「救い」は2018年に制作されたキリスト教会に関する映画です。それはクリスチャンの多くが救いに関して持つ2つの誤解を指摘し、それについて語り、分析します。これは主の信者たちにそれぞれが神を信仰するために歩んできた道について深く考えさせてくれます。そして、それは深刻な事柄です、なぜなら私たちは、一度誤った道を歩んでしまうと、決して救いを受けられないと同時に私たちの神への信仰も無駄になってしまうからです。これはまた、本映画が視聴者に伝えようとする警告でもあります。これから、本映画の中でクリスチャンが救いに関して持つ2つの誤解について分析していきます。
1つ目の誤解:私たちは罪を許されるだけで救われる。
映画はこのシーンから始まります:聖書の置かれたテーブルがあり、主人公のスー・ヂィチアンが両手を握り合わせて祈りを捧げています。そして、次の聖句がアップで映ります、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:9–10)。このシーンの色調は黄色く、深く低い音楽が流れる中、主人公が独白を通じて主の信者の大多数が持つ考えを簡潔かつ明確に口にします、「主イエス様の信者は、罪が一度許されると永遠に救われ、主が来臨される時には天国に直接引き上げられると考えています。」この後すぐ、彼は2つの疑問を提起します、「しかし、主を信仰して救われるとは、正確には何を意味しているのでしょう?罪を許していただくだけで、本当に天国に行く資格が得られるのでしょうか?」彼らがこう言うと、カメラが左右に旋回し、窓の外で紅葉が落ちる様子を映します。これを見ていると、私たちは思わずこの2つの疑問を熟考してしまいます。しかし、誰が救いの真義を説明できるというのでしょう?
スー・ヂィチアンの独白は、彼は世の終わりの神の働きを受け入れた後、そして神の御言葉を読んだことにより、神の人類を救う計画の奥義を理解し、誤っていた考え方を改め、主への信仰により救われることの真義を知ったことを私たちに語っています。独白の最中、そのシーンの色調が黄色から緑へと移行し、音楽の音量も上がります。本映画はこのような率直なナレーションから始めるため、視聴者が素早く映画の趣旨を理解できるようになっています。これと当時に、主人公のオープニングのセリフが私たちを映画の中へと引き込んでくれます。
映画の中には、本当に救われるということについて私たちを目覚めさせてくれる交流の節があります、「救いとは、主を信じ、罪を許していただいた後、あなたは神に祈りを捧げ、そして神の御恵みを受ける資格が得られることを意味しています、しかし、あなたの罪深い本性とサタンのような性質は依然としてあなたの心の奥深くに埋もれたまままなのです。人々は依然としてそれぞれの罪深い本性に操られ、頻繁に罪を犯します。彼らは神を非難し、神に抵抗すらします。これは、人々は罪を許されても未だ神のものとはされておらず、未だに神に心から従い、神を心から礼拝することができないことを証明しています。人々は主を信じて、それぞれの罪を許していただいても、そして神の御恵みをどれだけ受けようとも、彼らは変わらずサタンの支配下で生きていると言えるでしょう。彼らは依然としてサタンに属しています。これは疑う余地のない事実なのです。」本映画は、’私たちはどうして主を信じ、罪を許していただいた後も頻繁に罪を犯し続けるのか?’、’私たちはどうしてどれだけ努力しても罪の束縛と抑制から逃れられないのか?’、’『救われること』と『救い』の違いは何か?」といった疑問についても深く説明しています。そして、本映画は全能神の表す真理を通じてこれらの疑問に含まれた奥義を明らかにし、人々が心に抱く困惑を解決します。本映画は疑問を提起し、神の御言葉の中で明らかにされる答えを交流しながらストーリーの大半を語り、それによってストーリーの筋を展開させて映画を緊張感のあるものにしています。
2つ目の誤解:私たちはある程度の働きをこなし、方々へ行って尽力し、苦しみ耐えるだけで救われる。
本映画の前半の筋はそのいくつかが主人公であるスー・ヂィチアンは一生懸命に働き、奔走し、苦しみにも耐えていることを表しています。例えば、彼の妻が逮捕された後、彼の娘は彼を見つけて涙を流しながらそのことを彼に伝えます。これを聞いた彼は理性的に行動し、彼女を慰めてこう言いました、「この日がやって来ることは分かっていた。」これより、彼は主を信仰する中で苦しむことへの強い願望を持っているため、この状況の中でも不満を口にしないことが分かります。
仕事がこなせる上に、説教を説いて兄弟姉妹の問題を解決できるスー・ヂィチアンはとても人気があり、高く称賛されています。これ故に、彼は心理の実相を知っており、救われることからさほど遠くはないと思っています。しかしこの時、彼と共に働くリー兄弟はこう言って彼の問題をいくつか指摘します、「私はあなたが私に似ていることに気が付きました。私たちには同じ問題があります。私たちは説教の中で自分たちの理解や啓蒙について話すことは多いですが、私たちの実体験については十分に話せていません。例えば、私たちは神の御言葉を交流するとき、自分たちの状態や自分たちの中から明らかになる反抗的な姿勢と堕落について、私たちが自分たちのサタンのような本質をどのように理解しているか、もしくはそれを解決するためにどのようにして心理を求めているか、そしてどのような変化を遂げたのかについてはほとんど話すことがありません。私たちは共にこういった詳細を欠いています。私たちは自分たちの説教の中で他人の問題を解決する方法にだけ集中して真理はほとんど実践できていません。私たちは他人に聖霊の働きを備えてはいますが、実践経験は全く持っていません。私たちが他人に対して行う真理の交流は明確なものですが、私たち自身は真理の実相にほとんど入れていないのです。これが私たちに共通する欠陥です。」リー兄弟の言葉はスー・ヂィチアンを沈思させました。その後、彼は神の言葉を読み、そして自らを省みた結果、神の御心と要件を知り、そして他人に対して説教を説くことに集中していても自らが真理を実践していなければ真理を得て救われることはないのだと気が付きます。彼は突然、夢から目覚めたかのように、自分が危険な状態にあることに気が付きます。
その後、主人公は妻が中国共産党警察によって殴殺されたことを知ります。この思いがけないショックを受けた彼は心の中で極度の苦しみと悲しみに陥ります。ストーリーはこの時点で完結に近い所まできています。しかし、私はこれが本映画のクライマックスだと思っています。スー・ヂィチアンは妻の死から痛烈な打撃を受け、この中で彼は否定的な考えと状態を多く見せます。その時初めて、彼は神への信仰における自らの卑劣な動機と不純さを知るのです。彼はまた自分の霊的背丈は本当にとても低く、神に対する信念や真理の実相を全く持っていないことも知ります。最も重要なのは、多くの働きを行い、多くの苦しみに耐え、多くの道を歩んだとしても、それは彼が苦難や試練の中で神の証を立てて神を満足させられることを意味しているわけではないことに彼が気が付いたということです。自らを省みたスー・ヂィチアンは神を信仰する上で自らが歩んだ道を深く知り、それはまた視聴者にもインスピレーションをもたらします。
「山河は改めやすいが,人の本性は移し難い。」という諺にもあるように、私たち人類は神によって罪から救っていただき、罪に属さなくなったにも関わらず、私たちの内には依然として堕落が残っているため、私たちは未だに神を知らず、神に対する反抗と抵抗で満ちています。これについて全能神はこう仰っておられます、「あなたがたがわたしを裏切る可能性は依然として100パーセントである…」
映画の最後に、主人公のスー・ヂィチアンは溜息をついてこう言います、「私は偽善的なパリサイ人と何が違うというのか?」この言葉は本当に意味深いものです。これは彼が神の御心を理解した後に心の底から表した言葉であり、それはまた、私たちが慎重に熟考する必要がある疑問でもあります。
本映画は救いに関する2つの誤解の根源、興味深いトピック、そして人間がこれら2つの誤解を持っていることの発現とその結果を上手に指摘しています。さらに重要なこととして、本映画は視聴者に誤解を一掃する方法を示し、人々に救いを受けて天国に入る希望をもたらし、人々が新の救いに関する新たな理解を得られるようにしてくれます。「救い」というタイトルは本映画全体の脈絡となっています。主人公スー・ヂィチアンの実体験を通じ、本映画はその真義を説明し、クリスチャンに救いを求めるための方向性を指し示してくれます。これは本当に見る価値のある映画です。