いのちの源

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キリスト教徒が業務において調和をとりながら協力し合うための3原則

2019-05-29 21:27:44 | 賛美の心

  ご存知の通り、私たちは心を1つにして神に仕えてのみ聖霊の導きを得ることができ、教会の働きも神から祝福を受けることができます。これは、主イエス様が私たちにこう仰っておられるからです:「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイによる福音書18:19)。

  私たちが業務において協力し合う間、サタンは常に解体の働きを行います。サタンは常に神の働きを妨害し弱体化させて神の御心が実現するのを妨げるという狡猾な計略を実行するために私たちの堕落と背きを利用します。表面的には、キリスト教徒たちが業務で協力し合うことにおける問題は人間関係の問題であるように見えます。霊的世界においてはと言うと、実は戦いが行われています。真理を理解しなければ、私たちはサタンの計略を見抜くことができないだけでなく、頻繁にそれに利用され、苦しみと嘲りの中を生きることになってしまいます。すると、私たちは他人と敵対し、お互いを警戒し合い、攻撃し合い、傷つけ合い、心を1つにして自分たちの本分を尽くせなくなってしまいます。無意識のうちに、私たちはサタンの策略に騙されて教会の働きを解体してしまうのです。

  私たちはサタンの策略を見抜けないことが頻繁にあり、サタンのような堕落した性質を持ってもいるため、兄弟姉妹たちと協力し合う際に心を1つにして主に仕えることができないことがよく起ります。時に、私たちは意見、考え、または見解において自分たちのパートナーと相違することがあると、傲慢な本性に支配されている私たちはパートナーに自分たちの言うことを聞くようしつこく要求し、私たちと私たちのパートナーはお互いがそれぞれの意見を固持するという結果が生じてしまいます。その結果として、不和と疎遠が起り、私たちの短気さが激発したり、正否にこだわり過ぎてしまいます。時に、私たちとパートナーとの間に力量や能力の差があると、私たちは力量の低い者たちを見下し、自分たちを支持して好き勝手なことをしてしまい、教会が重要視することに対して問題を引き起こしてしまいます。時に、私たちはパートナーから尊厳を傷つけられたり、個人的な利益に影響を及ぼすようなことをされると、私たちは寛容さと辛抱強さを失い、自分たちの利益を守るために彼らを攻撃し傷つけ、結果的に教会の働きが行き詰まってしまいます。

  他人と協力し合う上でこのような問題を抱えていながら、私たちの業務は神に承認していただけるでしょうか?ピリピ人への手紙2:2にはこう記されています:「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」アモス書3:3にはこう書かれています:「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」私たちはパートナーたちと心を1つにしていれば、神の働きと承認を受けることができます。しかし、私たちが調和を取れていないとなると、共に歩んで行くことができず、私たちの内で神の御心を実行していただくことが困難になってしまいます。従い、このような業務の仕方は神に認めていただけないのです。

  ならば、私たちキリスト教徒は他の人たちと調和をとって協力し合うにはどのような原則を把握するべきでしょう?

  第1に、私たちは聖霊の指導と心理の原則に従うべきであり、我意に固執したり、他人から抑制されてはいけません。

  生まれた状況、生活環境、素養のレベル等は人それぞれなので、教会の働きで生じる問題において私たちが異なる意見を持つことは当たりまえのことです。もし私たちが他の人に自分たちの言う通りにすることを要求したり、そのために地位を利用して人を抑えつけるようなことをしたら、それは聖人らしからぬ行いとなってしまいます。私たちは神の御旨に沿った形で神に仕えることを望むなら、人の話を聞くのではなく、真理の原則を探求すべきなのです。私たちは他人の道や自分たちの道を行くのではなく、毒、権力、知識や評判に縛られるべきでもないのです。私たちは神の御言葉を求め、神の御言葉の権威の下に服従すべきなのです。主イエス様はこう仰られました、「神を信じなさい。」(マルコによる福音書11:22)。 私たちは同僚、パートナー、牧師や長老に主イエス様の御言葉に沿わないことをするよう求められても、言われるがままにするのではなく、主イエス様の御言葉に従うべきなのです。もし彼らの言うことが主の御言葉に沿っているのであれば、私たちは自分たちを脇に置いて神から来ることに従うべきです。

  私たちは道義心に欠けることや無意味な事柄について意見が異なる場合は譲歩してしつこく主張するのは控えるべきです。例えば、私たちの教会でホームステイを提供していた姉妹2人が時折兄弟姉妹たちのためにする料理について衝突することがありました。実際、これは単なるアプローチの仕方における相違で、教会の原則や関心事には全く関係のないことでした。従って、もしこのような場合に自分の意見に固執してしまうと、それは私たちの堕落した性質の表れとして捉えられてしまいます。後に、この2人はお互いに自らを脇に置けるようになりました。その時、2人の間にあった疎遠な関係は解消され、お互いに仲良く協力し合えるようになったのです。

  さらに、私たちは聖霊の御啓示と御指導に従うことを学ぶべきです。例えば、直面する出来事にどう対応してよいのか全く分からない場合、私たちは主に祈りを捧げ、主を求めるべきです。その後は、どうして良いのかと意識して考えなくても、突然進むべき道を自分たちの中で見い出し、それを比較的適切であるとみなすと心の中で平安を感じられるのです。この場合は聖霊が私たちを導いてくださっておられるので、私たちは聖霊の御導きに従うべきなのです。ローマ書8:5にはこう記されています、「霊に従う者は霊のことを思うからである。」 加えて、私たちはパートナーと意見が食い違うことがあります。私たちは最初は自分のアイデアの方がパートナーのアイデアよりも優れていると考えますが、心の中ではそう頑固にならずに先ずはパートナーのアイデアを受けいれてみるべきだという漠然とした気持があり、その気持ちがあると心が和むものです。私たちの内にある御導きに従えば、パートナーの提案は本当によいもので、教会の働きにとってより有益なものであることが分かります。そうすると、あの漠然とした気持ちは聖霊の御導きから来るもので、私たちが聖霊の御導きに従うことは極めて重要であると確信できるのです。

  第2に、私たちは他人に勝とうとするのではなく、お互いから学び合おうとすべきです。

  ピリピ人への手紙2:3-4にこう書かれています:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 これらの節は、名誉と富を求めて奮闘することは私たちが貫くべきキリスト教徒らしさではなく、私たちは謙虚であるべきで、自分勝手にならずに他人に対してもっと思いやりを持つべきであることを示しています。しかし、私たちは傲慢な本性を持っているため、いつも自己顕示したがり、教会の働きに欠陥があると簡単に人をけなし、手柄を自分のものにし、罪をなすりつけたりしてしまいます。これが私たちと他の人たちとの間に調和を欠いた協調性をもたらしまいます。私たちがこれらの節に書かれているように探求における考え方を変えて、自己主張をせずに謙虚であり、他の人の長所を見て学ぶことができれば、盲目にうぬぼれたりせず、自然と他の人たちと仲良く協力し合えるようになるのです。

  さらに、私たちは教会の働きの各業務は兄弟姉妹たちの調和のとれた協力を通じて成就する必要があり、それは1人の人間が達成できることではないことを知る必要があります。私たちは協働によってのみ、教会がその働きにおいてより良い結果を出せるようにすることができるのです。結局のところ、全ての人が何でもこなせるというわけではなく、誰もが多くの欠点や欠陥を持っているものなのです。自分たちの個人的な裁量に基づいて神に仕えていたのでは、教会の働きが良い効果を得られるようにするのは容易なことではなく、時には教会の働きにおいて逸脱を引き起こしたり、損害をもたらしてしまうことすらあります。兄弟姉妹たちと業務において協力し合っていれば、私たちはお互いを多かれ少なかれ補足し合うことができ、それによってミスをある程度は避けることができるのです。これについて、コリント人への手紙にはこう書かれています、「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように⋯」私たちは1人1人が仲間なのですから、私たちは協力し合ってのみ神から委ねられた本分を成就できるのです。律法の時代に、ヤ―ウェ神がモーゼにイスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられた時と同じです。しかし、口下手であったモーゼは神から与えられた任務を独力では成就できませんでした。従って、神はアロンをモーゼの代弁者として育てました。彼らはそれぞれの本分を尽くし、お互いに協力し合って、ついにイスラエルの民をエジプトから導き出し、神からの任務を完了させました。これと同様に、今日の教会はその働きにおいてより良い結果を出せるように、私たちが業務において協働するよう手配されるのです。これ故に、私たちはパートナーの欠点のみに注目したり、彼らをけなしたり、傷つけるなどすべきではないのです。私たちは物事を違う視点から捉えて、私たちのパートナーを私たちのヘルパーとしてみなすべきなのです。こうすることで、教会の抱える問題は解決し、私たちはお互いに調和のとれたパートナーシップを持つことができるようになります。これは教会の働きとお互いのいのちの成長にとって極めて有益なことです。

  第3に、私たちは共通の目標を目指して働き、心の中でお互いを備え合い、支え合うべきです。

  ピリピ人への手紙2:1-2にこの記述があります:「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」エフェソの信徒への手紙4:3にはこう書かれています、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」 これらの節から、私たちキリスト教徒は、お互いに協調のとれたパートナーシップを持ちたいのなら、共通の目標を持ち、心を1つにし、神からの任務を成就するためにお互いに心を合わせる必要があることが分かります。そうすれば、私たちの間にどのような論争や不一致があったとしても、私たち全員が神の御心が実行されるにはどのような形で物事をなすべきかを考え、個人的な意見を貫くことは止めて、代わりに利己的な利益や計画を脇に置くようになるでしょう。その瞬間、私たちは一致団結したことになるのです。

  私たちキリスト教徒は外面的にも、内面的にも結束しているべきなのです。時に、表面的には私たちの間には何の論争も起きていないように見えることがあります。しかし、私たちは全くお互いを愛し合わず、大切にせず、助け合わず、心の中にも暗黙の了解が全くないのです。私たちは皆、それぞれの問題において個人的に努力をしているだけなのです。真の団結は全くできていないのです。真の団結の表れとは次のことを言います:「教会に深刻な問題がある、または兄弟姉妹たちが困難に直面していて、否定的で弱気になっていることを知った時、全員が心を1つにして探求し祈りを捧げる。同僚が業務においてミスを犯したら、それは教会の働きに関与することであるから、彼のみならず、他の全員にその対応をする責任があることを理解できることであり、そして一緒にその問題を明確に理解して解決策を求めることである。誰かが大変な思いをしていれば、愛情のこもった心で彼を助け、一緒に神を頼り、解決策を求めることである。神の御言葉の御啓示と御啓蒙を得られれば、お互いの霊的いのちの成長を支え合うためにそれを交流かつ共有できること。私たちのパートナーの行いが主の御心に沿っていないことがあれば、私たちは相手を怒らせることを恐れずに、その問題を提起するべきであり、それは彼らにとって有益なことであるだけでなく、彼らはそれから教訓を学び、それを警告として受け止めておくことができるのです。。。」これはキリスト教徒の間の心の中における真の、かつ相互の愛情であります。私たちが1つであるということは、その言葉が示唆する通り、私たちが統一体である、つまり、私たちが自分勝手なことをせず、不和にならず、孤立せずに共通の目標に向かって一生懸命になり、努力を注ぎ、ファミリーとして一緒に暮らすことを意味しています。

  皆が知っている通り、イスラエルの民は敬虔な心をもってヤ―ウェ神に仕え、ヤ―ウェ神の律法と戒律を破ろうとはしませんでした。神に忠実に仕えたことが功を喫して、彼らは神の御業をたくさん目撃し、神の御気遣いと御加護を授かり、最終的に彼らは常に神から恵みを受けていました。これが神に仕えることにおける彼らの秘訣でした。今日、私たちは教会で法衣をまとって神に仕えてはいませんが、それでも私たちは教会で働くものであります。調和のとれた協力における原則を理解していなければ、教会の働きは神から祝福されることはなく、私たちは最終的に、神の御旨に沿った形で神に仕えていなかったことが理由で神から認められることもないでしょう。その反面、私たちは調和のとれた協力における原則を理解すれば、神の使いとなるにふさわしい人間になる希望が持てるのです。これについて、申命記10:12にはこう書かれています、「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え…」。 業務においてキリスト教徒が調和を取りながら協力し合うことの大切さが明確に分かります。


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