いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

受肉した神と神に使われる人との本質的な違い

2020-08-31 21:35:55 | 賛美の心

受肉した神と神に使われる人との本質的な違い

   「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」(マタイによる福音書 3:11)


    関連する神の言葉

    受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。…

    …神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

    神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。今日、あなたがたは全員、サタンにより腐敗させられ、わたしを裏切っているのは人間のみであり、この問題はキリストと無関係であることを理解する必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

    受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行なえるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたときは、それは神性における神の働きが終了したことを意味する。その後は、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」より

    受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

    これまでの時代をとおして、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を駆使することができる。彼らは皆、人間としての行動の法則を知っている。彼らは普通の人間の観念をもち、一般的な人々がもつべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどが例外的な才能や生来の知性をもっている。これらの人々に働きかける際に、神の霊は、神からの授かりものである彼らの才能を役立てる。神の霊は彼らの才能を活用し、彼らの強みを神に仕えるために用いる。しかし、神の本質には観念や思惟はなく、人間の意図が混ざり込んでおらず、普通の人間が備えているものを欠いてさえする。つまり、神は人間の行動原則に精通さえしていないのである。これが今日の神が地上に来るときの様子である。その働きと言葉には、人間の意図や人間の考えが混ざり込んでおらず、それらは霊の意図の直接的な顕示であり、今日の神は直接に神の代わりに働く。これはつまり、人間の意図がほんの少しも混ざることなく、霊が直接語る、つまり神性が直接働きを為すことを意味している。言い換えると、受肉した神は直接的に神性を体現し、人間の思惟や観念をもたず、人間の行動原則に関する理解ももっていないということである。もし神性だけが働いていたならば(つまり、神自身だけが働いていたならば)、神の働きが地上で実行されることはなかったであろう。だから神が地上に来るとき、神性において神が行なう働きと関連して、人間性において働きを行なうために用いる少数の人々が必要なのである。言い換えるならば、神は神性の働きを支えるために、人間性の働きを使う。そうでなければ、人が神性の働きと直接に触れ合うことはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」より

    神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。…用いられる人々に聖霊が働きかけるとき、彼らの賜物も実際の力量も活動させられ、使わずに残されておかれることはない。彼らの実際の力量は働きに役立たせるためにすべて引き出される。聖霊は働きの成果を達成するために、人々の利用できる部分は使って働くと言うことができる。それに反して、人間の姿をした肉でなされる働きは聖霊の働きを直接表すことであり、人間の心や考えと混ぜ合わされることはなく、人の賜物や経験、あるいは生来の条件では到達不可能である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

    わたしの話はわたしの存在を表すが、わたしの言うことは人の力の及ぶものではない。わたしの言うことは人が経験することではなく、人に見えるものではなく、触れることができるものでもなく、わたしそのものである。一部の人はわたしが話すことは、わたしが経験したものであることだけは認めるが、聖霊の直接的表現であることを認識しない。もちろん、わたしの言うことはわたしが経験したことである。6000年にわたり、経営の働きをしてきたのはわたしである。わたしは人類創造の始めから今に至るまですべてを経験してきた。わたしがそのことについて語れないわけがあろうか。人の本性のこととなると、わたしはそれをはっきり見たし、長いこと観察してきた。それについてはっきり語れないわけがあろうか。人の本質をはっきり見てきたので、わたしには人を罰したり、裁いたりする資格がある。人はすべてわたしからもたらされたのに、サタンによって堕落させられたからである。もちろん、わたしはこれまでわたしが行ってきた働きを評価する資格もある。この働きはわたしの肉によってなされることではないが、聖霊の直接的表現であり、これはわたしが持っているもの、わたしそのものである。したがって、わたしはそれを表し、わたしのなすべき働きを行う資格がある。人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

    神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。…人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 


教会音楽「聖霊の新しい業に従い神の賞賛を得る」歌詞付き

2020-08-29 18:57:22 | 賛美の心

教会音楽「聖霊の新しい業に従い神の賞賛を得る」歌詞付き

聖霊の業に従うとは
今日の神の意志を理解すること
要求に沿って行動し
今日の神に従うこと
神が今望むことに従い
神の新たな言葉により真の道に入ること
そのような人々が聖霊の業に従う
彼らは聖霊の流れの中神を見て賞賛を得る
彼らは神の性質
人の観念や不従順さ 性質や本性を知り
彼らの性質は神に仕える過程で変化する
このような人々だけが神を得ることができる
このような人々だけが
唯一の真の道を見出した者たち

神の最新の業の認識を得るのは容易ではないが
もし意図的に神の業に従い、探し求めるなら
神を見るチャンスと聖霊の新たな導きを得て
彼らの性質は神に仕える過程で変化する
このような人々だけが神を得ることができる
このような人々だけが
唯一の真の道を見出した者たち
神の業に敢えて逆らうものは
聖霊の啓示や神の導きを受けられない
神の最新の業を受けることができるかどうかは
神の恵みと彼らの追求と意図次第である
『小羊に従って新しい歌を歌おう』よりご不明な点がありましたら、ご連絡ください。

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礼拝賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

2020-08-28 18:31:28 | 賛美の心

礼拝賛美歌「神は人をかけがえのない存在として見守る」歌詞付き

神は人々を創った
全ての人を創った
人が神に従っても
逆に人が堕落したとしても
神は人々を見守る
全ての人を見守る
かけがえのない存在として
かけがえのない 我が子のように
人々は神にとって おもちゃではない
神は創造主であり
人は神の被造物である
そう言うと
神と人との階級が 異なるように聞こえるが
神が人々のために 行う全てのことは
お互いの関係を 遥かに超えたものである
神はいつでも 人々を愛し思いやり
どんな時でも 心を配っているのだ
神は人々に与える
絶えることなく与える
余計なことと思うことなく
賞賛さえも必要とはしない
神は人々を救い
その必要を満たして
全てのものを与えることを
大きな貢献だとは思わない
神はただ神自身のやり方で
神の本質と性質と 神の存在そのもので
静かな沈黙の内に 人々の必要を満たしてくれる
人が神から多くのものを 授かっても
神は決して 報酬を求めたりしない
それは神の本質によって 定められ
神のその性質に 確かに叶っているのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


どのように聖書を正しく取り扱うべきか

2020-08-27 22:05:32 | 賛美の心

どのように聖書を正しく取り扱うべきか

 聖書は神様の働きを記録された本である

     聖書は、キリスト教の唯一の宝典であり、旧約聖書と新約聖書二つの主要な部分が含まれ、主に神様が行った二つの段階の働きを記録されており、一つはヤーウェ神が律法の時代での働き、もう一つは主イエスが恵みの時代での働きです。


    旧約聖書は、神様が律法の時代で行った働きを記録されています。「創世記」から「マラキ書」までは、ヤーウェ神が律法の時代での働きのすべての記録です。旧約時代では、神様は二つの働きを行い、一つは創造の働き、神様が言葉によって天地万物を創造され、言葉が話されるやいなや、すべてのことが成し遂げられ、言葉と事実は同時に起こります。もう一つは神様が律法を発布され人間の生活を導く働きです。最初の人間はどうやって生活するかを知らず、ヤーウェ神はモーセを用いて律法と戒めを発布され、人間の生活を導かれます。律法の導きの下で、人間は罪とは何か、どのように戒めを守るべきか、どのように神様を礼拝すべきかなどを理解し、神様の導きがある生活を送り始めました。

    新約聖書は神様が恵みの時代での働きを記録されています。主イエスは、受肉して人々の間に来られ、天国の福音をもたらし、人々に悔い改めの道を伝え、私たちは主イエスがなさった働きを受け入れて、神様に罪を告白し、悔い改めれば、罪が赦され、律法違反によって死刑を宣告される危険を免れました。主イエスが働きの間に多くの奇跡やしるしを行い、例えば、風と荒浪をなぎにさせ、五つのパンと二ひきの魚で五千人を満腹させ、死者を復活させたなど、人々に豊かな恵みをもたらしました。主イエスの働きは主に四つの福音書に記録され、私たちは四つの福音書を読んでこそ、主イエスがキリストであり、受肉した神様であることを認識できます。主イエスは私たちを贖うために、十字架で釘づけにされ、私たちに神様の憐れみと慈しみの性質、神様の人類に対する本当の愛を認識させます。

    それ以外に、聖書の黙示録は神様が世の終わりになさる働きを預言されています。ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録2:7)「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。 」(ヨハネの黙示録14:7)この二つの聖句から、私たちは主が戻って来られる時に、言葉を語り裁きの働きを行われ、神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、神様の終わりの日の救いを得られて、天国へ引き上げられることが分かりました。

     聖書を読むことを通して、私たちは神様のなさった働きを理解でき、神様の全能と支配、奇しき業に対して本当の認識を少し得られ、神様の私たち人類への愛、私たちを救う意図に対しても少し認識でき、心から神様に感謝すると共に、一生涯を神様に付き従い、神様を愛することを願っています。確かに聖書は私たちが神様を認識する仲介です。

聖書の言葉はすべて神様の言葉ではない
    ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉は聖書に記録されているが、ヤーウェ神と主イエスの言葉の他に、一部は預言者の預言と神様に使われた人の経験と認識があります。神様の言葉は真理であり、正しく間違いないが、人の言葉には人の意志の混じり、或いは誤差があることを免れません。例えば、弟子マタイが記録した主イエスの系図、主イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子(マタイによる福音書1:1−16)であったと述べているが、主イエスは自分がダビデの子孫であることを認めません。(マタイによる福音書22:41−45)主イエスは聖霊によって身ごもられ、受肉した神様であり、どうして系図があり得ようか。またマタイによる福音書に記録したペテロが主を三回に渡り否定したことと、マルコによる福音書に記録したことと違いがあります。(マタイによる福音書26:75、マルコによる福音書14:72)そして、聖書にはベビがエバを誘惑する言葉、サタンの言葉、ロバがバラムへの言葉があり、そのため、私たちは聖書に対して純粋に受け入れ、聖書の言葉を皆神様の言葉として取り扱ってはならず、もし聖書の言葉を神様の言葉として取り扱えば、これは私たちの間違いです。

聖書の著者は人である
    聖書の著者は約40名余り、これらの人は預言者、使徒、弟子などいます。聖書の中に、ヤーウェ神の言葉、主イエスの言葉、及び神様が直接預言者に啓示された言葉を除き、残りは皆歴史の記録と人の経験と認識です。例えば、新約の四つの福音書は一部の著者は本人が主イエスの教えを聞いた後に記録したもの、一部は伝道者の説教により、本人が考察した後に書いたもの、神様が直接彼たちに啓示されたものではありません。(ルカによる福音書1:1−2)そのため、聖書の著者は人であり、神様ではありません。

まとめ
    上記の交わりを通して、私たちは聖書の一部が神様のなさった働きを記録した書籍であることを認識でき、聖書の言葉はすべて神様の言葉ではなく、中には人の言葉があり、聖書の著者は神様ではなく、人です。そのため、私たちは正しく聖書を取り扱い、聖書を神様として取り扱ってはなりません。

聖書とはどのような書物か、どのように形成されたか、あなたは知っているのか