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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

正常な霊的生活について

2019-05-11 22:34:54 | 賛美の心

  信者は、正常な霊的生活を送らなければならない。これは神の言葉を体験し、現実に入るための基礎である。現在あなたがたが実践するあらゆる祈り、神への接近、歌、讃美、瞑想、神の言葉を理解しようとする努力は、正常な霊的生活の基準を満たしているであろうか。あなたがたのうち、これについて明確に理解している者はいない。正常な霊的生活とは、祈り、歌、教会生活、神の言葉を食べ飲みすることやその他の同様の実践に限らず、新鮮で活気ある霊的生活を送ることを指す。それは方法ではなく、結果である。ほとんどの人が、正常な霊的生活を送るためには、祈り、歌い、神の言葉を食べ飲みするか、神の言葉を理解しようと努める必要があると考えている。何かしらの結果があるか、真の理解があるかを問わず、単に外見的な運動を行うことに重点を置き、その結果には重点を置かない。彼らは、宗教儀式の中に生きる者であり、教会の中で生活している者ではなく、ましてや神の国の者ではない。この種の人の祈り、歌、神の言葉の飲み食いは、全て規則に従っており、彼らはそれらを行わずにはいられない。それらは流行に沿って行われ、自主的に行われたり、心から行われたりはしない。こういう人々がどれほど祈り歌おうとも、結果は何もないであろう。なぜなら、実践しているのは、宗教上の規則や儀式であり、神の言葉を実践しているのではないからである。方法に重点を置き、神の言葉を守るべき規則と捉えているだけであるので、神の言葉を実践しているのではなく、肉を満たし、他人に見せびらかすために行動している。こうした宗教的儀式と規則は、神ではなく人間に由来する。神は規則を守らず、律法を遵守することもない。神は日々新しいことを行い、実際的な働きを行う。毎朝の見張り、夕の祈り、食前の感謝の祈り、すべてに感謝する等の同じような実践に限定されている三自教会の人々のように、いかに多くを行ったとしても、あるいはいかに長時間行ったとしても、聖霊の働きを授かることはできないであろう。人間が規則の中で生活し、心が行動に注がれているのであれば、聖霊が働くことは一切ない。なぜなら、人々の心は規則に奪われ、人間的観念に奪われているからである。したがって、神は一切働きを行わず、人々はただひたすら律法の支配下で生活し、神の讃美を享受できないであろう。

  正常な霊的生活は、神の前で生活することである。祈りを捧げる時、心を神の前で静め、祈りにより聖霊の啓示を求め、神の言葉を知り、神の心を理解することができる。神の言葉を食べ飲みしている時、神がすぐに行うことを望んでいることについて一層明瞭かつ明晰に理解し、新たな実践の道を得て、保守性を回避することができるので、実践はすべていのちの進展を実現させることを目的とする。たとえば、祈りは美辞麗句を述べることや、自らの負い目を神の前でわめくことを目的とするものではなく、むしろ自らの霊を訓練し、神の前で自らの心を静め、万事に関する指導を求め、自らの心を日々新たな光へと惹かれてゆくものとし、受動的になったり怠惰になったりすることを避け、神の言葉を実践する正しい道へと進んでゆくことを目的とする。現在、ほとんどの人が方法に重点を置き、真理を求めていのちの進展を実現しようと努めていない。人々が逸脱するのは、この点である。また、新たな光を授かることができるにもかかわらず、方法が変わらない人々がいる。過去の宗教的観念を取り入れて今日の神の言葉を授かるので、彼らが受け容れるのは、宗教的観念が含まれる教義であり、現在の光を純粋に受け容れていない。したがって、彼らの実践は不純である。つまり、新たな名称の同じ事を行っており、実践がいかに優れていたとしても、それは依然として偽善的である。神は、毎日新たな事をするよう人々を導き、毎日新たな識見と認識を得て、時代遅れとなったり、単調となったりしないことを要求する。長年にわたり神を信仰してきたにもかかわらず、方法が全く変わっておらず、外見上は熱意に満ちて多忙で、神の前に来て静かな心で神の言葉を享受しないのであれば、何も得ることはできないであろう。神の新たな働きを授かる時、新たな計画を立てず、新たな方法で実践せず、新たな認識を求めるのではなく、過去の古い物事に固執し、自分の実践方法を変えること無く限られた量の新たな光のみを受けるのであれば、この種の人は名目上はこの流れにいながらも、聖霊の流れの外にいる宗教的なパリサイ人である。

  正常な霊的生活を送ることを望むのであれば、毎日新たな光を授かり、神の言葉の真の理解を追求し、真理に対する明晰さを達成しなければならない。あらゆる物事において実践の道が必要である。そして毎日神の言葉を読むことにより、新たな疑問が生まれ、自らの欠点を発見することができる。これにより、渇いて探し求める心が生まれ、その心により、あなたの存在の全体が動き始め、いつでも神の前で静まることができるようになり、遅れることを深く恐れるようになるであろう。この渇いた心、探し求める心、そして継続していのちに入るための覚悟ができれば、霊的生活への正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされることを受け容れることができ、進歩を望み、神により完全にされることを求める意志があり、神の言葉の一層深い理解を求め、超自然を追求せずに実際的な代償を払い、神の心への実際的配慮を示し、実際的にいのちに入り、自らの経験を一層正しく現実的なものとし、教義の空虚な言葉を求めず、また超自然の感覚を求めたり偉人を崇拝することもない人は全て、正常な霊的生活に入っている。こうした人々の行動はすべて、いのちのなかで一層の進展を実現することを目的とし、霊を新鮮で淀まない状態に維持し、常に前向きに入っていけるようにしようとする。たとえば、彼らが食前の祈りを捧げる時、それは強制されるのでなく、神の前で自らの心を静め、心で神に感謝し、神のために生きることを望み、自らの時間を神の手に委ね、神に協力し、神のために費やすことを望む。心を神の前で静めることができない場合、むしろ食事をせずに実践を続けるが、それは規則に従うことではなく、神の言葉を実践することである。食前の祈りを捧げる時に、意識的に何かの動作をして、これみよがしな人がいる。信心深く見えるかもしれないが、その胸中には「なぜこうしたことを実践する必要があるのか。祈りを捧げなくても大丈夫ではなかろうか。祈りを捧げても何も変わらないのだから、どうしてわざわざ祈るのか」といった疑念がある。こういう人は規則に従っており、口では神を満足させたいと言うが、心は神の前に来ていない。彼らがこのように祈るのは、神の前で心を静める実践のためではなく、むしろ他人を欺し、他人に見せるためである。まるで他者のためにとりなすが、自分自身はいのちに入ることができない牧師のように、純粋に偽善的である。宗教指導者そのものである。神は日々新たな言葉を述べ、新たな働きを行うが、あなたは日々規則に従い、神を欺こうとし、表層的に神と接している。それならば、あなたは神に反抗する者ではなかろうか。規則を守り、神に反抗しつつ、祝福を授かることができるであろうか。あなたには、神の罰がくだるのではなかろうか。

  神の働きは急速に拡大し、様々な宗派の宗教家や教会の礼拝を遵守する著名人を遥か彼方へと追放し、あなたがたのうちでことさら規則に従うことを好む専門家を四方八方へと追いやる。神の働きは延期不可能であり、何に依存することもなく、その進行が遅くなることもない。誰かを引っ張ったり、引きずったりしない。追随できない者は、たとえ何年従ってきたとしても見捨てられるであろう。どれほど資格のある古参であっても、規則に従うならば、排除されることは確実である。この種の人には、自己認識を得て、自ら進んで慎ましくし、旧来の物事に固執しないように勧める。自らの行動原理に従って他人に神の言葉を実践させることは、人々の心を掴むことではなかろうか。あなたの実践は規則に従い、人々に教会の礼拝を守るよう教えることである。あなたは常に自分の思い通りに人々に行動させるが、それは徒党を組んでいることではなかろうか。これは教会を分裂させていることではなかろうか。それならば、どうして厚かましくも神の心に配慮しているなどと言えるのであろうか。どのような資格があって、それが他人を完全にするためであると言えるのであろうか。そのような指導を続けるのであれば、それは人々に宗教儀礼を行うよう指導しているということではなかろうか。正常な霊的生活を送り、霊的な解放と自由を日々得ている人は、自由に神の言葉を実践し、神を満足させることができ、祈りを捧げている時も、単に儀礼や手順に従っているのではなく、遅れることなく日々新たな光を得ることができる。このような人が神の前で心を静めるために実践する時、心を神の前で真に静めることが可能であり、誰もそれを邪魔することはできず、誰も、どのような出来事や物事もその正常な霊的生活を制止することはできない。こうした実践は、人々に規則を与えて守らせることではなく、結果を得ることを目的とする。こうした実践は、規則を守ることではなく、人々のいのちにおける進展を目的とする。あなたが単に規則を守るだけの者であるならば、いのちは決して変わらないであろう。他の人々はこのような実践をするかも知れないし、あなたも最終的にはそうするのだが、それでは他の人々は聖霊の働きに遅れることなく追随できる一方で、あなたは聖霊の流れから排除されるであろう。それならば、あなたは自分を欺いているのではなかろうか。ここで述べた言葉の目的は、人々が神の前で心を静め、神と向き合い、神の働きが阻害されることなく人々に対して行われ、その結果を得られるようにすることである。

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あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである

2019-05-10 23:36:53 | 賛美の心

  すべての人間に共通して存在する問題は、真理は分かっているが、実践に移せないことである。一つの要因は人が代価を払いたがらないことで、もう一つは人の洞察力があまりにも不十分であることである。人は実生活に存在する多くの困難の先を見ることができず、的確に実践する方法も知らない。人はあまりにも経験が少なく、才幹も乏しく、真理についても理解が限定されているので、実生活に存在する困難を解決することができない。その人の神の信仰は口先だけで、自身の日常生活に神の存在をもたらすことはできない。すなわち、神は神、生活は生活、人は実生活で神との関係がまるでないかのようである。人は皆そう信じている。そのような神への信仰では現実において人が神に得られ、完全にされることはできない。実際、神の言葉が不完全なのではなく、むしろ神の言葉を受ける人間の能力が不適切なのである。ほとんど誰も神に本来要求されたようには行動できないと言うことができる。むしろ、人の神への信仰は自分自身のもくろみや、確立された宗教的観念や慣習などと一致しているのである。神の言葉を受け入れ、それにより変えられ、神の心にそって行動し始める人たちはほとんどいない。むしろ、人は自分たちの誤った信仰に固執する。人が神を信じ始めるとき、宗教的な習慣に基づいて信じ、自分自身の人生哲学に完全に基づいて生活し、他の人たちと交流する。十中八九はそのようなケースである。神を信じ始めてから、別の計画を立て、生活を一新する人はほとんどいない。神の言葉を真理と見なし、実践に移す人は皆無である。

  たとえばイエスへの信仰を例に取ろう。人が信仰において未熟であろうと、年季の入った信者であろうと、皆それぞれが持つ賜物を実践し、技量を現してきた。人間は「神への信仰」という五文字を単純に自分たちの日常の生活に加えたが、人の性質には何の変化ももたらさず、神への信仰は少しも成長することはなかった。人が追求することは熱くも冷たくもなかった。信じていないとも言わなかったが、神に完全に捧げることもしなかった。神を真に愛したこともなかったし、服従することもなかった。神への信仰は本物でもあり偽物でもあり、信仰の実践となると見て見ぬふりをし、少しも熱心ではなかった。初めから死ぬまで、理解できず混乱状態のままであった。この意味は何だろうか。今日、実際の神を信じるので、正しい軌道に乗らなければならない。神を信じる者としてただ祝福を求めるのではなく、神を愛し、神を知ることを求めるべきである。神の導きや示しと自身の追求を通して、神の言葉を飲食し、神への真の認識において成長し、心からの真の神への愛を持つことができるようになる。すなわち、あなたの神への愛は本物で、誰もあなたの神への愛を壊したり、立ちはだかったりすることはできない。それならあなたは神への信仰の正しい軌道に乗っているということである。それはあなたが神に属していることを証明する。あなたの心は神によって所有され、他の誰にも所有されることはあり得ないからである。あなたの経験、あなたが支払った代価、そして神の働きのおかげで、あなたは神に対する自発的な愛を育むことができる。それからあなたはサタンの支配から解放され、神の言葉の光の中に生きる。あなたが暗闇の影響から自由になったときにのみ、あなたは神を得たと言うことができる。あなたが神を信じるにあたり、これを目標としなければならない。これはあなたがた一人一人に課せられた義務である。誰もあるがままの状態に満足すべきではない。神の働きにおいて二心であったり、軽々しく見なしたりすべきではない。あなたがたは神のことをあらゆる点において、また常に考え、神のために全てのことをなすべきである。そして、あなたがたの言行においてまず神の家の利益を優先すべきである。これしか神の心と一致するものはない。

  人が神に信仰を持つ上での最大の過ちは彼の信仰が言葉だけであり、実生活の中に全く神が存在していないということである。確かに、人は神の存在を信じているが、神は人の日常生活の一部ではない。人の口からは神への多くの祈りが聞かれるが、人の心には神が存在する場所はほとんどなく、神は幾度も人を試す。人は汚れているので、神が人を試すことで人が恥じ入り試練を通して自分自身を知るようにするしか方法がないのである。そうでなければ、人はすべて天使長の子どもとなり、ますます堕落していくだろう。人が神を信じている間は、神によって絶え間なく清められるので、多くの個人的動機や目的は捨てられる。さもなければ、誰も神によって用いられることはできない。神がすべき働きを人にする方法はない。神はまず人を清める。この過程において、人が自分自身を知るようになり、神が人を変える。この後でしか、神のいのちは人に働かれない。この方法でしか、人の心は完全に神に向けられない。だから、神を信じることは人が言うように簡単なことではない。神がそれを見られるように、もしあなたに認識しかなく、いのちとしての神の言葉をもっていないなら、また、もしあなたが自分自身の認識しかなく、真理を実践することも、神の言葉を生かし出すこともできないなら、これはまだあなたが神に対して愛の心を持っていないという証明で、またあなたの心は神に属していないことを示している。神を信じることで神を知るようになること、これこそ最終目標で、人が求めることである。神の言葉を実行できるよう、生かし出すことに全力を尽くさなければならない。もしあなたが教義上の認識しか持っていないなら、あなたの神への信仰は無意味なものになるだろう。もしあなたが神の言葉を実践し、言葉を生かし出すなら、あなたの信仰は完全であり、神の心と一致していると見なされる。この道において、多くの人たちは多くの認識を語るが、死ぬ際には、目は涙で溢れ、生涯を無駄にし老齢になるまでいたずらに過ごしたことを嫌悪することになる。理解するだけで、神に栄光を帰す機会を持っていなかった。生涯を諍いに生き、あちらこちらに旅をすることに費やし、死期が来ると、心には後悔が生まれる。死ぬ間際になって初めて、多くの人たちは気が付き、人生の意味を認識するのである。これでは遅くないだろうか。なぜ今日、自分が愛する真理を求めないのか。なぜ明日まで待っているのか。もし真理のために苦しまず、真理を得ることを求めないなら、死ぬ間際に後悔することを望んでいるのだろうか。もしそうなら、何故神を信じるのか。実際、もし人が少しでも努力するなら、真理を実践でき、神に満足してもらえる事柄が沢山ある。人の心は絶えず悪魔に占領され、神のために行動することができない。むしろ、絶えず肉のためにあくせくして走り回り、最終的には何の利益も生まれない。人が絶えず困難や苦悩を抱えるのはこれらが理由である。それらはサタンからの苦痛ではないか。これは肉の堕落ではないか。あなたは口先だけで神を騙すべきではない。むしろ、実質的行動を取らなければならない。自分自身を欺くべきではない。そんなことをして何の意味があるのだろうか。肉のために生き、名声や富を得るために骨を折って、一体あなたは何を得ることができるだろうか。

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健全な霊的生活は人々を正しい道へ導く

2019-05-09 23:44:52 | 賛美の心

  あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていないため、まだ神の基準にたどり着くまでにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの力量と元来人間が持つ堕落した性質により、あなたがたは常に神の働きをいいかげんに扱い、真剣に考えない。これがあなたがたの最大の欠点である。そのうえ聖霊の道を見出すこともできないのである。あなたがたのほとんどはそれを理解せず、はっきり見る事もできない。更に、あなたがたのほとんどはこれを全く気に留める事も無く、真剣にとらえない。もしこのような振る舞いを続け、聖霊の働きを知らずにいれば、神の信者としての歩みは無駄である。なぜならあなたがたは神の心を満たすために最善を尽くさず、神と上手く協力しないからである。それは、あなたに神が働きかけなかったわけでもなく、聖霊があなたを動かさなかったという訳でもない。単にあなたがたは不注意で聖霊の働きを真剣に捉えていないというだけである。今すぐにでもやり方を変え、聖霊の導く道を歩むべきである。これが本日の主題である。この「聖霊の導く道」というのは、人々が霊的に示しと導きを得、神の言葉の認識を得、進む道が明らかになり、一歩ずつ真理において成長して神をより深く知る事ができる道である。聖霊の導きがある道とは、基本的に、人々がその道を進むにあたり、ずれや誤解なく神の言葉を明確に理解している道である。これを達成するには、神と調和して働き、実践できる正しい道を見出し、聖霊の導く道を歩む必要がある。このことは、人々の協力、即ち神の要求を満たすためにあなたがたが何をするか、そして正しい道に入るためにどう振る舞うかと関係する。

  聖霊の導く道を歩むことは複雑に思えるが、実践する道が明瞭であればこのプロセスがずっとシンプルだということがわかる。実は人間は神の要求する事のすべてを達成することが可能なのである。神は人間にとって不可能な事を押し付けたりはしない。全ての状況において、神は人々の抱える問題や人間が懸念することを解決しようとしているのである。神を誤解してはならない──これはあなたがた全員が理解しなければならないことである。聖霊の道とは神の言葉によって人々が導かれる道である。前に述べたように、あなたがたの心を神に捧げなければいけないのである。これは聖霊が導く道を歩むための必要条件である。正しい道に入るためにしなければならないことである。どうすれば人は意志をもって心を神に捧げる事ができるのだろうか。日常生活にて神を感じて祈る際、特に意識することなく、何かをしながら神に祈る。これは心を神に捧げていると言えるのだろうか。あなたがたは家事や肉的な事について考え、心は常にふたごころである。これは神の臨在の中で心を静めていると言えるのだろうか。あなたの心はいつも外的な事に気をとられていて、神と向き合うことができないのである。神の前に真に平安でありたいと願うのであれば、意識して協力しなければならないのである。即ち、あなたがたひとりひとりが周りの人々や物事から離れてひとりになり、ディボーションをする時間を持ち、そうすることで心に平安を得、神の前に静まるのである。自分のディボーション用のノートを作り、神の言葉による認識やあなたがたが霊的にどのように動かされたかを、内容の深い浅いに関係なく記録すべきである。意識して神の前で心を静めなさい。1日に1、2時間を真の霊的生活に捧げる事ができれば、その日あなたの生活は豊かになり心は明るく明晰になる。日々このような霊的生活を送るならば、ますます神に心を捧げる事ができるようになり、あなたの霊はますます強くなり、聖霊の導く道を歩むことがより可能になり、神はますますあなたを祝福するようになる。霊的生活の目的は、聖霊の臨在を自ら求め、得る事である。それは規則を守ることでも宗教的儀式を行うことでもなく、神と調和して行動し、あなたがたの身体を訓練することである。これが人間のすべき事であり、そうするためにあなたがたは全身全霊を注ぐべきである。神と調和し、努力すればするほど、より神に心を向ける事ができ、神の前で心を静めることができるようになる。ある状態にたどり着くと、神はあなたの心を完全に獲得する。その状態になると、誰もあなたの心を揺さぶることも捕えることもできなくなり、あなたは完全に神のものとなるのである。この道を歩めば神の言葉があなたに常に明らかになり、理解できないことに対しても啓きが与えられる──これらはすべて神とあなたの調和があって達成できるのである。それ故神は常に、「わたしと協調するものには、二倍を与える」と言うのである。あなたがたはこの道をしっかり見ていなければならない。正しい道を歩みたいのであれば、神の心を満たすために出来る事全てをしなければならない。霊的生活を獲得するために出来る事全てをしなければならない。初めは多くを達成できないかもしれないが、後戻りしたり、否定的になったりすることなく、全力で取り組み続けなければならない。霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされる。あなたは常に霊的生活を送ることを考えるようになり、その重荷をになうようになる。あなたがそのような状態になると、霊的生活を通して神に自分の心の中にある真実を示すことができ、あなたのやりたいこと、考えていること、神の言葉への理解と求め方を神に伝えることができるようになる。小さなことであっても、隠しておいてはいけない。心の中にある言葉を神に話す練習をし、神に真実を伝え、躊躇せず心の中にあるものを語らなければならない。これを実践すればするほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと近づけられて行くのである。その状態になると、あなたは神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このように日々ディボーションの時間を持ち、それをおろそかにすることなく、自分の人生における使命と捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも、あなたの心がずっと神のものであったかのようで、あなたの心に常に愛があったかのように感じるものである。それをあなたから取り上げる事のできる者はいない。この状態にまでなると、神は真にあなたの心に住み、あなたの心には神が存在するようになるのである。

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見知らぬ人を受け入れて得た意外なもの

2019-05-08 22:13:32 | 賛美の心

  私は以前、家庭教会で説教師をしていました。ある日、兄弟姉妹たちと会議を開いている最中、チェン牧師は聖書から次の説を読みました、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。」(ガラテヤ人への手紙1:6-7)。そして、彼はこう言いました、「兄弟姉妹の皆さん、東方閃電の信徒たちは、主イエス様が裁きの働きをしに再臨されたと言っています。そして、他の教会では善良な子羊たちの多くが彼らに奪われています。主の信者たちをしっかりと守れていないとなると、将来、主に説明がつきません。そこで、私は信者たちを守るため、見知らぬ人を受け入れることを全面的に禁止する決断をしました。そして、東方閃電を受け入れる人がいれば、その人は教会から追放されることになります。」私は彼の言葉にとても驚いてこう思いました、「どうして主を信仰する真の信者たちの多くが東方閃電を受け入れているんだ。どうしてそんなことが起っているんだ?これからは絶対に見知らぬ人を受け入れないように気をつけよう。」

  その後、私はチェン牧師の言葉を伝えるために各集会場に足を運び、それに従うようにと信者たちに伝えました。その後、私は、こうすることが主に対する強い献身であると信じながら、安堵の溜息をつきました。ある日、年配の姉妹が慌てて私の家にやってきてこう言いました、「フェンギン、知らない女性が東方閃電を説き勧めやってきて、主イエス様は既に真理を話すために再臨されていると言ってるわ。。」私はすかさず割って入り、「その女性はどこですか?」と聞いて、「これからそちらに向かいます」、と言いました。私は年配の姉妹の自宅に到着すると、福音を説きにやって来た姉妹の所へ足早に行ってこう言いました、「東方閃電を説き勧めているのはあなたですか?」彼女は、「そうですよ、叔母さま 」と笑顔で答えました。「東方閃電はヤ―ウェ神、主イエス様の再臨です」と言ったのです。私は、「東方閃電がヤ―ウェ神だなんて、聖書のどの節に記録されているのですか?」と尋ねました。「どうぞお引き取りください。あなたが何を説教されようと、私たちは信じません」と言うと、彼女は穏やかにこう応えました、「叔母さま、聖書にこう記されているのをお忘れではありませんか、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。」(ゼカリヤ書 10:1). 主はいなずまを造られる神なのではありませんか?」私は彼女の言葉を聞き、面と向って攻撃されたかのように唖然としてしまいました。私は自分の面目のためにこう言い返しました、「未信者たちに説教したければすればよろしい。それに、私たちはあなたがどなたか知りません。さらに、私たちは牧師と長老たちから見知らぬ人を受け入れることを禁じられています。お引き取りください!」しかし、彼女は落ち着いた口調でこう言いました、「しかし、私たち主の信者は主の御言葉を聞くべきだと思います。主イエス様は誰も見知らぬ人を受け入れてはならないとは決して仰っておられません。むしろ、主はこう仰りました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。主は、誰でも福音を説く使者を受け入れる者は主を受け入れると仰りました。しかし、あなたの牧師と長老たちはあなたが見知らぬ人を受け入れることを禁じています、彼らは主の教えに背いているのではありませんか?」他の人が急にこう言いました、「出て行かないなら、警察を呼ぶぞ。」そこにいた人たち全員が彼女を非難して脅し、そして彼女を追いやりました。

  この姉妹が去った後、私は思わずこう考えました:「この人の言葉は聖書の内容から逸れていない。しかも、彼女はとても献身的だし、悪い女性のようには見えない。」夜になると、私の心臓は激しく鼓動し、私は強い違和感を覚えました。こうして、私は主の御気持を害したのではないかと内省しました。そして、私は以前、東方閃電を説き勧めていた人々を排斥していたことを思い出しました。そうしたことは主の御心に背いていたのでしょうか?私はこう考えると落ち着けませんでした。主イエス様が隣人を自身のように愛せよと教えてくださったことを考えると、私は増々困惑しました。これ故に、私は祈りを捧げました、「ああ、主よ、私はあなたのために働き、祈り、そして信者たちを守ってきました。なのに、どうして私の心臓は痛むのですか?見知らぬ人を受け入れないのは間違っているのでしょうか?ああ、主よ、私はとても困惑しています、あなたの御気持に沿うには何をすべきなのでしょう。ああ、主よ、どうか私を御導きください。」こう祈りを捧げた後、若い姉妹が口にした聖書の御言葉が私の頭に浮かびました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。私はじっくりと考えました:「そうだ!主イエス様は幼き子供すら受け入れるように仰りましたが、見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられません。とういうことは、あの姉妹を拒絶することは間違っているのでしょうか?」そして、私は牧師と長老たちが言ったことを思い出してこう考えました:「彼らは子羊たちのいのちを守るために、私たちが見知らぬ人を受け入れるのを禁止しておられるのだ。彼らは何も悪いことはしていない。」私はこの時、とても困惑しました。こうして、私は何度も祈りを捧げ、この事態を主に託し、主の御心を理解できるよう、主の御導きを請いました。

  その数日後、あの若い姉妹がまた私の家にやってきました。私はこう言いました、「近頃、東方閃電を説き勧める人たちが大勢いますが、私たちの牧師と長老たちは見知らぬ人とは関わりを持つなと繰り返し言われています。あなたは見知らぬ人ですし、私はあなたのことを知りません。」そして、彼女は静かにこう言いました、「叔母さま、あなたは説教師として、見知らぬ人を受け入れて知らぬ内に予想外の祝福を得た人たちが大勢いたことを知っておられるはずです。聖書にはこう記されています:「ロトも見知らぬ者たちを受け入れ、ソドムの街が破滅させられた時、2人の娘と共に生き残りました。遊女ラハブもまた見知らぬ者たちを受け入れて、彼女と家にいた他3人は共に滅びることを免れました。ザレパテの未亡人は預言者であったエリヤを受け入れると、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えませんでした。そして、未亡人の息子が重い病気になり、息が絶えた時、エリヤは神に祈りを捧げ、彼を蘇られました。見知らぬ人を受け入れた者たちは全員が知らぬ内に神の御恵みを授かっているのです。主イエス様はこれについてこう仰りました、『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイによる福音書 10:41)。これらは主から私たちへの教えであり、私たちはこれらを実践すべきなのです。叔母さま、私の言っていることは正しいですか?」私は、「はい、これは私たちも集会で説教していることです。」そして彼女は言いました、「叔母さま、これらについて話しているだけで、実践していなければ真理を得ることはありませんよ。主イエス様こう仰りました、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』(マタイによる福音書 7:24)。聖書に記されたこれらの例を読むと、見知らぬ人を受け入れれば、私たちは騙されないだけでなく、むしろ神の御加護と祝福を得られることが分かります。聖書にはこの記述もあります、『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。⋯』(ヘブル人への手紙 13:2). 牧師と長老の言うことを聞いて見知らぬ人を受け入れる人がいなければ、イエス・キリストの福音が西洋の国々から我々の国に広まることはあり得ません。私たちは西から来られる伝道者たちが誰だか知っているわけではありません。主イエス様はこう仰っておられます、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。』(マルコによる福音書16:15)。この人たちは全ての国々に行って福音を説いたわけですから、彼らのことを知らなかった人たちが大勢いたはずです。主イエス様の弟子たちとパウロがあちこちで主の福音を説いていた時と同じように、今も伝道者のことを知る人々が大勢いるはずがないのです。ならば、牧師と長老たちが見知らぬ人を受け入れるなと言うのは、主の教えに適っているでしょうか?宗教指導者の言うことをむやみに聞いて、見知らぬ人を受け入れることを拒否していたら、私たちは主の御言葉に背く愚か者だということにになりませんか?主を信仰していても、主の御言葉に従っていなければ天国に入れるはずなどありません。そうだと思いませんか、叔母さま?」


讃美歌「 神の良い知らせを待ち望みます」神の愛は私を前進するように励ます

2019-05-08 00:36:52 | 賛美の心

神の良い知らせを待ち望みます
I
切なるまなざしで、あなたは急に呼ばれる
残酷な人類に直面し、あなたは御心を語る
ただ一つの願いのため、ひどい扱いを受けた
希望と心の血を注ぎ出しながら
あなたは決して多くを求めず、全てを与え
苦痛や迫害を知り尽くす
ああ、聖なるお方
誰があなたの美しさに勝るだろう?
あなたの大いなる御業は永久に称えられる
自由を探し求めるために
どうして私があなたを見捨てられるだろう?
むしろあなたの嘆きや悲しみを和らげるために苦しみたい
自由を探し求めるために
どうして私があなたを見捨てられるだろう?
花が再び咲く時
あなたの良き知らせを聞くだろう


罪の中に私は陥ったが、光の中で生き返る
あなたが引き上げて下さり
とても感謝しています
受肉の神が苦しまれた
まして私はどんなに苦しむべきか?
もし私が暗闇に屈したら
どうやって神を見るだろう?
III
御言葉について考えると
あなたを切望するようになる
御顔を見るたび
罪悪感の中、敬意を表します
自由を探し求めるために
どうして私があなたを見捨てられるだろう?
むしろあなたの嘆きや悲しみを和らげるために苦しみたい
自由を探し求めるために
どうして私があなたを見捨てられるだろう?
花が再び咲く時
あなたの良き知らせを聞くだろう
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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