いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

満足を知ってこそ、恩を感謝し、喜ぶことができる!

2019-05-20 23:26:45 | 賛美の心

  先日、ある友達と雑談した時、あの友達はこういうことを話してくれました。彼女の一人の同僚の母親はもともと裕福な生活をし、100平方メートルの部屋に住んでいましたが、満足を知らず、別荘に住む人々をうらやましがっていました。とても悩んでいるので、いつも息子に別荘に住む人々の生活こそ質の高い生活だと言いました。そこで、彼女の息子は母親を別荘に住ませるために、努めて自分の商売を拡張しました。意外にも商売に失敗し、資金が足りなくなり、そのため自分の住んでいる部屋を売らざるを得ませんでした。こうして、彼の母親は彼と一緒にたった数十平方メートルの狭苦しい家に住むしかなくなりました。

  友達の言葉を聞いて、わたしは「漁夫と金魚」という物語を思い出しました。この物語の中で、金魚は自分の命を助けてくれた漁夫に報いるために、漁夫のすべての要求を満たすことを約束しました。金魚の言葉を聞いて、漁夫の妻は新しい木製の盥がほしいと言いました。新しい木製の盥を得た後、彼女はまた大きな部屋がほしいと言いました。大きな部屋を得た後、彼女はやはり満足せず、貴婦人になろうとしました。貴婦人になった後、彼女はまた女王になろうとしました。女王になった後、彼女はやはり満足できず、そのため金魚に愛想を尽かされました。こうして、彼女と漁夫はすべてを失ってしまい、また以前のような貧しい生活をするようになりました。……この物語によって、わたしは人の欲望が果てしないと分かりました。

 

  ある日、わたしは偶然インターネットでこんな言葉を見ました。「人生には幸福がいっぱりある。ただ人は満足を知らない。荷を担うことの苦しみを考えたら、手に何も持たないことが幸福である。道を歩くことの苦しみを考えたら、ロバにまたがることが幸福である。飢えと寒さの苦しみを考えたら、衣食が満ち足りていることが幸福である。……」。そうですね。満足を知る人だけが幸せで楽しいです。多数の人はこの言葉が道理に合うと言いますが、でも現実生活の中で何人が本当にこの点を成し遂げることができるでしょうか。

  例えば、ある人たちは借家して住み、いつも引っ越しをするので、とても疲れています。そのため、彼らはマイホームを得ようとします。たとえマイホームが小さくても、彼らは満足します。だが、彼らが本当にマイホームを得たら、また他人の大きな部屋をうらやましがります。なぜなら、大きな部屋は立派で、もっと住みやすいからです。ある人たちは他人が車を持っているのを見る時、自分も車を持っていることを望み、その車が足代わりになればいいと思っています。だが、車を持った後、他人の車がブランド車で、自分の車より高級だと見ると、また名車を追い求めるようになります。またある人たちは給料が上がったがもっと高い給料を得ようとし、事業を持ったがもっと大きな事業を行おうとし、しかも常にもっと高い官職を手に入れようとします。……欲望のゆえに、生活に対する人の要求は絶えず、永遠に終わりがありません。人はどんな時でも満足を知らず、人の心の中で最もよいものがなく、もっとよいものだけがあります。

  それゆえ、わたしたちは絶えず自分の努力目標を変え、ぜんまいをいっぱいに巻ききった時計のように、絶えずスパートし、頑張ります。満足を知らないことはわたしたちの「エネルギー」であるようだが、毒のある根のようにわたしたちの心の中に深く植えつけられました。そのため、わたしたちはいつも欲望が満たされないためにつらい思いをします。求めているものを得られない時、わたしたちはとてもがっかりし、つらく思い、夜が更けると憂愁に沈み、心の中の苦しみを外にはき出すことはできず、心がどうしても解放されることができません。そのつらさは自分だけが知っています。……泣き、悲しんだ後、わたしたちは自分に「満足を知ろう! 満足を知るのも悪くない!」と勧めます。でもほかの声はわたしたちにこう言います。「満足を知る者は無能だ! 現状に安んじる者は向上心がない! 満足を知ってはいけない!」と。そういうわけで、わたしたちはどこにいても、どんな信仰を持っても、欲望に誘惑されています。満足を知らないため、わたしたちは心の中の欲望の満足を追求するのをやめたことがありません!

  聖書にこう書かれています。「蛭の娘はふたり。その名は『与えよ』と『与えよ』。飽くことを知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。陰府、不妊の胎、水に飽いたことのない土地、決して十分だと言わない火」(箴30:15-16)。この二節は、満足を知らない人の欲望を言っています。欲望は、いくら血を吸っても満足しない蛭のようであり、決して満員だと言わない陰府、妊娠のゆえに満足することがない胎のようでもあり、また水に飽いたことのない土地、決して十分だと言わない火のようです。

  思い返してみれば、友達の同僚の母親と物語の中の漁夫の妻は心の中の欲望のゆえに、もっと優れた享受を得たかったから、自分がもともと持っていた生活を失ってしまいました。しかも彼女たちは自分の欲望が満たされないため辛い思いをし、満足を知らないためたくさんの苦しみを受けました。現実生活の中で、彼女たちのような人がたくさんいます。彼らは心の中の欲望の満足を過度に追求するので、たくさんの苦しみを受けただけでなく、また深い悲哀を感じました。人が金銭や、地位や、権力や、女色などをむさぼるため、罪が生じました。こういうわけで、人はねたんだり、狡猾なことをしたり、欺いたりし、しかも自分の目的のために暴力をふるい、人を殺すことさえします。狂おしげに名利や物質的な享受を追い求めるため、人はサタンのわなに陥って抜け出せなくなり、しかも一歩一歩地獄へ向かって進んでいきます。そうなったのは、人が満足を知らないからです。人が満足を知らないのは、人の強欲な性質のゆえです。人が強欲な性質を持つのは、人がサタンに腐敗させられたからです。サタンは貪欲と、満足を知らないこととを「正しいエネルギー」として美化し、わたしたちに満足を知らないことが理想、大望を抱いていることの表れだと思わせました。そのため、もともと弁別力がなかったわたしたちはこのような観点を心に受け入れてしまい、自分の野心、欲望を満たすことをひたすら追求するようになりました。わたしたちのこれらの貪婪な欲望が取り返しがつかないほどふくれ上がったら、わたしたちは滅びてしまいます。満足を知らなければこんな恐ろしい結果を招くと知ったら、わたしたちは自分の満足を知らない心を呼び覚まし、自分が満足を知って常に幸福であるようにする秘訣を探し、サタンに毒されることから逃れるべきです。

  この物欲だらけの社会では、わたしたちは善悪を見分ける能力を持たず、また罪悪の束縛に打ち勝つ力を持ちません。欲望と誘惑のゆえに、サタンに操られているわたしたちは幸福とは何か、災いとは何かを知らず、また、満足を知らないと恐ろしい結果を招くことを知りません。そういうわけで、わたしたちは欲望の泥沼にますます深くはまり込みます。わたしたちが多くの時満足を知らず、わたしたちの欲望にきりがないのは、サタンはわたしたちの欲望、野心を利用してわたしたちを少しずつ堕落、暗やみの中に導き入れ、わたしたちを意のままに弄び、わたしたちが光を見つけられないようにするからです。真理がわたしたちの命となったら、わたしたちはわたしたちのすべてが神に支配され、定められるのだと認識しました。わたしたちが一生の中でどれくらいの財産を持っているか、どれくらいの成果を収めるかは、神のつかさどりにかかっています。神がわたしに与えようとしないものは、わたしたちがどのように努力しても得られません。わたしたちが無意味なあがきをするなら、きっともっと疲れ、もっとつらくなります。実は、神がわたしたちに与えられた恵みはもう十分です。この面の真理を理解したら、わたしたちはサタンのうそを弁別し、サタンの詭計と陰謀を見破ることができるようになり、サタンに誘惑され、束縛されることもなくなり、しかもサタンの誘惑に抵抗する力を持つようになります。わたしたちがまた絶えず神の言葉の導きに従うことができれば、わたしたちの命は次第に成長することができ、しかもわたしたちは神の権威と支配に対する認識を得、神がわたしたちを離れたことがなく、ずっとわたしたちを愛していることを見ることができます。こうして、わたしたちは喜んで神から出るすべてに従うことができ、また心の中の欲望の満足を過度に追い求めなくなります。そうなれば、わたしたちは神から与えられたものの多少を気にしなくなり、たとえ神から与えられたものが少なくても、満足を知り、恩を感謝する心をもって神に賛美をささげます。

  神に良しとされる義人ヨブのことを例にあげましょう。ヨブは自分のすべての物質的なものは神の祝福と支配のゆえに得たのであり、自分があくせく苦労して得たのではないと信じているので、神の支配と配剤に従うことができ、またいつも恩を感謝し、神の前に出て神を礼拝することができました。彼はもっと多くの物質的な享受をむさぼらず、物質的な祝福を失うためにつらい思いをすることもありません。聖書にこう書かれています。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」(一モテ6:6-8)。わたしたちクリスチャンはヨブに倣って恩を感謝し、満足を知るべきです。そうしてこそ、わたしたちは楽しく幸せに生きることができます。……

  最後に、わたしたちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。……」(一テサ5:16-18)という聖書の言葉を読みましょう。今後、わたしたちはいつも心の中で祈り、自分に臨むことにおいて神の御心を求めるべきです。そうすれば、神のなさったすべてのことは最もよく、神から与えられた恵みはもう十分だと知ることができます。そうなったら、わたしたちは心の中の野心や欲望を捨てて、神の按配したすべての環境に従い、喜びに満ちた心をもって神から与えられたものを賛美することができ、また満足を知り、喜ぶことができます!