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いのちの源

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クリスチャンの証し-工場に入ってたったの2ヵ月で、私はどうやって工場長になったのか

2019-05-05 13:26:32 | 賛美の心

  社長は次のことを私に丁寧に言いました。「私と夫、息子3人で話し合った結果、あなたにXにある私たちの刺繍分はいらない工場の支配人になってもらおうと考えたの。安心してね。そこの給料はここより絶対いいから」。私は身に余る待遇に驚きながらも、「社長がそれほど私を信頼してくださるなら、自分の良心にかけて、やるべきことをしっかりやります」と真心を込めて言いました。

  自分が工場で働き始めてたったの2ヵ月で、社長から認めてもらったことを考えると、本当に感慨無量でした。この1件は、私が工場に入ったときのことから話さなければなりません。

工場で働き始めると、古参の従業員からいじめを受けた
  2014年夏、北京のある通りの刺繍工場で縫製工として働き始めました。最初の10日間はすべてが順調でした。11日目の朝、通りにある別の刺繍工場の従業員である小華が私のいる工場に働きに来ました。小華は30歳ぐらいで、北京で7~8年の刺繍経験があります。彼女はこの工場の仕事をすべて終えた後、別の刺繍工場に移り、臨時従業員になったのですが、その後、この工場でまた仕事が発生したので、戻ってきたのでした。このため、この通りの刺繍工場の従業員はみんな彼女のことを知っています。だから小華が刺繍工場の玄関に入ると、十数人の従業員が彼女を見て、笑いながら挨拶をしたのでした。

  しばらくして、小華は服の入ったカゴと木製の腰掛を持って来て、「ガタン」という音とともに、私の隣に座り、服を縫い始めました。彼女の左腕が私の右腕にくっついていたため、私は糸を全く伸ばせませんでした。彼女のふてぶてしい様子を見ると、嫌な気持ちになりました。「この人は人間性に乏しいのではないかしら?まったく思慮が足りない!この座席は工場が決めたものだよ。すべての従業員同士の距離は固定されていて、ちょうど糸を伸ばせるようになっていることを、知らないわけではないでしょう。私のそばに座るなんて、明らかに新人の私が服を縫えないようにして、いじめているのでしょう」。しかし、そのとき、自分は神様を信じる者で、クリスチャンの見本を表さなければならず、人と争うべきではないと考えました。そして私は自分の腰掛を後ろに移し、身体を傾けて糸を伸ばせるようにしました。私は心の中で「あなたに譲ってあげたのだから、これで問題ないでしょう」と思いました。しかし信じられないことに、私が腰を掛けて服を縫おうとすると、彼女は私の前の上方にあるライトを消したのでした。ライトが消えると、全く仕事になりません。私は腹からこみ上げる怒りに耐えました。「いじわるにもほどがある」。しかし、私は心の中の怒りに耐え、笑いながらこう言いました。「私もあなたみたいに若い頃はライトを付けなくても見えていたのだけど。今はこんなに年を取ってしまってね。ライトを消してしまうと、針と糸がはっきり見えなくて、仕事がしにくいのよ」。私はしゃべりながら、身を起こして蛍光灯を付けました。しかし彼女は信じられないことに、怒って「ガタン」と音を立てて、ライトを消し、私を非難しました。「白昼からどんなライトが必要なのよ?ライトがないほうがまだいいよ!」。

神の御言葉によって、怒りをしずめる
  彼女のふるまいで、私は怒り心頭でした。心で次のように考えるのを禁じえませんでした。「私は神様を信じているから、こうやって2回も譲歩してあげたのに、まだ付け上がって来るなんて思いもしなかった。本当に分別がない。あなたのふるまいのことで、社長を呼びさえすれば、私のためにきっと正当なことを言ってくれる。私が声を挙げずにいじめられるままだったら、周りの人からどう見られるかしら。笑われでもしたら、とても情けないじゃない!メンツを取り戻さなきゃ。どうあっても、いじめられてはいけない!」。考えれば考えるほど怒りがこみあげて来て、彼女に言い返そうとしました。そのとき、神様の御言葉を思い起こしました。「サタンによって堕落させられるまで、人はもちろん神に従い、神の言葉に従っていた。人はもちろん健全な理知と良心を持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。」神様の御言葉で私は理解しました。神様が最初に創造した人間は神様の話を聞き、神様に従順で、良心を持っていました。しかし、サタンによって人は堕落した後、サタンの毒が私たちの心に入り込み、私たちの命になってしまいました。私たちがこれに従って生きることで良心を失い、自己中心的で、傲慢で、卑しくなりました。何をするにも自分の利益を原則とするようになり、普通の人間関係を失ってしまいました。考えてみれば、小華が最初に私をいじめたとき、忍耐して気にしないようにできました。しかし、もう一度いじめを受け、自分のプライドと、利益が損なわれると、私は許容し忍耐することができなくなり、怒りに任せて彼女に言い返したくなりました。しかし、それでは、神様を信じない人と同じことです。ここまで考えると、すごく恥ずかしくなりました。

  続いて、私は神様の御言葉をまた思い出しました。「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」今日起こったことは神様が許されたことであり、異邦人の中で神様のために証をするチャンスでもありました。私はクリスチャンとしての模範を表すべきであり、自己中心的な本性によって物事を行うことでも、怒りに任せて小華と争うことでもないのです。私はここまで考え、もうライトをつけるのをやめ、彼女にも言い返すのもやめました。その代わり、自分の腰掛とカゴを玄関口まで運び、日光を借り、服を膝の上に乗せて縫製作業をしました。服を縫いやすくはなかったですが、自分が神様の御言葉を実行し、神様のために証をしているだと考えると、心には癒しがありました。この日は1日、彼女はもう私に構ってくることがなかったので、私はこの件はここで片付いたと思いました。

サタンの計画に打ち勝ち、しっかりと立ち、証をする
  2日目の朝、私は刺繍工場に来たとき、前日の座席が空いているのを見ました。しかし、小華が今日も仕事に来ることを考え、やはり玄関口辺りで縫製することにしました。彼女はその日遅く来ました。そのときには、前日の場所は他の従業員がもう座っていました。すると彼女は信じられないことに、腰掛を持って、カゴを提げて私の右隣に座ったのです。前日と同じことがまた繰り返されました。彼女の左腕が私の右腕に当たり、糸を引くことができません。私は心の中でこう思いました。「昨日、譲歩してもまだダメだというの。今日もいじめてくるなら、人間性が欠落している。あなたみたいな人は見たことがないよ」。腹から怒りがこみ上げ外に吐き出したくなりました。彼女と口論しようかと思いました。しかし、神様の声が私にはっきりと示しました。「あなたが毎日行うこと、日々出会う人々でさえわたしの手で定められたものである。…」。私は心の中で祈りました。「神様、日々の人や物事はすべてあなたが備えられたもので、私に近づくことを許されました。この人はこのように何度も何度も私をいじめます。ここにあなたの御心があるに違いありません」。神様はこう話されました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。…神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある―その背後にはすべて戦いがある。」神様の御言葉で分かりました。外から見ると、彼女が自分を困らせているが、実際は霊的にサタンが悪いことを図っているのです。前日、私は神様の恵みで、真理を実行できました。しかしサタンはそれに不服で、続けて私を試みる状況をセッティングしたのでした。小華は私の隣に座り、私が糸を伸ばせないようにすると、私の稼ぎは少なくなります。しかし、多く稼ぎたいがために、小華と言い争いをしたら、証を失ってしまいます。

  神様の御心が分かった後、サタンの悪い計画を見破り、理性と英知を持って、許しと忍耐を表して、神様の証人とならなければならないことに気づきました。私は椅子を後ろに移し、もっとドアに近づいて、糸を伸ばせるよう、身体を傾けました。小華は私を見ても声を出さず、もう何もしなくなりました。

真理を実行し、古参の従業員から敬服される
  私が新しいモデルの服を縫製しているとき、偶然にも小華の表目の編み方が違っていることに気づきました。縫った服は必ず不合格になってしまいます。しかし彼女自身はまだ気づいていませんでした。私は「こんな表目の編み方だと、縫ってもやり直しになるに違いない。社長の基準を全くクリアできないだろう」と考えました。案の定、社長が間もなく検品にやってきて、小華が縫った服のポケットを見て、「ダメ。不合格。ポケットの縫目がはっきりと見えてしまっているじゃないか。縫目が見えないようにしないといけないよ」と言いました。小華は糸を抜いてやり直しをするしかありませんでした。社長はまた、私の仕事を見て、笑いながら、「これでいいですよ!」と言いました。私は心の中で喜びました。「あなたはすごいんじゃなかったの?私をいじめるんじゃないの?これで、もう私にかなわないでしょう!やり方は教えてあげないから」。私は引き続き服を縫製していましたが、時折小華を見ていました。彼女はまだ従来の間違った表目の縫い方をしていました。彼女は針を抜いては入れ、抜いては入れを繰り返し、何度も見ていましたが、どうやって縫っていいのか分からず、服を持って社長に聞きに行きましたが、彼女を叱る社長の声だけが聞こえました。「ダメ。糸を抜いてもう一度やり直しなさい。どうしたことかね?(私を指して)あの子を見なさい。新人でもよくできているじゃないか。どうやって縫うのか彼女を見てみなさい!」。小華は頭を垂れて、落ち込んだ様子で、私のそばに来ました。もう前のような高慢さはありませんでした。私はそれとなく喜んでいました。「どんなもんだい。社長から見ると、あなたは私にかなわないのではないか?よくも私をいじめ、辱めてくれたね。きょうはあなたの番だよ」。小華は仕方なく、糸を抜いて縫い直し始めましたが、やはり縫い方が間違っています。しかし、彼女はどうしていいのか分からず、顔は苦しさ で赤くなっていました。このポケットはすでに2度も糸を抜いており、もう一度失敗すれば、縫うのはもっと難しくなります。その時、私は良心の呵責を感じ始めました。「この服は今日入ったばかりの新しい服で、彼女は正確に縫えないが、私は縫える。私が彼女に教えるべきでしょう。どうして自分は彼女に教えず笑っているの。もし違う人だったら、最初に間違いを見ると絶対に教えるのに。よくよく考えてみよう。彼女に教えないのは私をいじめていたからか?」。

  私は生命に入る交わり を思い出しました。「現在、すべての人の人間関係は異常です。 その主な理由は、人々がサタンによって非常に深く堕落させられているからです。 人々は自分自身と自分の肉のために生きています。他の人のことを思いやることがまったくなく、人間として持っているべき愛情さえありません。人々は互いに争い合い、画策し合い、しかもそれをおおっぴらに公然と行うのです。正常なやり方で人類が互い仲良くやっていくことはありません。人間が持っているはずの良心と理性は、地球上から消えてしまいました。人類の間に協力の精神はありません。僅かばかりの忍耐さえないのなら、人々はお互いに敵対するでしょう。人間の心は、悪、対立、敵意、そして不和でいっぱいです。 それはまるで、人には人間の似姿がないかのようです。人は完全にサタンによって所有されており、人の心の中はサタンの哲学で満たされています。」この交わりについて考えたとき、自分の汚い性質を自覚しました。以前、彼女が私をいじめていたとき、彼女と争わず、寛容と忍耐を表したと思っていました。しかし今、彼女が助けを必要としているとき、愛の手を差し伸べるどころか、彼女の不幸を楽しみ、自分のプライドのため喜んでいました。それでは、以前、私は自分の嘘の姿を表していたのでしょうか?私が表したのはサタンの汚れた性質でした。まったく愛がなく、普通の人としての良心を持っていなかったのです。私はこのことを知り、本当に自責の念にかられました。自分は神様が求める人としての基準にほど遠かったのです。神様は今日、私を人の群れの中に入れています。私は人の中で神様の証人となり、神様の栄光を表さなければなりません!

  そこで、私は進んで笑いながら小華に近づきました。「小華さん。表目の縫い方が間違っているよ。これでは縫っても縫い直さないといけないよ」。そう言って、彼女に縫うコツを教えてあげました。彼女は試してみると、すぐにポケットを縫い終わりました。縫い終わった後、私に見せ、尋ねました。「このように縫ったけど大丈夫?」。「これでいいよ!」。彼女はとても喜んで、また縫い始めました。このシーンを見たとき、真理を行うことで人が利益を得ることで、自分もそれを味わい楽しめるということを心から感じました。昼食のとき、小華は私を見ると別人のように、急いで魚と豆腐の煮物をボウルから取り分けてくれました。そして笑顔で私にこう言いました。「お姉さん、多く食べてね」。それ以降、彼女は毎日、工場の玄関に入って私を見ると、ニコニコして「袁姉さん、もう来ていたの!」と声を出します。彼女ははっきりと私に謝っていません。しかし私は彼女の態度はすでに変わっていることを知っています。私は心の中で本当にうれしく思いました。その後、数日もたたないうちに、彼女は前の工場で仕事が発生したため、そこに戻っていきました。この時、私の座席の斜め前の年配の女性が私に次のように言いました。「ねえ、私はあなたに味方したいけど、彼女はあなたにひどく当たっているのに、どうして彼女を助けるの?もし私だったら、彼女に遠慮しないのに!」。私は笑いながら言いました。「私たちはみんな外に働きに来ていて、一緒に働けるのも縁でしょう。だから、ちょっと譲歩するぐらい何でもないですよ!」。私は心の中ではっきり分かっていました。自分の人間性、寛容、愛する心を表せるのは、神様の御言葉が私の内で働くからです。私自身は決して良い者ではありません。

  社長は、私と小華の間の出来事をすべて知っていました。ある日、彼女は私にこう言いました。「袁さん。あなたは優しくて、人柄が立派だね。優しい人はどこに行ってもウケがいいものだよ」。それ以降、社長は、稼げる仕事を私に回してくれるようになりました。その上、他の従業員の縫製に間違いがないかどうかチェックするよう、私に頻繁に言いつけるようになりました。そして工場の従業員たちは私のことを「先生」と呼び始めました。この当時の経験について考えると、真理を実行し人の模範になる上では、プライドが傷つき、悔しい思いをすることもあるが、後になって、そんなことよりずっと大きいものが得られるのだということを本当に体験したのでした。神様の実際的な導きにより、私たちはどのように善で悪に報いるべきか知り、人の見本としてどのようにふるまうべきなのか知るのです。

 

 



クリスチャン結婚導き:結婚相手を選ぶには?

2019-05-04 18:24:14 | 賛美の心

  私はもう人生のパートナーを探しても好い年齢ですし、未信者の家族たちからも彼氏を見つけるようにせき立てられています。でも、私は幸せになるためにはどのようなパートナーを探すべきなのかが分かりません。結婚相手を探す話しになると、私の未信者の友達は皆「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」人を選びたがるのですが、彼らの間には本当の愛情はないですし、それどころかお互いをたくさん傷つけ合っています。私たちはクリスチャンとして愛と結婚をどのように考えるべきなのか、私はそれを理解したいのです。

裕子

裕子姉妹へ:

  あなたのメッセージを読んだ時、私の中で多くの感情がこみ上げてきました。愛と結婚に関する話は私たちの人生において最も大切な事柄の1つであると同時に重大な節目であるとも言えるでしょう。私たちが選ぶパートナーによってこの人生が苦しくなったり、楽しくなったりすることがあります。私も神の信仰を始めるまでは、周りの友人や同僚たちと一緒にこの世のトレンドを追いかけ、豪華な結婚式を挙げることを熱望し、「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」 を結婚相手の条件として設定していました。私は神を信仰するようになってから初めてこの原則における真理を理解しました。私は少しですが愛と結婚に関する理解を得て、愛と結婚における選択方法を学びました。

  以下は私が「背が高くて、裕福でハンサム」、という理想の条件を手にした後に私が自分の結婚生活で体験した話しです。これがあなたに助けと志を与え、あなたが愛と結婚において正しい選択をし、将来と幸せな生活に向かって素晴らしいスタートを切るきっかけになることを期待しています。

  私は婚期を迎えた時、私だけの「白馬の王子様」と出会うことを願い、友人や家族の紹介を受けて 「背が高くて、裕福でハンサム」、という理想の男性と出会いました。彼は背が高くて、ハンサムで、収入が良く、裕福な家庭の生まれでした。私の内の虚栄心はこれにとても満足し、同時に私は私たちが一緒に年を取り、残りの人生を通してお互いを愛し合っていくことも期待しました。しかし、結婚生活が始まってから5年も経たないうちに、彼は私にうんざりし始めて、全てにおいてうるさく文句を言うようになってしまいました。私が食べるものや着るものは全て彼の個人的な好みに合っていなければならず、お互いの家庭環境の不均衡が原因で、私は彼の家族と一緒にいる時は常に見下されていました。私は絶えず彼らの顔色を伺い、私が彼の気に入らないことをすると、彼は仏頂面をして、私のことを無視し、私に対してよそよそしい態度を取りました。私はこういったこと全てを我慢していましたが、彼は私の脚が短いだとか、私にもっと痩せて欲しいだとか、肌が綺麗じゃないなどと文句を言いました。私はしばらく経った後、彼にはかなり以前から裏切られていたことを知りました。

  私にとってとても辛かったのは彼が典型的な無神論者であったことで、私が神の信仰を始めると、彼は私の信仰を抑圧し、妨害してきたのです。彼は私の後を付いてまわり、私が集会に行くのを許してくれず、私に向って手を上げることすらありました。私たちは共に生活しながらも、お互いを理解し合える共通言語を既に失っていました。私たちの結婚生活は名ばかりのものだったのです。私たちはベッドを共にする他人で、私の目は涙で溢れました。あの結婚生活はこのような苦しみの中で幕を閉じました⋯⋯

  神は私を祝福してくださりました。私は神の御言葉を読んで、この側面における真理を理解し、苦しみの根源を見い出しました。私は神のこの御言葉を目にしたのです、「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に退化させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。それでは、そのような社会動向とは何なのでしょうか。それは裸眼では見ることが不可能です。社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです」。

  私は神の御言葉から、現在の邪悪なトレンドは全てお金、力、そして地位を求めることに焦点を置いており、多くの人々に「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」、といった条件を結婚相手の基準として設定させているということに気が付きました。これに加え、テレビで放送されるアイドル出演のドラマや若者向けのドラマは特にこのような考えを表し、人々を惹きつけて外見や地位、そしてお金を追い求めることを重要視させています。いわゆる「愛」や「結婚」は欲の悪臭が充満しており、取引と利益の追求であふれています。こういった結婚は本質的に早い段階から腐敗しているのです。私の結婚生活は早々に終わりを迎えた理由は、私が「背が高くて、裕福でハンサム」、といった邪悪なトレンドを結婚相手に求める目標としてとらえ、富と私益を手にすることに夢中になってしまったからです。私は短期的な虚栄心を満たすことができたものの、結婚後は、価値観の違い、そして習慣、好み、求めるもの全てが大きく違ったため、仲良くするのはとても大変でした。そして、私は夫がこだわっていた「色白で、裕福で、美しい」という基準を満たしていなかったため、夫は本当に私を見下していました。これは結婚後の私たちの生活が単に不幸になるだけでなく、非常に辛いものになることを意味していました。サタンは本当にこういった邪悪なトレンドを利用して人々を傷つけ、幸せになるはずの結婚生活をありとあらゆる追加条件付きの取引と化してしまい、片方がもう片方の願望を満たせないと、二人の関係はすぐに完全に崩壊し、彼らの結婚生活は僅かな日数しか続けなくなるのです。これがサタンが人類を堕落させることによって生まれる結果なのです。

  この挫折と失敗を理由に、私は結婚におけるサタンの観点に頼るのを止め、結婚相手を探す上で 「背が高くて、裕福でハンサム」もしくは「色白で、裕福で美しい」、という条件を基準とする世のトレンドに従うのも止めました。代わりに、私は真理の原則に従ってそれを熟考し、それに取り組みました。

  その後、私は『命の成長のための説教シリーズ』にこう書かれているのを目にしました、「ではお伺いしますが、結婚相手を探す上で最も大切なことは何だと思いますか?最も大切なことはその人がどのような道を歩み、どのような人であるかです。あなたはその人と異なる道を歩んでいたら、同じベッドの上で寝ていても、違う夢を見ながら残りの人生を過ごすことになるでしょう。それで幸せだと言えるでしょうか?共通言語を持たずして、幸せにはなれません。例えば、真理を追い求める姉妹がいて、その夫は富を追い求めているとしましょう。真理を追い求める人が富を追い求める人と共に人生を歩めると思いますか?その二人は共通言語を持っているでしょうか?夫は帰宅すると、『今日はまた金儲けをする方法を発見したぞ』、と言います。ですが姉妹は、『今日はもう少し真理が理解できたわ』、と言います。分かりますよね?二人は同じ道を歩んでいないので、こういった事を口にするとたんに、気持が離れていってしまうのです。これ故に、結婚相手を選ぶにあたって、何を最優先するべきでしょう?肝心なのは同じ理想と信仰を持つ人を選ぶということです。そうしたら、同じ理想と信仰を持つという土台に加え、その他には何を選ぶ必要があるでしょう?自分と類似の人間性を持つ人を選びましょう。あなたが善良な人間性を持っていたとしても、人間性の乏しい人を選んでしまったら、将来確実にたくさん口論をすることになり、意見の衝突を起こすでしょう。あなたの人間性がさほど善良でなかったとしても、善良な人間性を持つ人を選べば、その人はあなたにとって有益な存在となり、思いやりを持ってあなたと接してくれるでしょう。これが大切なことであり、こういった側面を全て考慮しなければなりません。その人があなたにとって最も適切な人であるかどうかを知るためには、神に祈る必要があります。しばらく祈りを捧げてみて、何にも邪魔されず、心がとても穏やかになり、祈り探求することで全てが順調に、問題なく進むのであれば、それはその結婚があなたにとって十分ふさわしいものであることを示しています。それから、兄弟姉妹たちにその結婚を承認してもらってください。全員が『あなた達は本当にお似合いです』、と言って、その結婚が適切だと感じてくれたら、それを承認してくれるでしょう。お分かりでしょうか、神は私たちの魂の内に平安、承認、そして円滑な道をお与えくださったのです。これは素晴らしいことであり、いのちの運命を決定し得ることなのです。」

  私はこの交流より、結婚相手を探す時は、自分と同じ信仰と心を持つ人を探すことだけが神の御心に則しているということを知りました。それは何故かと言うと、その二人は共通言語を持ち、同じ目標に向かっているからです。弱気で否定的になっている時は、お互いを助け支え合い、困難やジレンマに遭遇する時は、お互いを勇気づけ慰め合い、一緒に神を頼りにしながら神の証を立てることができるのです。このような相手を持つことは、私たち信者にとってはいのちに入る上で有益なことです。私の教会の友人の1人で正にこれに当てはまる人がいます。彼女と彼女の夫は共に信者であり、二人は共通言語を持ち、神のために積極的に働き、労力を費やし、福音を伝導し、神の証言を立てています。彼らは理解できない真理に遭遇すると、一緒に話し合い、お互いの弱い所を強化し合うことができます。困難に遭遇すれば、お互いを勇気づけ合い、助け合い、そして支え合うことができています。家庭内での触れ合いにおいても、彼らはお互いを助け合い、愛し合う気持ち、ならびに寛大な心と寛容さを見せ合っているのです。彼らは生活の中で主の御言葉を実践の原則としています。彼らは家庭がもたらす最高の幸せの中を生きているのです。ヨブの妻がしたことを振り返ってみましょう。ヨブが試練を受けてもだえ苦しんでいた時、彼の妻は神を頼るようにと彼を励まさなかったどころか、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ記2章9節)、と言って彼をあざけりました。失敗に終わった私自身の結婚生活は私にとって大きな教訓にもなりました。明らかに、同じ心を持った結婚相手を見つけることは絶対に重要なことなのです。聖書にもこう書かれています、「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス書3章3節)。 結婚相手を見つけるための1要素として、相手が共通の信仰と同じ心を持っている人であるということがあり、もう1つは、これについて神に祈り、たんさん探求するということです。しばらくの間、これについて神に祈り、聖霊からの検認が得られるかどうかを確認してみてください。心の中で平安を感じるのであれば、それは聖霊の検認を得ているということです。あなたの兄弟姉妹たち全員がお似合いだと言えば、それは神の御采配によるものということです。そのような結婚のみが神に祝され、幸せな日々をもたらすことができます。

  上述した交流があなたの助けになることを願っています。神の御言葉は私たちが進むべき道を照らす光であり、幸福につながる道路標識のようなものです。神の祝福は、神の御言葉の原則に従って実践してのみ得ることができます。幸せをもたらす結婚相手を探すにあたって、あなたに神の御恵みがありますように。

  信仰ステーション

 


人生の意味ー命をお金と引き換えにする人生に別れを告げる

2019-05-03 23:01:56 | 賛美の心

     「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」。この言葉は、今の時代に多くの人が一生涯、追い求めているものであり、この記事の筆者もその例外ではありません。かつて彼は、自分の命をお金と引き換えにし、お金で命を買い戻し、大きな痛みの只中に生きていました。そんな彼が神を信じ始め、神の言葉を読むことよって初めて人生の真の意味を理解するようになり、お金と引き換えの人生に背を向けて新しい人生を始めることができるようになったのです。

寄稿家:赵真(米国)

   近頃広まっている二つのフレーズを最近ネット上で見かけました。「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」と「何においてもお金を稼げるかを考え、札束を分厚くしよう。」今日のお金中心の社会では、多くの紙幣を持つことが皆の目標になっています。そして「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」という考え方は強まり、人生を導く道しるべになっています。私たちはこういった格言を疑わず、それを見放すこともありません。そしてもちろん、私も例外ではありませんでした。

 命をお金に換えていた私の以前の人生

  私が19歳の頃、熱意に満ちていたことをぼんやりと覚えています。なるべく手早くたくさんお金を稼ぐため、電気設備チームでの実習期間中は技術を習得しようと必死に勉強しました。自分の家族ができると、さらにエネルギーのすべてを仕事に注ぎ込み、毎月、全実習生のうちで最高額の賃金を家に持ち帰っていました。後に、1日400元の賃金を稼ぐため、昼も夜も働くようになりました。夜中に電話を受けることもしばしばで、暖まってきたばかりのベッドを抜け、出かけたものです。私は日本で働いていた時の悲しい体験を忘れたことはありません。私は、休日も休憩時間もとらず、最低でも1日12時間働いていました。とても厳しく、大きなプレッシャーを伴う仕事で、その結果私は心疾患を発症し、髪もほとんど抜け落ちてしまいました。それでもなお、私はこういった苦労に耐える覚悟でした。お金を稼ぐためです。ぜんまい仕掛けの機械のように、私はお金儲けの最前線で死に物ぐるいになって働き続けました。2年後、もっとお金を稼ぐために、米国へ行きました。数年間、さまざまな雑役を引き受けたりレストランの料理人になったりして必死に働きました。私が経験した辛苦すべてを事細かくお話する必要はありません。でも、自分が手に入れた札束が分厚くなっていくのを見ると、そのお金を稼ぐのに費やした厳しい労働のことは一切忘れていました。

  その後、長期間にわたって度を越えた働き方をしてきたために私の体は危険信号を発しました。重度の胃腸障害、頸椎症、腰椎椎間板ヘルニアおよび肩関節の関節炎を発症したのです。胃が痛くなり始めると、体中に冷汗が流れ、完全な無気力状態になりました。頸椎症が再発すると、脳に十分な血液が行き渡らず、しばしば気分が悪くなったりめまいを感じたりしました。そのためしょっちゅう病院に駆け込まなければなりませんでした。私の疲労困憊した体と稼いだドル紙幣とは等価になり、突如、私はとても悲しい気持ちになりました。10年を超える厳しい労働の中で、ひたすら働くことだけを求めて全く人生を生きておらず、財布には分厚い札束を貯めこんだものの、健康を損ねてしまったのです。私は今まで何のためにあがいてきたのでしょうか?命をお金に換えることに人生の半分を無駄にし、それからまた命を買い戻すためにお金を使っていたのです。一体それだけの価値があったのでしょうか?

  不意に過去を振り返ってみて、それまで道中の風景を楽しむ時間もなく、私の半生は静かにすり抜けていったように感じました。お金のために労働に費やした日々を意識して数えてみるうちに、私の心は無力感でいっぱいになりました。人間の生涯とは、自らを消費し尽くす機械のようなものでしかないのか。お金を稼ぐために生き、お金を稼ぐために死んでいくものなのか?なぜ人生はこれほど苦しみに満ちているのだろうか?

人生が苦しみに満ちている理由
  ある日、幸いにも私は神の言葉を読み、探し求めていた答えを見つけました。

  神は言われます。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。…サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。…サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。」

  神の言葉によって、「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」といった思想や見解はサタンから来ていることを理解しました。サタンはそういった格言で私たちをだまし縛りつけ、お金を持つとはすべてを手に入れることである、お金を持つとは他人から尊敬され賞賛されることである、お金を持つとは素晴らしい華やかな人生を送ることである、そしてこのようなことが価値と意味のある人生である、と考えるように仕向けます。このようなばかげたサタンの思想が私たちのいのちになり、私たちは最後には富を得るためならどのような対価もいとわないようになってしまいます。このようなサタンの思想や見解に自分がいかに支配されてきたかを振り返ると、私はお金を稼ぐために昼も夜も必死に働き、不規則な時間に食べたり飲んだりし、夜に安らかに眠ることはできず、体質はどんどん衰えていったのに、気にも留めていなかったのです。後にはお金が命と考えて、家族を残して日本と米国へ行き、さらにお金を稼ぐために何年間も働きました。確かに私はさらにお金を稼ぎ出していましたが、心疾患、胃腸障害、頸椎症などの病気に次々と悩まされ、ついにはあまりに両腕が衰えて真っ直ぐ伸ばすこともできないほどになって、ひどい痛みを抱え生活していました。神の言葉を通して初めて、すべては自分がサタンの悪い思想と考えにだまされてきたせいであることが分かるようになりました。私は不本意にもお金への欲求に制御され、操られ、ついにはお金の奴隷、いけにえになり下がっていたのです。このことに気づいてからは、私は神の前に戻るべきであり、これ以上サタンの思想と見解によって生きてはならない、そして二度とお金の奴隷になってはならないと思いました。その後、私は普通の勤務時間を守り、終わりのない残業をやめました。

陥りがちな罠にはまって初めて本当の人生の意味を知った

  とはいえ、私はあまりに深くサタンに惑わされてきたため、お金、名誉、富は既に私の心に根を張り巡らしており、それらを取り除くのは並大抵のことではないと思われました。会社を15年運営してきた私の上司が500万ドルを稼ぎ出し、最近豪華な別荘を買ったと言うのを耳にし、私の心はその後しばらくざわついていました。確かに人生は生きるためにあるとは思いました。本当に何も成し遂げずに自分の人生を生きていていいのだろうか?自分のレストランを開くのが私の夢であり、自分のレストランが持てたら二度と誰からも見くびられることはないはずです。気づいた時には、私はまたお金を稼ぐために必死に働き、命をお金と引き換えにする以前と同じ人生を再び生きるようになっていました。教会の集会に出席する代わりに、私は職場で残業をしました。ほどなくして、私は流行性の風邪にやられ、心疾患は再び悪化し、それはひどい苦痛をともないました。

  ちょうど私が痛みに苦しんでいたとき、神は再び救いの手を差し伸べてくださいました。教会の姉妹の1人が映画『福と禍』を送ってくれたのです。主人公がお金を追い求めて働くために日本へ行き、自らの健康を顧みず、ついには全くお金を稼げず、入院しなければならなくなるのを見た私はため息をつき、これはまさに私の人生そのものではないか、と思いました。この映画の中の神の言葉の一節がちょうど次のように言っています。「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭で命を買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」

  主人公が得た理解は、まるでそれが私自身の個人的な体験であるかのようで、深く心を動かされました。「サタンがお金と名誉で人を支配しています。でもサタンの策略が見破れず、お金と名誉で人間を毒するということもわかりません。このため、私達は渦巻きから抜け出せないのです。サタンに惑わされ、害を与えられているのに。」そのとおりです。サタンの狡猾な悪だくみと卑劣な手段を完全には見抜けないので、不本意にもサタンに弄ばれ、傷つけられてしまうしかないのだ、と私は思いました。全身全霊でお金を追い求め、もっと稼ぐために自分の健康を喜んで犠牲にし、サタンにだまされて費やした自分の半生を思い出しました。働き盛りにあったはずの私は、絶えず病気をし、いつも薬を飲んでひどい痛みの中に生きていたのです。これは何を意味していたのでしょうか?お金と命、どちらのほうが大切でしょうか?私は突然、8年間米国で働き、末期がんの診断を受けた旧友のことを思い出しました。彼はその後、わずか3か月で亡くなりました。米国で10年以上のあいだ働き、大金を稼いだ別の人も不治の病にかかり、家族みんなを残して亡くなりました。このような恐ろしい話はひとつの事実を告げています。地位がどれほど高かろうと、どれだけ裕福だろうと、自らの命を延ばす機会を買うことはできませんし、死ぬときには何も持って行けないのです。主イエスが仰っていたとおりです。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」サタンの狡猾な悪だくみを見抜けず、以前からの間違った道を進み続け、お金を追い求め、さらに分厚い札束を手に入れることを望み、自分の命をお金と引き換えにしていたなら、私を待っているのは悲しい結末だけです。

過去に別れを告げ、新しいいのちを迎え入れる
  私はさらに神の言葉を読みました。「こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生活様式や人生の目標と訣別し、以前の生活様式、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさとともに生きることを可能にするかを確認することです。…このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による采配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」

  神の言葉は実践の方法をはっきりと示してくれました。サタンの邪悪な誘惑を避け、命とお金と引き換えにする古い人生に別れを告げたいなら、誤ったことを人生の目標に掲げるのをやめ、二度とサタンの悪い考えによって生きることのないようにしなければなりませんでした。そして1人の人間として行動をし、神の言葉の光の道を先へ歩んでいかなくてはいけません。個人的な体験を通し、かつての私の人生の見方、お金が人生そのものだという考えが、実際には私を弄び、傷つけるサタンから来ていたのだと気づきました。その価値観はサタンが私にかけた鎖であり、瞬く間に消え得る無価値なものでした。私に残された時間の中で、二度とサタンの狡猾な悪だくみに陥ってはいけないと思いました。私は神によって創られたのであり、神を崇拝し、神に従い、神の権威と導きの下で生きていくべきです。それは唯一、本物の未来と真の価値を伴う人生なのです。

  それから間もなくして、ある日、私の上司の夫人から電話があり、レストランへ行って手伝うようにと言われました。しかし、これまでお金のために徹底して働いてきた時期について思いめぐらし、彼女の依頼を断りました。私は残りの人生の新しい計画を既に持っていたからです。それはもっと休息をとり、健康に気を配り、集会や本分を尽くすことに決して遅れないという前提の下、自分の最善を尽くせる仕事を見つけることでした。これから残りの人生、私の主権者は神です!

  筆者は次のことを共有したいと願っています。

  私はお金の追求をやめ、神の救いを得ることを喜びます。

  人生に残された時間を大切にし、進んで神に従い、神を礼拝します。

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聖書を信じることは神を信じることと同じでしょうか?

2019-05-02 23:18:12 | 賛美の心

  私はクリスチャンの家庭に生まれました。私の家族は貧乏だったので、父はよく出稼ぎに行って、帰ってくることは滅多にありませんでした。そして、母は地元で働いていましたが、毎日朝から晩まで仕事が忙しく私たちの世話をする時間はほとんどありませんでした。なので、私は幼かった頃から家事だけでなく、弟と妹の世話をする必要もありました。私は自分と同年齢の子たちが両親に面倒を見てもらっている様子を見ると、いつも心細くなりました。当時、私は聖書に関してはあまり知りませんでしたが、日曜学校に行くのはとても好きで、人間をとても愛してくださる天の御父がいることを学びました。これ故に、私は幸せな時も、そうでない時も、天の御父に祈りを捧げることができました。次第に、天の御父は私が親密に語りかける存在になりました。

  私は12歳の時、正式にクリスチャンの洗礼を受けました。当時、牧師が私にこう言いました、「主への信仰は聖書の内容に基づいていなければいけません。それは、聖書がキリスト教信仰の基礎だからです。それに、神の働きと御言葉は全て聖書に記されています。聖書の内容を固持してさえいれば、騙されることはありません。聖書以外の信仰は全て異端なのです。」また、彼は説教の最中にはいつもこう言っていました、「私たちは聖書に基づいて信仰するのです。神を信じることは聖書を信じること、聖書を信じることは神を信じることだと言えます。」当時、私は聖書に関する知識をあまりもっていませんでしたが、それに熱中しながら積極的に集会に参加し、兄弟姉妹と集会をしている時は喜びを感じて、主に対し信仰深くいられると感じた故に一度もさぼりませんでした。特に牧師の言葉を聞いた後は、聖書がとても貴重なもので、他の書籍とは異なることを知りました。これ故に、私はいつも聖書を持って移動し、勉強した後は布袋に入れて保管しました。その後、教会の状況がひどく悪化しました。兄弟姉妹の大多数が信仰を失い、中には一般世間に戻って働く人すらいました。教会の同僚たちは意見が合わないといつも喧嘩になり、それが原因で教会を去る兄弟姉妹がいました。教会のこのようなありさまを見た私は魂が弱気になり、消極的になってしまいました。私はそれでも教会に行って集会に参加していましたが、毎回参加しているふりをしているだけでした。しかし、私は変わらず聖書を大切に扱い、いつも通り保護していました。結婚した後、聖書は自分の子供にすら触らせませんでした。

  2017年秋の半ばのある日、私はインターネットでリアン兄弟と知り合い、チャットをしていると彼が説教師であったことを知りました。私は、「彼も主を信仰しているのね、それに彼は説教師だから聖書のことを良く理解しているはずだわ」、と思いました。その後、私は集会グループでいつも彼と聖書の勉強をするようになりました。グループの中でしばらく聖書を探求していると、私は嬉しくなりました。彼らの交流はとても啓発的で、私は以前理解できなかった真理の多くを理解することができました。私の枯れ果てた魂は神の御言葉の注ぎと教養を得たのです。次第に、私は彼らと集会をするのが大好きになり、毎回快く集会に参加する約束を守りました。

  ある日、兄弟姉妹が私にある動画を見せてくれました。その中で私は聖書とは異なる書籍を目にしたのです。その瞬間、私はビックリして心臓が飛び上がりました。私は姉妹にこう聞きました、「あなたは東方閃電の信者なんですか?本当に聖書はもう読んでいないんですか?この動画にはどうして聖書以外の書籍が出ているんですか?あれは何ですか?」彼女は私の質問を聞いた後、優しくこう言いました、「ヨハネの黙示録5:1-5にこう書かれています、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』これらの節から、終わりの日には新たな書籍、すなわち、聖書で預言されている神しか開けることのできない巻物が登場することが分かります。」あの日、姉妹は沢山交流してくれましたが、私は彼女の話しを聞けば聞くほど、増々それを受け入れられなくなりました。私はこう思いました:「神の御言葉と働きは全て聖書に記されているのに。聖書以外に新しい書籍があるなんてあり得ない。主を信じることは聖書を信じることなのに。彼らはもう聖書を読まないというなら、それは主への信仰と言えるのかしら?」これ故に、彼らが何を言っても私は、「分かりません」、「理解できないです」、「私には出来ません」などと言って返事をしました。実際、私はもう彼らとは交流したくなくなってしまったのですが、それを断るのは失礼だと思い、最終的には黙っていることにしました。

  集会の後、私はリアン兄弟から沢山メッセージをもらいましたが、その返事はしませんでした。夜になると、私はベッドの中でゴロゴロ寝返りを打ち、眠りにつくことができませんでした。あの夜、私の頭の中は混乱していました。翌朝起きると、私は心が落ち着くことを期待して讃美歌を聞こうと思いました。意外なことに、Facebookを開けてみると、「全能神教会は別名東方閃電。彼らは聖書を読みません」と書かれていたのを目にしたのです。これを読んだ私は落ち着くことができませんでした。私は、「聖書を読まないなんて、彼らは間違って信仰しているわ」、と思いました。これを受けて私はリアン兄弟に「私はもう調査も交流もしたくありません」とメッセージを送りました。彼は直接電話をしてきてこう言いました、「’神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない、そして聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ とった観点は事実に基づいているものではありません。それは神の働きにおける事実に沿っていません。聖書にはこう書かれています、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21:25)。この節から、主イエス様の御言葉と働きは、その全てが新約聖書に記録されていたわけではないことが分かります。実際、聖書を理解する者は誰もが聖書は人間によって執筆され編集されたものであることを知っています。聖書が編集されていた時、編集者の間で生じた意見の食い違いや省略が原因で預言者を通じて伝えられた神の御言葉には聖書に含まれていないものがあるんです。なので、聖書の内容以外には神の御言葉と働きは存在しないなどと言えませんよね?預言者による預言で省略されたものも神の御言葉であると思いませんか?従って、宗教界の牧師と長老たちが言う ‘神の働きと御言葉は全て聖書に記されており、聖書の内容以外には神の働きと御言葉は存在しない’ という意見は現実と一致していないのです。これは彼らが神の働きを知らないが故に生まれた完全に誤まった知識であり、観念に過ぎないのです。さらに言うと、主イエス様は働きに来られた時、旧約聖書の内容に従って働きをされたのではなく、恵みの時代に旧約聖書には記されていない贖いの働きを実行されました。悔い改めの道や磔の働き等、主がなされた働きはその全てが旧約聖書には記されていません。’聖書から逸脱した信仰は全て異端である’ という観念を固持していたら、主イエス様の働きを非難していることになりませんか?」

  私はリアン兄弟の交流は筋が通っていると思いました。私はこの疑問について考えたことがなかったのです。そして、私は集会に参加して調査すると彼に約束しました。しかし、その後、私は彼に約束したものの、依然として吹っ切れずにこう考えました:「何があっても、聖書からは離れてはいけないわ。聖書はキリスト教全体における信仰の土台なんだから。主を信じることは聖書を信じることであるはずよ」こうして私は気を変えてしまったのですが、恥ずかしくてそれを彼に伝えることはできませんでした。なので、その翌日、もしリアン兄弟からまた電話があって集会に誘われた時に断れなくなるのを恐れた私は、わざと携帯電話の電源を切って、見えない場所に隠しました。しかしその日、私は体調が悪く、心臓が激しく鼓動し続けるので、呼吸をするのも、食事をするのも、仕事に集中するのも困難でした。翌日、私は依然として回復していませんでした。リアン兄弟が電話で私に調査に参加するよう誘ってきましたが、私はそれを断りました。調査しなければ私の心臓が落ち着くと思ったのです。しかしその結果は逆でした。後に、私はもっと祈りを捧げ、大好きな讃美歌を聞き、エクササイズをしたり、ピアノを弾いたりして心臓を落ち着かせようとしましたが、効果はありませんでした。私は、「調査することを断っているのに、どうして落ち着けないの?」と思いました。何度も繰り返し考えましたが答えはでませんでした。次第に、私は少し不安になり始めました:「心臓がこんなに激しく鼓動し続けたら何か悪いことでも起こるんじゃないかしら?全能神は本当に主イエス様の再臨だなんてことがあり得るのかしら?私が全能神に抵抗して主に反抗するようなことをしたから、主が私を懲らしめているのかしら?そうじゃないとしたら、どうしてこういった手段を使っても心臓が落ち着かないの?」主に反抗することを恐れた私は全能神教会を調査することにしました。そして、私はリアン兄弟に電話してこう言いました、「私と会ってもらえますか?」驚いたことに、探求して調査する意思を持ったとたんに私の心臓が落ち着いたのです。

  集会で、兄弟姉妹が私に全能神の次の御言葉を読んでくれました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。」

  「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で予言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」

  姉妹はこう言いました、「何年にも渡って、私たちは聖書を神と照らし合わし、私たちの信仰を聖書だけに基礎づけてきました。聖書は主を象徴するもの、神を象徴するものだと、私たちは心の中で信じています。神を信じていると言うよりも、聖書を信じていると言った方が良いのです。宗教界全体が神を信じることは聖書を信じること、そして聖書から逸脱することは神を信じていないことを意味するとまで考えているのです。私たちは誰もが盲目に聖書を信じ崇拝し、聖書に神と同じ格付けをしています。主と神の働きの代わりに聖書を使用する人すらいます。しかし、神を心から知り、神に心から従う人は存在しません。私たちが盲目に聖書を崇拝する理由は、主として私たちは聖書の本質、およびそれと神との関係を知らないからです。ユダヤのパリサイ人が存在した時代のことを思い出してください。彼らは盲目に聖書を固持し、崇拝していましたが、それは聖書を解釈した時に狂信的に主イエス様を非難し、主イエス様に抵抗し、主イエス様を十字架に釘付けにしてしまうほどでした。最終的に、彼らは主イエス様から懲罰を被ったのです。聖書を解釈して聖書の知識を理解できるからといって、それは神を知っているということを意味しているわけではない、聖書の内容を固持することは主の道に従っていることを意味するわけではない、そして聖書を信じることは神を信じることに等しいわけでもないということを証明する十分な事実が存在しているのです。主イエス様はかつてこう仰りました:「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書5:39-40). 主イエス様の御言葉から、聖書には何のいのちも宿っていないことが分かります。聖書は単に神に対する証言書であり、神がなさった過去の働きの記録に過ぎないのです。従い、聖書は神を象徴しておらず、私たちは聖書を神と照らし合わせることもできないのです。神のみが働きを通じて人類を救うことができますが、聖書にはできません。神のみが真理を表すことができますが、聖書にはできません。神はいつでも人間に刺激を与え、人間を啓発し、人間を導くことができますが、聖書にはできません。神は生ける水の源でありますが、聖書はいのちを持たぬ文章の集まりに過ぎません。これ故に、聖書は神を全く象徴してはいないのです。聖書が神を象徴するものだと思って聖書を神と同レベルに置いてしまったら、私たちは神を軽く扱い冒涜していることにならないでしょうか?神は神、聖書は聖書です。聖書は神を象徴できないし、まして神の働きを象徴するなどもっての他です。聖書は神の働きの記録に過ぎないのです。

  彼女の話しを聞いた後、私は神と聖書の違いを理解しました。聖書を信じることは神を信じることに等しくはないのです。聖書の内容を固持することは主の道を守っていることを表しているわけではないのです。聖書に固持していたら、私は主の承認を得られないだけでなく、主の非難を被ることにもなるでしょう。私はパリサイ人の足跡を辿って神に抵抗するわけにはいきません。しかし、彼女の交流によると、過去の聖書を読むことは間違っていることになるのでしょうか?これ故に、私はこの疑問について彼女と交流することを求めました。

  そして、彼女は神の御言葉の次の2節を読んでくれました:「わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。 … これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。」「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」

  彼女はこう言いました、「今、神は地上に降臨して働きをなされます。神は決して私たちに聖書を読むなとも、その価値を否定しろとも言われません。代わりに、神は私たちが聖書を正しい形で扱うことを希望しておられます。それは聖書に記録されている神の御言葉はあまりにも限られているからです。聖書に記されているのは神の働きと使徒たちの体験および証言の記録に過ぎないのです。さらに、聖書に記された神の御言葉は、神のいのちを大海と例えるならその1滴にしか過ぎません。それは神の全てを象徴することはできません。神の働きは常に前進しています。私たちは、神が各時代になさる働きに固執していたのでは、保守的で歴史にしがみついていることになってしまいます。これでは私たちは聖霊の働きを授かることも、現実の問題を解決することもできません。それに、聖書には神の現代の働きは記録されていませんし、それが記す内容は神から人間に対する最も現実的な要件でなければ、聖霊の働きの流れでもありません。最近、全能神は裁きと刑罰をもって人間を清め完全にする働きに着手されました。私たちは、神の働きについてゆき、全能神の終わりの日の裁きと刑罰の働きを受け入れてこそ、聖霊の働きを授かり、清められ、完全にしていただけるのです。」

  彼女の交流を聞いた後、私は突然、自分の魂がどんどん枯れていくように感じ、宗教界に対する信頼がどんどん薄くなっていった理由を理解しました。それは、私が聖書を過度に信用して崇拝し、頑固なまでにそれに固執し、その結果として神の最新の働きについて行かず、暗闇に陥っていたことが原因だったのです。私は彼女の交流を聞けば聞くほど、これをどんどん理解することができました。私は心の中が特別明るくなったような気がしました。
神の御言葉と姉妹の交流により、私の心の中の混乱は解消されました。私は全能神が主イエス様の顕現であること、そして神は主イエス様のなされた働きを基に新たな段階の働きをされたことを確信しました。神の御慈悲、御導き、そして御啓きがなければ、私は主の再臨をお迎えする機会を逃し、依然として魂が飢え、枯れた状態で暗闇の中を生き、聖書のルールと御言葉を固持し、神を信仰しながらも、神に抵抗し続けていたことでしょう。今、私はやっと聖書の束縛から足を踏み出し、神の前に行き、生ける水の泉の備えを得ることができました。神に感謝いたします!全ての栄光、神にあれ!

 


神の導き-誘惑に打ち勝つための2つの秘訣を教える

2019-05-01 20:01:09 | 賛美の心

   【編集者メモ】この社会には、邪悪な風潮がはびこり、私たちはいつも誘惑に負けて、罪を犯さずには生きることができません。その結果、私たちは神から忌み嫌われ、霊が暗くなっています。ならば、私たちはどうすれば誘惑に打ち勝って、神の導きと加護を受け続けることができるのでしょうか。

  第1に、いつも神に祈りを捧げ、神の御前で生きることで、積極的に誘惑から距離を置く
この物質主義で、お金中心の世の中、特に高級ホテルや高級レストラン、カラオケ、その他の娯楽の場はサタンの誘惑で満ち溢れています。罪に打ち勝つ力を持たない私たちは、富と権力を持つ人々をとても羨ましがり、彼らがそういった場所で裕福な生活を満喫している様子を見ると、大金を稼いで彼らの仲間入りをしたいという欲望が沸いてきます。その結果、お金とそれがもたらす物質的快楽が私たちの心を完全につかみ、私たちの心は神からどんどん離れて行ってしまいます。これ故に、私たちクリスチャンは、神の御前で暮らせるように、そして私たちを誘惑する人々、出来事、物事から前向きに距離を置いていられるように、常に神に祈りを捧げて、私たちをお守りくださるようにとお願いするべきなのです。これは霊的背丈の低い人々は特に行う必要があることです。これについて聖書にはこう書かれています。「賢い者は災を見て自ら避け、思慮のない者は進んでいって、罰をうける。」(箴言22:3)そして神もこう仰いました。「あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。」この御言葉より、誘惑から積極的に距離を置くことは賢明な選択であることが分かります。

 

  ヨブを例に挙げてみましょう。誰もが知ってのとおり、彼は神を恐れ、悪を避けました。彼は莫大な富に加え、山一面を覆うほどの羊と牛を持っていましたが、常に神の御前で生きていけるようにと身勝手なことはしませんでした。敬虔な心を持っていた彼は、神を怒らせることを不安に思い、頻繁に捧げ物をしました。それに、彼は肉の快楽を楽しもうと自分の富を利用することもなく、息子や娘たちと酒宴を供にすることもありませんでした。彼は神を恐れ悪を避ける道を歩むことだけを貫いたのです。このようにして、ヨブは私たちが従うべき良い模範を示してくれました。

  第2に、サタンの策略を見抜いて誘惑を振り払うことができるように、神の御言葉に従って物事をとらえ、神の御心を求めるようにする

  サタンはいつどこにいても私たちを誘惑して私たちの生活を妨害することを楽しみます。ならば、誘惑される時、私たちは何をしてそれに打ち勝てばよいのでしょうか。『いのちの供給ための説教集』にはこのように書かれています。「これらの誘惑や魅惑を拒むには何を備えていなければならないか?真理を備えていれば、あなたはこれらのものが極めて明確に見えるでしょう。この問題の本質がはっきり見えてからは、自分の行動が他人にどのような害を及ぼすのかが分かり、他の人がどのように心が傷つくかが分かり、自分がどれほどその人の人格を破壊したかが分かります。そして、これらの事柄を自覚すれば、あなたはそれらを引き起こすような行動を取らなくなるでしょう。こうした思考や考えが頭をよぎっても常に拒むことができます。それらに心を動かされることはないため、関心を持つことも気に留めることもないでしょう。」この言葉から、神の御言葉に従って物事をとらえることは非常に大切であることが分かります。神の御言葉を読むことに集中し、それによって真理を理解する場合に限って、私たちは従うべき道を手にするのです。主イエス様はこう仰いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14:6)真理は神から出るものです。神の御言葉は私たちの生活の原則として私たちの生活を導いて下さいます。なので、私たちはもっと神の御言葉と御心を理解する努力をするべきなのです。そうすれば、私たちはサタンの策略を見抜くことができるようになります。例えば、私たちが主のために誠心誠意、努力をしている時に、親戚や友人が突然大金を稼げる仕事の話を持ち出してきて、一緒に行こうと私たちを誘ってくるとします。しかし、それに乗ってしまうと、教会の集会に参加したり、教会の任務を果たす時間がなくなってしまい、神との正常な関係が損なわれてしまいます。そのような時は、神の御言葉を読み、そして神の御心を求めて、何を追い求めることに最も意味があるのか、そしてそれをどのように選択すれば良いのかを理解する必要があるのです。お金の誘惑に関する見識を持つことができれば、それを振り払うことができるでしょう。主イエス様はこう仰いました。「神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。…富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい。」(マルコによる福音書10:24~25)「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」(ルカによる福音書9:25)

  神の御言葉から、お金は世俗的な物であることが分かります。私たちはその仕事からより多くのお金を稼ぎ、肉の快楽をさらに楽しむことができるかも知れません。しかし、それが真理の追求を遅らせて、私たちが創造物としての本分を尽くすことに影響を及ぼすとしたら、私たちが最終的に神に認めていただいて、祝福を受けるということはないでしょう。また、お金を追い求めていたら、私たちは神から離れてします。更にひどい場合は、一日中お金稼ぎに没頭して、自らの健康を損なってしまう人もいるでしょう。人によっては主を信仰し続ける熱意を失ってしまい、お金を益々稼ぐにつれて肉の快楽に夢中になり、自らを破滅させてしまうこともあるでしょう。私たちは、こういった有害な行動を目にしたら、その誘惑を自然と振り払うようでなければいけません。さらに、私たちがお金を欲しがることやお金を追い求めるようにと親戚や友人たちに誘惑されると私たちはそれついて行ってしまうということをサタンは知っており、私たちはそれを明確に認識しておく必要があります。サタンは常に私たちの弱点を突いてきます。私たちはこの内外からの攻撃を受ける中で、気を付けていなければいとも簡単にサタンに捕らえられてしまうのです。これについて、聖書にはこう書かれています。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」(ペテロの第一の手紙5:8)この物質主義の世の中で、サタンは様々な誘惑を使って私たちをおびき寄せようとしてきます。私たちは落ち着いて真理を求め、神の御言葉に従って物事をとらえなければ、サタンの誘惑に打ち勝つことはできないのです。

  上述したこの2つの秘訣が、誘惑から離れ、それに打ち勝ち、そして主の道を歩む上で、あなたのお役に立つことを願っています。