いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

最後の晩餐

2020-10-06 21:42:19 | 賛美の心

最後の晩餐

    さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。

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イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か


教会音楽 「人の一生は完全に神の支配下にある」歌詞付き

2020-10-05 22:38:51 | 賛美の心

教会音楽 「人の一生は完全に神の支配下にある」歌詞付き

教会音楽 「人の一生は完全に神の支配下にある」歌詞付き


人は運命だけ信じても
創造主による運命の支配を知らずに
認識もしなければ
ああ、運命だけ信じても
創造主による運命の支配に従わず
受け入れもしないなら
人生は悲劇となり
そして無駄になり
空虚になるだろう
彼らは神の支配に従えず
被造物という言葉が真に意味するものにもなれず
日々創造主の承認も得られない
神の支配を知る人は
積極的であるべきだ
神の支配を見る人は
消極的であってはならず
全てを運命と認め
その正しい定義
つまり人生は全て
神の支配下にあると知っている


人は歩んだ道を振り返り
旅の行程を回想する時
苦楽を問わず
全ての歩みを神が導いていたことを知る
神は入念な準備をして計画し
今日まで人は知らずに導かれてきた
創造主に救われ、その支配を受けるのは
何という幸運だろう、ア~
神の支配を知る人は
積極的であるべきだ
神の支配を見る人は
消極的であってはならず
全てを運命と認め
その正しい定義
つまり人生は全て
神の支配下にあると知っている


神の支配を理解するなら
人は神の全ての計画にさらに熱心に従い
全ての采配に従いたくなるだろう
そして神への反抗を止め
その指揮を受け入れる
決意と確信を得るだろう
神の支配を知る人は
積極的であるべきだ
神の支配を見る人は
消極的であってはならず
全てを運命と認め
その正しい定義
つまり人生は全て
神の支配下にあると知っている
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


聖書の言葉-異邦人の中でりっぱにふるまう・ペテロの第一の手紙 2:12

2020-10-04 22:56:31 | 賛美の心

聖書の言葉-異邦人の中でりっぱにふるまう・ペテロの第一の手紙 2:12

 聖書の言葉
 異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。

ペテロの第一の手紙 2:12

 この聖句では、私たちが日常生活の中で異邦人と付き合いするときに、私たちの行動に関心を持つように教えられています。品行が正しい人は、神の目から見る正直な人であり、実践的な生活を通じて神を証しし、神に栄光をもたらすことである。私たちが以前神を信じなかったときと同じように、お金や名声のために、偽造し、欺く、もし誰かが私たちの利益を侵害するならば、その人との争いが絶えられず、さらに他人に対して報復したくなる、寛容と忍耐はありませんでした。しかし、私たちは神を信じたので、神の御言葉によって導かれ、もはや異邦人のように放蕩せず、どのような問題に直面しても、神の御心を探し求め、人に対して寛容と忍耐と愛があり、この種の生き方は、私たちを非難した異邦人を意識的に恥ずかしくするだけではなく、また、彼らは言うでしょう:「彼らが信じている神様は彼らを変えた。」これは神に栄光を与えるでしょう。私たちは神の言葉を実践し、正直な人になるよう追い求め、真の人として生きることで、神に栄光を与え、神を証しすることだけではなく、より重要な側面は神の御心を満たすためです。したがって、異邦人の前でも、兄弟姉妹の前でも、私たちの行動はすべて神の言葉に従って行われなければなりません。神の証しに立つことで、神に受け入れられることができます。神は言われました:「日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。」(「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より)

 

キリストの言葉「贖いの時代における働きについての真実」

2020-10-03 22:11:46 | 賛美の心

キリストの言葉「贖いの時代における働きについての真実」

    神は言われた。「恵みの時代、人はサタンによって堕落させられており、すべての人間を贖う働きには満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに多くの、人間の罪を贖うのにふさわしい捧げ物が必要だった。恵みの時代に人々が見たのは、ただ人間に対するわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。そして彼らは、神は憐れみ深く寛容であり得ることだけを知っており、イエスの慈しみと憐れみだけを見た。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、彼らは贖われる前にイエスが授ける多くの恵みを楽しまなければならなかった。それだけが彼らにとって有益なことであった。そうすることで、彼らは恵みを楽しむことを通してその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を楽しむことを通して贖われる機会を持つことができた。」


ソロモン王の知恵:「2つの花籠」から得た御啓示

2020-10-02 22:55:07 | 賛美の心

ソロモン王の知恵:「2つの花籠」から得た御啓示

    ソロモン王の時代に人気のあった話があります。それは、こんな話です。ある日、ソロモン王は近隣の王国の使節から珍しい花が入った2つの花籠を受け取りました。これらの2つの籠の中の花は、その葉っぱも花びらも極めてよく似ていました。使節はソロモン王に「陛下、これら2つの籠の内、1つは本物の花で、他方は造花です。陛下のお知恵は世界中に知れ渡っており、我が国の全国民が陛下を尊敬しております。陛下、どうぞ、本物の花の入った籠と造花が入った籠を言い当ててください。それにより、我が国の国民は陛下の尽きることのないお知恵を間違いなく祝うことでしょう」と言いました。そう聞くやいなや、ソロモン王は従者に「これらの花籠を庭に運べ」と命じました。王が何をしようとしているかが分かる廷臣はいませんでした。しばらくして、ソロモン王は廷臣と使節を従え、花を愛でるために庭に出ていきました。庭には美しく咲き誇った花々が溢れており、甘い香りを放ち、たくさんの蜂が花から花へと飛び回り、蜜を集めていました。2つの花籠を見ると、ソロモン王は笑みを浮かべて、「あの籠の花は極めて美しいが蜂が寄っていかない。こちらの籠の花には蜂を引き寄せている。従って、本物の花だ」と言いました。廷臣と近隣の王国の使節は誰もが、感心して息を呑み、「あなた様は本当に賢い王様です!」と言いました。これは単純なお話ですが、ソロモン王の賢さを表しており、ここから、私達は霊的な意味も見出すことができます。いのちのある花だけが芳香を放ち、蜜を分泌し、蜂を集めることができ、その一方で、いのちのない花はいかに本物と似ていても、死んでいるため、芳香を放って蜂を引き寄せることも、蜂を引き寄せる蜜を分泌することもありません。

 ソロモン王が本物の花と造花を区別したこのお話を読み、私は、次のように考えずにはいられませんでした:今日、神様の再来を熱心に待ちわびる主イエスの信者は数多くいますが、聖書に記載されている主イエスの次の御言葉のために、欺かれることを恐れて神様の再来の福音を拒んでいます。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24:23-24)。実際、神様がこれらの御言葉を述べられた理由は、私達が偽のキリストと本物のキリストを区別できるようにするためであり、終わりの日には偽のキリストが出現するため、神様の再来の福音を私達が拒むように仕向けるためではありません。欺かれることの恐れから偽のキリストに対するガードを固めることを優先し、神様の御声を聞いたり、認識したりすることに私達が注意を払わないならば、私達はどうやって主の再来に出会うことができるでしょうか?たとえば、ペテロやサマリア人女性のことを例に取ってみましょう。彼らは、主イエスの御言葉を耳にし、彼が降臨した救世主であられることを認識しました。ヨハネの黙示録2章7節には、次のように記載されています:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。⋯⋯」また、ローマ人への手紙の10章17節には次のように記載されています:「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」このため、私達は主イエスの再来の福音を耳にしたら、それが神様の再来であるかを見定められるよう、まずはそれを求め、調査し、主と再会する機会を逃さないようにするべきです。

 主の再来と出会うため、私達はまず、キリスト様とは何かを理解し、本物のキリスト様と偽のキリストを見定める方法を知らなければなりません。神様はこれについて、次のように仰っています。すなわち:「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)神様の御言葉から、神様が受肉したお方のみをキリストと呼ぶことが分かります。キリストは神様の霊を受肉したお方で、神様の御出現で、神様の御働きを実行するために肉を纏った神様御自身です。キリスト様は平凡で普通の人の外見でありながら、その本質は神聖で、その働きは神様の働きそのものです。では、私達はどのように本物のキリスト様を見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」神様の御言葉から、私達は本物のキリスト様を見定めるために、外見ではなく、その本質からつまり、その御働き、その御言葉、その御性情から、神様を主に見定めるべきであることが分かります。キリスト様は人に真理といのちを人にお与えになることができ、神様の義なる御性情と御働きの知恵を表現することができます。キリスト様は聖く、義なる神様御自身です。恵みの時代の主イエス様を例に取ってみましょう。イエス様は外見では普通の平凡な人と変わる所がありませんでしたが、多くの真理を表現され、人々に悔い改める方法を授けられました。御慈悲と慈しみ深い親切心によって占められる性情を表されたイエス様は、7度を70倍にするまで他者を許すことをお教えになり、病人を癒やされ、悪魔を祓われ、数多くの奇跡を起こされ、人々に律法に従わないように先導されたことにより、十字架にかけられ、全人類の罪を贖う御働きを完了されました。主イエス様の御言葉と御働きにより、議論の余地なく、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明されました。今日、受肉し再来された主イエス様である全能の神様は、新しい時代である「神の国の時代」をもたらされました。神様は何百万という御言葉を表され、終わりの日の裁きの御働きを実行されました。人々が罪と懺悔の繰り返しの中で生きていく必要がもうないよう、そして、罪の拘束から最終的に解放され、神様により完全に救われ、完全にされるよう。神様はその義であり、聖なる性情を用いて人々を裁かれ、浄化されます。全能の神様の御言葉は、すべての謎を明らかにされ、神様の人類に対する御心、あらゆる人々に訪れる結末、神様が達成されようとしている御働きについて伝えてくださっているため、私達は真理を実践するためのより多くの方法を知ることができます。全能の神様の御言葉と御働きから、私達は、全能の神様が真理を具現化したものであることが分かります。その御働きは、キリスト様が真理であり、道であり、いのちであることを証明しています。これらは、偽のキリストには永遠に達成できないことです。

 それでは、私達はどのように偽のキリストを見定めることができるでしょうか?神様は次のように仰っています:「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」「今日、神は恵みの時代を終わらせ、恵みの時代の実践をすべて捨て去るために来た。⋯⋯今日の神は、しるしも不思議も行なわず、癒やすことも悪霊を追い払うこともしない。イエスが来た時、その働きは神の一部を示すものであったが、今回の神は、この段階でするべき働きをするために来たのだ。神は同じ働きを繰り返さない。神は常に新たな神であり、絶対に古いものではない。あなたが今日見るものはすべて、実際の神の言葉と働きである。」

 神様の御言葉から、私達は、神様が常に新しく、決して古びない存在で、神様の御働きが常に前進していることを知ることができます。今日、終わりの日のキリスト様である全能の神様が新しい働きに着手されています。神様は御印や奇跡をご披露されたり、病人を癒やされたり、悪魔を祓われたりしませんが、真理を表現されることにより、人を裁き、清め、完全にされる御働きを実行され、人に新しい時代で実践する方法をお教えくださっています。そのため、印や奇跡を披露し、病人を癒やし、悪魔を祓うため、我こそがキリストだと主張する人物が現れれば、その人は完全に、イエスの御働きを偽造した悪霊です。神様がその御働きの1つの段階を完了されたとき、悪霊が神様の後に続き、神様が完了された御働きを模倣するでしょう。人が神様と悪霊を区別しなければ、騙されてしまいます。

 さらに、偽のキリストには真理がないため、真理を表すことができません。彼らは、神様がこれまで実行されてきた御働きを模倣し、いくつかのちょっとした奇跡と不思議を披露することにより人々を欺くことしかできませんが、5つのパンと2尾の魚を5000人の人に分け与えたり、死んだラザロを蘇らせたり、海の嵐を静めたりするなど、主イエスがお見せになった奇跡は決して模倣することができません。彼らは主の御働きを模倣した悪霊であり、万物を支配またはコントロールする権威も力もなく、これらのことは、彼らの本質により完全に見て取ることができます。それは、神様が次のように仰っているとおりです:「遅かれ早かれ、偽キリストはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」そのため、本物のキリストと偽のキリストを区別する原則を習得することができれば、欺かれることを心配することはなくなるでしょう。今日、全能の神が表現される真理により、私達は、あらゆるポジティブなこととネガティブなことを区別することができるようになっています。欺かれることを恐れ、終わりの日のキリストの御救いを求めたり、調査したり、受け入れたりしないでいれば、終わりの日の神様の御救いを受けることができなくなるでしょう。