いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

「オオカミ子」が家に帰って来た

2019-05-21 21:51:20 | 賛美の心

  数日前、私はある本で「オオカミ子」の話を読みました。内容は次のようなものです。

  ある所に狩人がおり、彼の生まれたばかりの赤子がオオカミに連れ去られました。子供はオオカミに育てられて、だんだん成長します。ある日、狩人はこのオオカミ子を見つけました。我が子を家に連れて帰るために、狩人は自分の肉を切り取ってオオカミ子に食べさせさえもした。父親の献身により、オオカミ子はついに家に帰って来てくれます。長期に及ぶ教育の末、オオカミ子は人間性を取り戻して正常の生活を送りました。

  この話を読んで私は深く感動しました。狩人は息子が行方不明になったとき、悲嘆と苦痛を覚え、悲しみに押しつぶされそうでした。何年もの間、いつの日か息子を見つけたいと必死に願います。10数年後のある日、オオカミと一緒に暮らしている息子を見つけました。息子をオオカミの中から救い出し、普通の人の生き方をしてもらうために、父親は自身の肉を切り取ってまで家に導こうとします。最終的には、オオカミ子は人間性が戻り、狩人は息子を取り戻したのです。一家はそれから末永く幸せに暮らしました。

  この話から、私は今日の人類の状況を思い起こしました。人も「オオカミ子」のようではなかったか。オオカミに連れ去られたその子供のように、サタンに捕らえられた不遇な者ではなかったでしょうか。私たち人間は、サタンに誘惑されて欺かれ、堕落させられて以来、サタンを自分たちの「父」とみなし、心が神からどんどん離れていったのです。神が私たちのいのちの源であることも分からず、善と悪の見分け方も知らず、神の律法やおきてのことも何も知りませんでした。退廃して堕落し、ひどく下劣な所業に溺れます。ここまで無知な人はサタンに倣って悪事を行いながら、それを自覚せず、サタン同然になったのです。神は人を憐れ、守りたいと思われたので、人を救う働きを始められました。

  初めに、神は生まれたばかりの人が地上で普通に暮らせるように、律法を用いて人類を導かれました。しかし、律法の時代の終わりには、人は神を恐れる心を失い、律法を守ることができず、律法によって断罪されて死刑を宣告される危険にさらされました。神は、ご自身の手で造られた人類が律法の下で死ぬのが見るに堪えなかったため、御自ら地上で肉となり、十字架につけられる屈辱を受け、人をサタンの手から贖って生きる機会を与えられたのです。しかし、主イエスによって贖われて罪を赦された私たちの中には、現在もサタン的な性質が残っています。神は仰せられます、「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。

  恵みの時代に主イエスがなさったのは、人の堕落した性質を変える働きではなく、人を贖う働きでした。そのため私たちの中には罪深い性質が依然として残っており、私たちはこの根深いサタン的な本性に動かされて、思わず罪を犯してしまいます。例えば、傲慢でうぬぼれており、いつも誰よりも決定権を持ちたがり、真理であると知っていることを拒絶します。利己的で卑しく、名声と富を奪い合い、陰謀を仕掛けあい、他人を欺き、神をだまし、どんな時も神を警戒します。自分の観念と矛盾することに遭遇しても神を裁いて反抗しかねません。神を信じていながら世界の悪しき風潮に従うこともできます。試練や精錬に直面するといつも神を裏切る危険があります…自分の堕落したサタン的な性質によって支配されて踊らされている私たちは、サタンのような生き方しかしていません。この堕落したサタン的な性質が解決されなければ、いつでもどこでも神に逆らって裏切ることもはばからず、神の聖なる国に入ることもまったくできません。ですから、私たちをサタンの陣営から完全に救って神の国に招くため、神はより高次でより深い働きの段階を行う必要があるのです。

  ヘブル人への手紙第9章28節には「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」ペテロの第一の手紙第4章17節には、「さばきが神の家から始められる時がきた」とあり、ヨハネの福音書第12章48節には、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」と述べられています。

  サタンによって深く堕落させられた人を完全に救うために、神は終わりの日に再び受肉して全能神となられ、神の家で始まる裁きの働きを行うために言葉を語られます。この段階の働きとは、人の罪の根源を完全に解決し、人からそのサタン的な性質を取り除き、人が真に神に従い、神を知って崇拝することができるようにするためのものです。私たちは終わりの日のキリストである全能神による裁きの働きを受け入れることによってのみ本当に罪から解放され、神の完全な救いを受けることができます。

  それは神が仰せられる通りです。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本當に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて墮落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は墮落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉のもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。」

  終わりの日のキリストである全能神は、人々が救いを実現できるように全ての真理を表されました。これらの真理は、神に逆らう私たちのサタン的な性質と堕落の実態を明らかにし、私たちの罪の根源を暴露し、分析しています。神の威厳ある裁きを通して、私たちは自分が傲慢とうぬぼれ、利己的で卑劣、邪悪で貪欲といったサタンの堕落した性質に満ちていることを自覚します。同時に、神の裁きと刑罰の言葉から、私たちは神の聖なる本質と義にして威厳ある不可侵な性質を知り、神を本当に恐れるようになるのです。また、自分たちがサタンによって深く堕落していると悟ります。自分の堕落した性質とサタン的な性質を憎むようになり、次第に罪の束縛から脱却します。こうして堕落した性質が変化し始め、真の人らしく生きるようになります。

  神の御言葉の裁きを経験して初めて、「神が人類を贖ってその罪を許すために十字架刑を受けられたのは、神の人類への愛なのだと本当に悟ることができます。そして終わりの日に、神は再び受肉して真理を表しておられ、私たちをサタンの支配から徹底的に救うために裁きの働きをしてくださっています。これが神のより大きな愛です。神の裁きを受けて清められる者は最後には、神が人類に用意してくださった美しい終着地に連れていかれるのです。」

  この時点で、私はオオカミ子の父親のことを考えました。彼は我が子をオオカミから逃れさせ、真の人として生活させるために、自分の肉を切り取って息子を家に導くことも躊躇しませんでした。同様に、神は大きな代償を払ってまで実際的に働いて私たちを救い、サタンの害毒から完全に逃れられるようにしてくださいます。

  律法の時代には、人類が地上で正常に暮らせるように導き、罪が何であるかを教えてくださいました。恵みの時代には、主イエスが人類の罪を赦すために十字架刑を受けられました。神の国の時代には、全能神が裁きの働きを行うべく言葉を表されたおかげで、私たちは罪の束縛を捨て去り、清めと神の救いを受けることができ、神の国に連れて行って頂けるのです。神の人類経営の働きの三つの段階は、どれも私たち堕落した人類の必要に基づいて行われます。これが神の愛と救いなのです。神に感謝します。


満足を知ってこそ、恩を感謝し、喜ぶことができる!

2019-05-20 23:26:45 | 賛美の心

  先日、ある友達と雑談した時、あの友達はこういうことを話してくれました。彼女の一人の同僚の母親はもともと裕福な生活をし、100平方メートルの部屋に住んでいましたが、満足を知らず、別荘に住む人々をうらやましがっていました。とても悩んでいるので、いつも息子に別荘に住む人々の生活こそ質の高い生活だと言いました。そこで、彼女の息子は母親を別荘に住ませるために、努めて自分の商売を拡張しました。意外にも商売に失敗し、資金が足りなくなり、そのため自分の住んでいる部屋を売らざるを得ませんでした。こうして、彼の母親は彼と一緒にたった数十平方メートルの狭苦しい家に住むしかなくなりました。

  友達の言葉を聞いて、わたしは「漁夫と金魚」という物語を思い出しました。この物語の中で、金魚は自分の命を助けてくれた漁夫に報いるために、漁夫のすべての要求を満たすことを約束しました。金魚の言葉を聞いて、漁夫の妻は新しい木製の盥がほしいと言いました。新しい木製の盥を得た後、彼女はまた大きな部屋がほしいと言いました。大きな部屋を得た後、彼女はやはり満足せず、貴婦人になろうとしました。貴婦人になった後、彼女はまた女王になろうとしました。女王になった後、彼女はやはり満足できず、そのため金魚に愛想を尽かされました。こうして、彼女と漁夫はすべてを失ってしまい、また以前のような貧しい生活をするようになりました。……この物語によって、わたしは人の欲望が果てしないと分かりました。

 

  ある日、わたしは偶然インターネットでこんな言葉を見ました。「人生には幸福がいっぱりある。ただ人は満足を知らない。荷を担うことの苦しみを考えたら、手に何も持たないことが幸福である。道を歩くことの苦しみを考えたら、ロバにまたがることが幸福である。飢えと寒さの苦しみを考えたら、衣食が満ち足りていることが幸福である。……」。そうですね。満足を知る人だけが幸せで楽しいです。多数の人はこの言葉が道理に合うと言いますが、でも現実生活の中で何人が本当にこの点を成し遂げることができるでしょうか。

  例えば、ある人たちは借家して住み、いつも引っ越しをするので、とても疲れています。そのため、彼らはマイホームを得ようとします。たとえマイホームが小さくても、彼らは満足します。だが、彼らが本当にマイホームを得たら、また他人の大きな部屋をうらやましがります。なぜなら、大きな部屋は立派で、もっと住みやすいからです。ある人たちは他人が車を持っているのを見る時、自分も車を持っていることを望み、その車が足代わりになればいいと思っています。だが、車を持った後、他人の車がブランド車で、自分の車より高級だと見ると、また名車を追い求めるようになります。またある人たちは給料が上がったがもっと高い給料を得ようとし、事業を持ったがもっと大きな事業を行おうとし、しかも常にもっと高い官職を手に入れようとします。……欲望のゆえに、生活に対する人の要求は絶えず、永遠に終わりがありません。人はどんな時でも満足を知らず、人の心の中で最もよいものがなく、もっとよいものだけがあります。

  それゆえ、わたしたちは絶えず自分の努力目標を変え、ぜんまいをいっぱいに巻ききった時計のように、絶えずスパートし、頑張ります。満足を知らないことはわたしたちの「エネルギー」であるようだが、毒のある根のようにわたしたちの心の中に深く植えつけられました。そのため、わたしたちはいつも欲望が満たされないためにつらい思いをします。求めているものを得られない時、わたしたちはとてもがっかりし、つらく思い、夜が更けると憂愁に沈み、心の中の苦しみを外にはき出すことはできず、心がどうしても解放されることができません。そのつらさは自分だけが知っています。……泣き、悲しんだ後、わたしたちは自分に「満足を知ろう! 満足を知るのも悪くない!」と勧めます。でもほかの声はわたしたちにこう言います。「満足を知る者は無能だ! 現状に安んじる者は向上心がない! 満足を知ってはいけない!」と。そういうわけで、わたしたちはどこにいても、どんな信仰を持っても、欲望に誘惑されています。満足を知らないため、わたしたちは心の中の欲望の満足を追求するのをやめたことがありません!

  聖書にこう書かれています。「蛭の娘はふたり。その名は『与えよ』と『与えよ』。飽くことを知らぬものは三つ。十分だと言わぬものは四つ。陰府、不妊の胎、水に飽いたことのない土地、決して十分だと言わない火」(箴30:15-16)。この二節は、満足を知らない人の欲望を言っています。欲望は、いくら血を吸っても満足しない蛭のようであり、決して満員だと言わない陰府、妊娠のゆえに満足することがない胎のようでもあり、また水に飽いたことのない土地、決して十分だと言わない火のようです。

  思い返してみれば、友達の同僚の母親と物語の中の漁夫の妻は心の中の欲望のゆえに、もっと優れた享受を得たかったから、自分がもともと持っていた生活を失ってしまいました。しかも彼女たちは自分の欲望が満たされないため辛い思いをし、満足を知らないためたくさんの苦しみを受けました。現実生活の中で、彼女たちのような人がたくさんいます。彼らは心の中の欲望の満足を過度に追求するので、たくさんの苦しみを受けただけでなく、また深い悲哀を感じました。人が金銭や、地位や、権力や、女色などをむさぼるため、罪が生じました。こういうわけで、人はねたんだり、狡猾なことをしたり、欺いたりし、しかも自分の目的のために暴力をふるい、人を殺すことさえします。狂おしげに名利や物質的な享受を追い求めるため、人はサタンのわなに陥って抜け出せなくなり、しかも一歩一歩地獄へ向かって進んでいきます。そうなったのは、人が満足を知らないからです。人が満足を知らないのは、人の強欲な性質のゆえです。人が強欲な性質を持つのは、人がサタンに腐敗させられたからです。サタンは貪欲と、満足を知らないこととを「正しいエネルギー」として美化し、わたしたちに満足を知らないことが理想、大望を抱いていることの表れだと思わせました。そのため、もともと弁別力がなかったわたしたちはこのような観点を心に受け入れてしまい、自分の野心、欲望を満たすことをひたすら追求するようになりました。わたしたちのこれらの貪婪な欲望が取り返しがつかないほどふくれ上がったら、わたしたちは滅びてしまいます。満足を知らなければこんな恐ろしい結果を招くと知ったら、わたしたちは自分の満足を知らない心を呼び覚まし、自分が満足を知って常に幸福であるようにする秘訣を探し、サタンに毒されることから逃れるべきです。

  この物欲だらけの社会では、わたしたちは善悪を見分ける能力を持たず、また罪悪の束縛に打ち勝つ力を持ちません。欲望と誘惑のゆえに、サタンに操られているわたしたちは幸福とは何か、災いとは何かを知らず、また、満足を知らないと恐ろしい結果を招くことを知りません。そういうわけで、わたしたちは欲望の泥沼にますます深くはまり込みます。わたしたちが多くの時満足を知らず、わたしたちの欲望にきりがないのは、サタンはわたしたちの欲望、野心を利用してわたしたちを少しずつ堕落、暗やみの中に導き入れ、わたしたちを意のままに弄び、わたしたちが光を見つけられないようにするからです。真理がわたしたちの命となったら、わたしたちはわたしたちのすべてが神に支配され、定められるのだと認識しました。わたしたちが一生の中でどれくらいの財産を持っているか、どれくらいの成果を収めるかは、神のつかさどりにかかっています。神がわたしに与えようとしないものは、わたしたちがどのように努力しても得られません。わたしたちが無意味なあがきをするなら、きっともっと疲れ、もっとつらくなります。実は、神がわたしたちに与えられた恵みはもう十分です。この面の真理を理解したら、わたしたちはサタンのうそを弁別し、サタンの詭計と陰謀を見破ることができるようになり、サタンに誘惑され、束縛されることもなくなり、しかもサタンの誘惑に抵抗する力を持つようになります。わたしたちがまた絶えず神の言葉の導きに従うことができれば、わたしたちの命は次第に成長することができ、しかもわたしたちは神の権威と支配に対する認識を得、神がわたしたちを離れたことがなく、ずっとわたしたちを愛していることを見ることができます。こうして、わたしたちは喜んで神から出るすべてに従うことができ、また心の中の欲望の満足を過度に追い求めなくなります。そうなれば、わたしたちは神から与えられたものの多少を気にしなくなり、たとえ神から与えられたものが少なくても、満足を知り、恩を感謝する心をもって神に賛美をささげます。

  神に良しとされる義人ヨブのことを例にあげましょう。ヨブは自分のすべての物質的なものは神の祝福と支配のゆえに得たのであり、自分があくせく苦労して得たのではないと信じているので、神の支配と配剤に従うことができ、またいつも恩を感謝し、神の前に出て神を礼拝することができました。彼はもっと多くの物質的な享受をむさぼらず、物質的な祝福を失うためにつらい思いをすることもありません。聖書にこう書かれています。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」(一モテ6:6-8)。わたしたちクリスチャンはヨブに倣って恩を感謝し、満足を知るべきです。そうしてこそ、わたしたちは楽しく幸せに生きることができます。……

  最後に、わたしたちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。……」(一テサ5:16-18)という聖書の言葉を読みましょう。今後、わたしたちはいつも心の中で祈り、自分に臨むことにおいて神の御心を求めるべきです。そうすれば、神のなさったすべてのことは最もよく、神から与えられた恵みはもう十分だと知ることができます。そうなったら、わたしたちは心の中の野心や欲望を捨てて、神の按配したすべての環境に従い、喜びに満ちた心をもって神から与えられたものを賛美することができ、また満足を知り、喜ぶことができます!


クリスチャンが達成しなければならない4つのこと―神を信じるには、4つの最も根本的なことをとらえるべきだ

2019-05-19 20:04:17 | 賛美の心

      主につき従うのには、四つの最も根本的なことがあります。それはわたしたちすべてのクリスチャンが達成しなければならないことです。この四つのことは、神の言葉を読むこと、神に祈ること、本分を尽くすこと、そして神の言葉を実行することです。わたしたちのすべての霊的な生活には、おもにこの四つの面があります。わたしたちの毎日の生活の中にこの四つの面の実行があれば、わたしたちは本当のクリスチャンとしての条件を持つようになります。

第一の重要なことは、神の言葉を読むことです。
     

  わたしたちは主を信じたその日から、聖書を読んでいます。数十年一日のように聖書を読んでいて、今まで中断したことがありません。では、わたしたちがどのように神の言葉を読めば効果を収めることができるでしょうか。神の一言一言から真理を探り出し、神の意志を求め、注意深く祷読し、かみしめるべきです。おおざっぱに読んだり、聖書の字句を暗誦したりしてはなりません。わたしたちは注意深く読み、探究して、聖霊の啓き、照らしを得る必要があります。それでこそ真理の真意と主の意志を理解することができます。

第二の重要なことは、主に祈ることです。
  

  ヨハネによる福音書第4章23-24節でこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。だから、わたしたちが祈る過程は、神を礼拝する過程でもあります。ここには、霊と真理をもって神を礼拝するという条件があります。つまり、わたしたちの祈りが主に良しと認められることを望むなら、祈る前に心を落ち着かせて、主に何を言いたいか、毎日わたしたちに臨む環境の中で主の意志が何かを考えてみるべきです。わたしたちが主の意志を理解したら、主の意志にしたがって祈るべきです。ひたすら神がわたしたちに何かを与えるように要求してはならず、また目的なしに繰り言を言ったり、毎日同じ祈りを繰り返したりしてはなりません。祈る時は自分の困難を正確に知り、心をもって神の意志を求め、神に本音を語り、誠実な言葉で言うべきで、大きな口をたたいたり、空論を説いたりしてはならず、また、神の前で空約束をして実行しないようなことをしてはなりません。しかも、何事にも神を求め、神を仰ぎ見るべきであり、どんな時どんな場所でも心の中に神の位置があるようにし、神を崇めるべきであり、何事にも神の啓き、導きを求めて、従順な祈りをするべきです。そのような祈りこそが神を礼拝する祈りです。

 

第三の重要なことは、自分の本分を尽くすことです。
  

  マルコによる福音書第10章29-30節でこう書かれています。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」。主イエスはまたこう言われました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。わたしたちすべてのクリスチャンは、自分の尽くすべき本分があります。あるクリスチャンたちは主のために自分をささげることができ、数十年一日のように道を走って福音を宣べ伝えています。あるクリスチャンたちは真心をもって主を信じ、真理を追い求める兄弟姉妹に施しをし、彼らを助けることができます。あるクリスチャンたちは消極的で弱い兄弟姉妹を支えることができます。またあるクリスチャンたちははるばるやってくる、福音を宣べ伝える人を受け入れることができます。実は、これらはみなわたしたちが常に生活の中で行なうことです。しかし、本当に本分を尽くすことは、自分の意図を混ぜずに神のために行なうことであり、祝福を得て主と取り引きして、天の国に入るという祝福、冠を得るためにではなく、多くの人の前で他人に褒められるためにでもなく、主の心を満足させるためだけに行なうことです。そのような気持ちを抱いて行なうなら、本当に本分を尽くすことになり、主に受け入れられることもできます。さもなければ、人が自分の企み、欲望、要求のために本分を尽くし、捨て、費やすことになり、主の言葉を守り、神のみこころを行なうとは言えなくなります。そうであれば、主イエスはわたしたちを罪定めして、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるはずです。

第四の重要なことは、真理を実行することです。
  

  実は、真理を実行するのは主の言葉を実行するのです。主イエスのわたしたちへの教えは非常に多いです。例えば、主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)。主の言葉を実行するのは神のみこころを行なうのです。そのためには、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛しなければなりません。実行する中でどのように代価を払い、費やしても心から喜んでそうするべきであり、自分の意図、目的や野心、欲望を持ってはなりません。どんな試練、精錬が臨んでも、神に従い、神を愛すべきであり、不平を言い、神に背いてはならず、また神に反発し、反抗し、神を裏切ってはならず、死に至るまで神に忠誠を尽くし、証しのために立つべきです。だから、わたしたちが主の言葉を実行する時、ただ主の言葉の表面上の意味によって行なってはならず、主の言葉の中に含まれる主の意志が何か、そして真理の本質、真理の真意が何かを探究するべきです。そうすれば、わたしたちの実行は本当の真理の実行になれます。主の言葉の表面上の意味によって行なうのは、ただ聖書の字句を守るのです。それは真理の実行だと言えません。

  以上は、わたしたちが神を信じるのに守らなければならない四つの根本的な重要なことです。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことをとらえることができれば、主に良しと認められることができます。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことを守ることができなければ、神を信じるには方向、目標がなく、長年神を信じても大きな進歩を遂げることができません。だから、わたしたちが根本をつかんでこそ、神を信じることに成功すると保証できます。こうして、わたしたちが失敗することがなくなります。


嘘を見破り、彼女は主イエスの再臨を迎えました

2019-05-18 22:02:43 | 賛美の心

      2012年のある日、あるおばさんと若い女の子が私の店にやってきました。彼女たちの話しを聞いていると、2人は何かを買いに来たわけではないような気がしたので、私は彼女たちに注意しながら2人をじろじろと見詰めました。叔母さんは地味で清楚な服装をしており、笑顔を見せながら喋り、温和でフレンドリーな様子でした。一方の若い女の子もきっちりとして清楚な服装で控えめな様子でした。彼女たちを警戒している私の存在に気付いた若い女の子は笑顔で私にこう言いました、「私はシャオリャン。お茶マーケットでお茶の葉を売ってるの。。。」彼女たちも商売をしていることを知り、そして2人は悪い人たちではないように見えたので、私は警戒を緩めて彼女たちと商売のコツにして話しました。 そして私たちは非常に快い会話をしました。数日後、彼女たちは又戻ってきました。話をしているうちに、私は彼女たちが神の信仰者であることを知りました。彼女たちは私に神の創造の働きと神の主権についてだけでなく、聖書に記されている話についても語ってくれました。私は興味津々に話を聞きました。彼女たちは帰る前に、「羊によって開かれた巻物」と題した本を私にくれて、時間がある時に読むように言いました。彼女たちはさらに、この本に書かれている言葉は全てが神の御言葉であり、沢山読むと私のためになると言っていました。

  私は彼女たちが帰った後、好奇心に駆られながらこの本を開き、「神は人のいのちの源であられる」に書かれたこの節を目にしました:「あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。… 広大な世界において、数え切れないほどの変化が何度も何度も起こってきた。宇宙のすべてのものを支配する神を除いては、誰もこの人類を導き、案内できる者はいない。この人類のために働き、準備する『強力な者』は一人もおらず、ましてやこの人類をこの世の不義から解放して、光り輝く終着点へと導くことのできる人はいない。」 この節を読んだ後、私は感極まってため息をつきました:一体誰がこのような偉大な力を持ってこれらの言葉を話すことができるんだ?人の出生、人が担う役目、人のいのちの運命、人の生涯過程について。。。これらは全て神のみが制御し得ることなのではないのか?。。。

  「何してるの?」道路の反対側にある店にいるおせっかいな女性、姉妹ワン、が私の思考に割って入ってきました。「あなたと一緒に話してた女性2人は誰?一度も見たことないけど。女性の販売員?」私は彼女たちを知っている理由を話しました。びっくりしたことに、彼女は私の言葉を聞くと即座に立上り、目を大きく見開いて真剣な表情をしながら大げさな口調でこう言いました、「他人をそんなに簡単に信用したらだめよ!数日前なんか、道路脇に店をオープンした男性が全能神の福音を説きにきた女性2人と一緒に車で去っているのを見たわよ。。。」彼女はさらにインターネット上の噂をいくつか話してくれました。彼女の言葉を聞いて、私はがっかりしました:「全能神はたった今読んだ本に間違いなく言及されているのに。シャオリャンとおばさんは本当に全能神の信仰者なんだろうか?でも彼女たちは悪い人たちには見えないよな。」私は躊躇しました。私は姉妹ワンの言葉を完全に信じるべきでもなく、それを無視するべきでもなかったのです。こう考えた私はシャオリャンとおばさんに連絡するのを止めることにしました。彼女たちが又来店した時、私は顔を合わせるのを避けました。

  ある朝、私はシャオリャン、おばさん、そして私の店で働く姉妹ヤンが談話しながら笑っているのを遠くから見ていました。私は心の中でこう思いました:「彼女たちは姉妹ヤンに福音を説いているのかな?これは注意してあげるべきだな。」そして、2人が帰った後、私は「善意」をもって姉妹ヤンにこう質問しました、「彼女たちとは知り合いですか?2人は全能神を信仰するように言ってきたんですか?インターネットに書かれてること知ってますか?」私は彼女はこれを聞いて詳しい内容を聞いてくるものと思っていました。しかし、予想外にも彼女はこう言ってきたのです、「知ってますよ。私は彼女たちの本を読んだし、彼女たちの説教も聞きましたよ。全能神の御言葉は実存する問題を解決できるし、私にもすごく役立っていると感じてますよ。時間がある時にでも一緒に聞きに行きましょうよ。他の人たちのでたらめに耳を貸してはいけないですよ。人から聞いたことを自分で判断しないで信じてもいけませんよ。誰かに石炭は白いって言われても信じますか?」私は慌ててこう言いました、「私はインターネットに書かれてた内容を見たんですよ。。。」私が喋っている最中に彼女はこう言いました、「あなたはインターネット上に書かれていることを信じてるんですか?色んな噂以外にも間違ってたり不正な情報は山ほどありますよね?ちょっと前に一緒に見た不正な内容の動画のことは忘れてしまったのですか?」 彼女の言葉はあの動画を思い出させてくれました:ある男性が罪をきせられて懲役16年を言い渡されていたのです。刑務所から釈放された後、人々に真実を知らしめたかった彼は自分が体験した不正行為について動画をインターネット上に投稿しました。しかし、この動画はすぐに削除されてしまったのです。その当時、私はそれにとても憤慨し、オンラインニュースと情報は全く信じられないと感じました。どうして私は調査もせずに全能神の教会よりもインターネット上の否定的な言葉を信じ込んでしまったのでしょう?私は全く自分なりの考えをもっていませんでした。そして、私は今、姉妹ワン、姉妹ヤン、インターネット、自分の中から何を信用すればよいのでしょう?

  その日の午後、私は戸棚を開いた時にあの本、「羊によって開かれた巻物」、を見つけました。前回読んだ言葉が力に満ち溢れていたことを考えると、私はもう一度読みたくなりました。私は本を開くと、偶然にもこの節を目にしたのです:真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。 … そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。」 (「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より)。 この御言葉を読んだ後、私はそれを少し理解できたように思えました。この道が正しいのか、間違っているのかは私が自分で調査した後に分かるでしょう。

  その翌日、姉妹ヤンは全能神教会に行って調査をしようと私を誘ってきました。私たちがホスト宅に到着すると、人が6、7人座っていました。私は彼らを注意深く警戒してじろじろと見詰めました。彼らはみんな違う年齢で、職業も地位も様々でした。彼らは今までお互いのことを知りませんでしたが、神への信仰を理由に集まっていました。彼らは親友たちがお互いに心をさらけ出しているかのように、神の信仰について自由に話し合っていました。この快い様子を見て、私はこう思いました:「この人たちが貫いていることはインターネットで書かれていたような恐ろしいこととは全く違う。現在の社会と比べると、ここは純粋な場所だ。」知らない内に、私は警戒することなく彼らと溶け込んで注意深く彼らの交流に耳を傾けました。

  私は彼らが神のこの御言葉を読んでいるのを聞きました:「あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことを全く知らない。なぜなら輝く光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心や霊は悪い者によって取上げられてしまった。あなたの目は暗闇によって覆われている。あなたは、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声を聞かないし玉座からほとばしる水の音も聞こえない。あなたは、得るはずのすべてのもの、全能者があなたに与えたもの全てを失ってしまった。あなたは、苦しみの終わりのない海へ入ってしまった。救助もなく、生き残る希望もなく、ただもがき騒ぐことしかできず…。その瞬間から、あなたは悪い者によって苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から離れ置かれたままであり、全能者が与えるものに届かないところに置かれたままである。あなたは、後戻りできない道の上に乗り出している。百万回の呼び声もあなたの心や霊をほとんど奮い起こさない。あなたは、悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は、境界も、方向も、道路標識も無い領域へとあなたを誘惑した。」 (「全能者のため息」より )。私は神の御言葉のこの節を耳にして感極まりました。全能神の御言葉は私に語り掛けておられたのです。シャオリャンとおばさんが私に福音を説いてくれていたのは神による御救いだったのです。私は自分が神から生まれたこと、そして神の御家に戻って神の御声を聞き、神の御救いを授かるべきであることは分かっていました。しかし、私は噂を信用して、シャオリャンとおばさんのことを私に害を与えようとする悪い人たちとして見ていたのです。私は彼女たちが私のことを心配してくれているのを知っていながら、それに心を動かされることなく彼女たちを避けたことが何度あったでしょうか?彼女たちがやっと私と会って期待を胸に私を助けようとしてくれた時、私が彼女たちを無情に追い払ったことが何度あったでしょうか?神は、「あなたの目は暗闇で覆われています」、「あなたの耳は欺瞞的な言葉で詰まっています」、と仰っておられますが、私の状態は正にこうだったのではないでしょうか?私はサタンの嘘により困惑させられ、神から授かる全てを大切にしようと考えていなかったのです。私は全能神の御言葉を読んで、それには偉大な力と権威が宿っており、それは人が話せるものではないと感じてはいましたが、私は全能神の働きを慎重に求めることも、調査することもしていませんでした。もし神が姉妹ヤンの言葉を通じて私の目を覚ましてくださらなかったら、おそらく私は依然としてインターネット上の噂を固く信じ、全能神の働きを求める事も、調査することも拒み、最終的には神の前にたどり着く機会を失っていたことでしょう。

  その後、私は教会生活に参加し始めました。次第に、私はもっと多くの兄弟姉妹たちと連絡を取るようになり、インターネットに書込みのあったような人は1人もいなかったことを知りました。彼らの話を聞いていると、私は彼らの大多数も私と同じように中国共産党と宗教界が全能神と全能神教会に対してインターネット上ででっち上げた様々な否定的な噂を理由に懸念していたことを知りました。全能神の御言葉が兄弟姉妹たちが彼らに対して辛抱強く何度も繰り返し福音を説き、神の御心について交流するよう励ましていたのです。こうして、彼らはついに理解することができたのです:全能神の兄弟姉妹たちがこのような代償を払えるのは、彼らに何らかの目的があったり、彼らが善良であるからではなく、神の愛とお救いがあるからなのです。彼らは神のこの御言葉により強く心を動かされているのです:「神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。」(「将来の使命にどのように取り組むべきか」より)。こうして、彼らはあちこちで神に対する噂や中傷が存在しているにもかかわらず、心から神を信仰し、主イエス様の再臨を強く待ち焦がれている人々に対して福音を説く事ができているのです。彼らは真実を知った後、自主的に神の前に行って神の働きを調査したのです。神の御言葉による御導きを受け、彼らはついに全能神が主イエス様の再臨であられると確信し、神を受け入れたのです。

  兄弟姉妹たちの経験は私の心を深く動かして全能神に対する私の警戒心も取り除いてくれたので、私は心を開いて神の働きを調査し始めました。しばらくした後、私は神の御導きの下でこう理解することができました:「噂の裏に隠されていた悪魔の計略は人々が全能神の働きを調査することを防ぎ、神の御救いを受けられないようにすることで、人々が神に抵抗し悪事を働き神から破滅させられてしまうように仕向けることだったのです。サタンの悪意を知り、私はもう噂には騙されないようになり、心の中の懸念も晴れていく霧のように消えていきました。私は神の御言葉を読み続け、集会の場で兄弟姉妹たちと交流していくにつれて、全能神が天と地、そして万物を創造された唯一なる真の神であられると完全に確信しました。そして、私は正式に全能神教会のキリスト教徒となり、創造物としての自分の本分を尽くすために最善の努力を注ぐようになりました。私は全能神から授かった御救いに感謝いたします!全ての栄光、全能神にあれ!


言葉を用いて人間との契約を立てる神

2019-05-17 20:22:16 | 賛美の心

  (創世記9:11-13)「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。」

神が万物を創造した後、創造主の権威が「虹の契約」により確認され、再び示された

  創造主の権威は、全ての生物に対して示され、行使されていた。また神は万物の運命を支配するのみならず、神が自身の手により造った創造物であり、異なる命の構造と形態を持つ、人間も支配していた。創造主は、万物を造った後、神の権威と力を示すことを止めなかった。神にとって、万物を支配し、人類全体の運命を支配する権威が正式に始まったのは、神の手から人間が実際に生まれた後であった。神は人間を管理し、支配し、救い、万物を支配できる人間を真に自分のものとし、そうした人間を神の権威に従って生活させ、そうした人間に神の権威を知らせ、神の権威に従わせる意向であった。したがって神は、人間に対して言葉を用いて自身の権威を示すこと、そして自身の権威により自身の言葉を実現させることを、正式に始めた。この過程においても、あらゆる場所で神の権威が示されていたことは、言うまでも無い。ここでは、あなた方が神の独自性と神のみが持つ権威を理解できるよう、良く知られた特定の例を選んだに過ぎない。

  創世記9:11-13と、上記の聖句には、神による世界の創造の記録に関し、類似点があり、また相違点もある。類似点は何であろうか。類似点は、神が行う意向であった業が言葉を用いて行われていることであり、相違点は、この聖句にある神と人間との対話である。この対話では、神が人間との契約を立て、契約に含まれる内容を人間に伝えている。神と人間との対話により、神の権威が行使されている。つまり、人間が造られる前においては、神の言葉は、神が創造した物に対する指示と命令であった。しかし、神の言葉を聞くことができる者が現れたため、神の言葉は人間との対話であり、かつ人間に対する訓戒であったほか、万物に対する神の権威のある命令でもあった。

  この聖句には、どのような神の行動が記されているであろうか。この聖句は、神が洪水により世界を破壊した後、神が人間と立てた契約について記されており、神は二度と同じように世界を破壊しないこと、そしてこれについて、神はしるしを造った。そのしるしとは何であろうか。聖句には「わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。」とある。創造主は人間に対してこの通りの言葉を語った。神がこのように述べると、人間の前に虹が出て、それは現在も存在する。皆その虹を見たことがあるであろう。あなた方は、虹を見たとき、虹がどのように現れるか知っているだろうか。虹がどのように現れるか、あるいはどこから現れるか、それがどこにあるかは、科学では証明出来ない。それは、虹が創造主と人間との間の契約のしるしだからである。その契約には科学的根拠は不要であり、虹は人間により造られた物では無く、人間は虹を変えることもできない。虹は、神が言葉を述べた後に、創造主の権威が継続しているものである。創造主は、独自の方法により、神と人間との契約を遵守したので、神が立てた契約のしるしとして神が虹を用いたことは、天の律法と天の命令であり、その律法と命令は、創造主にとっても、造った人間にとっても永遠に不変である。しかし、この変えることのできない律法は、神による万物創造後における創造主の権威の現れであり、創造主の権威と力は無限であることを言わなくてはならない。神が虹をしるしとして用いたことは、創造主の権威の継続であり、その延長である。それは神が言葉により行なったもうひとつの業であり、神が言葉により人間と立てた契約のしるしである。神は人間に対して、神が何を行い、それをどのような方法で実現すると決めたかを人間に対して述べ、それは神の言葉に従って実現された。こうした力は神のみにあり、神が言葉を述べてから数千年が経過した現在も、神の言葉により述べられている虹を見ることができる。神が述べたこの言葉により、それは現在まで変えられることが無かった。この虹を消すこと、その律法を変えることができるものはいらず、虹は神の言葉のために存在する。これはまさしく神の権威である。「神は、神の言葉通りを実行し、神の言葉は実現され、実現された物事は永遠に継続する。」現在も存在する虹は、そのことを明確に表しており、神の権威と力の明確なしるしであり特徴である。被造物には、そうしたしるしや特徴を持つ物はなく、そのような特徴やしるしは見られず、被造物以外の物のいずれにも、そうしたしるしや特徴は見られない。そうしたしるしや特徴は唯一の神のみにあるものであり、そうしたしるしや特徴により、創造主のみにある身分と本質と、被造物の身分と本質とが区別される。同時に、そうしたしるしや特徴は、神自身を除いて、被造物やそれ以外の物のいずれも決して超えることができないものである。

  神が人間との契約を立てたことは、極めて重要な業であり、人間に真実と神の心を伝えるために用いた業であり、それについて、神は、神が人間との間で契約を立て、その契約を誓うために特別なしるしを用いるという、独自の方法を採った。この契約が立てられたことは、素晴らしいことであろうか。またそれは、どの程度素晴らしいことであっただろうか。この契約の特別な点は、この契約が、人間と人間、組織と組織、国と国の間で立てられた契約でなく、創造主と人類全体の間で立てられたものであり、創造主が万物を完全に破壊する日まで継続して有効なものであることにある。この契約を誓ったのも、維持するのも創造主である。つまり、人間と立てた「虹の契約」のすべてが、創造主と人間との間の対話に基づいて履行され、それは現在も続いているということである。被造物は、創造主の権威に服し、従い、また創造主の権威を信じ、感謝し、証しをし、讃美する以外に、何ができるであろうか。このような契約を立てる力を持つものは、唯一の神以外に無い。幾度となく出現する虹は、創造主と人間との間の契約を人間に知らせ、その契約について人間の注意を喚起するものである。創造主と人間との間の契約が継続的に現れることにより人間に対して示されているのは、虹でも契約自体でもなく、変えることのできない創造主の権威である。幾度となく出現する虹は、隠された場所における創造主の驚異的かつ奇跡的な業を証明すると同時に、色あせず、変わることの無い創造主の権威を力強く反映するものである。虹は、創造主のみにある権威の別の側面を示すものではないだろうか。

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