聖書に『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……』と書かれているからです。それに神父も、神様のために働いて自分自身を費やし、多くの善行をし続ける限り、将来神様に祝福されて天国に入ると、よく私たちに語っています。私は信者として何年ものあいだずっと、一生懸命働き、自分が持っているものを与えることにこだわってきました。そのどれも神様に褒められないなんてあり得るでしょうか」

 するとリリー姉妹がこう言いました。「神様への真の愛からではなく、祝福を得るために神様を信じていると認識することは、私たちにとって本当に難しいことです。これは神様の啓きとお導きです。神様、感謝いたします。どのような人が本当に天国へ入れるかについての真理を私たちは完全には理解していませんが、そのせいでそうした混乱が生じるのです。実際多くの信者が、自分たちは頻繁に罪を犯して神様の教えを守れないでいるけれど、神父に告白して多くの善行をし、働き、物事を捨て、神様のために費やし続ける限り、自分たちは神様に受け入れられると考えています。そして神様がおいでになるとき、自分たちは天国に入るというのです。しかしこの見方は正しいでしょうか。神様の御言葉の中にその根拠はあるでしょうか。聖書を読めば、ヤーウェも主イエスも、それに聖霊もそのようなことをおっしゃらなかったことは簡単に突き止められます。それはテモテの言葉です。つまり人間の言葉であって個人の意見をあらわしているに過ぎません。聖書のうち神様の御言葉である部分、すなわち真理である部分は、ヤーウェがお語りになった御言葉、ヤーウェが預言者を通じてお語りになった御言葉、そして主イエスによる御言葉だけです。弟子や使徒の言葉は真理ではなく、それらは聖書に記されているものの、単に人間の言葉であって、彼らの個人的な経験や神様の御言葉についての認識、そして彼ら自身の見方をあらわしているに過ぎません。それらはたとえ聖霊の啓きを含んでいるとしても、神様の御言葉と呼ばれることはできません。そのため、天国に入るといった重要なことについては神様の御言葉に従う必要があるのです。人間の言葉に従って行動するなら、きっと主の道から外れてしまいます。

 「では、どのような人が実際に天国へ入れるのでしょうか。主はとてもはっきりと私たちにお語りになりました。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)人が天国に入る基準を満たしているかどうかを神様がお量りになるとき、それはその人がどのくらい捨てたり自分を費やしたりしたかではなく、天にいます父の御心を行なったかどうかによります。つまり、天国に入る人は罪を振り払って清めを成し遂げ、神様の道に付き従い、神様に服従し、愛し、崇拝することができる人でなくてはなりません。たとえ一生懸命働き、物事を捨て、自分自身をたくさん費やしても、神様の御言葉に従わず、頻繁に罪を犯して神様に抵抗するなら、私たちは悪事をなす者であって天国に入ることはできません。主に抵抗したユダヤのパリサイ人がまさにそれです。彼らはいつも神殿にいて神様に仕え、ヤーウェの福音を広めながら地の果てまで旅しました。人々から見て、彼らは一生懸命働き、多くのものを捨て、自分の持ち物を何でも与えるなど、神様の承認に最もふさわしいはずでした。しかし神様は彼らを偽善者として断罪なさり、お呪いになり、彼らはまむしの同類にして地獄の子らだとおっしゃいました。パリサイ人がそのような結末を迎えたのは、彼らの懸命な働きにかかわらず、それと引き換えに神様の祝福がもたらされるよう裏で取引を行なっていたというのが主な理由です。それは特に自分の地位と暮らしを守るためでした。パリサイ人は本質的に傲慢であり、神様への畏れを欠いていました。説教の中で神様を高く掲げたり証しをしたりせず、代わりにいつも自分たちを誇示し、表面的な善い振る舞いによって信者の目をくらませていました。彼らは信者を自分たちの前に連れてきて、神様ではなく自分たちを崇め、見上げ、従うようにさせました。主イエスが働きをなさっていたとき、パリサイ人は地位と暮らしを守るべく主の明らかな敵となり、狂ったように主イエスを断罪し、冒涜しました。信者が主イエスに従うのを防ごうと力の及ぶあらゆることをし、最終的にはローマ帝国と手を結んで主を十字架につけさえしました。これは神様の性質に深く背くことであり、神様からの懲罰を彼らにもたらしました。このことは、たとえ一生懸命働いたり何かを捨てたりできたとしても、その人が神様の御心に従う人だというわけではないことを証明しています。自分の罪を清められなければ、たとえ犠牲を払ったり自分を費やしたりしても、いまだに悪事をなして神様に抵抗するかもしれません。それを私たち自身に当てはめれば、表面上は一生懸命働いているように見えて善きサマリア人であることに幸せを感じ、兄弟姉妹を助けたり支えたりしていても、その目的は祝福されて天国に入ることなのだとわかります。神様が祝福してくださるとき、私たちは感謝を捧げて神様を讃えますが、困難や災難に出会うと神様を誤解して非難し、あるいは裏切りさえします。私たちは大げさに働いたり説教したりして、自分がいかに苦しんできたかや、いかに多くの働きをしてきたかの証しをし、それによって他の信者が自分たちを認め、見上げ、崇拝するようにします。それは神様の愛に報いることでも、他の信者が神様の御心とご要求を認識できるようにすることでもなく、名声と地位を求めることです。私たちは生活の中で望ましくない人や出来事や物事に遭遇したとき、腹を立てて神様の御言葉に従うことができなくなります。それだけではありません。このことから、私たちが一生懸命働いたり、犠牲を払ったり、努力したりすることは神様を愛するためでも神様に満足していただくためでもなく、自分の野心や欲望を満足させるべく神様を利用して欺く単なる取引に過ぎないことがわかります。絶えず罪の中で暮らしている私たちのような人間が、天にいます父の御心に従う人だとどうして考えられるでしょう。神様は聖なる方であり、完全に罪の束縛を振り払って清めを成し遂げるよう、私たちに求めておられます。それが神様の御顔を見られるようになる唯一の道です。しかしいま、私たちは汚れで満ちています。ならば、どうして私たちが神様によって天国へと導き入れられるでしょう。罪深さを振り払って神様の御心に従う人になることでのみ、私たちは神様の承認を得て天国へ入るのにふさわしくなれるのです」

 この話を聞きながら私は考えました。「本当だわ。たくさん働いたり苦しみを受けたりする人が天国に入れるなんて神様は一言もおっしゃらなかった。その代わりに、天にいます父の御心に従う人だけが入るとおっしゃったわ。私たちは何年もずっとテモテの言葉にしがみついていたけれど、実はずっと間違っていた。そしてそれは神様がお求めになることと真逆のことなのよ。過去の年月を振り返ってみると、私は教会でせっせと働いて多くの善行をしてきたけれど、それはすべて祝福を受けて天国に入れるようにするためだった。単に神様と取引していただけで、神様を愛し神様に満足していただくためではなかった。しかも、逆境に遭遇すればいまだに神様を責めるし、間違ったことをすれば自分のために言い争ったり嘘をついたりするわ。それに告白したあとですら頻繁に罪を犯し続けている。私がどうして神様の御心に従う人だと考えられるかしら」そこまで考えたとき、私はリリー姉妹に言いました。「私は一生懸命働くことで天国への切符をもらえるとずっと考えていました。しかしこれらの聖句に関する今日の交わりを通じて、そのような信仰は神様の御心と一致していないことに気づきました。それに、罪を振り払って清められ、神様の御心を守れるようになる人だけが天国に入れることもわかるようになりました。しかし、私は罪に縛られたままで、どうすればそれから逃れて清められるかがわかりません。もっと私と交わりをしてくれませんか」


子供の教育ー神の御言葉は正しい選択をするように導いてくださりました

2020-05-28 22:28:50 | 賛美の心

 私は貧乏な家庭に生まれました。私が幼かった頃から私の両親は私の弟と私に対して私たちは一生懸命勉強すべきであり、良い大学に入ってのみ明るい将来と良い生活環境を手にすることができると言っていました。将来幸せな生活を送りかった私は出来る限り一生懸命に勉強し、 頻繁に夜遅くまで勉強しました。しかし、自分がまさか大学入試に失敗するとは思ってもいませんでした。そして私は平凡な短大に通うことを余儀なくされました。私たちの短大は海外で1年間インターンとして働くことを必須としていたので、私は2016年9月にインターンとして日本に行きました。私が4年制大学に入る夢は打ち砕かれてしまったので、私の両親と私は望みを全て弟に託しました。弟がより良い環境で生活できるようにと、私の両親は地元の外で働きました。

 ある日の夜遅く、私は帰宅するとWeChatから母がビデオチャットをしたがっているというリマインダーを受けました。私たちがチャットを始めると、母は心配そうにこう言いました:「あなたの弟のことなんだけどね。あの子は勉強に怠けて、学校の成績がかなり落ちてるのよ。こっそり携帯電話で遊んでるんじゃないかと思うのよ。」実は、私は頻繁に仕事の後に弟とWeChatでチャットしていたので、弟が携帯電話に夢中になっていることは私の中では明らかでした。それでも、私はこう言って母を安心させました:心配しないで。勉強のストレスがいっぱい溜まってるに違いないわ。きっちりとストレスを解消することは良いことだわ。」母は私のアドバイスには耳を傾けず、父に実家に戻って弟が勉強する間は側にいるようせき立てました。母はこうしないと気になって仕方なかったのです。

 弟が学校に通う間、彼と同居して彼の面倒を見ていた父は、弟が書いたラブレターを発見して弟に好きな女の子がいたことを知りました。そして、父はこのラブレターを母に送りました。私の母はこれを見た後、直ぐにがっかりしてどうしていいのから分からず私に又電話をしてきました。私はこの知らせを聞いた時、怒りで震えながらこう考えました:「弟は私よりも賢くて、将来大学に入れるって皆が信じている。有名な高校に入学してるからもう大学に半分入ったようなものなのに。でもやることやらずに恋しているなんて。これは本当に心配だわ。しかも、良い大学に入らずにどうやって良い仕事を見つけるっていうの?良い仕事に就かずに幸せな生活ができるのかしら?」

 その当時、私は毎日このことを心配しました。後に、私がこのことをある姉妹に話すと、この姉妹は神の御言葉の次の2節を送ってくれました:「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」「大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しの所で逃してしまい、その後の成功運は失われたように思われ⋯能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」

 私は常に良い大学に入ってのみ良い仕事に就いて幸せな生活を送れるものだと思っていました。しかし、神の御言葉は、人が就く職やどれだけの富を手にするかはその人の努力や野心によるものではなく、かなり前から創造主によって運命づけられていると知らせてくれました。神の御言葉に照らし合わせていると、私は自分の村にいた大学生で、現在未だには農作業をしている人がいたのを思い出しました。実生活において、同じようなことが他にも沢山あります。高学歴を持っている人が、沢山挫折した後でも未だに満足のいく仕事に就けないこともあります。大学に行かずにビジネスで成功を収める人たちもいます。正に、私たちが良い仕事に就けるかどうかは私たちの学歴、努力、または野心によるものではなく、むしろ神の主権と神が定められた宿命によって定めされているのです。私たちの運命は神の御手にあるのです。私たちが自分のためにどれだけ駆けずり回って努力しても、神の主権を超えられる人などいないのです。過去を振り返ってみると、私は大学に入るために多くの代償を払いましたが、結局失敗に終わっています。同様に、私の弟が良い大学に入れるかどうか、そして良い仕事に就けるかどうかも全て神の御手にあります。弟は最善を尽くしてさえいればよいのです。私はこれと落ち着いて向き合うべきなのです。私はこの全てを理解した後、とても解放された気分になりました。

 しかし、その数日後、弟のありさまを受けて、私の母も自宅に帰ってしまいました。後に、母は弟が恋をしているだけでなく、ゲームで遊ぶことに夢中になっており、彼らが弟にゲームをさせないようにしたら怒りっぽくなったとまで私に言いました⋯母が期待外れの弟に対する憤慨を次から次へと吐露するのを聞いていると、私は弟が最近私とチャットをしようとしないで、自分の落胆した気持に関する様々なメッセージをOzoneに投稿をしていたことを思い出しました。このような状況の中、私はどうしていいのか分かりませんでした。この2日後、私は母から次の内容を知りました:「私の両親は弟の状態について話をしていると泣せずにいられませんでした。意外にも、弟は偶然これを目撃してしまい、突然猛烈に怒り出し、どうして彼に圧力をかけるのかと彼らに問いただしたのです。彼はそれまでずっと一生懸命に勉強し、ゲームで遊ぶ時間も減らしたのに、それ以上どうして欲しいのか分からないと言いました。弟は母をせかしてそこから追い出したのです。私はこの話を聞いていると、弟がとても大人げなく思えました。私の両親がしたことは全て弟のためであったのに。私はもうこれ以上我慢できなくなり、弟に文句を言おうと思い電話をしました。私の言ったことを聞いた弟は感情的になってこう言いました:「その通りだよ!僕は皆からしたらろくでなしだよ。僕は悪い子なんだよ!僕は死ぬまで必至になって勉強し続けるべきだと思ってるんだろ?もう海外から戻ってきても僕には二度と会いに来ないでくれ!ここには来ないでくれ!」

 弟の言ったことを聞いた私は呆気にとられました⋯私は弟がどうしてこんな風になってしまったのか分かりませんでした。その後、私は弟のQzoneに、「僕は生きて行きたくない」、と書かれていたのを目にしました。ちょうどその時、母から電話があって、弟をもっときつく叱るよう私に言ってきましたが、私はそれを拒否しました。私はそんなことをしたら、弟が何らかの自傷行為に走るかもしれないと感じたからです。そして、その時、私はこう考えました:「どうして私たちは皆して弟が大学に行くことを期待しているのかしら?実際、最終的な目標は弟が将来豊かで幸せな生活を送ること以外の何でもないのに。でも、4年制大学に入学して、明るい将来と良い結果を得て、物質的に豊かになったとしても、弟は本当に幸せになるのかしら?」これについて神はこう仰っておられます:「初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である…人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解消されるのである。」 神の御言葉を読み、私は次のような理解に至りました;「私たちが必要なのは、知識、地位、または物質的な喜びではなく、むしろ神からいただくお救い、そして真理といのちなのです。私たちは神に創造されたので、神のみが私たちの精神的必要を満たすことがおできになるのです。私たちは神から離れてしまうと、物質的にどれだけの物を手にしても、心の中では依然として虚しさを感じるでしょう。私は以前インターネットで読んだ次のようなレポートを思い出しました:「とても快適な暮らしをしていながらも虚しさを感じていた億万長者の孫は刺激を求めてドラッグレースに参加しましたが、最終的には命を落としてしまったのです。他にも沢山の有名人に関するものがありました。彼らは皆、欲しいものを全て手にしていますが、それでも空虚感から抜け出すことができず、そして麻薬を吸うことを選びました。実に、私たちは富みを手にすると、物質的な面で欠くことはありませんし、肉の快楽も楽しむことはできますが、私たちの心の虚しさを埋めることができる人はいないのです。これ故に、多くの人々が興奮を求めますが、結果的に彼らのいのちが損なわれてしまうのです。実生活において、類似する出来事は稀ではありません。この全てより、物質的な満足感がもたらすものは真の幸せとは程遠いものばかりであることは明らかです。

 私は自分のことについてこう考えました:「過去、私は4年制大学に入る夢に向かって熱心に勉強し、多くの知識を修得しましたが、言葉で表せないほど頭を悩ませ、魂は虚しく感じました。私は何年も苦しい思いをして一体何を手にしたのでしょう?それは苦しみ以外の何でもありませんでした。今私は神を信じるようになりました。神の御言葉を毎日読み、兄弟姉妹たちと集会を開くことで、私は神の主権といのちの意義をある程度は得ることができるようになり、心の中で大きな満足感を味わっています。この全てはお金で購入できるものではありません。こう考えた時、私はやっと次の理解に至りました;「他人よりも際立つこと、そして名誉と富を手にすることは、私たちに幸せをもたらすことはできません。人は神に前に行き、神の御言葉の備えを受け、そして神を礼拝する時に限って心で真の幸せを感じることができるのです。」これらを理解した後、私は後で自分の弟に福音を伝導して、弟を神の前に導く決意をしました。

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 その後、私は弟に胸中を明かすことにしました。弟はオフライン中でしたが、私はそれでも勇気を出して弟に謝り、今後は無理やり勉強させたりしないし、何か困ったことがあれば私とチャットすればいいと伝えました。このメッセージを送信した後、私は弟が返事をくれないのではないかと心配になりとても緊張しました。意外にも、私は翌日弟から返事を受け、弟は気にしていないと言ってくれました。私はこの短いメッセージを何度も読み返して、言葉で言い表せないほど嬉しくなりました。

 その後、私の叔母から電話があり、彼女は中国に戻ったら私の弟が良い大学に入って明るい将来を手にできるようにちゃんと勉強をさせると言いました。これを聞いた私は笑みを浮かべて、弟の学校の成績は彼の将来性には関係なく、まして彼の将来の幸せとはもっと関係がないと彼女に伝えました。弟は自分の道を進むべきで、私たちは事を自然の成り行きに任せるべきなのです。私の叔母はこれを聞いてとても驚いていましたが、私の考えに賛成だと言ってくれました。そして、私の弟は次第に元気を取り戻し、自分から私とチャットしてくれるようになりました。ある時、私はQzoneに弟が投稿したこのコメントを目にしました:「自分の悪い所を家族に見せて、他人に優しくする。」私がこの言葉を読んだ時、心の中に感動の波がこみ上げてきました。神様ありがとうございます!神の御言葉による御指導がなければ、私は両親のように、依然として弟に無理やり勉強させ、弟はそのうち私たちからの2重のプレッシャーの中で挫折していたことでしょう。私はこういう自分を完全に手放すことができたことを神に心から感謝しました。私は神の御言葉の御指導のおかげで正しい選択をすることができたのです。


神様の恵みにより私は金銭に優る富を持っています

2020-05-28 00:29:41 | 賛美の心

シュン・シン(タイ)

 編集者注 もしあなたの近くに裕福になりたいけれども上手くいかずに苦しんでいる人がいたならば、その人が苦しみから逃れられるためには、どのように助けるべきでしょうか。ここに書かれているのは、まさにそのように苦しんだシュン・シンの経験です。彼女は今では金銭的損得を冷静に考えることができるようになり、金銭以上に価値のある富を見出しました。彼女はどのように苦しみから脱出したのでしょうか。そして、金銭より価値のある富とはなんでしょうか。彼女の物語にその答えを見出しましょう。

神様の恵み,金銭

 

裕福になろうとあがき続ける

 子どもの頃に貧しさゆえに惨めで辛い経験をした私は、一生懸命勉強して将来はお金持ちになり贅沢な生活をし、周りの人達に称賛され尊敬されるようになろうと決心しました。十年以上の辛い勉強の末にやっと入学できたのは三流の大学でしたが、それでも落胆はしませんでした。一生懸命働けば、裕福になれると信じていたからです。

 大学卒業後、私は英語教師の仕事に就きました。二年間働いてきた同僚の給料がほんの二千元余りと聞いた私は、きっぱりと退職しました。その後、販売の仕事に就くために上海と青島の訓練学校に行きました。毎日朝から晩まで電話で営業活動をし、懸命に努力した結果、私の月収は一万元近くにまでなりました。もっと業績を上げようと思っていたちょうどその時、学校のリーダーシップが変わり、理由もなく私はクビになりました。仕事を辞めたくはありませんでしたが、残念に思いながら職場を去るしかありませんでした。

カナダ移住後、再び金銭欲が湧く

 結婚後、私は夫とともにカナダに移住し起業しました。当時妊娠中だった私は、働くことができなかったため、教会の礼拝に出席しました。初めて教会を訪れた時、牧師が私を大歓迎してくれましたが、私が裕福ではないと知ると、私を無視し、裕福な人達ばかりを歓迎し、その人達にへつらいました。牧師の態度を見て、私はますますお金の重要さを確信しました。誰もがお金第一の今の時代、お金さえあれば何でも手に入れることができる。そしてお金がなければ、どこに行っても見下される。だから私はもっと稼いで、私を見下げる人を見返そうと再度決心したのです。

 長男を出産後、私は収入を得るために働き始めました。どんなに大変な仕事も厭いませんでした。その後再び妊娠し、その頃の私は身体的にとても弱っていました。それにもかかわらず、もっと収入を増やそうと、産後1ヶ月で友人と輸入代行業を始めました。私は商品の知識を増やそうと一日中ケータイを見ていました。授乳中も販売スキルやネットでのプロモーション方法などを調査しました。毎日長時間ケータイを見続け、夜遅くまで作業したせいで、目があまりにも痛くなり、目を開けることすらできず、背中も凝って痛みました。それでもお金を稼ぐためにはやめる訳にはいかず、ベッドに横になったまま仕事をしました。仕事ばかりになってしまった私には、子育てのための余力はありませんでした。ある時、長男は私の手からケータイを奪うと地面にたたきつけ、一日中ケータイを見ているだけで少しも自分達のことを構ってくれないと言って怒りました。それでも私は申し訳ないとは思いませんでした。良い生活を提供してやれないのなら、子供と一緒に過ごす意味がないと思ったからです。お金が全ての世の中に住んでいるのだから、たとえお金が全てを叶えてくれる訳ではないにしても、お金なしでは何もできないのです。より良い生活を楽しみ、周りの人達に尊敬され称賛されて堂々と生きていくにはお金以外にはないのです。子供達のことがどんどんおろそかになっていることが分かり、このことで苦しく感じたものの、相変わらず輸入業務に没頭しました。

 その後私は、更に収入を増やそうと、直販の仕事をパートタイムでしました。しばらく熱心に働くと、ある程度の収入になり喜びました。人と話すときには以前より声が大きくなり、両親に送金する自分を誇らしく思いました。お金を持っているのはいい気持ちでした。更に成績が良く、何万という月収を得て贅沢で良い暮らしをしているアップラインの人たちを見ては、自分も更にダウンラインを増やせば、そのうちあの人たちのようになれると思いました。けれども事は私が思うようには進みませんでした。一年かけてダウンラインを十人育成しましたが、誰も私と一緒に働きたくなかったため、私は振り出しに戻らざるを得ませんでした。それは私にとってとても悔しい挫折でした。その一年間一日中働いてダウンラインを訓練したのに、なぜそんな結果になったのでしょうか。

救いが訪れても無視

 そのとき、終わりの日の神の福音が私に伝えられたのです。お金を稼ぐことにばかりあくせくし、惨めな生活になっていた私を見た兄弟姉妹たちが、私にこのように話してくれました。「私たちが人生で持つ富は神様によって前もって決められていて、自分の努力で変えられるものではないのです。主イエスは言われました。『何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。』(マタイによる福音書6章25-26節) 神様は私たちを創られ、息を吹き込まれ、神様の配慮と守りの下で生きるために必要なものは全て与えて下さいます。私たちが将来を思い煩ったり心配したりする必要はないのです。普通に働いていれば、十分な衣類も食料も手に入ります。私たちは皆、お金もうけのことだけを考え、残業したり時間外に働いたりして、結果的に神様に近づく機会、集会で神様の声を聞く機会を逃し、疲れ切った体で倒れてしまう人がいるのを見ています。神様は私たちが手に入るだけの衣類と食べ物で満足するよう願われますが、サタンは私たちを堕落させようとします。私たちの心をお金で支配させ、どこまでもお金を稼ぎたくなるようにし、飽くなき欲求をあおります。これはサタンの策略以外の何ものでもありません。自分の飽くなき欲求を捨てて神様のご計画と采配に従って初めて、私たちは安らぎと解放を得ることが出来るのです」兄弟姉妹のこの言葉を聞いて思いました。「あなた方の言うことには知恵があるけど、お金が全ての今の世の中でそのような考えでいれば、昔のような惨めな生活をするしかなくなるんじゃない?いや、私にはやっぱりもっとお金が必要よ。」こうして私は、終わりの日の神の福音を受け入れはしたものの、相変わらず直販の仕事に全力を注ぎました。朝起きるとまず広告を配信したり、顧客のメールに返信したりという生活でした。霊的な成長のために費やす時間は全くありませんでした。祈る度に、自分達夫婦を大きな富で祝福してくださいと神様にたのみました。これが私の神様への信仰の有り様で、集会中にこっそりと直販の広告を掲示するほどでした。

神様の御言葉が明らかにするサタンの策略

 私の状況を知った兄弟姉妹は、ある集会で神様の御言葉を私に見せてくれました。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。多くの人が、自らの本分を尽くして神に従う機会を、金のせいで失っていませんか。これは人にとって損失ではありませんか。(損失です。)この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。」(「唯一無二の神自身5」より)

 神様の言葉を読んだ後、ある姉妹が言いました。「かつて私は、どうして全人類がお金を崇拝し、時間もエネルギーも全て注いでお金を稼ごうとするのか、身体を壊してまでやり続けるのか、お金のことで争い合い、騙し合い、激しくぶつかり合い、殺し合いまでしてしまうのか分かりませんでした。けれども神様の御言葉を読んで、お金はサタンが人間を堕落させて害を与えるための策略なのだと知りました。サタンはこの世をあらゆる無神論の学説や偉人や有名人の書籍や物語で溢れさせ、『金が全てではないが、金がなければ何もできない』、『先立つものは金』、『誰であれ金をくれる人には逆らえない』といった観念を吹き込んで、私たちに人生でお金は何より大事だと思わせ、お金さえあれば何でも手に入ると思わせ、周りの称賛を得て何でも好きなことができ、成功すると思わせるのです。そしてお金がなければ周りから軽視され、見下され、社会に居場所がなくなると考えさせます。このような間違った考えを受け付けられた私たちは、時間もエネルギーも全てお金のために注ぎ、他のことは全てそっちのけで、健康すら犠牲にしてお金を稼ごうとし、お金の奴隷になってしまうのです。神様の救いを受け入れても、尚も際限なくお金を追い求め、真理を求めたり神様を礼拝することには興味をもたず、神様の被造物としての本分を果たすことはできず、神様の加護や守りからは遠く離れてサタンの支配下で生きるのです……」

 その姉妹の言葉は私の心にストレートに響きました。お金を崇拝するこの社会で尊厳をもって生き、人から尊敬され、自分の言葉に耳を傾け尊敬させるには富が必要だと私は常に信じてきたので、大きな富を求めることは正しいと思ってきました。学校を卒業してからは色々な仕事をし、収入になるならばどんなに難しいことも粘り強くやり抜きました。息子が生まれてからは、自分の弱い身体を気にせずベッドの上で輸入の仕事を続けました。お金を稼ぐためにほぼ全ての時間とエネルギーを仕事に費やし、それが原因で私と子供達のあいだには距離が生まれ、時には子供たちが私を無視するほどになっていました。神様の救いが訪れた時、それを大切にせず、兄弟姉妹が神様の御心を語ってくれても、私のお金に対する欲望は全く変わりませんでした。集会中に直販のメッセージを送ったり、祈りの中でさえも、もっとお金儲けさせてくださいと神様にお願いしていました。私はお金を稼ぐことは正しいといつも思っていましたが、神様の御言葉を読んでから、そのような考えや観念はサタンから来るのであり、サタンがそれを使って人々に害を加えて堕落させようとしているのだと知りました。サタンはそのような観念を私たちに吹き込むのは、サタンは私たちにお金や贅沢な暮らしを求めて虚栄心を満足させるためにいつも忙しくなるように仕向けたいからです。私たちがエネルギーを使い果たして神様の配慮と守りから遠ざかるようにさせ、私たちを支配し害を加え、お金のために私たちが命さえ落とすことをサタンは願っているのです。これまで自分がどれだけお金のために働いてきたか、どうして若いうちに目を痛め、背中を慢性的に痛め、子供達からどんどん離れてしまったかを思いました。その全ての背後にある闇の力はサタンだったのではないでしょうか。

 姉妹はこうも言いました。「今の社会、貧しい人達は何とかお金を得るためにどんな事でもしよう、すべてを犠牲にしようとします。一方では、人の上に立つ人や裕福な人、有名人は、資産があり贅沢な生活を送っていても、心の中は空しく生きている人もいて、中には自殺してしまう人もいるのです。それを見れば、お金は一時的な安堵と楽しみを与えてくれるだけで、お金持ちの人達はどんどん堕落し、金遣いが荒く贅沢になり、そして一時の楽しみが過ぎれば空虚と苦痛しか残らないことがわかります。私たちが神様の前に出て潤され、御言葉を頂いて真理を理解しなければ、人類を堕落させるサタンの策略を見抜くことは決してできず、どこまでもお金に縛られ続け、最後にはサタンにもてあそばれて害を受けるだけなのです。」

 その姉妹の話を聞いて思いました。「その通りだ。神様は今日、真理を表されていて、人類を救う働きをされ、私たちがサタンの堕落と支配から完全に逃れて神様の配慮と守りを得るようになさっている。私が終わりの日の救いを受けるために選ばれたのは幸運だった。もし私が真理ではなくお金を追い続けるのならば、いつの日か裕福になったとしても、神様の救いの働きが終わるとき、それが何になるのだろう。大災害がやって来れば、全て無になってしまうのではないのか。イエス様が言われた通りだ。『人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。』(マルコによる福音書8章36節) それを理解した時、もうこれ以上お金ばかりを追い求めてサタンに惑わされたくありませんでした。直販の仕事では、ダウンラインを増やすためには全ての労力を費やさなくてはならないと考えていましたが、それでは子供達の世話をしたり集会に出席したり本分を尽くしたりする時間がありません。そこで直販の仕事は止めて、代行購入の仕事だけをする事にしました。それによって、時間にかなり余裕ができました。

神様の采配に従い、神様の祝福を見る

 それからしばらくして、私はパートナーのひとりに問題があることに気づきました。彼女は真面目に仕事をせず、よく顧客に間違った商品を送っていました。それが原因で、私たちの顧客サービスの成績が落ち続けました。問題解決しようとしても彼女は私を無視し、売り上げは落ちて行きました。どうすることもできず、私は彼女とそれ以上仕事を続けられないと判断し、仕方なく全顧客と5つ星のWeChatの店舗を手放しました。すでに顧客数は五~六千人に達していたので、続けていればそれまでにないほどの収入を得ることができ、衣食の心配などすることなく、誰もが私を見直したであろうことを考えると切ない思いがしました。でも止めなければなりませんでした。いずれにせよ良いパートナーを見つけることはできそうにないのですから。それはまるで砂地獄にはまってしまい、ズルズルと沈んでいき、抜け出せないかのようでした。どうすることもできない苦しみの中で、私はひたすら神様に祈り導きをお願いするしかありませんでした。

 私の状況を知ったある姉妹が、神様の御言葉を二節教えてくれました。 「ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」(「唯一無二の神自身 3」より) 「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」(「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より)

 これらの神様の御言葉を読んだ私は、とっさに理解しました。私は被造物に過ぎず、私の将来や運命、生活は全て神様の御手の中にあるのです。私がどう生計を立てていくか、生涯どれくらいの収入を得るのかは神様が予めお決めになっています。にも関わらず、神様がいかに全てを支配されご計画されるかを私は本当には理解していなかったため、全力で金銭を追い求め、金銭の損得を心配し、WeChatショップを諦めた時にはとても苦しくなり、将来どうして存続していけるのかと不安になるほどでした。私は不安と苦しみの中で生きていました。たとえ自分の将来がどうなるか分からなくても、神様が私に相応しいご計画を持っておられると信じ、勇気をもって将来を神様に委ねなければならないのです。その事が分かった私は、ずっと気持ちが楽になりました。私は自分の仕事、人生を神様に委ね、これから進むべき道を神様に導いていただきますと祈りました。

 その後、私は神様の御言葉を読む時間が増え、兄弟姉妹とともに集会に出席し、お互いの経験や理解を分かち合いました。子供達のことも神様に委ねました。毎日、子供達と御言葉を読み、讃美歌を歌っているうちに、子供達との関係も改善されました。更に私を驚かせたのは、私が仕事のパートナーと別れた後、主人の仕事が急速に上向きになったことです。神様のご計画が本当に素晴らしいことがわかり、私の心は神様への感謝でいっぱいになりました。

真理を理解して神様の御言葉によって生きることは私の最大の富

 その後、私は次の御言葉を読みました。「人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」(「唯一無二の神自身 3」より)神様の御言葉を読んだ私は、これまで自分が歩んで来た道を思い返してすすり泣きました。神様が全てを支配されていることを知らず、お金を稼いで裕福になることばかりを考え、結局自分も子供達も苦しんできました。もし神様が救って下さらなかったならば、お金の砂地獄にどこまでも深くはまり、お金しか見えなくなって神様から遠ざかるばかりで、最後にはサタンの餌食となっていたでしょう。神様は私を救って下さり、御言葉をもって私を導き、サタンの策略を打ち破るようにして下さいました。そして、お金を使って人々を神様の配慮と守りから引き離し、支配し害を与えようとするサタンの邪悪な意図がはっきりと見えるようにし、これから進むべき正しい道が見えるようにして下さいました。私は間違った追究を捨て、未来の人生を神様に委ね、神様のご計画と采配の全てに従いたいと思うようになりました。神様の御前に出て御言葉に従って生きて初めて、真の安らぎと解放を得て、心の平安と喜びを本当に感じることができるのだと心から思いました。

 今では、教会で本分を尽くし、神様の導きの下で生活しています。安らぎと平安、安心と解放を感じます。私は人生で最も価値のある富を得ました。それは、真理を理解し、神様の御言葉によって生き、創造主の愛と救いを得ることです。神様に感謝します!


奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(II)

2020-05-27 01:23:08 | 賛美の心

 ある日、小慧は突然吐き気を覚えました。悪いものを食べたせいでのぼせてしまったためではないかと思い、漢方薬を二種類処方してもらったのですが、それを飲んだあとも吐き気はひどくなるばかりでした。そのとき初めて、小慧はこう考えました。私は妊娠しているのではないか。しかし、次にこう思いました。「そんなことがどうしてあり得るの。二年間も不妊治療を受けて結局だめだったし、どうして妊娠なんてできるの」そうは言うものの、純粋な好奇心から妊娠検査を受けたところ、結果は陽性でした。彼女は興奮のあまり空中に飛び上がりそうになりました。本当にすごい! 妊娠しようと三年間頑張ったのに、結果は失敗だった。妊娠して子どもを授かる計画を完全にあきらめ、すべてを神様の支配と采配に託したところ、本当に妊娠した。これが奇跡でなくて何でしょう。彼女は、アブラハムが百歳で息子を授かったという、祖母が語ってくれた聖書の物語を思い出しました。そして、自分が今日妊娠したのは神様の権威とお力の表われだということに気づきました。小慧は心の中で制御不能な喜びを感じました。神様に感謝と賛美を捧げ、人間の出来事はすべて神様の支配と采配の一部なのだと、これまで以上に確信しました。

 小慧は妊娠の喜びに浸りましたが、新たな問題が次から次へと起こりました。流産の可能性が高く、それを防ぐためにプロゲステロンを経口摂取する必要があると医師から言われたのです。また胎児が正常に成長しているかどうかを観察するために定期検査を受けなければならず、もし正常に成長していなければ中絶する必要がありました。また医師は小慧に、妊娠中に自分の知らないところで飲んだ二つの漢方薬が胎児に影響を与えているかもしれないと告げ、先んじて中絶するよう提案しました。医師の言葉は小慧にとって大きな打撃で、途方に暮れました。自分の状態を考えれば妊娠するのは難しく、この「予期せぬ」妊娠は奇跡だと知っていたのです。彼女は心配しました。中絶すれば再び妊娠することはないだろう。でも中絶しなければ奇形児を出産するかもしれない。彼女は不安でした。病院は子宮収縮抑制薬を処方してくれたものの、それがうまくいくと安心させるものは何もなく、どうすればいいかわかりませんでした。

妊娠の喜び

 ある集会で、小慧は胎児に関する自分の不安と心配を語りました。すると姉妹が神様の御言葉の一節を辛抱強く探して彼女に伝えました。小慧はそれを読みました。「科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は既に科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。」

 姉妹はこう語りました。「私たちが科学を崇拝して頼るのは、科学の意見や論法が心に植え付けられているからです。例えば、『科学は万能である』とか『科学は至上である』とかいう考えのために、私たちは病気になったとき、神様の御心を探し求めて御前へ赴くよりも、医者に会って科学に頼るべきだと考えています。科学や医学が問題を解決できないとき、私たちは絶望と苦痛にさいなまれます。それと同じく、あなたは自分の病状を経験する中で、妊娠する可能性はないと医者から言われたとき、義両親が自分を見下すのではないかと恐れて不安になり、そのため苦しみの中で過ごし、あたかも救命具のように医者のところへ行きました。その医者が、あなたの飲んだ薬が赤ちゃんに影響を与えるかもしれないと言って、中絶するよう勧めてきたとき、あなたは神様の御言葉と行ないを心の裏側に置いて、神様から授かった子どもが健康でないのではないかと不安になりながら、不安と苦悩の中で過ごしたのです。事実は、人間は神様によって造られ、各人の身体の欠陥や将来何が起きるかはすべて神様によって操作され、神様は人々のためにとても正確なご準備をなさっているのです。私たちは神様のお言葉から、科学は真理でなく人々を救えないこと、それは人々を堕落させ、混乱させ、誤った方向へ導くだけだということを知るので、自分から苦痛を取り除きたければ、物事を行なう原則として神様のお言葉を受け入れ、科学を正しく扱うとともに、盲目的に従ってはいけません。現状において、あなたは胎児を守るために必要なことを行ない、予定通り検査に行きなさい。でも胎児の運命を神様に託して祈り、子どもが健康に生まれるかどうかにかかわらず、神様の采配に従いなさい。そうすれば、これ以上苦しみのうちに過ごすことはなくなります」

 神様の御言葉を読んで姉妹の話を聞いたあと、小慧の心は明るくなりました。彼女は深く感動してこう考えました。「その通りだわ。私は神様の全能性と支配をわかっていなくて、科学に頼り盲目的に従うことで人生を惨めなものにしてしまいました。でも、おばあちゃんが神様の御言葉を何度も私に読んで伝えてくれたこと、それに姉妹のお話と助けのおかげで、神様が指揮なさることやお定めになることについての認識が得られ、これからは自分が遭遇した問題を正しく扱うようになり、サタンによってもてあそばれたり害を受けたりすることはないでしょう。実際、私はホルモン療法をやめたあと奇跡的に妊娠したことの中に、神様の権威を見ました。そして、神様の権威の前では科学も医学も取るに足りないということを個人的に体験しました。いまお医者さんは、胎児が健康でいられるように薬を飲むことを勧めていますし、異常があれば中絶しなくてはならないと言っています。そうして私はその件で心配と不安を抱えるようになりましたが、そのことは、私がまだ神様の権威を信じていないことと、神様がすべてを支配なさっていることを証明しているのです。私は神様に祈って胎児を託そうと思いますが、それと同時に、胎児が健康でいられるように数週間は薬を飲むつもりです。私は、神様が結果を采配なさるのに任せようと思います」

 その後、小慧の心は穏やかになり、胎児について心配したり不安になったりするのをやめました。病院で行なわれた三度目の検査で、プロゲステロンレベルが正常であることが確かめられ、妊娠中に行なわれたすべての定期検査でも、胎児に関することはどれも正常でした。彼女は神様が自分を守り気にかけていらっしゃることを知り、心の中は神様への感謝で一杯でした。

 2018年1月、小慧は無事に出産し、神様はかわいらしい男の子をお授けになりました。出生後の継続検査で、小児科医はビリルビンレベルを調べ、数値が高いので治療のために病院にとどまる必要があると告げました。状態を改善させられなければ黄疸になってしまい、そうなれば脳に障害が残って知能に影響を及ぼすというのです。医師の診断は小慧にとって非常に深刻に聞こえ、病院にいなければ息子の知能が影響を受けるかもしれないと不安になり、神様に祈りました。「神様、あなたはこの子を授けてくださいました。この子の病気も何もかも、あなたの御手の中にあります。この子のビリルビンレベルが上昇して脳に害を及ぼすかどうかは、お医者さんでなくあなた次第です。結果がどうあれ、私はあなたの支配と采配に従います」祈り終えたあと、彼女の頭に神様の御言葉が浮かびました。「生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が萬物を支配する方法である。」神様の御言葉は小慧の信仰を強め、彼女は我が子を神様に託すことに決めました。半月後、検査のために息子を再び病院へ連れて行き、ビリルビンレベルが正常であるとわかったとき、小慧はまたしても、神様の支配とお力がどこにでもあること、神様だけが本当に頼る価値があることを知りました。病院にいた他の母親と話しながら、彼女たちの子どももビリルビンレベルがとても高いために、継続治療のため入院し続けなければならないことを知りました。小慧は神様への信仰の中で大いに喜びましたが、それはこれ以上の出費をする必要がないからだけではなく、我が子が苦しい思いをせず、また自分自身もその不安と心配に苦しむ必要がないからでもありました。

 不妊から妊娠、そして元気な子をこの世に送り出した道のりの中で、小慧は個人的な体験をして、神様の全能性と支配が実際のものであること、神様の御言葉は人々が生き続ける動機であること、そして科学は真理でなく、人々を救うことも個人の運命を変えることもできないと感じました。神様だけが人々のいのちの源であり、人類の運命を定めて指揮なさるのであり、人々が何を持ち何を持たないかはすべて神様次第なのです。いつの日か、神様への信仰と崇拝の光の中を歩き、神様のご配慮と保護の下で暮らすことを小慧は待ち望みました。