主イエスと全能神は一人の神様です。主イエスは贖いの仕事をなさり、悔い改めの道を伝え、世の終わりの全能神は人を裁き、清める仕事をなさり、永遠の命の道をもたらされました。では、悔い改めの道と永遠の命の道はどう違いますか?この短編映画をご覧ください。
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朝早く、一筋の陽光がチアンフイの部屋に差し込み、床の上には光の海ができていました。チアンフイは目を開き、両腕をストレッチしました。その瞬間、電話が鳴りました。彼女の友人リリーが電話でこう言ったのです:「チアンフイ、私、来週の日曜日に結婚するの。だから、絶対に来てね。」
友人が結婚するという嬉しい知らせを聞いて、彼女はとても喜びました。彼女はこう思いました:「リリーが以前探していたパートナーは全員が良い家系の人たちだったけど彼女は満足していなかったわ。今回の旦那の家族はお金持ちに違いないわ。」
リリーが結婚した日、チアンフイは早起きしてシャワーを浴びました。そして彼女は午前10時過ぎ頃にリリーの家に到着しました。彼女は家の中に入ったとたん、彼らの新居を見て呆気にとられました。3551平方フィートの豪邸が豪華に飾り立てられていたのです。高価な家具は見るからにとても価値のありそうなもので、装飾構成は正に壮麗と言っても過言ではありませんでした。リリーの旦那はとても裕福な人のように思えました。
新居を訪れた後、彼女は結婚式場に到着しました。この時、彼女はあまりにも裕福な雰囲気に威圧されました。リリーの結婚式は高級ホテルで執り行われ、地元で最も有名な司会者が進行役を務めていたのです。式用の車は様々な種類の高級車が用意されていました。これを見たチンフイは羨ましくなりました。彼女は思わず溜息をついてこう思いました:「学生の時は、リリーよりも私の方が成績もルックスも上だったのに。でも今は私の方が全てにおいて劣っているし、私なんか未だに古くさくて目立たないバンガローに住んでるんだから、結婚式なんてあり得ない。一生苦労してもこんな生活にはありつけないわ。」この瞬間、彼女は永遠の後悔を抱き、喪失感を胸にこう思いました:「私はとても若くて単細胞だったし、全てを軽く受け止めてたからあんな役に立たない旦那と結婚してしまったわ。今結婚するとしたら絶対に車と家を持ってる相手を探すのに、もうがっかりよ!」絶望感の中、彼女は首を振りながらそこで呆然とたたずみました。失望感に浸るのを避けようと、彼女は長い間会っていなかった友人たちと談話をしました。意外にも、彼女の友人たちは皆それぞれの旦那、仕事、家、車等の自慢をしてきたのです。これを聞いた彼女は精神的に参ってしまいました。彼女は友人たちと比べると自分は価値のない醜いアヒルのように感じました。彼女の自尊心はこれを我慢できず、彼女の顔は燃えるほどに暑くなっていました。ついに、彼女はそこに座っていられなくなり、素早く食事を済ませた後、足早にその場を後にしました。
家に帰宅した後、友人の結婚式の様子全てが彼女の頭に浮かび続けました。彼女はこう思いました、「友達は皆私よりもいい生活をしているわ。私にはお金も車もないし、アパートに住むことすらできないわ。」彼女はこれを旦那の無能さのせいにしました。彼女はこう思いました、「旦那がもしいい家系の育ちで、もっとお金を稼いでいたら、私は皆と競り合えるかしら?」このようなことを考えながら、彼女は家の中で全てを不満そうな目で見るようになりました。特に、彼女は旦那が目に入ると非常に腹が立ち、頻繁に彼のあら探しをしたり、彼に激怒したりしました。不満そうなチアンフイを見た旦那は彼女をなだめてくれました。彼女は表面上では彼と口論をしないものの、内心ではかなりの不服を抱いていました。旦那の平凡な有様のせいで、彼女はどうしていいのか分からずこのように途方に暮れました:「私は彼と一生質素な生活をして、永遠に貧乏生活に耐えないといけないの?」この現実を受け入れられなかった彼女はその数日後、またしても彼のあら探しをし始めました。彼女は次第に彼が変わっていくのに気が付きました。彼は毎日仕事から帰宅すると携帯電話でゲームをして彼女とはあまり話しをしたがらなくなったのです。これを見た彼女はさらに腹を立ててこう思いました:「私はあなたと結婚して既に酷い思いをしているというのに、あなたが私に気を使わないなんて。こんな生活あり得ないわ!彼女はこれについて考えれば考えるほど、増々腹が立っていきました。
その後、ある親戚がチアンフイに神の御国の福音を説きました。彼女は神のこの御言葉を読みました:「あなたがたの気質、能力、外観、器量、あなたがたが生まれる家族、あなたがたの職業、結婚、髪や肌の色、あなたがたが生まれる時代などに至るまで、すべては私の手で決められたものである。あなたがたの毎日の行動や、毎日あなたがたが会う者は、私の手で用意されたものであり⋯⋯」神の御言葉は彼女に次のことを知らせてくださりました:「人々の運命は神の御手によって支配され、用意されています。私たちの家族、仕事、そして結婚は神によってかなり前から運命付けられており、私たちに選択肢はありません。私が旦那と出会い、知り合い、そして一緒に住むようになったのも運命なのです。過去を振り返ってみると、私は神の主権を認識していなかったために、いつも家庭内のこと全てに文句をつけて不満を抱き、それ故にとても辛い生活を送っていたのです。」これを理解した彼女は神の前に行ってこう祈りを捧げました:「ああ、神様!私はあなたの御計画と御采配に従います。私が悲惨な生活から抜け出して旦那と仲良くできるよう、どうか私をお助けください、そしてお導きください。」
それ以降、チアンフイの旦那に対する態度は改善し、以前のように些細なことで面倒を起こすことはなくなりました。これを見た旦那もまた彼女に対する態度を改めました。
ある時、チアンフイは両親に会いに行きました。すると近所の人に偶然出くわしてこう聞かれました、「こんにちわ、チアンフイ。最後に会ってから何年ぶりかしら?まだ結婚した時に住んでたバンガローに住んでるの?アパートは購入しないの?」彼女は苦笑いしながら答えました、「それがまだなんですよ。」近所の人は続けてこう言いました、「最近の若い人たちはアパートに住むのが好きよね。綺麗で心地がいいって言ってるわ。」チアンフイは彼女の視線を避けながらこう言ってごまかしました、「義理の父は足が不自由で、二階に上がるのが大変ですから。あそこに住むのが丁度いいんですよ。アパートの購入についてはまた後ほど相談します。」すると近所の人は何も言いませんでした。チアンフイは思わず溜息まじりにこう言いました:「もう、そんなお金があるわけないじゃない!」彼女は又しても無意識のうちに不平をこぼしながら生きるようになっていました。彼女は結婚相手を間違ったと思いました。それは彼女の旦那にはそのような力がなく、彼女はとても屈辱的な生活を強いられ、アパートを購入することすらできなかったからです。悲しみの中、彼女は神の前に行ってこう祈りました:「ああ、神様!私の結婚生活はあなたによって予め定められていることは分かっています、しかし他の人が私よりも良い生活を送っている様子を見ると、どうしても不満に思い、理想の生活ができないのは旦那のせいだと思ってしまいます。この悲しみからどう抜け出せばよいのか分かりません。どうか私を御導きください。」
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私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」
そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」
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これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえt敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」
神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。
その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。
その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。
私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。
私は主の信仰を始めて以降、兄弟姉妹たちと一緒にいる時はお互いを大家族のように愛し、助け合いました。私は長年さまよい続けた末にやっと実家を見つけた子供のように心の中が温かく感じました。私のいのちはついに方向性と意欲を見つけたのです。こうして私は積極的に教会の集会に参加しました。
ある日、説教師が真剣な口調で私たちにこういいました、「さて、全能神教会の人たちは主イエスさまが再臨されたと言っています。これは不可能でしょう!なぜなら、聖書にはこう書かれています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:23–24)。この2節は主イエス様ご自身が私たちに仰ってくださったことです。主イエスのふりをして人々を欺こうとする者たちが現れるため、神は私たちが騙されてしまうことを懸念しておられます。それ故に、主はこの御言葉を前もって私たちに仰られたのです。私たちは主の道に従い、誤った道を決して歩まずにいる必要があるのです。そうでなければ、私たちは一生後悔することになるのです。」私は説教者のこの言葉を固く信じました。そうです!この2節が意味することを疑う余地はありません。私は全能神教会を説き勧める人に出会うことがあっても、決してその人の言葉を受け入れてはならないのです。私は長年に渡って主を信仰してきたのだから、主の道に従い続ける必要があるのです。それ以降、多くの兄弟姉妹たちが私に全能神の御国の福音を説き勧めてきましたが、私はその全てを拒否しました。
ある日、私の近所の人が彼女の親戚である姉妹チャンにフロントハウスを賃貸してくれないかと私に聞いてきました。私はそれを承諾しました。姉妹チャンは穏やかで愛想のよい方でした。彼女は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってくる人でした。やがて、姉妹が何人か彼女の家に来た時、彼女たちは私の家をきれいに整頓してくれました。後に、彼女たちは私に福音を説いてくれたのですが、その時初めて、私は彼女たちが全能神教会から来ていたことを知りました。こうして、私は彼女たちを白い目で見て、時には彼女たちから隠れたりもしました。しかし、私が彼女たちをどのように扱っても、彼女たちは私の家に来ては私の家事を手伝い、私に福音を説いてくれたのです。私は秘かに彼女たちの言葉、行い、そして物事の仕方を観察しました。私は彼女たちの貫いていることは敬けんなことであると知りました。私は彼女たちは主イエス様の御要求を貫いていたのだとも分かりました。彼女たちは他人に対して辛抱強く、寛容であり、自分たちを愛するように他人を愛していました。その一方で、私は神の御要求を貫くことができていませんでした。これを踏まえ、私は心の中で頻繁にこのように熟考しました:「主の愛がなければ、彼女たちは主の御要求を貫くことはなかったでしょう。彼女たちが信じる全能神教会は本当に主の来臨なのでしょうか?それに、積極的に真理を追い求める兄弟姉妹たちの中にはどうして全能神教会を信じている人たちがいるんでしょうか?主は本当に再臨されているのでしょうか?次回は姉妹の言葉をもっと聞いて、それがどういったものなのか確認することにしましょう。」
その数日後、姉妹バイが私の自宅にやってきました。その時、私は聖書を読んでいました。彼女は私にこう聞いてきました、「姉妹シャオ、私たちはもうあなたに何度も説教していますが、それでもあなたは受け入れてくれません。私たちはあなたが神の新しい働きについてどう考えているのか分かりません。考えていることを話してください。一緒に話し合いましょう。」私は反抗的な口調で彼女にこう言いました、「あなたたちは全員が主イエス様は新しい働きをするための御言葉を発するために肉として再臨された言っています。しかし、マタイ24:23–24にはこう記されています、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」だからこそ私はあなたが主イエス様のふりをして来ると思っているんです。私は主を信仰しているので主の道に従うべきであり、あなたに従うことはできないのです。」姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「私たちの主への信仰において、偽のキリストに騙されることを恐れるのはよくあることです。なぜなら、主イエス様は世の終わりに偽のキリストと偽の預言者たちが神に選ばれた人々を欺くために現れるから私たちに慎重になって欲しいと仰られたからです。しかし、主は私たちに偽のキリストと偽の預言者の特徴も伝えてくださっておられます。彼らは人々を欺くために主イエス様の成された働きを真似たり、偉大なしるしや不思議な業を見せることもできるのです。主イエス様が私たちにこれを予めお伝えくださった理由は、私たちが慎重に主の再臨に対応することを望んでおられるからです。しかし、私たちは騙されることを恐れているので、主の再臨に対応する際には聞く耳を持たず、読みもせず、連絡も取らず、孤独にかつやみくもに待機してしまい、世の終わりの神の御救いを受け入れないという結果になってしまうのです。これら全ては間違いなく主の御意図とは違っています。私たちが昼夜待ち焦がれた主イエス様は再臨されておられるのです。それは紛れもない真実なのです。私たちが盲目に主の再臨を説く全ての知らせは過ちだと考えてしまうと、私たちは真の神を締め出すことになってしまうのです。すると、私たちは神を知らずに信仰し、神に抵抗する者と化したパリサイ人のようになってしまうのです。」私はこう言いました、「私たちは神を知らずに神を十字架に張り付けたパリサイ人たちのことを毎日のように話し、彼らを使って自分たちを警告しているのに、どうやったら自分たち自身が神に抵抗するパリサイ人のようになれると言うんですか?」姉妹はこう言いました、「パリサイ人の犯したミスを繰り返したくなかったら、私たちは真のキリスト様と偽のキリストを見分けるする方法を知っておく必要があります。私たちが真のキリストと偽のキリストを見分ける方法に関する真理を理解し、彼らの本質に関する知識を手にした後、私たちは初めて自分たちの方向性を失わない方法、そして主の御救いを逃さない方法を知り得るのです。欺かれることを防ぐには、先ずキリスト様はどういう御方であられるかを知る必要があります。シスター、キリスト様はどういう御方であられるか言ってくれますか?」私は心の中でこう思いました:「この質問の答えは誰でも知ってるでしょう。主イエス様がキリスト様ですよ。私はこんな質問には引っかかりませんよ。」そして私は躊躇せずこう答えました、「主イエス様がキリスト様です。」
姉妹バイは笑みを浮かべながらこう言いました、「神はこれについてどう仰られているか確認してみましょう、『神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。』これらの御言葉から、キリスト様は神の魂にまとわれた肉であられ、受肉された神がキリスト様と呼ばれておられることが分かります。なので、キリスト様は天国におられる神の御子でなければ、神が神の働きをさせるためにお育てになる地上の人間でもなく、むしろ、肉として現実化した神の魂であられ、神御自信の肉であられるのです。そして、この肉は誰とも取って代えることができないのです。すなわち、神の魂が人となるために肉をまとわれる時は、神がどの国にお生まれになろうとも、性別が何であられようとも、神はキリスト様であられるのです。神の肉と魂は1つとなられ、切り離すことはできないのです。この肉こそが地上における神の魂の働きの発現体であられます。神がお持ちであるもの、そして神が何であられるかはこの肉を通して発現されます。私たちは神のお示しを通じてキリスト様の本質を知ることができ、それによって真のキリスト様と偽のキリストを見分けるのです。」私は彼女がこう言ったのを聞いて、「そうか!私は長年に渡って神を信仰してきたけど、主イエス様がキリスト様と呼ばれていることしか知らなかった。肉をまとった神の魂のみがキリスト様と呼ばれるのか。彼女たちの説教は本当に高度だ。私はこれにもっと耳を傾けた方がいいな」と思いました。
黙っていた私を見た姉妹は、続けてこう言いました、「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。」この神の御言葉から、神は御自信をキリスト様として受肉されるため、真理が具現され、謎が開示され、古い時代を完結させ新し時代を始める働きが成されるということが分かります。そしてもちろん、神が明らかにされる真理は無尽蔵に存在します。神が世の終わりに受肉されることが明らかにする真理を通して、神は6000年の人類救済の経営計画、知られざる詳細、真実、働きの施行方法、神の経営の働き全体の目的、受肉にまつわる謎等を明らかにされます。それと同時に、神はまた、神の全能さ、御知恵、義、神聖さ、人類の罪を容認されない性質も公表なされます。 神が具現なさる真理は私たちが神に対して抱くありとあらゆる観念、私たちの逸脱した、かつ誤った知識と実践をより好適に解決することができ、それによって私たちは神に対する純粋な受け入れと知識、そして神に対するより新しく、より正確な知識を取得できるようにしてくださるのです。さらに、神は神の御言葉を用いて人類に新しい時代の方向性とい新しい実践方法をもたらすことで人類を完全を救い、適切な終着点へと導くことがおできになるのです。なぜなら、神は真理、道、いのちであられるからです。真の神がなさる働きは他の誰かが有したり、取り替えることはできないのです。
姉妹の交流を聞いた私はこう言いました、「姉妹バイの言っておられることは筋が通っているわ。聖書にはこう記録されています、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」 (ヨハネによる福音書1:1–2)。あなたが言われたとおり、神の本質は真理であり、道であり、いのちなのです。そしてこの「御言葉」とは何を指しているのでしょう?この節からすると、「御言葉」は神の御言葉を指しており、‘御言葉は神であり、御言葉は神と共にあられる’とこの節に記されています。そうすると、神が肉となられる時、すなわち、御言葉が肉となられる時、神は御言葉を発せられ、働きを成されるはずなのです。それは神が私たちにキリスト様と神の働きの本質について、そしてキリスト様が何をお持ちで、キリスト様がどういう御方であられるかについて教示される御言葉を発せられることで成されているのです。そして、神のみが新しい時代を開いて古い時代を完結することがおできになります。主は世の終わりにおいてこの御言葉の働きを間違いなく成されたことが分かります。」
姉妹バイは幸せそうにこう言ってくれました、「上出来だわ、シスター。神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」 彼女はこの節を読んでくれました。「あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。」 「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。」
そして姉妹はこう話しました、「この神の御言葉から、偽のキリストたちは神の働きを全くこなせないことが分かります。彼らは古い時代を完結させたり、新しい時代を開くことができず、病人を治し、悪霊を追い出し、沢山の奇跡を起こすいった主イエスの成さる働きの真似をすることしかできないのです。彼らは人類を救うために真理を語ることはできないのです。聖書にはこう記録されています、「先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、」 ( 使徒行伝5:36–39)。これら偽のキリストたちは自分たちが神であると断言し続けていますが、聖霊を彼らを支持していません。従って、偽のキリストたちがどのようにして自分たちが神であると断言しようとも、人から成るものやサタンから成るものは耐え抜くことができなければ、長続きもしないので何の効果もないのです。世の終わりの全能神の働きが中国で始まって以来、Spirit-Spirit派のフア・シエハ(Ling-ling Jiaoの拙訳)、Established King派のウー・ヤンミン、Third Redemption派のジィ・ヂョンジエ等、自らを主イエス様の来臨であると言い張る偽のキリストが人々を欺くために多く出現しています。彼らは主イエス様になったふりをして現れ、人々を欺くために神を真似して奇跡を起こそうとするのです。彼らの行いは、 ‘偽のキリストたちは人々を欺くために奇跡を起こす’という主イエス様の預言を現実化しています。彼らは主の信仰者ではありますが、自らをキリスト様であると断言し、彼らがこのような不合理なでたらめを口にするのは、彼ら自身が本質的に邪悪な霊に取り付かれていることが理由です。彼らは全く真理を抱いていないため、神の御言葉を語ることができず、人類の観念と想像を満たす知識と理論について話す、または神秘を誤解したり、人々を欺くために超自然的なことを行ったりすることしかできないのです。これ故に、彼らは遅かれ早かれ挫折するのです。これにより、真理が虚偽となること、そして虚偽が真理となることは決してありえないということが分かります。この全ては私たちが心から求めることができるかどうかにかかっているのです。」姉妹バイの交流を聞いて、私はこう思いました:「彼女の交流には真理が込められていて、私が簡単に理解できるようにしてくれる。私の説教師と牧師ですら偽のキリストの出現を明確に説明することはもちろん、それを説明することすらできないのに。これはもっと慎重に調査した方がよさそうだ。結局のところ、主の来臨はささいなことではないみたいだ。これは見逃せないぞ。私の生死にも影響することだ。」こう考えた時、私はこう言いました、「姉妹バイ、あなたの言葉は正しいと思います。でも私はこれを調べる必要があります。この本は私が預かっていても宜しいでしょうか?是非読みたいのですが。」姉妹は嬉しそうにこう言ってくれました、「いいわよ!後で読んでみて、分からないことがあったら一緒に交流し合いましょう。
私はしばらく追求し調査した後、以前理解できなかった真理と謎の多くを理解することができました。これらの御言葉は人間が話せるものではないのです。私は、神の御言葉を読めば読むほど増々感動し、神が私のすぐ側で私に語りかけてくださっているような気がしました。私は大喜びして、これが主イエス様の再臨なのだと確信しました。私はついに神を迎え入れることができました!
ある日、私は体育の授業の後、空腹を満たそうと自動販売機に食べ物を買いに行きました。私はスロットに5ドル札を入れて、1ドルのスナックを購入、そして「お釣り」という印のあるボタンを押しました。その直後、沢山の小銭が落ちる音が聞こえました。私はビックリしてしばらくそこに立ち尽くしました。小銭を取り出してみると、およそ20ドル近くもあったのです。その時、私は欲張りなことを思いつきました:「この小銭を頂戴したら好きな物が買えるかもしれないな。」しかし、その時こう思いました:「いや、それは駄目だ。お金を取っても誰にもバレないだろうけど、神は全てを観察しておられる。神は正直な人を好まれるから。そんなことしたら正直で立派な人になれない。」しばらく躊躇した後、私は余分なお金を自分の先生に手渡すことにしました。その時、私の友達の1人がやって来て、このことを話すとこういって僕のことを笑いました、「お前は本当に馬鹿だなあ。お金が欲しくなかいなら俺にくれよ。」私は彼の言葉を聞いてこう思いました:「私はキリスト教徒だから、主の教えに従って行動するべきなんだ。これがキリスト教徒の行動規範だから。神に喜んでいただける限り、他人から愚か者だと思われても関係ないよ。」そして、私は余分な小銭を先生に手渡すと、先生は正直だと褒めてくれた上に感謝もしてくれました。今回正直になることを実践した私は平安と喜びを感じました。
その後、私はまた他の試練に直面しました。ある夜、私の母が夕食を買うために私をファストフードレストランに連れていってくれました。私は白米と塩味のベイクドチキンを注文しましたが、白米は売り切れだと言われました。「フライドポテトか他の物はいかがでしょうか?」、とウェイトレスが私に申し訳なさそうに聞いてきました。そして私は白米をフライトポテトに変更しました。私がメニューを見ると、「白米と塩味のベイクドチキンが8ドル、塩味のベイクドチキンが5.5ドル、そしてフライドポテト一人前が3ドル」と書いてあるのを目にしました。私はこう思いました:「今白米をフライドポテトに変更したから、合計で8.5ドル、てことはウェイトレスにあと50セント渡さなきゃいけないな。でも英語上手く喋れないしなあ。途中で言葉が詰まったらどうしよう。まあとにかく、たったの50セントだから、わざわざ彼女に渡さなくてもいいだろう。それに、彼女は払うように言ってこなかったし。」こう考えた時、私は心の中で罪悪感を感じました:「これって詐欺になるのかな?それに、ファーストフードレストランで働くのは彼女にとって楽じゃないだろうしなあ。払わないわけにはいかないよ」こう考えた私は彼女にあと50セント支払うことにしました。自分の食べ物を取りに行った時、私は彼女に50セントを渡してこう言いました、「これ残りの50セントです、塩味のベイクドチキンとフライドポテト一人前の合計は白米と塩味のベイクドチキンの合計より50セント高いんで。」こう言った後、私は自分の英語の流暢さに驚きました。その瞬間、ウェイトレスは私にこう言いました、「いえ、その必要はありません。」私が彼女を説得してお金を受け取ってもらおうと口を開く前に彼女は続けてこう言いました、「申し訳ありません、私が間違っていました。」「大丈夫ですよ」、と私は返事しました。「有難うございます。」そしてウェイトレスは私に微笑みかけてくれました。
この2つはささいな出来事でしたが、私にとってはとても有意義であり、私はこれを通じてこの理解に至りました:私たちの生活において、サタンの誘惑はいつでも私たちに降りかかってくる可能性があります。しかし、主の教えに従って正直な人を実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じるでしょう。聖書にはこう記されています、「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)。主は正直な人を愛されます。私たちは主の要件に従いながら見せかけなしに喋り、行動してのみ、主に求めていただくことができます。将来、私は主の御言葉を実践することにさらなる努力を費やし、主の御名前の栄光を讃えるために正直な子になります。
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