いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

どんな人が神の救いを得られるか

2019-05-31 20:01:44 | 賛美の心

  日曜日の午前、日がさんさんと照っていて、庭の花がすがすがしい香りを放っていました。「天の上におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように。あなたの国が来ますように。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。……アーメン!」と兄弟姉妹たちの祈りの声が集会所から伝わってきました。

  説教者山下兄弟は説教壇に立て、微笑んで皆さんに言いました。「今日、わたしたちは別のやり方で集会しましょう。皆さんに何かの問題や分からないことがあったら質問してください。わたしたちは一緒に真理を求め、話し合いましょう。そうすれば、雰囲気を盛り上げることができるし、皆さんも負担を持って積極的に交流することができます。そうしてこそ、もっと多くの真理を理解できます。主が準備してくださいますように。アーメン!」。

  すると、席のほうで兄弟姉妹たちは論じ始めました。信徒Aさんは喜んで言いました。「山下兄弟のこのやり方はいいですね。そうすれば、皆さんが互いに交流し合うことができるし、兄弟姉妹の真理を求める心を起こすこともできます。以後毎回このように集会すれば、もっとよい効果を収められるとわたしは思います」。

  この時、井上姉妹は微笑んで言いました。「では、わたしはまず一つ質問を出しましょう! 主イエスが働いている間に、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。当時、一部の人は主イエスに従いました。しかし主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めする人もいました。例えば、神殿の中で神に仕えている祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスの宣べ伝えられた福音を聞いた後、探究せず、調べないばかりか、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探し、主イエスの働きを誹謗し、罪定めし、最終的に主イエスを十字架につけました。同様に主イエスの働いた時代で生きていましたが、一部の人は主イエスにつき従うことができ、また一部の人は主に逆らう人になりました。これはなぜですか。一体どんな人が主の救いを得られますか」。

  山下兄弟は少し考えてから言いました。「あなたの質問は非常に重要です。もしわたしたちがどのように神を信じれば成功の道をたどることができるかを知らず、失敗した人の失敗の教訓を総括し、汲み取ることができないなら、いとも容易に、神に逆らう滅亡の道をたどります。兄弟姉妹たち、この質問について交流する前に、わたしは皆さんに一つ質問したいです。主イエスが働いている間に、だれがまず主イエスにつき従うべきですか」。

  すべての信徒はちょっと顔を見合わせてから、「聖書に精通する祭司長、律法学者とパリサイ人です」と答えました。

  山下兄弟はこう言いました。「わたしたちの観念、想像のとおりだとすれば、主イエスは働かれた時、まず祭司長、律法学者、パリサイ人に啓示すべきでした。彼らが神殿の中で神に仕える人であり、しかも聖書に詳しく、毎日人に律法、戒めを教えたから、彼らは主の追随者のはずでした。あなたたちはそう思いませんか」。すべての信徒は「はい」と答えました。彼は続けて言いました。「しかし、事実はどうですか。彼らは主イエスの働きを見た後、探究せず、調べないばかりか、かえって攻撃し、罪定めし、逆らいました。最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。だが意外にも、なんらの名望、地位もなく、また聖書に詳しくないペテロ、ヨハネ、マタイたちは主イエスの召しを聞くと、すべてを捨てて主イエスに従い、最終的に主の救いを得ました。これで分かるように、神の性質は義で信実で、いかなる人も偏り見ないことです。神が人を救うのは、人の地位の高さ、資格の有無、神を信じている時間の長さによってではなく、人が真理を渇仰し、求める心を持つかどうかによってです」。

  この言葉を聞いた後、すべての信徒は論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「神は本当に義なる方です。神の働きは本当に人の観念、想像にかなわないですね! 人が真理を渇仰し、求める心を持つなら、神はきっと人を救われます!」。

  この時、井上姉妹は何か分かったように言いました。「わたしの想像のとおりだとすれば、祭司長、律法学者、パリサイ人はまず主イエスに従うべきでした。思いがけずそれらの漁師、取税人が主イエスの働きについて行けました。主は本当に義なる方で、いかなる人も偏り見ません!」。

  「では、なぜそれらの人が神の足跡に従うことができたのですか」と山下兄弟は言いました。

  すべての信徒はこの問題が分からず、困惑の表情を浮かべて、互いに顔を見合わせていました……。

  山下兄弟は聖書をざっとめくってみてから、落ち着いて言いまいた。「聖書の物語はわたしたちに答えを教えることができます。例えば、漁をするペテロとアンデレは主イエスの召しを聞くと、網を残して主イエスに従って行きました。同様に漁をすることで生計を立てているヤコブとヨハネは主イエスの召しを聞くと、漁船を残し、父親と別れて、主イエスに従って行きました。収税人マタイは主イエスの召しを聞くと、手元の仕事を捨てて主イエスに従って行きました。主のこれらの弟子たちはみな主イエスの召しを聞いた後、単純に主に従いました。また、サマリアの女は主イエスが彼女の行ったことをすべて言い当てたのを聞いてびっくりし、そして町に行ってすべての人に主イエスがキリスト、来たるべきメシアだと言いました。ニコデモは真理を求める心を持っていたので、夜イエスのところを訪れて、主イエスの教えを聞きました。そのため、神の啓きを得て、主イエスが神から来られた方だと分かりました。これらの人は謙遜な心をもって、虚心に主イエスの言葉、働きを探究し、調べたので、神の啓きを得、神の声を聞き、主イエスが神から来られた方、キリスト、預言されている来たるべきメシアだと分かりました。事実上、主イエスは道を説き、働く前に、だれにも前もって啓示しませんでした。彼は道を説き、働いた後、すべての人が彼の言葉を聞き、彼の働きを見るようにされました。彼がそうするのは、どんな人が虚心に真理を求め、神の出現、働きを渇望する人かを明らかにするためでした。それは主イエスが言われたとおりです。『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている』(ヨハ10:14)。『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う』(ヨハ10:27)。『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』(マタ7:7-8)」。

  この時、井上姉妹は笑顔を浮かべて言いました。「ああ、あなたの言葉を聞いた後、わたしはすっかり分かりました。以前、わたしは地位、名望、賜物のある人たちが最初に神の啓きを得、神の働きの歩みについて行くことができると思っていました。しかし事実はわたしの観念、想像に反撃しました。神は地位、名望、賜物を問題にせず、人の神を渇仰する心を問題にするのです。これはわたしに主イエスの次の言葉を思い出させました。『心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』(マタ5:6)。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』(マタ5:8)。主に従う弟子ペテロ、ヨハネ、マタイたちは高い身分、地位を持たず、また聖書に精通しないが、主の召しを聞くと、主に従うことができました。彼らは虚心に主の言葉、働きを探究し、調べ、パリサイ人に束縛されず、すべての暗やみの権威を突破し、すべてを捨てて主イエスに従い、そのため神の救いを得ました。わたしたちは以後ペテロ、ヨハネたちに倣うべきです。主の到来に関しては、観念、想像によらず主の言葉によって判断し、謙遜な心をもって探究し、調べるべきです。そうしてこそ聖霊の啓き、導きを得、神の働きの歩みについて行くことができます!」。

  信徒たちはこの言葉を聞いた後、論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そうですね。わたしたちの以前のそれらの考えは確かに真理にかなわないです。主の弟子ペテロ、ヨハネは確かにわたしたちの倣うべき者です。神は義で信実です。わたしたちが観念を捨てて、真心をもって調べるなら、神は同様にわたしたちに啓いてくださいます。こうして、わたしたちもペテロ、ヨハネ、マタイたちのように主の出現と働きを迎えることができます」。

  この時、何か考えている様子の井上姉妹は言いました。「わたしはやはり分からないところがあります。あの時、そんなにたくさんの民は主イエスの道を聞き、主イエスの行われたしるしや奇跡を見、しかも道の両側に並んで主イエスの到来を歓迎しました。だが、後で大部分の民はパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。これはなぜですか」。

  山下兄弟はきっぱりした口調で、落ち着いて言いました。「あなたの出したこの問題はとても実際的です。わたしたちが知っているように、祭司長、律法学者、パリサイ人はみな宗教のリーダー、宗教の上層部の人です。彼らは神を信じている時間が長く、聖書を熟読し、地位、賜物を持っているから、大部分の民は彼らを仰ぎ見、崇拝し、彼らの聖書の知識と神学理論を真理として扱っていました。これらの民は神を信じているが、主イエスの言葉と働きが神から出たものかどうか、人のためになるかどうかについて探究したり、調べたりせず、盲目的に聖書の知識と地位、権勢を崇拝していました。パリサイ人が至る所で主イエスを訴える口実を探し、律法によって主イエスを罪定めした時、大部分の民は弁別力がなかったので、パリサイ人に惑わされてパリサイ人のうそを信じてしまい、しかもパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。こうして、彼らはパリサイ人の共犯者になりました。その上、彼らは主イエスが彼らの王にならず、彼らを導いてローマ政府の支配を翻さず、また宗教のリーダーたちに罪定めされ、逆らわれるのを見た時、主イエスの言葉と働きを否定しました。当時、彼らがこう思っていました。イエスがキリスト、メシアであれば、彼は王になって、あらゆる人から推戴されるはずだ、彼がキリスト、メシアなら、どうして罪定めされ、見捨てられることがあろうか、と。だから、主イエスの働きが彼らの観念にかなわない時、彼らはパリサイ人の側に立ってパリサイ人のお先棒を担ぎ、主に逆らい、主を罪定めしました」。

  井上姉妹はこれらの言葉を聞いた後、興奮して言いました。「神に感謝します。あなたのこれらの言葉によって、わたしはこういうことが分かりました。すなわち、大部分の民がパリサイ人と一緒に主イエスを罪定めし、逆らうのは、彼らが人を仰ぎ見、崇拝し、権力、地位に束縛され、しかも真理を求めず、全然弁別力を持たず、自分の観念と想像だけによって主イエスの働きを扱ったからです。だから、主を迎える上で、わたしたちは神を畏れる心を持たなければならず、牧師、長老の言葉だけを信じてはなりません。そうすれば、いとも容易に惑わされ、騙されて神に逆らうようなことをしでかします。そうなると、神に懲罰されます」。

  この時、山下兄弟はこう言いました。「そうですね。再来される主の働きかどうかを判断する時、わたしたちは意のままに論断したり、罪定めしたりすることなく、神を畏れる心をもって、虚心に探究し、調べるべきです。こうしてこそ、聖霊の啓き、照らしを得られます。そうなったら、わたしたちは神の働きの歩みについて行き、神の救いを得ることができます!」。

  この言葉を聞いた後、信徒たちは微笑みながら論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そのとおりですね。今日このように交流しなければ、戻ってくる主を迎えることにおいて、わたしたちもあの時の弁別力を持たない民のように、地位と権威がある牧師、長老たちを崇拝し、自分の観念と想像によって神の働きを扱うはずです! 神は義なる方であって、へりくだり、真理を求める人が好きです。ペテロのような人こそ神に良しとされることができます。そうですね。もしわたしたちがひたすら牧師、長老の言葉に聞き従って、弁別はしないなら、いとも容易に惑われます。わたしたちはペテロ、ヨハネたちに倣って、神を畏れる心をもって真理を求めなければならず、ことに当たっては多く祈り、神の意志を求め、神の声に留意しなければなりません。そうしてこそ、神の足跡に従い、神の救いを得ることができます!」。

  すると、すべての信徒は「神に感謝します。アーメン!」と言いました。


聖書には神の御言葉に限らず、人の言葉も記されています

2019-05-30 21:15:15 | 賛美の心

  牧師と長老たちはいつも聖書に記述された言葉は全て神の御言葉であり、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであると私たちに言います。聖書にもこう書かれています、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」テモ2 3:16。 これ故に、私たちは聖書に書かれている言葉は全て神の御言葉であるという信念を抱いてきている訳です。しかし、今日、今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしていた時、私はこの観念に関して新たな知識を得たのです。

  私たちが聖句の中から幾つかの節を読んだ時、今井姉妹が聖書には神の御言葉だけでなく、人、ヘビ、サタン、そしてロバの言葉も記されていると言いました。そして、彼女はこの節を見せてくれました。

  創3:1「へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』」。 これはヘビがイブに言ったことです。

  ヨブ2:2「サタンは主に答えて言った、『地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました』」。 これはサタンが神に言ったことです。

  民22:30「ろばはまたバラムに言った、『わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか』」。これはロバがその主人に言ったことです。

  これらの節を読んだ後、私は思わず心の中で混乱してしまいました:「正に、これらは神の御言葉ではなく、サタン、ヘビ、ロバの言葉だ。そしたら、パウロはどうして聖書の言葉は全て神によるものだと言ったのでしょう?どうして牧師と長老たちは聖書の記述は全て神の御言葉だと言うのでしょう?今井姉妹は私の胸中を察したようで、私とある知識を共有してくれました。

  彼女は、「実は、聖書の中で、神は聖書の記述は全て神の御言葉であるとは決して言われていないし、聖霊もその証言はしていないんです。’聖書の言葉は全て神の霊感を受けて書かれている’という言葉はパウロの個人的な認識を表しているだけで、神の御心とは違うんです。そして、牧師と長老が抱く信念も単にパウロの言葉に基づいているものであって、神の御言葉には基づいていません。私たち神の信仰者は全てを神の御言葉に従って捉えるべきなのです。」これを聞いた私はうなずいて賛成しました。

  そして彼女はこう言いました:「これで、聖書の言葉は全てが神の御言葉ではないことが分かりました。そうしたら、聖書のどの箇所が神の御言葉なのでしょう?この疑問をはっきりさせることは必要だと思います。」その後すぐに私たちはこの議論を続行しました。

  今井姉妹は続けてこう言いました、「聖書では、ヤ―ウェ神が仰った御言葉、ヤ―ウェ神がモーゼに言うよう指示された御言葉、神が預言者たちに告げることを要求された御言葉、主イエス様が仰られた御言葉、そしてヨハネの黙示録で神がヨハネに明らかにされた預言の内容のみが神の御言葉で、それ以外の人の伝記や使徒たちの手紙は全て人の言葉です。これらは彼らの個人的な体験や知識を表しているだけで、神の御言葉ではなく、またそれを神の御言葉と言うことはできません。

  神が預言者たちに御啓きになられた御言葉を全部見てみましょう。神の御言葉を預言者たちの言葉と区別するため、預言者が告げた神の御言葉には常に神の御心に合わせて’主は仰りました’もしくは’このように主は仰りました’と初めに印を付けています。例えば、出16:23「モーセは彼らに言った、『主の語られたのはこうである…』」。エゼ5:8「それゆえ主なる神はこう言われる…」。エレ7:20「それゆえ主なる神はこう言われる…」等です。これらは全て真実ですよね?これに賛成できますか?」私はうなずいて、「はい、てきます」、と答えました。

  主なる神様、有難うございます! 私は今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしてこれらの知識を得ることができました。主を信仰する兄弟姉妹の皆さん、これを理解できましたか?


キリスト教徒が業務において調和をとりながら協力し合うための3原則

2019-05-29 21:27:44 | 賛美の心

  ご存知の通り、私たちは心を1つにして神に仕えてのみ聖霊の導きを得ることができ、教会の働きも神から祝福を受けることができます。これは、主イエス様が私たちにこう仰っておられるからです:「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイによる福音書18:19)。

  私たちが業務において協力し合う間、サタンは常に解体の働きを行います。サタンは常に神の働きを妨害し弱体化させて神の御心が実現するのを妨げるという狡猾な計略を実行するために私たちの堕落と背きを利用します。表面的には、キリスト教徒たちが業務で協力し合うことにおける問題は人間関係の問題であるように見えます。霊的世界においてはと言うと、実は戦いが行われています。真理を理解しなければ、私たちはサタンの計略を見抜くことができないだけでなく、頻繁にそれに利用され、苦しみと嘲りの中を生きることになってしまいます。すると、私たちは他人と敵対し、お互いを警戒し合い、攻撃し合い、傷つけ合い、心を1つにして自分たちの本分を尽くせなくなってしまいます。無意識のうちに、私たちはサタンの策略に騙されて教会の働きを解体してしまうのです。

  私たちはサタンの策略を見抜けないことが頻繁にあり、サタンのような堕落した性質を持ってもいるため、兄弟姉妹たちと協力し合う際に心を1つにして主に仕えることができないことがよく起ります。時に、私たちは意見、考え、または見解において自分たちのパートナーと相違することがあると、傲慢な本性に支配されている私たちはパートナーに自分たちの言うことを聞くようしつこく要求し、私たちと私たちのパートナーはお互いがそれぞれの意見を固持するという結果が生じてしまいます。その結果として、不和と疎遠が起り、私たちの短気さが激発したり、正否にこだわり過ぎてしまいます。時に、私たちとパートナーとの間に力量や能力の差があると、私たちは力量の低い者たちを見下し、自分たちを支持して好き勝手なことをしてしまい、教会が重要視することに対して問題を引き起こしてしまいます。時に、私たちはパートナーから尊厳を傷つけられたり、個人的な利益に影響を及ぼすようなことをされると、私たちは寛容さと辛抱強さを失い、自分たちの利益を守るために彼らを攻撃し傷つけ、結果的に教会の働きが行き詰まってしまいます。

  他人と協力し合う上でこのような問題を抱えていながら、私たちの業務は神に承認していただけるでしょうか?ピリピ人への手紙2:2にはこう記されています:「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」アモス書3:3にはこう書かれています:「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」私たちはパートナーたちと心を1つにしていれば、神の働きと承認を受けることができます。しかし、私たちが調和を取れていないとなると、共に歩んで行くことができず、私たちの内で神の御心を実行していただくことが困難になってしまいます。従い、このような業務の仕方は神に認めていただけないのです。

  ならば、私たちキリスト教徒は他の人たちと調和をとって協力し合うにはどのような原則を把握するべきでしょう?

  第1に、私たちは聖霊の指導と心理の原則に従うべきであり、我意に固執したり、他人から抑制されてはいけません。

  生まれた状況、生活環境、素養のレベル等は人それぞれなので、教会の働きで生じる問題において私たちが異なる意見を持つことは当たりまえのことです。もし私たちが他の人に自分たちの言う通りにすることを要求したり、そのために地位を利用して人を抑えつけるようなことをしたら、それは聖人らしからぬ行いとなってしまいます。私たちは神の御旨に沿った形で神に仕えることを望むなら、人の話を聞くのではなく、真理の原則を探求すべきなのです。私たちは他人の道や自分たちの道を行くのではなく、毒、権力、知識や評判に縛られるべきでもないのです。私たちは神の御言葉を求め、神の御言葉の権威の下に服従すべきなのです。主イエス様はこう仰られました、「神を信じなさい。」(マルコによる福音書11:22)。 私たちは同僚、パートナー、牧師や長老に主イエス様の御言葉に沿わないことをするよう求められても、言われるがままにするのではなく、主イエス様の御言葉に従うべきなのです。もし彼らの言うことが主の御言葉に沿っているのであれば、私たちは自分たちを脇に置いて神から来ることに従うべきです。

  私たちは道義心に欠けることや無意味な事柄について意見が異なる場合は譲歩してしつこく主張するのは控えるべきです。例えば、私たちの教会でホームステイを提供していた姉妹2人が時折兄弟姉妹たちのためにする料理について衝突することがありました。実際、これは単なるアプローチの仕方における相違で、教会の原則や関心事には全く関係のないことでした。従って、もしこのような場合に自分の意見に固執してしまうと、それは私たちの堕落した性質の表れとして捉えられてしまいます。後に、この2人はお互いに自らを脇に置けるようになりました。その時、2人の間にあった疎遠な関係は解消され、お互いに仲良く協力し合えるようになったのです。

  さらに、私たちは聖霊の御啓示と御指導に従うことを学ぶべきです。例えば、直面する出来事にどう対応してよいのか全く分からない場合、私たちは主に祈りを捧げ、主を求めるべきです。その後は、どうして良いのかと意識して考えなくても、突然進むべき道を自分たちの中で見い出し、それを比較的適切であるとみなすと心の中で平安を感じられるのです。この場合は聖霊が私たちを導いてくださっておられるので、私たちは聖霊の御導きに従うべきなのです。ローマ書8:5にはこう記されています、「霊に従う者は霊のことを思うからである。」 加えて、私たちはパートナーと意見が食い違うことがあります。私たちは最初は自分のアイデアの方がパートナーのアイデアよりも優れていると考えますが、心の中ではそう頑固にならずに先ずはパートナーのアイデアを受けいれてみるべきだという漠然とした気持があり、その気持ちがあると心が和むものです。私たちの内にある御導きに従えば、パートナーの提案は本当によいもので、教会の働きにとってより有益なものであることが分かります。そうすると、あの漠然とした気持ちは聖霊の御導きから来るもので、私たちが聖霊の御導きに従うことは極めて重要であると確信できるのです。

  第2に、私たちは他人に勝とうとするのではなく、お互いから学び合おうとすべきです。

  ピリピ人への手紙2:3-4にこう書かれています:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 これらの節は、名誉と富を求めて奮闘することは私たちが貫くべきキリスト教徒らしさではなく、私たちは謙虚であるべきで、自分勝手にならずに他人に対してもっと思いやりを持つべきであることを示しています。しかし、私たちは傲慢な本性を持っているため、いつも自己顕示したがり、教会の働きに欠陥があると簡単に人をけなし、手柄を自分のものにし、罪をなすりつけたりしてしまいます。これが私たちと他の人たちとの間に調和を欠いた協調性をもたらしまいます。私たちがこれらの節に書かれているように探求における考え方を変えて、自己主張をせずに謙虚であり、他の人の長所を見て学ぶことができれば、盲目にうぬぼれたりせず、自然と他の人たちと仲良く協力し合えるようになるのです。

  さらに、私たちは教会の働きの各業務は兄弟姉妹たちの調和のとれた協力を通じて成就する必要があり、それは1人の人間が達成できることではないことを知る必要があります。私たちは協働によってのみ、教会がその働きにおいてより良い結果を出せるようにすることができるのです。結局のところ、全ての人が何でもこなせるというわけではなく、誰もが多くの欠点や欠陥を持っているものなのです。自分たちの個人的な裁量に基づいて神に仕えていたのでは、教会の働きが良い効果を得られるようにするのは容易なことではなく、時には教会の働きにおいて逸脱を引き起こしたり、損害をもたらしてしまうことすらあります。兄弟姉妹たちと業務において協力し合っていれば、私たちはお互いを多かれ少なかれ補足し合うことができ、それによってミスをある程度は避けることができるのです。これについて、コリント人への手紙にはこう書かれています、「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように⋯」私たちは1人1人が仲間なのですから、私たちは協力し合ってのみ神から委ねられた本分を成就できるのです。律法の時代に、ヤ―ウェ神がモーゼにイスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられた時と同じです。しかし、口下手であったモーゼは神から与えられた任務を独力では成就できませんでした。従って、神はアロンをモーゼの代弁者として育てました。彼らはそれぞれの本分を尽くし、お互いに協力し合って、ついにイスラエルの民をエジプトから導き出し、神からの任務を完了させました。これと同様に、今日の教会はその働きにおいてより良い結果を出せるように、私たちが業務において協働するよう手配されるのです。これ故に、私たちはパートナーの欠点のみに注目したり、彼らをけなしたり、傷つけるなどすべきではないのです。私たちは物事を違う視点から捉えて、私たちのパートナーを私たちのヘルパーとしてみなすべきなのです。こうすることで、教会の抱える問題は解決し、私たちはお互いに調和のとれたパートナーシップを持つことができるようになります。これは教会の働きとお互いのいのちの成長にとって極めて有益なことです。

  第3に、私たちは共通の目標を目指して働き、心の中でお互いを備え合い、支え合うべきです。

  ピリピ人への手紙2:1-2にこの記述があります:「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」エフェソの信徒への手紙4:3にはこう書かれています、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」 これらの節から、私たちキリスト教徒は、お互いに協調のとれたパートナーシップを持ちたいのなら、共通の目標を持ち、心を1つにし、神からの任務を成就するためにお互いに心を合わせる必要があることが分かります。そうすれば、私たちの間にどのような論争や不一致があったとしても、私たち全員が神の御心が実行されるにはどのような形で物事をなすべきかを考え、個人的な意見を貫くことは止めて、代わりに利己的な利益や計画を脇に置くようになるでしょう。その瞬間、私たちは一致団結したことになるのです。

  私たちキリスト教徒は外面的にも、内面的にも結束しているべきなのです。時に、表面的には私たちの間には何の論争も起きていないように見えることがあります。しかし、私たちは全くお互いを愛し合わず、大切にせず、助け合わず、心の中にも暗黙の了解が全くないのです。私たちは皆、それぞれの問題において個人的に努力をしているだけなのです。真の団結は全くできていないのです。真の団結の表れとは次のことを言います:「教会に深刻な問題がある、または兄弟姉妹たちが困難に直面していて、否定的で弱気になっていることを知った時、全員が心を1つにして探求し祈りを捧げる。同僚が業務においてミスを犯したら、それは教会の働きに関与することであるから、彼のみならず、他の全員にその対応をする責任があることを理解できることであり、そして一緒にその問題を明確に理解して解決策を求めることである。誰かが大変な思いをしていれば、愛情のこもった心で彼を助け、一緒に神を頼り、解決策を求めることである。神の御言葉の御啓示と御啓蒙を得られれば、お互いの霊的いのちの成長を支え合うためにそれを交流かつ共有できること。私たちのパートナーの行いが主の御心に沿っていないことがあれば、私たちは相手を怒らせることを恐れずに、その問題を提起するべきであり、それは彼らにとって有益なことであるだけでなく、彼らはそれから教訓を学び、それを警告として受け止めておくことができるのです。。。」これはキリスト教徒の間の心の中における真の、かつ相互の愛情であります。私たちが1つであるということは、その言葉が示唆する通り、私たちが統一体である、つまり、私たちが自分勝手なことをせず、不和にならず、孤立せずに共通の目標に向かって一生懸命になり、努力を注ぎ、ファミリーとして一緒に暮らすことを意味しています。

  皆が知っている通り、イスラエルの民は敬虔な心をもってヤ―ウェ神に仕え、ヤ―ウェ神の律法と戒律を破ろうとはしませんでした。神に忠実に仕えたことが功を喫して、彼らは神の御業をたくさん目撃し、神の御気遣いと御加護を授かり、最終的に彼らは常に神から恵みを受けていました。これが神に仕えることにおける彼らの秘訣でした。今日、私たちは教会で法衣をまとって神に仕えてはいませんが、それでも私たちは教会で働くものであります。調和のとれた協力における原則を理解していなければ、教会の働きは神から祝福されることはなく、私たちは最終的に、神の御旨に沿った形で神に仕えていなかったことが理由で神から認められることもないでしょう。その反面、私たちは調和のとれた協力における原則を理解すれば、神の使いとなるにふさわしい人間になる希望が持てるのです。これについて、申命記10:12にはこう書かれています、「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え…」。 業務においてキリスト教徒が調和を取りながら協力し合うことの大切さが明確に分かります。


神の御心に叶う奉仕は4つの重要な要素を理解しなければなりません

2019-05-28 22:15:56 | 賛美の心

第1に、私たちは神を愛する心を持ち、主の御心を考慮し、全てにおいて主と心を1つにし、主の親友になろうと一生懸命に努力する必要があります。

  主イエス様はこう仰りました:「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38) これらの御言葉は主イエス様が私たちに守るようにと求められる戒めであり、それ以上に主に仕える人それぞれに対し要求されていることでもあります。主は私たちが主を愛する心を持つこと、そして主の親友になる最善の努力をすることを求めておられます。ペテロを例に挙げてみましょう。彼は自らの将来を考慮したり、そのための計画を立てることなく、主に従い、そして主からの任務を担うために世俗的なもの全てを捨てました。彼は主と心を1つにし、全てにおいて主の御心を満たすよう求めました。主イエス様は死から復活された後、ペテロの前に現われました。そのことは聖書にこのように記されています、「またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。』」(ヨハネによる福音書21:16-17)。ペテロは最初から最後まで主に忠実でした。従って、主イエス様は彼が主を愛する者になることを期待され、主の信者たちを導くという大変な責任を託されたのです。その後、ペテロは常に主イエス様の御言葉を心の中に抱き、進んで神の真の愛を追い求めることに一生分のエネルギーを費やしたのです。彼は主の御心を考え、全てにおいて主を満足させることに集中し、迫害や苦難を強いられながらでも主の信者たちを引率しきったのです。最終的に、ペテロは死ぬまで神に従い、神を極限まで愛しながら、主のために逆さ十字形に遭いました。これ故に、ペテロはまさしく主と心を1つにしていた人であり、主の親友でもあったのです。私たちは主に仕える資格を得たければペテロに習う必要があり、主を知り愛することを求め、全てにおいて主の御心を考える必要があります。加えて、私たちは、業務を行うにあたり、主の働きのため、主を讃えて主の証言を行うために自らを犠牲にし、個人的な関心を考慮したり、そのための計画を立てたり、自分たちに良いことを求めたりせずに心から主の御心を満たすべきなのです。そうすれば、私たちの業務は主の御心と調和が取れるようになるのです。

第2に、私たちは全てにおいて真理を求め、主の御心を理解し、聖霊の働きにおいて綿密に協力し合い、聖霊の働きと歩調を合わせる必要があります。

  全てにおいて真理を求め、主の御心を理解するということは主が信者全員に求めておられることですが、それ以上に、主のしもべ全員が入り実践すべきことであります。しかし、私たちは説教したり働いている時、または何らかの問題や困難に遭遇する時、多くの場合は全く神の御心を求めようとせずに独自のやり方をしてしまいます。時に、私たちは真理を求めていても、その過程をたどるだけで、何の結果も得られていないことがあります。例えば、兄弟姉妹たちの信仰が冷めていくのを見たり、世界のトレンドを追いかけて肉の快楽を楽しんでいる者を見たり、主を見捨てて裏切る者たちを見ると、私たちはただ単に彼らを支えて激励するといったありとあらゆる外面的な行動を取ることに集中し、やるべきことをやってさえいれば十分だと思っています。しかし、私たちは主の御心を求め理解することには全く注意を払わず、これらの問題の根源は何なのか、教会を蘇らせて神を安心させ、満足させるためには何をすべきであるのかということは全く考慮していません。主の御心を理解して求めることがなければ、私たちは神から増々離れていき、心の暗さと渇きを感じ、主の御前に触れ、御指導を受けることができず、歩む道を持つこともないのです。

  しかし、常に主の御心を理解することに集中していれば、私たちは聖霊の御啓示と御導きを容易に受けることができ、教会で起きている問題や困難を次第に見抜けるようになり、どのようにして主に仕える働きを適切にこなし、私たちの業務においてどういった原則を把握しておくべきで、どのようにして、心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くして私たちの本分を適切にこなして神を満足させるのかということがはっきりと分かるようになります。こうすることで、本分を実行するにあたり、私たちの人間的な考えは減り、行動を取る上で自分たちの観念と想像、能力や内面的素養に頼ることがなくなります。私たちの神との関係は普通になり、神の御心に沿った本分が行えるようになります。例えば、教会が悲惨な状態にあるという問題や、多くの信者が消極的かつ弱気になり、世俗的なものを求めるという問題に直面する際、私たち神のしもべは主の御心と要件を求めることにもっと努力を費やすべきなのです。私たちは教会が悲惨な状態に陥る根源を見つけることができれば、兄弟姉妹たちが主への信仰を取り戻すためにどう手助けすればよいのかがわかります。私たちは今こそが終わりの日の終末であると分かっています。この時期に教会が増々悲惨になり、信者たちが消極的かつ弱気になり、世俗的なものを追い求めるのはよく起る現象です。これは聖霊がもはや宗教界で働いていないことを示しています。これについて神はこう仰りました:「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)。悪化しつつある教会の悲惨さな状態を解決するために、私たちは聖霊の働きが宿る教会を見つけ、聖霊の働きの傾向と動きを追求し、新たな啓示と啓蒙を求める必要があります。私たちが自分たちの観念と想像を手放し、敬虔な心、および真理を切望し求める心を持っていれば、主は間違いなく私たちが主の御心を理解できるよう御導きくださり、生ける水の備えを受けられるようにしてくださります。真理を求める心を持って神に仕えていれば、私たちは神の啓蒙と祝福を授かり、私たちの欠くもの全てが神によって補われ、完全にされます。

第3に、私たちは業務において神を讃え、神の証言をし、兄弟姉妹たちを神の前に導くため、神の御言葉を実践し、そして神の御言葉を使用して問題を解決する必要があります。

  人々を神の前に導くことは神に仕える者たちに対する神からの要求であります。人々を神の前に導きたい場合、私たちは神の御言葉と神の要件に従って彼らを導き支える必要があります。そのためには、私たち自身がまず神の御言葉の体験と知識を持ち、主の御心と要求に関する理解をある程度は得ている必要があります。私たちは全てにおいて、そして神がご用意くださる環境において、自らの欠陥と不備を知るために神の御言葉を熟考し、そして神の御言葉の中に実践するべき正しい道を見つけることを学ぶ必要があります。神の御言葉を体験し実践することを通じ、私たちは神の実際の、かつ真なる知識を習得し、私たちの神との関係は増々適切になるでしょう。こうすることで、私たちは遭遇する問題や困難の本質を見抜き、そして自らの実体験、ならびに神の御啓示と御指導を通じて兄弟姉妹たちが神の御心を理解し、実践するべき道を見るけるのを助けることができるようになるのです。例えば、兄弟姉妹たちの間に意見の相違があり、業務を行う上で彼らが仲良くできていない様子を目にする時、私たちがこの問題の本質を知ることができず、それを解決するために神の御言葉を求めていなかったとすれば、私たちは自分たちの考えで彼らを注意したり、激励したり、または聖書の内容に従って彼らを非難して教育し、今後そういうことはしないようになどと言うでしょう。このような行為はただ単に彼らを物事の是非に執着させるだけで、彼らを神の前に導くことは全くできないのです。しかし、私たちが問題を解決するために真理をもって実践し、兄弟姉妹たちに神にもっと祈りを捧げ、神をもっと頼りにし、神の働きを一緒に体験するように指導していれば、彼らは、「私たちは誰もが堕落した性質を持っており、それによって支配されコントロールされている私たちは他人と普通の関係が持てず、そしてそれはサタンによる欺きと堕落であること、神は私たちの堕落した性質を清めて変えるための環境を用意してくださること、私たちが自ら持つサタンの堕落した性質を知り、それを嫌い、自らの肉に背き、我執を捨て、真理を実践し神を満足させることに意識的に注意を払うことができれば、私たちは物事の是非に執着せず、他人と仲良くできるようになり、神が用意してくださる人々、出来事、物事、および環境から何らかの教訓を学ぶことができる」、ということを知るでしょう。従って、業務を行うにあたり、私たちにとって最も重要なことは、兄弟姉妹たちが神を知り、神の御心と要求を理解することを学ぶように指導し、神はどのような人を愛されるか、そしてどのような人を嫌われるかを理解させ、神の性質と神そのものに関する真の知識を修得させることであり、そうすることで彼らは神の御言葉を実践し、神に従い、神を崇拝できるようになるのです。これこそが人々を神の前に導くということであり、神を讃え、神の証言をしているということでもあるのです。

  しかし、もし私たちが自己顕示するため、および自らを褒め称えるために説教を説いて、自分たちのイメージを確立させることには集中しているが、真理を使用して問題を解決することができないという場合、私たちが主の御言葉を実践して主の道に従うよう人々を導くことができていない場合、そして私たちが人々を神の前に導き、神を尊敬させ、神を頼らせるために神を褒め称え、神の証言をするということをしていない場合、私たちの業務は実際に主に抵抗していることになり、私たちは反キリストが歩む道を歩んでいるということになります。聖書に記述されているパリサイ人のことを振り返ってみましょう。彼らは説教と働きを行う中で人間の習わしを遵守していましたが、神の戒めを捨て去り、神の道から逸脱していきました。加えて、彼らは頻繁に自分たちの証言を行って自らを褒め称えるような形で聖書の手紙と教義を解釈し、その結果、人々は誰もが彼らに耳を傾け、彼らに従い、神から離れ、神を裏切ったのです。主イエス様はこう仰りました:「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイによる福音書23:5-9). 主イエス様は私たちが唯一なる神のみを信仰し、崇拝することを要求されていることが分かります。従って、私たちはパリサイ人の業務を拒絶し、常に神を褒め称え、神の証言を行い、私たちの兄弟姉妹たちを神の前に導く必要があります。このような業務のみが神の御旨に沿った業務なのであります。

第4に、私たちは神の御心が妨害を受けることなく実行されることを保証するため、神の前では常に静まり、自らを省みて自己認識し、自らの罪や過ちを発見したら迅速に正すべきであります。

  私たちは、主のしもべとして、常に神の御前で生きる必要があります。私たちは神の御啓示と御指導を通じ、自分たちはサタンに堕落させられているという真理を見抜き、真理を持っていないことがどれだけ哀れで、悲惨なことであるかを認識し、自らの欠陥と不備をはっきりと知り、自己認識を得るべきであります。私たちはまだ完全にされていないため、自分たちの本分を十分な形で尽くすことができず、業務を行う上で逸脱したり罪を犯すのはとても普通なことです。私たちは自分たちの逸脱と罪を発見したら素早く神の前に行き、神の御言葉に従いながら敬虔な心と探求心をもって自らを細かく分析して省みるべきです。これと同時に、私たちは周りにいる兄弟姉妹たちと純粋かつ率直に会話をするために自らの面目、虚栄心、そして地位を脇に置き、真実を受け入れ、彼らから批評と指示を受け入れて過去の過ちを繰り返さないようにするべきなのです。こうしてのみ、私たちは神の御心が私たちの内で確実に実行されるようにすることができます。

  例えば、私たちは誰もが傲慢な性質を持ち、人々よりも高い地位にいることを楽しみ、常に働きや説教において自慢げに話しをして自己顕示し、人々に自分たちを尊敬させ、崇敬させようとします。この結果、兄弟姉妹たちは人間に耳を傾けることしか学ばず、遭遇すること全てにおいて人間に従うため、彼らの心には神が宿れる場所がありません。このような教会はとっくの昔に神の御導きを失っているので教会の働きは全てが混乱した状態にあり、何の結果も得られず、私たち自身も頻繁に壁にぶつかって失敗に苦しんでいます。この時、私たちは神の前で素早く静まり、自らを知るために自らの思考と考えを省みて、自分の言葉と振る舞いを知り、神の御言葉による裁きと刑罰、そして暴露と取り扱いを受け入れるべきなのです。これより、私たちは、「私たちは神に仕える機会を利用して自らを褒め称え、自らの証言をし、名誉と地位を手にするために自分たちの欲望を満たすことを追い求め、人々を私たちの前に導いている。私たちがやっていることは、人々を求めて神と争い、神の選ばれし人々を操って自分たちのものにするということであり、私たちは神が見下され、忌み嫌われる反キリストの道を歩んでいる。私たちは悔い改めなければ、神の性質を害し、神から罰を受けることになる」、ということが明白に分かります。私たちは、問題の深刻さを知った後すぐに悔い改め、神に告白し、肉に背くことを実践し、私たちの働きや説教において意識的に神を褒め称え、神の証言をし、忠実に業務をこなし、誠実に振る舞うべきであります。さらに、私たちは神と適切な関係を築くことに注意を払い、神の御心と任務を常時心に留め、神の御心が妨害されることなく実行されることを保証する目的でのみこの人生を生きるべきであります。このように誠実に悔い改めていれば、主は徐々に私たちが正しく業務を行う道を歩むよう導いてくださるでしょう。


映画「救い」のレビュー:救いに関する2つの誤解の分析

2019-05-27 20:07:00 | 賛美の心

  「救い」は2018年に制作されたキリスト教会に関する映画です。それはクリスチャンの多くが救いに関して持つ2つの誤解を指摘し、それについて語り、分析します。これは主の信者たちにそれぞれが神を信仰するために歩んできた道について深く考えさせてくれます。そして、それは深刻な事柄です、なぜなら私たちは、一度誤った道を歩んでしまうと、決して救いを受けられないと同時に私たちの神への信仰も無駄になってしまうからです。これはまた、本映画が視聴者に伝えようとする警告でもあります。これから、本映画の中でクリスチャンが救いに関して持つ2つの誤解について分析していきます。

1つ目の誤解:私たちは罪を許されるだけで救われる。

  映画はこのシーンから始まります:聖書の置かれたテーブルがあり、主人公のスー・ヂィチアンが両手を握り合わせて祈りを捧げています。そして、次の聖句がアップで映ります、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:9–10)。このシーンの色調は黄色く、深く低い音楽が流れる中、主人公が独白を通じて主の信者の大多数が持つ考えを簡潔かつ明確に口にします、「主イエス様の信者は、罪が一度許されると永遠に救われ、主が来臨される時には天国に直接引き上げられると考えています。」この後すぐ、彼は2つの疑問を提起します、「しかし、主を信仰して救われるとは、正確には何を意味しているのでしょう?罪を許していただくだけで、本当に天国に行く資格が得られるのでしょうか?」彼らがこう言うと、カメラが左右に旋回し、窓の外で紅葉が落ちる様子を映します。これを見ていると、私たちは思わずこの2つの疑問を熟考してしまいます。しかし、誰が救いの真義を説明できるというのでしょう?

  スー・ヂィチアンの独白は、彼は世の終わりの神の働きを受け入れた後、そして神の御言葉を読んだことにより、神の人類を救う計画の奥義を理解し、誤っていた考え方を改め、主への信仰により救われることの真義を知ったことを私たちに語っています。独白の最中、そのシーンの色調が黄色から緑へと移行し、音楽の音量も上がります。本映画はこのような率直なナレーションから始めるため、視聴者が素早く映画の趣旨を理解できるようになっています。これと当時に、主人公のオープニングのセリフが私たちを映画の中へと引き込んでくれます。

  映画の中には、本当に救われるということについて私たちを目覚めさせてくれる交流の節があります、「救いとは、主を信じ、罪を許していただいた後、あなたは神に祈りを捧げ、そして神の御恵みを受ける資格が得られることを意味しています、しかし、あなたの罪深い本性とサタンのような性質は依然としてあなたの心の奥深くに埋もれたまままなのです。人々は依然としてそれぞれの罪深い本性に操られ、頻繁に罪を犯します。彼らは神を非難し、神に抵抗すらします。これは、人々は罪を許されても未だ神のものとはされておらず、未だに神に心から従い、神を心から礼拝することができないことを証明しています。人々は主を信じて、それぞれの罪を許していただいても、そして神の御恵みをどれだけ受けようとも、彼らは変わらずサタンの支配下で生きていると言えるでしょう。彼らは依然としてサタンに属しています。これは疑う余地のない事実なのです。」本映画は、’私たちはどうして主を信じ、罪を許していただいた後も頻繁に罪を犯し続けるのか?’、’私たちはどうしてどれだけ努力しても罪の束縛と抑制から逃れられないのか?’、’『救われること』と『救い』の違いは何か?」といった疑問についても深く説明しています。そして、本映画は全能神の表す真理を通じてこれらの疑問に含まれた奥義を明らかにし、人々が心に抱く困惑を解決します。本映画は疑問を提起し、神の御言葉の中で明らかにされる答えを交流しながらストーリーの大半を語り、それによってストーリーの筋を展開させて映画を緊張感のあるものにしています。

2つ目の誤解:私たちはある程度の働きをこなし、方々へ行って尽力し、苦しみ耐えるだけで救われる。

  本映画の前半の筋はそのいくつかが主人公であるスー・ヂィチアンは一生懸命に働き、奔走し、苦しみにも耐えていることを表しています。例えば、彼の妻が逮捕された後、彼の娘は彼を見つけて涙を流しながらそのことを彼に伝えます。これを聞いた彼は理性的に行動し、彼女を慰めてこう言いました、「この日がやって来ることは分かっていた。」これより、彼は主を信仰する中で苦しむことへの強い願望を持っているため、この状況の中でも不満を口にしないことが分かります。

  仕事がこなせる上に、説教を説いて兄弟姉妹の問題を解決できるスー・ヂィチアンはとても人気があり、高く称賛されています。これ故に、彼は心理の実相を知っており、救われることからさほど遠くはないと思っています。しかしこの時、彼と共に働くリー兄弟はこう言って彼の問題をいくつか指摘します、「私はあなたが私に似ていることに気が付きました。私たちには同じ問題があります。私たちは説教の中で自分たちの理解や啓蒙について話すことは多いですが、私たちの実体験については十分に話せていません。例えば、私たちは神の御言葉を交流するとき、自分たちの状態や自分たちの中から明らかになる反抗的な姿勢と堕落について、私たちが自分たちのサタンのような本質をどのように理解しているか、もしくはそれを解決するためにどのようにして心理を求めているか、そしてどのような変化を遂げたのかについてはほとんど話すことがありません。私たちは共にこういった詳細を欠いています。私たちは自分たちの説教の中で他人の問題を解決する方法にだけ集中して真理はほとんど実践できていません。私たちは他人に聖霊の働きを備えてはいますが、実践経験は全く持っていません。私たちが他人に対して行う真理の交流は明確なものですが、私たち自身は真理の実相にほとんど入れていないのです。これが私たちに共通する欠陥です。」リー兄弟の言葉はスー・ヂィチアンを沈思させました。その後、彼は神の言葉を読み、そして自らを省みた結果、神の御心と要件を知り、そして他人に対して説教を説くことに集中していても自らが真理を実践していなければ真理を得て救われることはないのだと気が付きます。彼は突然、夢から目覚めたかのように、自分が危険な状態にあることに気が付きます。

  その後、主人公は妻が中国共産党警察によって殴殺されたことを知ります。この思いがけないショックを受けた彼は心の中で極度の苦しみと悲しみに陥ります。ストーリーはこの時点で完結に近い所まできています。しかし、私はこれが本映画のクライマックスだと思っています。スー・ヂィチアンは妻の死から痛烈な打撃を受け、この中で彼は否定的な考えと状態を多く見せます。その時初めて、彼は神への信仰における自らの卑劣な動機と不純さを知るのです。彼はまた自分の霊的背丈は本当にとても低く、神に対する信念や真理の実相を全く持っていないことも知ります。最も重要なのは、多くの働きを行い、多くの苦しみに耐え、多くの道を歩んだとしても、それは彼が苦難や試練の中で神の証を立てて神を満足させられることを意味しているわけではないことに彼が気が付いたということです。自らを省みたスー・ヂィチアンは神を信仰する上で自らが歩んだ道を深く知り、それはまた視聴者にもインスピレーションをもたらします。

  「山河は改めやすいが,人の本性は移し難い。」という諺にもあるように、私たち人類は神によって罪から救っていただき、罪に属さなくなったにも関わらず、私たちの内には依然として堕落が残っているため、私たちは未だに神を知らず、神に対する反抗と抵抗で満ちています。これについて全能神はこう仰っておられます、「あなたがたがわたしを裏切る可能性は依然として100パーセントである…」

  映画の最後に、主人公のスー・ヂィチアンは溜息をついてこう言います、「私は偽善的なパリサイ人と何が違うというのか?」この言葉は本当に意味深いものです。これは彼が神の御心を理解した後に心の底から表した言葉であり、それはまた、私たちが慎重に熟考する必要がある疑問でもあります。

  本映画は救いに関する2つの誤解の根源、興味深いトピック、そして人間がこれら2つの誤解を持っていることの発現とその結果を上手に指摘しています。さらに重要なこととして、本映画は視聴者に誤解を一掃する方法を示し、人々に救いを受けて天国に入る希望をもたらし、人々が新の救いに関する新たな理解を得られるようにしてくれます。「救い」というタイトルは本映画全体の脈絡となっています。主人公スー・ヂィチアンの実体験を通じ、本映画はその真義を説明し、クリスチャンに救いを求めるための方向性を指し示してくれます。これは本当に見る価値のある映画です。