いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

クリスチャンが罪から開放される方法は存在します (II)

2020-02-29 12:43:43 | 賛美の心

寄稿家:カオ・シン(米国)

 私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

 そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

 これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

 神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

 その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

 その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

 私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。


あなたは神を信じますか?それとも権力を信じますか

2020-02-28 11:50:34 | 賛美の心

寄稿家:薄田樂子

私の抱える困惑
 私は主イエス様を信じるようになった後、神を信仰することの理解を得ました。しかし、世間のトレンドの影響を受けていた私は自然と、「何かについて意見をしたり、それが正しいのか、そうでないのかと判断する前に、私は先ず著名人や権力者たちがどういう意見を出しているのかを確認してから彼らの意見の方向性に従う」、という考え方をしていました。そして、私は自分が正しく、こうすることは他の大勢の人たちもやっているのだから比較的安全なことだと思っていました。真の道と偽の道を見分けるといった神への信仰に関する事柄についても、私は同じことをしていました。

 私は、母が初めて私に世の終わりの全能神の働きを説いてくれて、「私たちが待ちわびていた主イエス様が戻られたわ」、と言った時のことを覚えています。これに対する私のリアクションはというと、「これは本当かしら?お母さんは田舎の女性で知識も見識もないからなあ」、といったものでした。今彼女は全能神を信じていて、全能神は主イエス様の再臨だと私に言いますし、彼女はそれに対してとても熱心です。私の母は混乱していて、何の見識も持っていないのかもしれません。主イエス様の信者たちが通う教会は数多く存在し、それらはとても大きく壮大なものです。そこの説教師たちは神学校を卒業し、長年に渡って説教をしている経験豊富な牧師たちです。主は彼らにも伝えておられないのに、どうして私たちが主にお会いできるというのでしょう?これは単なる幻想に過ぎません。それに、主イエス様が本当に戻っておられるのなら、長年に渡って主に仕えてきた牧師と長老たちはそれを知っておられるはずですが、どうして彼らは知らないのでしょう?全能神が本当に主イエス様の再臨であるなら、どうして牧師と長老たちはそれを認めないのでしょう?私はこれが理解できませんでした。これ故に、母が主イエス様の再臨について私に証した時、それは真理と一致しているように感じましたが、依然として疑念を振り払えなかった私はそれを完全に受け入れることができませんでした。その後、母はある姉妹を私の自宅に連れてきて私と交流してもらい、私は彼女に自分の抱えていた困惑を説明しました。

答えを模索する
 私は姉妹にこう尋ねました、「あなたは主イエス様は肉に戻られ、新たな働きをされたと言っていますが、それがもし本当なら、長年に渡って主に仕えてきた教会の牧師と長老たちはこれを既に知っているはずだと思うのですが。あなたがこれを説いても、どうして彼らはそれを認めないのですか?」

 姉妹はこう交流しました、「ご存知の通り、神の本質は義であり、神を誠実に求める者たちは誰もが神の御啓示を受けます。私たちは誰もが、「遠い昔から、神は新しい働きを開始される時、先ずは誠実で、かつ自分の観念を脇に置いて神の新しい働きを受け入れられる者たちにそれを明らかにされましたが、それに反して、神は古い観念に固執し、傲慢かつ独善的な者たちからは御姿を隠しておられた」という事実を知っています。主イエス様はこう仰りました:「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」(マタイによる福音書11:25)。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 」(マタイによる福音書23:12)。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 … 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(マタイによる福音書5:3、6)。これらの節から、神は謙虚で、真理を求めて神に従う意思のある者を愛されることが分かります。律法の時代に、人々は皆、メシアの来臨を切望していました。人間の観念によると、メシアが来られる時は、神に仕え、ヤーウェ神の律法を説教していた祭司長、律法学者、そしてパリサイ人が最初にそれを知るものとされていました。しかし、主イエス様が来られた時、神は最初に東方の三博士と羊飼いにそれを明らかにされたのです。この祭司長、律法学者、そしてパリサイ人は主がメシアと呼ばれていなかったことを理由に、頑固に自分たちの観念に固執し、主を拒否していたのです。彼らは神を知らなかった盲目な者たちであり、最終的には主イエス様を十字架に釘付けにし、凶悪な罪を犯したのです。神は義なる御方であり、誰かを偏愛されることはありません。私たち1人1人が、謙虚で従順な心を持ち、自分の観念を脇に置くことができる限り、神の御啓示を得ることができるのです。

 世の終わりの最後に、主の再臨である全能神は御言葉を表しながら教会を起点に裁きの働きをされました。宗教的指導者たちは神が肉に戻られて新しい働きをされたと知った後、真理を切望してそれを求めた僅か数人のみが神の御啓蒙と御啓示を受けて世の終わりの全能神の働きに従うことができました。しかし、主を心から信仰していた兄弟姉妹たちはそれぞれの観念を脇に置くことができたため、その大多数が全能神の御言葉を耳にした後、神の御声に気が付き、神の御座に立ち返ることができました。これについて、主イエス様はこう仰りました:「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27). そして全能神はこう仰ります:「ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。」。この全能神の御言葉から、神は私たちの観念に従って働きをされるのではなく、むしろ神御自身の計画に基づいてされることが分かります。神は地位と評判の高い著名人や聖職に就く人物の前には現れず、むしろ謙虚で真理を求める人の前に現れます。神の信者として、私たちは神が現在お話しになる御言葉だけでなく、聖霊の働きも求めるべきです、なぜなら神の御言葉がある所には、神の足跡があり、神が御姿をお見せになる所には、真理、道、そしていのちがあるからです。私たちは、子羊の足跡について行くことを望むなら、神の働きを求め、それに従うために自分たちの観念を脇に置かなくてはなりません。

裁きに従う
 姉妹の交流を受けて、私は、神の働きは原則に基づいており、神は私たち人間の観念と想像に基づいた働きはされないと理解しました。私たちは想像物として、神の働きに従い、神の顕現を求めるべきです。そして、私は全能神の御言葉を読みました。これがその御言葉です:「一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と見なされる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校から来た牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、彼らの目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心にあるものは名声、繁栄、栄誉ばかりである。彼らは、そのような貧弱な人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人々を完全にすることができるなどと全く信じない。彼らは、塵と糞の中にいるとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。彼らは、もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない者たちを完全にすると決めたのであれば、先に挙げたこのような偉大な人たちは神自身になってしまうと信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚染されている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置く。彼らが重要視するものは大きな集団や宗派である。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。彼らはキリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。」「あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、有名な地位にある偽の指導者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむことを望まないが、あなたに肉、文字、支配しか与えない浅はかな反キリスト者たちの腕の中に喜んで入っていこうとするのである。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、あらゆるサタンの心の中にある彼らの地位に、彼らの影響力に、彼らの権威の方に向いているのに、あなたはキリストの働きを受け入れずに反抗と拒否の態度を持ち続けるのである。だから、あなたがキリストを認める信仰を持っていないとわたしは言うのだ。」神の御言葉は、真の道を偽の道から見分けることに対する私の誤った考え方を開示してくれました。私はいつも、強い影響力があって、評判の良い分派はいずれも真の道であると思っていました。私が心の中で称賛していたのは、彼らの評判、地位、そして力であり、私の神への信仰は真理のあり方を求めるためのものではなかったのです。牧師と長老たちの敬虔な振る舞いを見る度に、私の心の中で彼らに対する感心が膨らんで行きました。私は彼らは尊重に値するすぐれた徳を持ち、神から最も認められているに違いないとも感じていました。そして私は彼らと話ができるだけで光栄に感じることすらありました。しかし、私は彼らの貫きと啓示に真理があるのかどうか、幾年にも渡って神を信仰した後、彼らはいのちの性質において変化を遂げていたのかどうか、彼らは神を知っていたのかどうか、そして彼らは神を信仰する正しい道に私を導くことができるのかどうかを見極めることができませんでした。私はとても愚かで、人々を外面的にのみ判断し、それぞれの持つ本質を見極めることができませんでした。これは私が神を信じておらず、心の中では名声、地位、そして力を信じていたことを示していました。私は極めて愚かで、盲目だったのです!

道の発見
 その後、私は全能神の御言葉を読んで真の道を特定する原則を理解しました。全能神はこう仰っておられます:「真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は本来の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)本来の人間性すべてである。即ち、この道が人間を本来の人間性に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が本来の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを調べなければいけない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。」。神の御言葉から、私は、それが神御自身の働きであるなら、同時に聖霊の働き、ならびにその中に込められた真理の表れもあり、さらに、それは人間が神をより深く知るように仕向けてくれることを知りました。恵みの時代に、主イエス様は受肉され、十字架に磔にされたことで人類を贖う働きを成就され、慈悲深い、かつ慈愛の性質、ならびに恵みの時代を生きる人々が実践すべき真理をお見せになられました。それにより、人々は多大なる恵みと祝福を授かり、主の信者たち全員が神の性質と偉大なる御力を知ったのです。従って、過去の時代の聖徒たちは迫害と苦難の中で福音を伝導し、その多くは主のために殉教までしましたが、その全ては聖霊の働きが生み出した結果だったのです。世の終わりに、全能神は人間が神を知り、神から救われるために必要な真理を全て表してくださり、神の6000年の経営計画の目的、神の働きの原則、神の働きの3つの段階に関する奥深い真理、人間の将来の終着点など、神の経営計画の奥義全てを開示されました。全能神の働きと御言葉は各宗派と団体を揺すりました。聖霊の働きによる導きの下で、神の御国の福音は中国本土全体に広がりました。今神の御名前と御言葉は世界中の国々と場所にいる人々が探求し調査できるようにインターネット上で公表されています。全能神は世の終わりに義の支配する性質をお見せになり、裁きと清めの働きをされ、人間を清め救う働きを達成されます。全能神教会が製作した映画と動画より、全能神教会の兄弟姉妹たちは神の裁きと刑罰を受け、それによって彼らの人間性、理知、そして貫きは今まで以上に普通になり、彼らの堕落した性質は増々減り、彼らの神に対する知識は増々増え、神を礼拝し、神に従うという彼らのいのちの自然な表れは真なるもので、感動的なことであることが分かります。これは完全に聖霊の働きが起こした結果なのです。これ故に、私は全能神は主イエス様の再臨であり、真理そして真の道であると確信していたのです!神の御指導に感謝します!神の御言葉から、私たちは神の信者として聖霊の働きについて行くべきであり、喉を詰まらせることを恐れて食べるのを諦め、ただ単に座りこんで死ぬのを待つべきではないのだと理解しました。いのちのあり方は実際に探求、調査、そして体験することで得られるのです。神に感謝します!全能神の御言葉の御啓示と御指導がなければ、私は依然として誤った考え方に囚われたままとなり、神の御救いを逃していたでしょう。全ての栄光、全能神にあれ!


どのように教会に聖霊の働きがあるかどうかを見分けるのか

2020-02-27 19:00:29 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹


 数ヶ月前、私は所属していた教会の牧師たちが名声と利益のために争い、地位を手に入れるためにあれこれと企んでいるのを目撃しました。それは説教の中でもお互いを攻撃し、けなし合うほどでした。彼らの説教は聞いて喜ばしいものではなく、私たちは霊的な糧を得られないままでした。更には、多くの兄弟姉妹の信仰も冷めていきました。みな富を求め、肉的な楽しみを求めて世の流れに従っており、食べたり飲んだり楽しむことに全関心を寄せていました。ほとんど集会に出席しない兄弟姉妹もおり、生活の中で大変な事が起きたり重要な祝日だったりという時だけ出席していました。…このような教会の状態を目の当たりにした私は、聖霊の働きを伴う教会を探そうと、その教会を去りました。多くの教会を回って探しましたが、どの教会も同じようなもので、希望を失いかけました。けれども最近、様々なショーやイベントを頻繁に行っている教会を見つけました。そこでは海外から牧師が来て説教をすることもありました。その教会の雰囲気はとても温かく、活気に溢れ、大勢の人が毎回集会に出席していました。活気のあるその教会と熱心に集会に出席する兄弟姉妹たちを見て、この教会こそ聖霊の働きを伴っていると考えました。けれども、熱心に見えるその教会でも、牧師の説教は兄弟姉妹にとっていのちの糧となるようなものではなく、霊的に満たされるものではないと気づくまでに時間はかかりませんでした。そこでの歌や踊りは教会の雰囲気を変えるだけのもので、それが続くうちは誰もが元気旺盛になるのですが、皆が座って説教を聞くとなったとたん、居眠りしてしまうという具合でした。そればかりか、兄弟姉妹たちはいつも献金や祈りで互いに競い合っていました。誰でも献金を多くする人が主を愛する人と見なされ、誰でも長く祈って聞こえの良い言葉で祈れば霊的な人と見なされました。…このような教会では、兄弟姉妹は誠実さも謙虚さもないどころか、かえって虚栄心は強くなる一方で、ますます偽善的になっていきました。人前で自分を表現し目立つことに集中し、極端に独善的で傲慢でした。問題に遭遇するといつでも自分の好きなように対処し、他人の話に耳を傾けようとはしません。つまり、全く主の教えを守っていなかったのです。教会でのこのような状況に直面して、私は「外側からはこれほど熱心に見える教会に聖霊の働きがありえるのだろうか?」と思わずにはいられませんでした。私はいつもこの疑問で悩んできましたので、ご回答をいただけたら幸いです。

  ウェンシ

 

 

 ウェンシ姉妹

 こんにちは。あなたが聖霊の働きがある教会を探したことは素晴らしいことで、それは完全に神様の御心に適っています。教会に横行する不道徳が主の教えに反することは明白で、そのような教会はおそらく既に聖霊の働きを失っています。熱心に見える教会には聖霊の働きがあるかどうかという問題に関しては、私たちが判断するのは難しいです。けれども、実は、聖霊の働きがどのような結果をもたらすことができるかを理解すれば、自然にこのことが簡単に判断できるようになります。

 この質問に答えるにあたり、いくつかの文章を読んでみましょう。「人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を崇拝し敬慕する心を育むためのものである。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より )「聖霊は、人々を啓くために働く時、通常人々に神の働き、および彼らの真の霊的歩みと本当の状態についての知識を与える。また、今日の人に対する神の切実な思いや要求を人々に理解させる。それは、神を満足させるために彼らが全てを犠牲にする決意をするためであり、迫害や逆境に遭遇する時でさえ、神を愛さなければならず、それが流血や命の犠牲を意味する時でさえ、神のために証しに立たなければならず、後悔することがないためである。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(1)」より)「聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。」(『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より)



 これらの抜粋から、聖霊の働きとは、それによって一時的に感情の盛り上がりがあるように感じるためでも、宗教的儀式や規則を守るためのものでもないことが分かります。それよりは、聖霊の働きは神様の御心と神様が要求されることが理解し、自分の弱さと欠点を神様の言葉から知ることができるように私たちを導くものです。聖霊の働きは私たちに実践の仕方を教え、いのちの糧を与えてくれます。自分の堕落をより理解できるようになるだけでなく、常に神様についての新たな認識を得ることができ、それによって神様を畏れ、神様を愛する心が芽生え、神様に従い、主の教えを守って神様のために全てを捧げ費やすことができるようになります。聖霊の働きにより、私たちはしばしば啓かれ、神様の言葉を読む時には常に私たちに光が注がれるようになります。聖霊の働きがあるならば、主の教えに反することを話したり行なったりした場合、聖霊による責めと取り扱いを感じます。私たちが自己を理解し、神様に悔い改め、神様の言葉に従って実践できると、聖霊は私たちを導き続け、主にいっそう近づくことができます。聖霊の働きがあれば、私たちの心には神様の居場所があり、神様を偉大な方と敬うことができ、どのような困難や迫害、苦境に遭おうとも、常に神様に満足いただき、神様の要求に沿うように行動し、サタンの勢力によって拘束も制限もされまいと決意することができ、私たちの人生があらゆる面で神様の御名を褒めたたえることができるようになるのです。聖霊の働きがあるならば、神様が緊急となさることを緊急とすることができ、神様がお考えになるように考えることができ、神様の御旨に配慮して神様に満足いただくために本分を尽くすことができます。要するに、聖霊の働きが伴っており、聖霊が共にいて下さり、神様の言葉が問題に直面した時に私たちを導いて下さり、神様の言葉に従って実践する決意があるならば、私たちの人間性と私たちの生き方はますます正常になり、神様にいっそう近づき、私たちの霊は安らぎ、平安で喜びを感じるのです。真理を追求する人たちが一定の期間の後に、程度の差はあれ、このような結果に到達するのを教会の集まりで見るならば、それはその教会には聖霊の働きがある証拠です。ウェンシ姉が先ほど言われた通り、たとえ教会が様々なショーや行事を行って、外側からは温かく熱心に見えても、また何回集会に出席したとしても、説教を聞いても新たな光はなく、現実の問題や困難は解決されず、いのちの糧も養われないままで、神様についての認識を得ることもありません。牧師、説教師、一般の兄弟姉妹の誰であれ、その語る言葉と行動が主の教えに反していながら罪の意識もなく、鍛錬されてもいなければ、それはその教会には聖霊による働きも守りもないことの証明です。聖書にこうあります。「くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ」(箴言26章23節)もし教会が単に外見上熱心に映るだけで、そこに集う人々の心は神様を遠ざけ、神様との正常な関係はなく、それどころか神様の言葉を実践したり主の戒めを守ったりすることができないのであれば、そのような教会が聖霊の働きがある教会とみなされることがどうしてあり得るでしょうか。もはや「上ぐすりをかけた土の器」ではないでしょうか。ですから、教会が聖霊の働きを伴っているかどうかが決まるのは、そこに集まっている人の数でも、熱心さの程度でも、教会員が行っているように見える良い行いの数でもありません。むしろ、人々がいのちの糧を得ることができるかどうか、神様についての新たな認識を常に得ているかどうかによるのです。もし私たちが僅かな表面的な意味や規則にしがみつき、真理によって養われることがなく、神様についての新たな認識を得ることもなく、いのちの成長もなく、現実の問題も未解決のままであれば、そのような教会には聖霊の働きも臨在もありません。

 実際、心から主を信じて聖霊の働きをこれまでに経験したことのある兄弟姉妹のほとんどが、荒廃が宗教界全体に広がっており、宗教界が聖霊の働きと臨在を失ったと感じています。宗教指導者の大半が主の言葉を実践しておらず、主の戒めを守っていません。彼らは継承されてきた人間の伝統だけに固執し、聖書の知識や神学的理論を解説することを重視しています。これは自己を顕示し、自己の証しをするためです。主の証しとなるのでも、主を称えるのでもなく、主の道から完全に逸れてしまっています。信者といえば、概して罪を犯しては悔い改めるという状態の中に生き、様々な罪を犯し、主からはいっそう離れるばかりで主への恩義を一切感じていません。世俗的な流れに従い、富や名声、地位を求め、肉の快楽を追い求める信者すらいます。宗教界が聖霊の働きを失ってしまい、神様に嫌われて拒否されていることは明らかです。これはまさに主イエスの預言を成就しています。「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書24章12節)この御言葉は律法の時代の終わりを思い起こさせます。当時のユダヤの民衆は律法を守ることができず、祭司はお粗末ないけにえを捧げていました。牛、羊、はとが神殿に持ち込まれて売られ、律法を破る者がいてもそれに対する懲らしめはありませんでした。人々の出入りは多く、外側からは神殿には活気があり賑やかに見えましたが、実際にはすでに長い間、聖霊の働きを失っていました。律法の時代における神殿での荒廃の主な理由は、当時のユダヤ教の指導者達がヤーウェの律法を守らず、神を畏れる心をもたなかったことにあります。受け継がれてきた人間の伝統にのみしがみつき、神様の戒めを捨てて神様の道から完全に外れてしまい、それゆえに神様に呪われることになってしまったのです。一番重要なのは次の点です。肉となられた神様、つまり主イエスは恵みの時代に人類を贖う働きを行われましたが、それは神様の働きの変容であり、主イエスの贖いの働きを受け入れた人は全て聖霊の働きを得、新たな実践の道を見出しました。しかし主イエスの働きを拒んで抵抗した人は神様の働きによって取り除かれ、聖霊の働きを失って闇と荒廃の中へと落ちたのです。

 昨今の宗教界は聖霊の働きを失い、広く荒廃していますが、神様の意図が背後にあることは疑う余地がありません。聖書に次のように預言されています。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書四章7~8節)聖書の「この畑は雨をえ」とは、聖霊の働きを伴う教会、神様が臨在されていて人々が御座から流れるいのちの水に養われ潤されることを享受できる教会を意味しています。「かの畑は雨をえないで枯れた」という言葉は、聖霊の働きを失った教会を意味します。私たちが聖霊の働きがある教会を積極的に探さないならば、いのちの水の供給を完全に失い、闇と荒廃に落ちるでしょう。私たちが積極的に聖霊の働きを伴う教会を探し、神様の足跡を辿ることが神様の御心であるのは明白です。教会における荒廃の問題を根本から徹底的に解決して、聖霊の働きと臨在を再び取り戻すにはこの方法以外にないからです。カナンの地が飢饉におそわれたとき、ヤコブとその家族がカナンの地を離れ、食料を求めてエジプトへ行く以外に、飢餓を逃れて生き残る方法がなかったのと同様です。

 

 ではどうやって聖霊の働きを伴う教会を見つけることができるのでしょうか。実は主イエスがとうの昔にその方法を教えてくださっています。終わりの日の再臨に関して、イエス様は仰いました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音16章12~13節)ヨエル書第二章29節にも預言されています。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」そしてヨハネの黙示録の二章と三章の各所にも、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と預言されています。これらの預言から、終わりの日に主が戻られるとき、主は更に多くの言葉を語り、私たちを潤し養い、全ての真理を理解させて下さることが分かります。私たちが神様の要求を満たし、諸教会に御霊が語られることを知ることができれば、主の足跡について行くことができ、聖霊の働きを得ることができます。従って、どの教会が神様が新しい言葉を語り、新しい働きをなさっていることを証ししているかを注意深く見なければなりません。語られる言葉を良く聞いて、それが私たちのいのちの糧となり、現実の問題を解決してくれるかどうかを見極めなければなりません。その教会の兄弟姉妹が神様の言葉によって潤され養われると同時に、常に神様についての新たな認識を得ているかどうか、いのちが成長を続けているかどうか、人間性と生き方がますます正常になっているかどうか等を見極めなければなりません。これらの現実的な結果が生まれているならば、それはその教会が聖霊の働きを伴っており、神様ご自身が働かれており、臨在されている教会であることの証明です。

 主イエスは約束されました。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)主イエスは信実であられ、私たちがもっと長い時間をかけて祈り主に願うなら、必ず終わりの日に再び来られた神様の語られる言葉を見つけ、聖霊の働きを得て、子羊と足並みを揃える人になることができるでしょう。

 神様に感謝します。神様が私達を導いて下さいますように!

信仰ステーション

 


災害が頻繁に発生している今日、私達はどのように主の再来を迎えるのか

2020-02-26 18:26:35 | 賛美の心

 現在災害がますます大きくなり、地震、飢饉、戦争や暴動がよく起こり、このほか、2019年から2020年の間、中国武漢での「新型コロナウイルス」が、既に中国から全世界20カ国余りと地域に広まり、しかも今も蔓延し続け、死亡数も増える一方です。2019年9月から2020年1月まで、オーストラリアの森林火災は数千棟余りの建物を焼失し、さらに数十人が死亡し、約数10億匹の動物がこの火災の中で死んでしまいました。オーストラリアは2020年1月18日にまた「千載一遇」の暴雨を迎え、洪水を引き起こし、一部の地域が停電して多くの淡水生物が死んでしまいました。2020年1月、インドネシアの洪水により数万人の帰るべき家がなくなりました。現在世界中の災害が頻繁に発生しており、またこの前の四つの血の月が現れ、まさに主イエスが終わりの日に再来される預言の実現です。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7−8)「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)これらの預言の実現を見て、多くの主を信じる兄弟姉妹は皆このような疑問があります。主の再来の預言は既に実現されたが、もしかしたら主が既に戻られたかと。しかし、なぜ私たちはまだ主を迎えていないのか。私たちはまたどこで主の足跡を探し求めるのでしょうか。

 この話題について、私たちはまず終わりの日に主がどのような方法で来られるかを知るべきです。多くの人は皆主が雲に乗って行かれ、主が再来される時も雲に乗って来られ、なぜなら、聖書にこう書かれているからです。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」(ヨハネの黙示録1:7)「……力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)しかし、なぜ今私たちは主が雲に乗って来られるのが見えないのか。原因は私たちが主の再来を迎えることにおいて、一つの重要なことを見落としていたからです。それは、聖書の中に主が密かに降臨されるに関する預言があり、例えば次の通りです。「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録16:15)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24−25)

 聖書には「盗人のよう」「夜中に叫ぶ声がした」と言及しており、言い換えれば、終わりの日に主が再来される時に、こっそりと密かに降臨されると記されているのです。しかも、「人の子」「人の子が来る」は神様が終わりの日に受肉されて、人の子となって密かに降臨されると示しているのです。人の子と言うのは、必ず人から生まれ、家族がいて、血と肉を持ち、一人の普通で正常な人間の姿で人の間で生活するのです。主イエスのように、もし復活後の神様の霊体が来られるなら、人の子と呼ぶことができません。このほか、聖書はまたこう言及しています。「彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」これも終わりの日に主が再来される時に受肉されて人の子となることを指しています。なぜなら、受肉された神様は普通かつ正常で、人々はそのお方が神様ご自身であることを認識できず、神様を普通の人をとして扱い、ひいては罪定め、拒絶するのです。そのため、主が再来される時に、また多くの苦しみを受けるのです。主イエスが受肉されて人の子となって出現して働かれた時、多くの人は皆主イエスがメシアであることが分からず、観念と想像によって主イエスに抵抗し、罪に定め、主を十字架に釘付けにしてしまいました。もし、終わりの日に神様が復活後の主イエスの霊体で働いて来られるなら、誰が敢えて神様を人として扱おうとするのか。また誰が敢えて神様を罪に定め、神様に抵抗し、神様を拒絶しようとするのか。皆地面にひれ伏すでしょう。それなら、神様は苦しみを受けずに済むでしょう。このことから、終わりの日に主が再来される時に、受肉されて密かに降臨される方法で働くために来られることが分かりました。

 これに言及したら、一部の兄弟姉妹はこのように困惑するかもしれません。終わりの日に主が密かに降臨されて人の間で働かれるなら、神様が雲に乗って降臨される預言はどう実現されるのでしょうか。これは矛盾になるのではないかと。私たちは皆神様が真実なお方であり、神様の預言であるなら、必ず実現されると知っています。実は、神様の働きは計画に従って段階的に行われ、神様はまず密かに降臨されて人を救う働きをなさり、その後、公に雲に乗ってすべての人に現れ、善人をねぎらい、悪人を懲らしめるのです。一緒に何箇所かの聖句を見てみましょう。主の再来の預言はどのように実現されるかについて、さらに明確に理解できるようになります。主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書5:22)ここから分かったのは、終わりの日に神様が受肉されて、人の間に密かに降臨され、また人類に対して言葉を語り、裁きの働きをなさり、神様の玉座の前に戻るすべての人を清め、完全にされるのです。しかも、この段階の働きは主イエスの贖いの働きを基盤にして行われ、人間の現実の必要性に基づいて行われるのです。私たちは主イエスの贖いによって、罪を赦されましたが、高慢、欺瞞、利己的、悪意などのあるサタン的本性はまだ徹底的に解決されておらず、私たちは依然として罪を犯しては告白する状態の中で生き、そのため、主イエスは終わりの日にまた来られて、受肉されて言葉を語り、人を裁き、清める働きをなさると言われました。最終的に、神様の言葉の裁きの働きを受け入れる者は神様に清められ、災いの前に勝利者の群れを作られ、神様の国に入り、神様が与えられた永遠の祝福を享受することができます。しかし、それらの神様が密かに働きを行われる間に、神様の声を尋ね求めず、神様の終わりの日の裁きの働きを受け入れず、観念と想像によって神様を罪に定める人々は、神様の終わりの日の働きによってさらけ出される毒麦です。神様の裁きの働きによって、すべての賢いおとめと愚かなおとめ、良いしもべと邪悪なしもべ、真理を愛する人と真理を嫌悪する人を分けられた後、神様の人を救う働きが完全に終わり、その後、雲に乗って公にすべての国と全ての民族に現れ、善人をねぎらい、悪人を懲らしめるのです。それらの主イエスが再来されて受肉の働きを受け入れない人々は、自分が抵抗し、拒絶したのはまさに主イエスの再来だと気づかず、後悔し、胸をたたき、泣いて歯ぎしりするが、既に手遅れです。これは完全に預言の実現です。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)そのため、私たちは神様が密かに働かれる間に、神様の終わりの日の裁きの働きを受け入れることにより、神様に清められ、神様の国に入る機会を得られます。

 それでは、私たちはどのように主イエスの再来を迎えるべきなのか。一緒に何箇所かの聖句を見てみましょう。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)聖書に「呼ぶ声がした」「わたしは戸の外に立って、たたいている」に言及し、これは終わりの日に主が戻られて働かれる時に、主が既に戻られたお知らせを証しする人がいて、そして主は主の語られた言葉で私たちの心の扉を叩くことを指しているのです。そのため、主の再来を迎えることにおいて、肝心なのは私たちは神様の声に注意を払うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)特に、主が戻られて真理を語って裁きの働きをなさると証しするのを聞いた時に、それは神様の声であるかどうか、神様の出現と働きであるかどうかをさらに尋ね求めて考察することに重点を置くべきです。もし私たちは主が再来される時に語られた言葉から神様の声を聞き分けられるなら、子羊の足跡に付き従い、主の再来を迎えることができるのです。


終わりの日に主イエスはどのように来られるかについての預言

2020-02-25 18:04:27 | 賛美の心

 「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)

 「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイによる福音書 24:44)

 「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録 16:15)

 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(ヨハネの黙示録 1:7)

 

関連する神の言葉:

 わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

 宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より

 数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

 終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては陽気ですばらしい世界のように見え、ますますそうなっていくように思われる。人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術に携わっている人々に騙されるだろう。「実践(2)」より

 あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉」の「第六十五章」より

 今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく、わたしの顔を全宇宙に向け、天空全体が揺れるようにする。わたしの裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしの投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、あらゆる災いの種を蒔いた。これは、わたしの働く方法の一つで、必ずや人間を救う行いなのであり、わたしが人間に差し伸べるものは、何であれ、一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見ることができるようにし、そうして長い間人々が見ることのなかった神、だが、今日、現実となった神を、崇めるようにしたいのだ。「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より

 恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのになぜ神はまだイエスと呼ばれることができるのであろうか。どうして神は人々のあいだでイエスの外観を取ることができるのであろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことを忘れたのか。イエスはただ人類の贖い主であったということを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを行なうことができるのであろうか。イエスは白い雲に乗って去って行った。これは真実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、またイエスと呼ばれるなどということがどうしてありえようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間に見分けられるのではないであろうか。世界中の人々がイエスを見分けるのではないであろうか。その場合、イエスだけが神ということになるのではないのか。その場合、神の姿とはひとりのユダヤ人の外見であり、永遠に同じということになる。イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは去って行ったとおりにやって来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。それではイエスがあなたに前もって知らせることができたであろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。これは冗談ではないのか。「神の働きのビジョン(3)」より

 多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より