いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

息子よ、お母さんはもうあなたをコントロールしません

2019-05-26 19:50:49 | 賛美の心

  チンシンは貧しい家庭に生まれました。彼女は「知識は人の運命を変える」や「人の宿命はその人次第である」といったことを先生たちから教え込まれていました。これ故に、彼女はこっそりと自分自身にこう誓いました:「私はサラリーマンになってレベルの高い生活を送れるよう一生懸命に勉強して4年制大学に入る必要があるわ。」しかし、事は彼女の期待とは逆の方向に進みました。チンシンは4年制大学には入れず、事務員としての生活を始めることになりました。

  彼女の息子が生まれた後、チンシンは自分の夢を息子に託し、息子が人々の間で注目を浴びて家名に名誉をもたらしてくれることを期待しました。彼女は内に秘めた夢を実現させようと、息子が喋ることを学んでいた頃、家の壁にリーディングカードを沢山貼り付けて読むことを学ばせようとました。これに加え、彼女は息子の思考能力と脳の発達を刺激しようと息子に教育に関するCDを沢山購入しました。彼女は毎週末に家事をしながら息子を教育しました。

  チンシンは息子が2歳半だった時に彼を保育所に送りました。ある日の夜中、彼女の息子は泣きながら突然起き上がりました、「ママ―、僕、学校には行かない。おもちゃで遊ぶ時間が無いから。」これを聞いたチンシンは心が痛みました。しかし、彼女は、「社会における競争はとても激しいし、一生懸命に勉強しなかったら将来息子は社会的地位を手にすることができないわ」と考えました。彼女はこう言って息子を慰めざるをえませんでした、「ママはあなたが一生懸命に勉強してることは分かってるわよ。でも将来良い生活をしたかったら頑張るしかないの。」彼女の息子は半分分かったように頷いて、ボーっとした感じで横になって、また眠りにつきました。チンシンは自分の幼い息子を見て涙をこぼしました。彼女はこう考えました:「ママがやっていることは全てあなたが将来の保証を手にするためなのよ。他には選択肢がないのよ。」

  瞬く間に、彼女の息子は小学校に入学しました。息子にもっと学習させようとしたチンシンはかなり忙しくしていました:毎日、息子が学校から帰ると、彼女は先ず彼を塾に連れていき、そこではベテランの教師が子供たちの宿題を手伝い、絵の描き方を教え、インターネットに関する教育も行われていました。夕方になると、チンシンは息子を急いで家に連れて帰りました。息子が素早くシャワーを浴びて夕食を済ませると、彼女は彼を他の塾に連れていきました。息子が帰宅した時は既に夜の10時半になっていました。チンシンは毎日自分を引きずるようにして帰宅する息子を見ていると、言葉では表現できないような無力感に駆られました。

  幸い、彼女の息子は成長する強い願望があり、彼の成績は常に最高レベルでした。彼女の友人と親戚たちは誰もが彼女の息子を高く評価し、彼は賢くて、将来間違いなく立派になって家名に名誉をもたらすだろうと口を揃えて言いました。これを聞いたチンシンはとても喜び、息子の良い成績が彼女にとって何よりのご褒美であると思いました。

  息子が誤って不良と関わるのを避けるため、チンシンは息子が中等学校に入ると彼の外出に制限をかけるようになり、息子が運動場にバスケットをしに行っても、目の届かない所に行くことは許しませんでした。彼女の息子はこの要求に対して決して反抗しませんでした。彼が同級生の誕生日パーティに行きたいことがあっても、彼女は、「外に遊びに行くより、家で勉強していた方がいいわ。将来、名を上げたら何でも好きなことしていいんだから。」彼女に数回却下されて以降、息子はもうこのようなことは口にしなくなりました。

  2018年1月、彼女の息子は大学入試を受ける段階に差しかかり、彼は専攻科目を決定する必要がありました。チンシンは科学は将来性があって、息子が将来的に良い仕事を選ぶ選択肢が沢山あると思ったので彼に科学を選択するよう言いましたが、彼女の息子は違う考えを見せました。チンシンは理由を説明しました、「競争の激しい実社会ではプロの知識がないと自分の地位は確立できないの。そうじゃないと生き残れないのよ。」意外にも、彼女の息子はこう言いました、「科学には興味ないんだ。僕は一般教養科目を選択するよ。」自分の息子の考えを変えようと、チンシンは、「興味は変わるものよ」、と言ってこれを全く受け入れませんでした。しかし、彼女の息子はそれでも、「興味は絶対に変わらないよ。好きでもないことを一生するのは嫌だからね」、と言って自分の決断に固執しました。それ以降、二人は頻繁に顔を真っ赤にしながらこれについて口論して、お互いに譲歩しませんでした。

  ある日、チンシンは又しても科学の有利な点を実体験と照らし合わせながら息子のために分析しようとしました。彼女は熱心に優しい口調でアドバイスしました、「お母さんは科学の勉強が出来なかったから一般教養科目を勉強するはめになったから、今は事務員としてしか働けないけど、あなたのいとこ3人は科学を専攻して、全員がサラリーマンとして高い固定給をもらいながら生活しているわよ。本当に沢山の人たちが彼らのことを高く評価しているわ。どの科目を選択するべきかちゃんと考えなさい。」彼女の息子はすぐさまこう言い返しました、「お母さん、人はそれぞれだよ。お母さんにはお母さんのアイデアと理由があって、僕には僕の意見と目標があるんだ。もうこれ以上は僕に強制しないでよ。」彼はこう言ってその場を歩き去りました。二人の会話は又しても意見が合わないまま終わってしまいました。頑なに自分の道を行く息子を見たチンシンは彼の将来がもっと心配になりました。

  ある夜、チンシンはキッチンで料理をしていると、彼女の息子がいつも通りに手伝いに来ました。頑固に一般教養科目の専攻にこだわる息子のことを考えた彼女はとても腹を立てていました。そして、彼女は声を上げて彼にこう言いました、「どこかに行ってちょうだい。手伝ってもらわなくて結構よ。」彼女の息子は彼女の行動に唖然としました。しばらくした後、彼はすすり泣きながらこう言いました、「お母さん、今まではずっとお母さんが僕のことを全部決めてきたから、僕は一度も自分の意見を口にしたことがない。でも僕はもう大人になったんだよ。どの科目を勉強するかは僕に決めさせてよ。科学の勉強は凄くストレスが溜まると思うし、一日中研究していると目眩がするんだ。お母さんは僕が一生そんな苦しい思いをすることを期待しているの?」チンシンは自分の息子がこう言ったにもかかわらず、頑としてこう言いました、「私はあなたの将来を心配しているだけよ。現実は残酷なんだから。自分の将来をいい加減に扱ったら駄目よ。」これを聞いた彼女の息子は静かに涙しながら自分の部屋に戻って行きました。

  その夜、チンシンはベッドの上で寝返りを打ちながら横になっていました。彼女は息子と口論になった状況を振り返り、とても悲しくなりました。彼女の息子は幼かった頃から彼女の前で泣くことは滅多になかったのです。それは今回彼は心の中で大きな不満を抱え、辛い思いをしていたことを示唆していたのかもしれません。彼女はこのようなことは二度と起こって欲しくないと心の底から思ってはいたものの、一般教養科目を専攻することは彼の将来にとって良くないのではないかと心配していました。ちょうどその時でした、彼女は神を信じていたことを思い出し、この問題を神の前に持って行き、神に祈りを捧げて彼女がどうするべきかを御導きいただくことにしたのです。祈りを捧げた後、彼女は次の御言葉を読みました、「人間は、自分の人生においては自分が無力であり、絶望的であること、何かに卓越する機会や希望は二度と無いこと、自分の運命を受け入れるほか無いことを知っている。そうしたわけで、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想を、次の世代に期待し、自分の子孫が自分の夢を叶え、願望を実現する助けとなること、そして自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望む。つまり、人間は自分の子が幸運に恵まれることを願う。人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、自分の子の運命は自分の掌中には無いということを知らないであろうか。人間は、自分が自分自身の運命の主では無いにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全く無いにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとする。人間は、自己を過信していないだろうか。これは人間の愚かさと無知さではなかろうか。」「能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」


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バレンタインデーにあなたに知らせなければならない別種の愛

2019-05-25 21:33:37 | 賛美の心

  毎年の2月14日は、ロマンチックなバレンタインデーです。この日、ある人は99輪の、エクアドルから輸入されるバラの花を恋人に贈って、花のように美しい、永遠に続く自分の愛を表現します。ある人はバラの花を、「roseonly」のマークのついた灰色の箱に入れて恋人に贈って、理性的で恒久的で穏やかだという感じを恋人に与えます。ある人は恋人に恋人の好きなもの、或いは最もよい約束を与えます。またある人は恋人と一緒に旅行に行こうとします。その他の人はどこにも行きたくなく、ただ家で食事の支度をして、恋人が家に帰るのを待とうとします。

  どんなプレゼントを贈っても、愛する者のために何をしても、すべての人は真心があり、恋人に対する自分の忠誠と真の愛を表明しようとします。だが、わたしたちは次のことを発見しました。恋人に贈ったエクアドルから輸入されるバラの花はいくらよくても、ただ一時的にあでやかで、まもなく枯れます。たとえ恋人の好きな金銀製のアクセサリーを恋人に贈っても、恋人は悲しみ、つらく思う時に慰めを得られず、むなしく感じる時に心の空白を埋めることができません。多くの時、わたしたちの願望と約束は世の無常のゆえに、絵空事になり、全然実現できません。わたしは新聞でこんな記事を読んだことがあります。一人の女の子が白血病にかかりました。彼女の恋人はバレンタインデーに、化学療法を受けている彼女の病床のそばに座って、静かに涙を流すことしかできませんでした。わたしはまた、あるクリスチャンの経験話を聞いたことがあります。そのクリスチャンは女の子です。彼女の夫はお金持ちで、彼女の好きなものなら何でも買いますが、でもいつも外で殴り合いのけんかをしました。そのため、彼らの家庭が和やかではなくなり、社会も大きな危害を受けました。このような時、この女の子は夫のことを気にかけるだけでなく、また口を酸っぱくして夫に勧め、夫が罪を犯すことを八方手を尽くして阻みました。でも、これらは夫を変えられませんでした。そのため、この女の子は極めてつらい思いをし、絶望しました。その後、彼女は神を信じました。そうすることで慰めを得ました。その時から、彼女はもはやつらく悲しい思いをしなくなりました。しかも夫の行為に寛容で忍耐し、いつも夫のために祈りました。彼女の夫はそれを見て、感動を受けました。そして妻と一緒にひざまずいて祈り、神の前に出て悪の道を離れました。それ以後、彼ら一家は幸せな生活を送るようになりました。

  わたしはいろいろ考えさせられました。人であるわたしたちが真の愛を持っていますが、わたしたちの愛は限りがあり、あまりにも小さいです。神の愛だけが限りのないもの、最高至上のものです。神の愛は、わたしたちに新しい命を与え、わたしたちを正しい人生の道へと導くことができます。なぜなら、神は愛だからです。この世界ができて以来、わたしたち人類は神の愛に包まれています。

  神は万物を造って、人の食べられる食物、人の飲める水を生じさせた後、人類を造られました。これは、子女が生まれる前に、父母が十分な必要品を準備しておくのと同じです。このことから分かりますが、神のわたしたちに対する深い愛情は神の造られた万物に表れています。

  神の愛にはわたしたち人類に対する神の心配も含まれています。神は人類の祖先アダム、エバを造った後、人を心配し始めました。エデンの園の中で、神はアダム、エバに命じて言われました。「だだし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:17)。神がこう言うのは、人が神の言葉を聞き、ずっと神の前で生き、神の顧みと守りのもとで生きるためでした。だが、アダム、エバは神の言葉を聞かず、サタンの言葉を聞いたため罪を犯しました。こうして、彼らと神の間の愛が破壊されて、彼らがエデンの園から追い出されました。その時から、彼らは呪われた生活を送るようになりました。わたしたち人類が罪を犯しましたが、神は依然としてわたしたち人類を顧み、わたしたちのために家庭を準備し、配偶者を定められます。こうして、わたしたち一人ひとりは、自分と共に造物主から与えられた自分の使命を果たす配偶者を持つようになりました。

  神の愛にはわたしたち人類に対する神の憐れみと寛容も含まれています。ノアの時代、全人類は見るに堪えないほど淫乱で堕落しました。そのため、神はその時代の人を滅ぼさざるを得なくなりました。でも、神は世界を滅ぼす前に、人に機会を与えられました。すなわち、ノアに箱舟を造ってさまざまな生き物を収容し、120年福音を宣べ伝えるように命じられました。ニネベの町の人たちが、神が彼らを滅ぼしたくなるほど堕落した時、神は彼らが悔い改めることを望み、ヨナを遣わして彼らに対する警告を伝えさせました。律法の時代の後期、当時のイスラエルの民の犯す罪がますます多くなり、彼らの罪を贖うことのできる罪祭はもう足りなくなりました。そのため、彼らはみな、律法によって罪定めされて死に処せられるという危険に直面していました。人類を救うために、神は受肉して人の子となり、人の世に来て自ら贖いの仕事をなさいました。つまり、主イエス・キリストは世の人の罪を担うためには十字架につけられました。これで分かるように、わたしたち人類に対する神の愛と顧みは、それぞれの時代の神の働きの中に隠されています。

  神の愛はまた、わたしたち人類に対する神の期待、神がわたしたち人類の悔い改めを待つことを含みます。人類が造られた後、神はあらゆる民族、あらゆる国に供給し、あらゆる民族、あらゆる国を導き、守り、顧みられます。でも、人類はサタンに誘惑されて神を裏切り、しかも神からますます遠く離れます。特に世の終わりに、わたしたち人類は堕落の中に生きているようになり、ただ酒食遊楽を追い求め、肉体の安逸さをむさぼります。そのため神から遠く離れ、神を裏切りました。それでも、神はやはり望んでおられます。わたしたち人類はよみがえて、自分が神から出て来たこと、そして神がずっと人の改心を待っていることを知ることができるということを。

  あなたが神の愛を体験したなら、しかもあなたが本当にあなたの恋人を愛するなら、神のこのような愛を無視しないで、恋人を神の前にもたらすべきです。もしあなたの恋人がすでに神を信じたなら、あなたは一層神の愛に感謝し、神の救いを暗やみの中でもがいている人々にもたらさなければなりません。神の愛は世間のすべてを超越し、価なしにわたしたち一人ひとりに与えられました。

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見知らぬ人を受け入れて得た意外なもの

2019-05-24 22:39:46 | 賛美の心

  私は以前、家庭教会で説教師をしていました。ある日、兄弟姉妹たちと会議を開いている最中、チェン牧師は聖書から次の説を読みました、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリスト福音のを曲げようとしているだけのことである。」(ガラテヤ人への手紙1:6-7)。そして、彼はこう言いました、「兄弟姉妹の皆さん、東方閃電の信徒たちは、主イエス様が裁きの働きをしに再臨されたと言っています。そして、他の教会では善良な子羊たちの多くが彼らに奪われています。主の信者たちをしっかりと守れていないとなると、将来、主に説明がつきません。そこで、私は信者たちを守るため、見知らぬ人を受け入れることを全面的に禁止する決断をしました。そして、東方閃電を受け入れる人がいれば、その人は教会から追放されることになります。」私は彼の言葉にとても驚いてこう思いました、「どうして主を信仰する真の信者たちの多くが東方閃電を受け入れているんだ。どうしてそんなことが起いるんだ?これからは絶対に見知らぬ人を受け入れないように気をつけよう。」

  その後、私はチェン牧師の言葉を伝えるために各集会場に足を運び、それに従うようにと信者たちに伝えました。その後、私は、こうすることが主に対する強い献身であると信じながら、安堵の溜息をつきました。ある日、年配の姉妹が慌てて私の家にやってきてこう言いました、「フェンギン、知らない女性が東方閃電を説き勧めやってきて、主イエス様は既に真理を話すために再臨されていると言ってるわ。。」私はすかさず割って入り、「その女性はどこですか?」と聞いて、「これからそちらに向かいます」、と言いました。私は年配の姉妹の自宅に到着すると、福音を説きにやって来た姉妹の所へ足早に行ってこう言いました、「東方閃電を説き勧めているのはあなたですか?」彼女は、「そうですよ、叔母さま 」と笑顔で答えました。「東方閃電はヤ―ウェ神、主イエス様の再臨です」と言ったのです。私は、「東方閃電がヤ―ウェ神だなんて、聖書のどの節に記録されているのですか?」と尋ねました。「どうぞお引き取りください。あなたが何を説教されようと、私たちは信じません」と言うと、彼女は穏やかにこう応えました、「叔母さま、聖書にこう記されているのをお忘れではありませんか、「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。」(ゼカリヤ書 10:1). 主はいなずまを造られる神なのではありませんか?」私は彼女の言葉を聞き、面と向って攻撃されたかのように唖然としてしまいました。私は自分の面目のためにこう言い返しました、「未信者たちに説教したければすればよろしい。それに、私たちはあなたがどなたか知りません。さらに、私たちは牧師と長老たちから見知らぬ人を受け入れることを禁じられています。お引き取りください!」しかし、彼女は落ち着いた口調でこう言いました、「しかし、私たち主の信者は主の御言葉を聞くべきだと思います。主イエス様は誰も見知らぬ人を受け入れてはならないとは決して仰っておられません。むしろ、主はこう仰りました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。主は、誰でも福音を説く使者を受け入れる者は主を受け入れると仰りました。しかし、あなたの牧師と長老たちはあなたが見知らぬ人を受け入れることを禁じています、彼らは主の教えに背いているのではありませんか?」他の人が急にこう言いました、「出て行かないなら、警察を呼ぶぞ。」そこにいた人たち全員が彼女を非難して脅し、そして彼女を追いやりました。

  この姉妹が去った後、私は思わずこう考えました:「この人の言葉は聖書の内容から逸れていない。しかも、彼女はとても献身的だし、悪い女性のようには見えない。」夜になると、私の心臓は激しく鼓動し、私は強い違和感を覚えました。こうして、私は主の御気持を害したのではないかと内省しました。そして、私は以前、東方閃電を説き勧めていた人々を排斥していたことを思い出しました。そうしたことは主の御心に背いていたのでしょうか?私はこう考えると落ち着けませんでした。主イエス様が隣人を自身のように愛せよと教えてくださったことを考えると、私は増々困惑しました。これ故に、私は祈りを捧げました、「ああ、主よ、私はあなたのために働き、祈り、そして信者たちを守ってきました。なのに、どうして私の心臓は痛むのですか?見知らぬ人を受け入れないのは間違っているのでしょうか?ああ、主よ、私はとても困惑しています、あなたの御気持に沿うには何をすべきなのでしょう。ああ、主よ、どうか私を御導きください。」こう祈りを捧げた後、若い姉妹が口にした聖書の御言葉が私の頭に浮かびました、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」(ルカによる福音書 9:48)。私はじっくりと考えました:「そうだ!主イエス様は幼き子供すら受け入れるように仰りましたが、見知らぬ人を受け入れるなとは決して仰っておられません。とういうことは、あの姉妹を拒絶することは間違っているのでしょうか?」そして、私は牧師と長老たちが言ったことを思い出してこう考えました:「彼らは子羊たちのいのちを守るために、私たちが見知らぬ人を受け入れるのを禁止しておられるのだ。彼らは何も悪いことはしていない。」私はこの時、とても困惑しました。こうして、私は何度も祈りを捧げ、この事態を主に託し、主の御心を理解できるよう、主の御導きを請いました。

  その数日後、あの若い姉妹がまた私の家にやってきました。私はこう言いました、「近頃、東方閃電を説き勧める人たちが大勢いますが、私たちの牧師と長老たちは見知らぬ人とは関わりを持つなと繰り返し言われています。あなたは見知らぬ人ですし、私はあなたのことを知りません。」そして、彼女は静かにこう言いました、「叔母さま、あなたは説教師として、見知らぬ人を受け入れて知らぬ内に予想外の祝福を得た人たちが大勢いたことを知っておられるはずです。聖書にはこう記されています:「ロトも見知らぬ者たちを受け入れ、ソドムの街が破滅させられた時、2人の娘と共に生き残りました。遊女ラハブもまた見知らぬ者たちを受け入れて、彼女と家にいた他3人は共に滅びることを免れました。ザレパテの未亡人は預言者であったエリヤを受け入れると、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えませんでした。そして、未亡人の息子が重い病気になり、息が絶えた時、エリヤは神に祈りを捧げ、彼を蘇られました。見知らぬ人を受け入れた者たちは全員が知らぬ内に神の御恵みを授かっているのです。主イエス様はこれについてこう仰りました、『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイによる福音書 10:41)。これらは主から私たちへの教えであり、私たちはこれらを実践すべきなのです。叔母さま、私の言っていることは正しいですか?」私は、「はい、これは私たちも集会で説教していることです。」そして彼女は言いました、「叔母さま、これらについて話しているだけで、実践していなければ真理を得ることはありませんよ。主イエス様こう仰りました、「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』(マタイによる福音書 7:24)。聖書に記されたこれらの例を読むと、見知らぬ人を受け入れれば、私たちは騙されないだけでなく、むしろ神の御加護と祝福を得られることが分かります。聖書にはこの記述もあります、『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。⋯』(ヘブル人への手紙 13:2). 牧師と長老の言うことを聞いて見知らぬ人を受け入れる人がいなければ、イエス・キリストの福音が西洋の国々から我々の国に広まることはあり得ません。私たちは西から来られる伝道者たちが誰だか知っているわけではありません。主イエス様はこう仰っておられます、『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。』(マルコによる福音書16:15)。この人たちは全ての国々に行って福音を説いたわけですから、彼らのことを知らなかった人たちが大勢いたはずです。主イエス様の弟子たちとパウロがあちこちで主の福音を説いていた時と同じように、今も伝道者のことを知る人々が大勢いるはずがないのです。ならば、牧師と長老たちが見知らぬ人を受け入れるなと言うのは、主の教えに適っているでしょうか?宗教指導者の言うことをむやみに聞いて、見知らぬ人を受け入れることを拒否していたら、私たちは主の御言葉に背く愚か者だということにになりませんか?主を信仰していても、主の御言葉に従っていなければ天国に入れるはずなどありません。そうだと思いませんか、叔母さま?」


カトリックの信仰:私はやっと神の御名の裏に隠された秘密が分かりました(I)

2019-05-23 21:30:15 | 賛美の心

  神は律法の時代にヤ―ウェという御名を、恵みの時代にはイエスという御名を使われました。そしてヨハネの黙示録には、神がまた他の新たな御名をお使いになることが預言されています。神はどうして御名をお変えになるのでしょうか?私はこの真理を理解してなかったため、主イエス様が再臨されるとは殆ど思っていませんでした。しかし、私はしばらく探求と調査をした後、ついに神の御名の裏に隠された秘密を理解して、主イエス様の再臨をお迎えすることができたのです。

観念を抱き、神への心を閉ざしていました


  2017年9月、私の友人は説教をしていただくためにヤン兄弟を招待しました。その日、私は予定よりも早く指定の場所に行き、全員が挨拶をし終えた後、私たちは聖書の勉強会を始めました。

  ヤン兄弟は神が人類のためになさる救いの働きについて交流し、聖書の内容もまとめて話してくれました。彼は律法の時代にヤ―ウェ神がなされた働き、恵みの時代に主イエス様がなされた十字架の贖いの働き、そして終わりの日に神が巻物と7つの封印を開かれるというヨハネの黙示録に記された預言について話してくれました。ヨハネの黙示録には神が全ての教会に語りかけられ、耳のある者は誰もがそれを聞くということも預言されていました。クリスチャンであろうと、カトリックであろうと、東方正教会の信者であろうと、私たちは主イエス様の再臨をお迎えできるよう、賢い子女となり、神の御声に注意を払わなくてはなりません。ヤン兄弟の説教は理路整然としており、啓蒙に満ちていました。それは私にとって非常に有益な内容でした。私は何十年も神も信仰していますが、人類を救う神の働きをこれほど明確に説明する人の話は一度も聞いたことがありませんでした。私はとても幸せになり、ヤン兄弟の説教をずっと聞いていたいと思いました。

  昼食後、ヤン兄弟は笑顔で言いました、「聖書の中のペテロの第一の手紙4:17には、『さばきが神の家から始められる時がきた。……』と記述されています。これより、神は終わりの日に再臨される時、全人類をそれぞれの種類に従って分類するために裁きと清めの段階の働きをされ、最終的にサタンの性質を清められた人々は天国に入るということが明確に分かります。主イエス様は既にお戻りになり、裁きの働きを神の家から始められ、ヨハネの黙示録に預言された巻物は開かれているのです。姉妹、神が終わりの日に仰せられた御言葉を読んでみたいですか?」

  「え?主が再臨されておられる?巻物が開かれている?」私はヤン兄弟がそういったのを聞いてとても驚きました。両面に文字が書かれた伝説の羊皮紙の巻物が開かれたのかと思うと、私はとても興奮しました。ヤン兄弟は私にある書籍を手渡し、私はそれを受け取った時に、「これが神がお開きになった巻物ですか?」と聞きました。私は待ちきれずにこの書籍を開き、最後のページまでめくると、「全能神教会が出版する」 、と書いてあるのを見て唖然としました。私は「ヤン兄弟が全能神教会の信者なのかしら?」、と思いました。私はこれを少し不満に感じてこう思いました:「全能神教会の信者たちは全能神という神を信仰していると聞いたことがあるけど、私が待っているのはイエスという神よ。どうして全能神などと呼ばれているのかしら?いいや、これはもっと検討する必要があるわ。」そして私はこう言いました:「すみませんが、今晩は店番しないといけないから。今日はここまでにしましょう。」ヤン兄弟は私が立ち上がってその場を去ろうとしているのを見て、私にこう忠告してきました:「姉妹、私たちは神の仰せられる御言葉を注意して聞く必要があります。何か質問があったら、一緒に探求して祈りましょう。」彼は、神の羊は神の御声を聞くことができると言って、神の導きを得るためにもっと祈り、もっと探求するよう私に言いました。

戦いの真っただ中、神はまた御使を遣わして、ドアをノックされました

  その後の数日間、あの日聞いたヤン兄弟の交流について考える度に、私は心の中で絶えず葛藤しました。「ヤン兄弟の交流には本当に聖霊の啓蒙と導きがあったわ。全能神が本当に主イエス様の再臨であっても、私がそれに関する交流に耳を傾けないとしたら、それは神に対して心を閉ざしていることにならないかしら?でも、神の御名はイエスであるとはっきりしているのに、どうして全能神だなんて呼ばれているのかしら?」私はこれについて考えれば考えるほど、増々葛藤しました。私は探求し続けるべきかどうかが分かりませんでした。私はその後、律法の時代に人生を通して神に仕え、ヤ―ウェという御名を口に出して呼んでいた祭司長、律法学者、そしてパリサイ人たちは、主イエス様が働きをしに人類の中に来られた時にメシアという名の御方以外はいずれも神ではないという自分たちの観念を固執していたことについて考えました。それ故に、彼らは主イエス様に抵抗し、主イエス様を非難して十字架に釘付けにしてしまいました。私は過去に生きた人たちの苦い失敗経験から学ばなくてはなりません。私は彼らと同じ誤まった道を歩むわけにはいかないのです!

  その二日後、ヤン兄弟、ヂャン姉妹、そして私の教会の友達であるファンさんが私に会いに店まで来てくれました。ファンさんは、以前は反抗的で抵抗的であったけれども、その後に終わりの日の全能神の働きに対する確信を得たという体験を話してくれました。私はとても感動し、彼らと一緒に続けて主の再臨について話し合いたいと思いました。

  そして私は心を開いて自分の持つ困惑について話しました:「私は幼い頃から母と一緒に主を信仰してきました。人生の半分を通して主イエス様の御名に祈り、主からたくさんの祝福をいただきました。主の御名は明らかにイエスです、しかし、あなた方は主が全能神という御名の下で御言葉を仰せられていると言っています。これは一体どういうことなんでしょうか?全能神という御名を受け入れてしまったら、主イエス様に背いているということにならないでしょうか?」

  ヤン兄弟は落ち着いた口調でこう返答しました:「姉妹、主が全能神という御名で新たな働きをされていることを直ぐに受け入れられないというのは極めて普通のことです。これは神の御名に関する真理を明確に理解できていないことから生じています。これについて考えてみましょう。律法の時代、神の御名はヤ―ウェでした。しかし、恵みの時代になると、イエスに変わりました。イエスという御名を受け入れることはヤ―ウェ神に背くということでしょうか?」

  私はヤン兄弟の言葉に驚いて、すかさずこう言いました:「もちろん、違います。主イエス様とヤ―ウェは同じ神ですから。」

  ヤン兄弟は笑顔でこう言いました:「姉妹、ヤ―ウェとイエスが同じ神なら、どうしてヤ―ウェはその御名をイエスに変えたのでしょう?年十年も主に祈りを捧げてきた後、私たちは主がどうしてイエスと呼ばれているのかを知っているでしょうか?私たちは神の御名の裏に隠された秘密を知っているでしょうか?」

  私は何も言いませんでしたが、心の中で「どこに行けばこの秘密について知ることができるのかしら?」、と思いました。

  何も言わない私を見たヤン兄弟は携帯電話を取り出して、私のために全能神の御言葉を2節見つけてくれました。

ヤ―ウェとイエスという神の御名が持つ意味

  私は全能神のこの御言葉を読みました:「なぜヤーウェとイエスはひとつであるのに、違う時代には異なる名前で呼ばれるのか。それは働きの時代が違うからではないのか。ひとつの名前で神全体を現わすことができるのだろうか。この様に、神は違う時代には異なる名前で呼ばれなければならない。そして時代を変え時代を現わす名前を用いなければならない。なぜなら、ひとつの名前だけで神を完全に表すことはできないからである。そしてそれぞれの名前はある時代の神の性質を表すだけで、神の働きを表すためだけに必要である。よって、神は時代全体を表すために、どんな名前であれ神の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表されている。」 (『神の働きのビジョン(3)』より) 「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。……各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。」(「救い主は既に ‘白い雲’ に乗って戻られた」より)

  ヤン兄弟はこう言いました、「この全能神の御言葉より、各時代における神の御名は常に意味があるということが分かります。それらは神がその時代になされる働きと、表される性質を象徴しています。私たちは誰もが一番最初の人類は全てにおいて無知であったことを知っています。彼らは生き方、人との触れ合い方、神を礼拝する方法、そして神を崇める方法も知りませんでした。そして、神は律法の時代に、ヤ―ウェという御名によって、人類が必要としていたことに応じて働きを開始されました。神は慈悲、呪い、威厳、そして怒りの性質をお見せになられました。神はモーセを遣って神の律法と戒律を宣言され、その結果、人類は神が天と地と万物を創造されたこと、そしてどのようにして捧げものをして、神を礼拝するべきか、何が善良で何が悪であるか等を知りました。律法を違反した者たちは石打の刑で殺されるか、天から降る炎によって焼き滅ぼされましたが、その一方で律法に従った者たちは神の慈悲と祝福を受けました。神は彼らの行動を統一し、秩序と規則正しさのある生活を送るよう彼らを導かれました。律法の時代後期になると、人類はサタンにひどく堕落させられて、律法と戒律を守ることができなくなり、全人類が律法によって死刑に処される危険に直面しました。彼らは神が受肉して人間のために罪の捧げものとなり、人間の犯した罪を償われた時、初めて神の御前に行く資格を手にしました。従って、神はイエスという御名で人類の罪を贖う段階の働きをされ、慈悲と愛の性質を表され、悔い改める道をもたらしてくださり、寛大で寛容な心を持つこと、そして敵を愛すること等を教えられました。神はまた病人を癒され、悪霊を追い出され、人類に豊かな恵みをもたらしてくださりました。最終的に、主イエス様は十字架に釘付けにされて贖いの働きを成就されました。そして私たちは、主の贖いの働きを受け入れて、神の御名によって祈りを捧げてさえいれば、お許しいただいて、神から来る平安と喜びを受けることができるのです。神の過去2段階の働きから、神は異なる時代において、神の働きの必要性と堕落した人類が必要とすることに応じて異なる御名を使用されるということが分かります。こうして、私たちは神に関して更なる理解を得ることができると同時に、神の有するものと神そのものを制限しないでいられるのです。」

  全能神の御言葉とヤン兄弟の交流を聞いた後、私は突然こう気が付きました:「神がご使用になる御名は神の働きの必要性と私たち堕落した人類が必要とするものに基づいているんだわ!神がどの時代にどういった御名をお使いなっても、それは全てその時代における神の働きと性質を象徴していて、それら全てに意味があるのよ。私は長年に渡って主を信仰してきて、毎日主に祈りを捧げてきたのに、主の御名にこんな深い意味があったなんて全く知らなかったわ。しかも、私は以前、律法の時代のヤ―ウェの性質がどうしてあれほど威厳に満ちていたのか、それと律法違反を犯した人たちがどうして燃やされて、罪に定められていたのかを決して理解していなかったわ。しかし、主イエス様は人々に対して慈悲と愛で満ちておられ、何度でも許すよう仰せられているわ。それは当時の神の働きは内容が違ったし、神が表された性質も違うものだったからなのよ。これには人類を救おうという神の親切な御旨が含まれているのよ!」


教会音楽「あなたの生活を神の言葉で満たしなさい」いのちのパンを享受する

2019-05-22 20:50:08 | 賛美の心

あなたの生活を神の言葉で満たしなさい

今日からあなたが話す時は 神の言葉について話しなさい
あなた達が集まる時には
真理による交わりを持ちなさい
神の言葉について知っていること
実行していること
そして聖霊の働きについて話しなさい
自由に過ごす時でも神の言葉について語りなさい
無駄話はせず
あなたの生活を神の言葉で満たしなさい
その時こそ あなたは真の信者なのです!
II
神の言葉の交わりを持つ時聖霊が啓示を与えるだろう
神の言葉の世界を作るため
人は協力しなければならない
これに入らなければ神は自分の業が出来ないし
あなたが語らないなら
神はあなたを照らすことができない
自由に過ごす時でも神の言葉について語りなさい
無駄話はせず
あなたの生活を神の言葉で満たしなさい
その時こそ あなたは真の信者なのです!

交わりが浅くても心配はない
「浅さ」がなければ「深さ」もないのだから
あなたには辿らねばならない過程がある
実践で聖霊の導きを理解し
神の言葉を食べ飲みする方法を知り
言葉の現実の中へと入るのだ
協力する意志があれば
あなたは聖霊の働きを受けるだろう
自由に過ごす時でも神の言葉について語りなさい
無駄話はせず
あなたの生活を神の言葉で満たしなさい
その時こそ あなたは真の信者なのです!

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