いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

なぜ新しいいのちを得るために神を信じる人たちは祈り、集まり、神の言葉を読まなければならないのか。

2020-03-31 18:24:43 | 賛美の心

 

神の御言葉による答え:

 祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。

「祈りの実践について」より

 わたしは言葉を話し終えたというのに、人々はまだ充分理解していない。これは彼らが資質に欠けているからである。この問題は教会生活とお互いの交わりによって解決することができる。

「実践(1)」より

 神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、言葉を読んでも読まなくても結果は同じだと考える人がいる。それは正常な状態ではない。そうした人の心は現実に入ることを渇望しておらず、そうした人は完全にされることを渇望せず、重要視もしない。自分が神の言葉に渇いていないことに気づくときはいつでも、あなたの状態が正常でないことを表している。…だから、どのような状態でも、忙しかろうと、そうでなかろうと、困難な状況にあろうと、そうでなかろうと、試練を受けていようといまいと、神の言葉を飲み食いしなければならない。結局のところ、神の言葉が人間存在の基なのだ。誰一人、神の言葉から離れることはできない。神の言葉を一日三度の食事のようにとらなければいけない。神に完全にしてもらい、神のものとされることは、そんなに単純なことなのだろうか。今あなたが理解しているか、あるいは、神の働きについて悟っているかどうかにかかわらず、神の言葉をもっと飲み食いしなければいけない。これが積極的に成長するということだ。神の言葉を読んだ後で、成長できることを急いで実践しなさい。そして、できないことはそのままにしておきなさい。…神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。そうした人たちは、ただなりゆきにまかせているだけで、荘子の寓話に登場する[a]南郭氏のように、本物の資格もないのに、そのふりをしているだけだ。

 ……

 神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、[b]あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。

 言葉の時代、つまり、千年神の国の時代に入ることが、今達成されつつある働きである。今からは、神の言葉についての交流を行いなさい。神の言葉を飲み食いし、実践することによってのみ、あなたは神の言葉を示すことができる。経験からくる言葉によってだけ、他の人々はあなたの言うことを信じるようになる。神の言葉をもたないのなら、誰も信じさせることはできない。神に用いられる者は、神の言葉を語れる。できないのなら、それは、聖霊があなたの内に働いておらず、あなたはまだ完全にされていないということだ。これが神の言葉の重要性である。あなたの心には、神の言葉への渇きがあるだろうか。神の言葉への渇きを覚える者は、真理に渇き、そうした人々だけが、神の祝福を受ける。将来、神はあらゆる宗派・教派にもっと多くを語るだろう。神はまず、あなたがたの間で言葉を述べて、あなたがたを完全にする。その後で、異邦人たちに語り、彼らを征服する。言葉により、すべての人は心から完全に確信する。神の言葉と啓示とにより、人間の堕落した性質は消えていく。みな人間の姿になり、人間の反抗的な性質もまた減じる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神がこの時代になす働きは、神の働きの転機同様、すべて神の言葉の中にある。神の言葉を読まないなら、あなたは何も理解しない。自ら神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わり、実際の体験を通じて、神の言葉についての認識は包括的なものとなる。そのようにしてはじめて、実際に神の言葉を生きることができる。

「神の国の時代は言葉の時代」より

 人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。…したがって、あなたは、真理を携えてどこへでも行けるが、自分の内に一つの真理もないなら、宗教的人間はおろか、あなたの家族を説得しようなどと思ってはならない。真理無しでは、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば、幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。理論がいかに強力でも、それは真理に打ち勝つことができない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かすことができるが、一方真理の無いところには、うじ虫による腐敗がもたらされる。それは事実にほかならない。

「真理を理解したらそれを実行せよ」より


人間生存のために神が作った最も基本的条件から、神が人類に与えるものが分かります

2020-03-29 19:26:32 | 賛美の心

 人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。

   たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っていますか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。(はい。)神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長様式を明瞭に見ることができ、万物の成長様式を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。それを「万物」と呼ぶことはできません。それはただ人間の目に見えるものに過ぎません。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるものは、目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の様式や万物の成長様式を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その様式は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。


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ご覧なさい。福音の種はふわふわと飛び、大地に蒔かれている最中です – タンポポの綿毛の種を通して送られた愛をあなたは受け取りましたか

2020-03-28 09:59:03 | 賛美の心

 太陽のような黄色い花が芝生の上に点在しています。これらの花はバラのように華やかでもなければ、百合のような上品さもありません。これらの花は美しいドレスも、豊かな果実も身に着けず、注目もされません。その姿は、丘でも、空き地でも、道端でも、街角でも、いたる所で見受けられます。秋が来ると、これらの花は徐々に熟して、命の種を付けた無数の小さな傘のふわふわの白ボールとなり、風に乗って、命の種をいつまでも遠くまで飛び続けます。それがタンポポです!子供たちはタンポポの綿毛にとても執着しているようです。彼らは誰もが綿毛を摘み取り、種の傘を吹き飛ばします。小さな傘がふわふわと飛んでいくのを見ると、彼らの優しくあどけない顔が決まって幸せそうな笑顔になります。これが、タンポポが人々にもたらす喜びです⋯⋯

 私はタンポポが私たちにもたらすこの喜びも好きですが、本当に好きなのは、それが私たちにもたらす利益です。神様がそれを創造されました。それは医薬品としても優れた薬草であるだけではなく、その生命力は特に粘り強いものがあります:風に乗って移動し、種が着陸した所で根を張り、花を咲かせます。何年も何年も、命を地球のすべての片隅にもたらすという独特の使命を厳密に守っています。タンポポの綿毛が風に乗ってふわふわと飛んでいるのを見る度、主イエス様の次の御言葉について考えずにはいられません:「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12:24)。そうです。種は死にますが、それは10倍ないし100倍の果実をもたらします。まるでタンポポの種のように、神様の福音は、愛といのちにより、世界中のあらゆる場所に行き渡っています。

 私は聖書に次の記述を思い出します:「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネによる福音書3:16-17)。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:7-8)。聖書のこれらの聖句から、私は神様の愛が広大であることを深く感じました。当時、神様は、33年と6ヶ月の間、人の息子として、食べ、眠り、人々と暮らすことで、ユダヤでその御働きを行われました。神様は人々が罪にまみれて生活する惨めさを目の当たりにされ、正しい道を歩けるよう、彼らを導く御言葉を発せられました。最終的に、彼らが罪に苦しむいのちを排除できるよう、神様は十字架にかけられ、罪深い肉のようになり、人々の罪を引き受け、彼らの罪が贖われるようにしました。神様の御知恵と全能性が人類の罪を贖う御働きを達成された後、神様はその福音を世界の果てまで説くよう、弟子達に委ねました。神様に運命づけられ、使命を委ねられた多くの敬虔なクリスチャンは、聖霊により動かされ、その使命を担い、布教の旅に出ました。彼らに待ち受ける旅が過酷で困難なものであっても、彼らは、より多くの魂が神様の側に帰依できるよう、自らの命を賭して、海を渡って行きました。神様の御導きのもと、神様の福音は世界の隅々まで広まり、神様の御名は誰もが知り、既に日常語となっています。

 私はため息をつかずにはいられません:何世代にも渡り存在した数多くの宣教師は目立つことなく、名前すら知られていませんが、私は彼らの信仰と特異な経験に強く感心しました。彼らは計り知れない苦しみに耐え、笑われ、バカにされ、多くの人々に叩かれ叱責され、迫害され、投獄されました。中には命を落とす人もいましたが、躊躇せずに前進し続けました。躊躇せずに福音を広める道を歩むことを可能にしたのは、どのような力なのでしょうか?私は主イエス様の御言葉を思い出しました:「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコによる福音書16:15)。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカによる福音書9:23)。主の御言葉から、私は次のことを理解しました:時代を超えた聖人達は、神様の御激励により福音を説くことができたのです。彼らは、人類の罪を贖うという神様の福音を世俗的な人々に説くのだという使命を掲げて、これを行いました。より多くの人が神様の御心を理解し、十字架を背負い、主についていき、主と力を合わせて魂を救う重荷を引き受け、有意義ないのちを生きていけるようになることを神様が強く望んでおられると、私は感じます。

 福音を説く兄弟姉妹は目を引くような外見をしてませんでしたが、彼らの口から伝えたのはすべて、偽りのない言葉でした。彼らは親切な心で、神様の御言葉を記載した本を次から次へと人々に渡していましたが、彼らが得たものは拒絶やからかいでした。他者から侮辱や中傷を受けることさえありました。一方で、時には神様の福音を人々が受け入れるという喜びを味わうこともありました。結果がどうであれ、彼らには神様の愛に報いたいという敬虔なクリスチャンの心根を変えることができませんでした。これを目にする度、私の心は感動し、創造主を満足させるための働きを行う機会が得られたことはとても恵まれたことなのだと感じました。現在、神様の御前に来ていない人々が未だに数多くいます。私は全力を尽くし、神様と協力して、神様の福音を周りの人々に説き、神様の御前により多くの魂をお連れしたいと思います。それにより、より多くの人々が世俗的な快楽の害を断ち切り、神様を知り、神様を賛美し、 神様の注意深い御目のもとで守られるようになることを望むからです。これは、創造物である私の使命です。

 タンポポの綿毛が運ぶ種は、まだふわふわと飛び、大地に蒔かれている最中です。使命、期待、深い愛により、これらは、世界のいたる所まで飛んでいきます⋯⋯


神様の一言一言はその性質の表れである

2020-03-27 09:42:35 | 賛美の心

山東省徳州市 胡珂

 神様の次の言葉を読む度に私は不安になりました。「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より)私が不安を感じていたのは、神様の性質を理解することが、神様に関する人間の認識と、神様を愛し、神様に喜んでいただこうと求めることの両方にとって、とても大切だからです。しかし神様の御言葉を飲み食いするにあたって、私はいつも神様の性質が抽象的すぎると感じ、どのように認識すればいいのかわかりませんでした。その後、指導者との交わりを通じて、神様が何を好まれ何を嫌われるかはその御言葉から学ぶべきで、それによって神様の性質を理解できるようになるのだとわかりました。続いてしばらくそれを実践したところ、ある程度の成果を挙げることができました。しかしそれでもまだ「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の言葉に困惑を感じ、いったいどう理解すればよいのかわかりませんでした。


 ある日、私は次の説教の言葉を読みました。「神様の性質には、神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いや考え、思考や知恵など、様々な側面が含まれます。神様の憐れみと配慮の感情、さらには人類の反抗や抵抗に対する怒りなど、ありとあらゆる人に対する神様の態度を含んでいるのです。神様の各文章には神様の思考、知恵、考えが含まれ、そのすべてに神様の御言葉の背景と源があり、どれも神様の人間への態度を自然と表し、一文たりとも根拠のないものはないので、各文に神様の性質が含まれているのはごく当然のことです。人間の口にする一言一句が人の性質を表すなら、神様の一言一句には神様の性質がはるかに多く含まれませんか。それは容易に理解できるものですが、それを見つけて知ることは人が想像するほど簡単ではありません。神様の言葉を読むにあたって、十分に理解しようとせず、努力を十分傾けず、十分な経験もないのであれば、神様の性質を簡単に知覚することはできず、ましてや理解するなど困難です。そのため、人は神様の御前で自分を静め、心をひたすら神様の御言葉に集中させ、祈りながら御言葉を読み、それを理解しようと努めることが必要なのです。そうすれば神様の御言葉の裏にある考え方の枠組みを見いだせるようになります」(兄弟の交わりより)。この言葉を読んですべての辻褄が合いました。神様の性質が数多くの要素を含んでいることに気づいたのです。そこには神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いと考え、思考と知恵、そしてあらゆる人に対する神様の態度などが含まれています。さらに、神様の各文章には御言葉の一語一語の背景と源があり、根拠のない文章は一つもなく、神様がなさるすべてのことと、神様がお語りになるすべての文章は、いのちにおける神様の存在そのものを残らず自然に表しています。一方、神様の性質に関する私の理解は、神様が何を好まれ何を嫌われるかだけに限られていました。このような理解はあまりに一方的であり、そのせいで神様の各文章から神様の性質を理解することができなかったのです。これ以外にも、神様の性質を神様の各文章から理解したければ、神様の御前で自分を静め、神様の御言葉を理解しようとすることにもっと努力を傾ける必要があるとも知りました。さらに、神様の御前で祈ってお導きを求め、神様がお語りになった御言葉の裏にある考え方の枠組みと、神様の御業の背景と源を理解することに集中する必要もあったのです。

 私はこれらのことに気付かせてくれた神様の啓きと照らしに感謝し、その後はその側面の実践をして入ってゆくことに集中しました。そんなある日、神様の御言葉の一節を読みました。「この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。」(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている」より)この御言葉を慎重に理解しようとしていると、すごい宝物を発見したかのように感じました。神様の御言葉は、終わりの日にどのような方法で働きをなさるかについて、その時点における神様の考えの進展を示しています。考えが進展する中で、神様が最初に検討なさったのは、どの方法を用いればこの働きにおいて最も人間の益となるのか、人間を救うにあたって成果を挙げるにはどうするのが最善なのか、サタンに敗北を受け入れさせ、それによってサタンを征服し、深く傷つけられた人を完璧な救いへと導くにはどうすべきかということです。考えを巡らせる中で、神様は常に人間のことを気になさり、ご自分の益や安全は決して気になさいませんでした。神様は受肉によって多くの苦難を受けるであろうことをはっきり知りながらも、人類を救うとなると、それは考慮の対象ではありませんでした。その代わりに、神様は人類が必要としているものと、人類の堕落の現実に基づき、終わりの日の働きをなさるために、肉となる方法を選ばれました。大きな危険を冒して虎の住処の奥へ入り、赤い大きな竜によるひどい迫害と追及に苦しみ、様々な宗教や教派からの罵りと冒涜に耐え、さらには神様に従う私たちからの抵抗、反抗そして誤解にも耐えています。神様が心に負った傷や非難、そして神様が耐える屈辱は、まことに誰ひとり理解することができないものです。神様が表現し、明らかになさることはすべて、いのちにおける神様の存在そのものです。神様の人に対する無私の献身と、人のために払う代価なのです。神様が偉大にして無私でいらっしゃることは、その働きと各文章に自然と現れており、またそれらは神様の素晴らしい憐れみと無私の愛をも象徴しています。人類に対する神様の愛は単なる空虚な言葉ではなく、神がお払いになる実際の代価なのです。その時、神様は本当に偉大で愛しい方だとはっきり感じました。これらの神様の御言葉は以前に読んだことがありましたが、キリストがお語りになった御言葉の背景や、それらが明らかにしたすべてのことは理解しておらず、人類に対するキリストの愛も理解していませんでした。いま初めて、「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の御言葉を真に理解できたのです。

 それまで、私は心を静めたことも、神様の御言葉を理解しようと真剣に努めたこともなかったせいで、今日に至っても神様に対する多くの観念と誤解を抱いたまま、いまだに神様から遠ざかっているほど、神様を理解するたくさんの好機を失ってしまいました。いまようやく、神様の性質を理解したいのであれば、神様の各文章にある真理を真剣に突き止め、求めようとしなければならないことがわかりました。そうすることできっと大きな益を得られます。今日からは、神様の御言葉により多くの努力を集中させ、神様について何らかの認識をもつ人に早くなろうと思います。


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物語:種、土、木、日光、鳴き鳥、そして人間

2020-03-26 09:05:53 | 賛美の心

 一粒の種が、土に落ちた。大雨が降った後、種は柔らかい芽を出し、根はゆっくりと種の下にある土の中に入っていった。やがて、激しい雨風に負けず、変わる季節の中で、月の満ち欠けとともに、その芽は伸びていった。夏には、芽が激しい暑さに耐えられるように土が水を与えた。その芽は、土のおかげで暑さを感じなかったので、夏の暑さの中で生き延びた。冬になると、土は芽を暖かく包み込み、土と芽はしっかりと抱き合った。そして、土の温かさのおかげで、芽は厳しい冬を生き延び、吹雪の中でも無事であった。芽は、土に守られ、立派に伸びてゆき、幸せであった。芽は、土が与えた無私の育みにより、高く立派に伸びていった。芽は幸せに伸びていった。芽は、雨が降ると雨音と共に歌い、風が吹くと風に合わせて揺れ、踊った。こうして、芽と土はお互いを頼りにしていた。

 それから長い年月が過ぎ、芽は大樹へと育った。その木は太い枝を付け、その先には無数の葉を付けて、土の上に力強く立っていた。その木の根は以前と同様に土に入っていたが、土の中に深く根ざしていた。芽を保護していた土は、力強い木の基礎となった。

 日光が木に降り注ぐと、木の幹が揺れた。木は、枝を広げて、光を深く吸収した。木の下にある土は、その木と息を合わせて呼吸し、若返ったように感じていた。その時、新鮮な風が枝の間に吹き込み、木は楽しそうに揺れ、活力に満ちていた。こうして、木と日光は、互いを頼りにしていた。

 人間は涼しい木陰に座り、さわやかでかぐわしい空気の恩恵に与った。空気は人間の心臓や肺、血液を清めた。人間は疲れや負担を感じなくなった。こうして、人間と木は、互いを頼りにしていた。

 鳴き鳥の群れが木の枝に留まって鳴いた。鳴き鳥の群れは、おそらく敵から身を隠していたか、繁殖して雛を育てていたか、あるいは少し休憩していたのであろう。こうして、鳴き鳥と木は、互いを頼りにしていた。

 木の根は曲がりくねって絡み合い、土の中に深く根ざしていた。木の幹は土を風雨から守り、大きな枝を伸ばし、その下の土を守っていた。なぜなら、土は木の母だからである。木と土は共に生き、互いを頼りにし、決して離れて暮らすことは無かった。

 種など、今述べた物は、全てあなたがたが以前に見たことのあるもので、知っているものである。種が木に成長する過程は、あなたが詳細に観察した事の無いかも知れないが、それが事実であることは知っているであろう。(その通りである。)土と日光は知っているであろう。鳴き鳥が木に留まっている光景は、全ての人間が見たことのあるものであろう。(その通りである。)また、木陰で涼む人々も見たことがあるであろう。(見たことがある。)それでは、こうした物がひとつの構図に含まれている場合、あなたがたは、どのように感じるであろうか。(調和を感じる。)この構図に含まれている物は、全て神がもたらしたものであろうか。(神がもたらされたものである。)これらの物は神によりもたらされたものなので、神はこうした物が地球上に共存していることの価値や重要性を知っている。神が万物を造った時、それぞれの物について神には計画があったので、神が造った物それぞれが神の心を示し、神は造った物それぞれに命を吹き込んだ。神は人間の生活環境を造ったが、それは今話した物語でも述べられている。この物語では、種と土との相互依存関係、すなわち土が種を育み、種は土と結びついていることが述べられていた。これら2つの物の関係は、最初の時から神により決められていたであろう。(その通りである。)この光景に登場する木、日光、鳴き鳥、そして人間は、神が人間のために造った生活環境の一例ではないだろうか。(その通りである。)まず、木は土から離れることが出来るだろうか。(出来ない。)木は日光無しで生きることが出来るだろうか。(出来ない。)それならば、神が木を造った目的は何であろうか。それは土のためだけであると言えるであろうか。それは鳴き鳥のためだけであると言えるであろうか。それは人間のためだけであると言えるであろうか。(言えない。)それらの物同士の関係は、どのようなものであろうか。それらの物同士の関係は、お互いから離れることが出来ない、一種の相互依存である。土、木、日光、鳴き鳥、そして人間は、相互に頼り合って生活し、お互いに育み合っている。木は土を守り、土は木を育み、日光は木に与え、木は日光から新鮮な空気を作り出し、土を日光の熱から守っている。最終的にこうしたことの恩恵を受けるのは、何であろうか。こうしたことから利益を受けるのは、人間であろう。(その通りである。)そして、これは神が人間の生活環境を造った理由の背景にある原則のひとつであり、またその当初の計画のひとつでもある。これは単純な描写であるが、神の知恵と意図を見出すことができる。人類は土や木、鳴き鳥、日光なくしては、生きられないであろう。これは物語であるが、神の宇宙創造の小世界であり、人間に対する生活環境の授与である。

 神は人間のために天と地、万物を造り、そして生活環境も造った。まず、この物語で述べたことの要点は、万物の相互的関連性と、相互依存である。この原則では、人類の生活環境が保護されており、存続する。この生活環境の存在のため、人類は繁栄し、子孫を残すことができる。この物語では、木、土、日光、鳴き鳥、人間が登場する。この物語には、神が存在したであろうか。人間には見えないかもしれない。表面的には、神が不在であると思われるが、人々は、この物語に物同士の相互関連性の原則が存在することが分かるであろう。人間は、この規則によって、神が存在し、神が支配者であることを理解できる。そうではないか。神はこうした原則と規則を用いて、万物の命と存在を維持している。神は、この方法により万物や人類に施す。この物語には、ここでたった今議論したことと関連しているであろうか。(関連している。)表面的には関連性が無いように思われるが、実際には、創造主たる神が定めた規則と神による万物の支配は、神が万物の命の源であることと密接に結びついており、不可分な関連性がある。そうではないか。(関連している。)あなたがたは、ちょっとした知識を得たであろう。

 神は、万物を支配する規則の主であり、神は万物の存続を律する規則を支配し、また神は宇宙や万物も、共生できるように支配する。神はそれらの物事が絶滅したり消滅したりしないよう、支配するので、人類は存続することが可能であり、そうした環境で神の主導のもとに生活できる。万物を支配するこれらの規則は神の支配権の下にあるものの、人類はその規則に干渉することも、その規則を変更することも出来ない。これらの規則を知り、管理するのは神自身のみである。木々はいつ芽吹くか、雨はいつ降るか、土がどの程度の水と栄養素を植物に与えるか、葉はどの季節に落ちるか、木々はどの季節に実を結ぶか、日光はどの程度のエネルギーを木々に与えるか、日光から得たエネルギーにより木々は何を排出するか、といった事柄は、全て神が宇宙を造った時に決められていることであり、人間が破ることの出来ない律法である。生物も、人間には生物であるとは見えない物も、神により造られたものは神の掌中にあり、神の支配の下にある。この規則を変えたり違反したり出来る人間は居ない。つまり、神が万物を造った時、神は万物がどうあるべきかを定めた。木は土が無ければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することも出来ない。木の無い土は、どのようなものとなるであろうか。土は干上がるであろう。そうではないだろうか。(その通りである。)また、木は鳴き鳥の住処であり、風から身を守る場所でもある。木は日光無しでも問題無いであろうか。(それは問題となる。)木に土だけしか無かったとしたら、それは木に不適であろう。こうした事は、すべて人間と人間の生活を継続するためのものである。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守る土の上で生活する。人間は日光や他の生物が無ければ生活できない。これらの物同士の関係は複雑であるが、神は、万物が相互に関連し、依存して存在することが出来るように、万物を支配する規則を決めているということを、人間は明確に理解する必要がある。神が造った物には、その全てに価値と意味がある。神が意味の無いものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるであろう。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)これは、神が万物を与える際に用いる方法のひとつである。この物語のなかで「与える」とは何を意味するであろうか。神が毎日来て木に水をやっているであろうか。木が呼吸するには、神の助けが必要であろうか。(そのようなことは無い。)ここでは、「与える」とは、神が創造後に万物を管理していることを指す。神が必要としていたのは、全てを周到に機能させるための規則だけであった。木は土に植えられ、独力で成長した。木が成長するための条件は、すべて神により造られていた。神は日光、水、土、空気、周囲の環境、風、霜、雪、雨、四季を造った。これらの物事は木が成長するために必要なものであり、神が用意したものである。それならば、こうした生活環境の源は、神であろうか。(神である。)神は毎日出向いて木の葉の数を数えているだろうか。それは不要であろう。また、神は木が呼吸するのを助ける必要が無い。さらに、神は毎日「木を照らす時間だ」と言って日光を目覚めさせる必要は無い。神は、このようなことをする必要が無い。日光は定められた規則に従って自然に照らして木に降り注ぎ、木はそれを吸収する。この規則の下で、物事はこのようにして生活する。これはあなたがたが明確に説明できない現象かも知れないが、誰もが見たことがあり、認めている事実である。あなたに必要とされるのは、万物の存在に関する規則は神に由来するものであること、そして万物の成長と存続は、神の支配下にあるということを知ることである。これは、神が全ての命の源であるということを証明するものである。

 この物語では、人間が言うところの喩えが用いられているであろうか。(用いられていない。)この物語は擬人化されているであろうか。(擬人化されていない。)わたしが述べた物語は、事実である。生けるもの、存在するものは、全て神の支配権の下にある。万物は、神が造った後に命を与えられている。それは神から与えられた命であり、その命は、その命のために神が定めた律法と道に従う。この律法と道を人間が変える必要は無く、人間による支援も不要である。神は、このようにして万物に与える。これについては理解したことと思う。人間はこのことを認める必要があると、あなたがたは思うであろうか。(そう思う。)それでは、この物語には生物学が関連しているであろうか。この物語には、何らかの分野の知識や科学に関連しているだろうか。(関連していない。)ここでは生物学を議論しておらず、ましてや生物学的研究を行っているのでは無い。それでは、ここでの議論の要点は何であろうか。(神が全ての命の源であるということである。)創造物にはどのようなものがあるであろうか。木があるであろうか。土があるであろうか。(ある。)もちろん日光を見たことはあるであろう。木に留まっている鳴き鳥を見たことはあるだろうか。(見たことがある。)このような環境で生活している人間は幸福であろうか。(幸福である。)人間が生活する家屋を維持し、保護するために神が造ったものを、神は全て用いる。そしてそれが、神が人間や万物に与える方法である。


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