移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

言葉の重み

2006-07-30 00:52:12 | Weblog
言葉というのは決して軽くはない。

口約束は約束のうちじゃないという話がある。実際重要な契約は書面をもって交わされることからも、それはごく一般的な認識といえるのではないだろうか。

それは言葉だけで証拠が残らないのでは簡単に保護にできるということから、そういう措置がとられるということ。言葉というものが軽んじられていることの一端を表しているといえよう。

だが言葉というのはそんな軽々に扱っていいものではない。証拠が残らないからこそより慎重でなければいけない類のもののはずだ。証拠が残らないのだから何を言ってもいいなどという考えを持つ輩がいるならば、その人物は愚人であると私は断言しよう。

言葉というものは重いのだ。形に残らないから簡単に翻すことができるのではなく、残らないからこそ一度出た言葉は変える事ができず、そこに発言の責任が生じるのだ。

政治家というのはある意味それをよくわかっている。彼らの場合発言が何らかの形で記録されるから慎重になるのは当然で、ある意味書面を交わすのと同様な状況ではあるが、言葉というものがいかに重みを持っているかを良く理解している。だからあの持って回ったような表現だとか、どうとでも取れるような曖昧なニュアンスの言いようを好んで使うのだ。

もちろんそれが褒められたことではないと思っている。言葉の重みを知っているとしても、責任を逃れようという意思をありありと見せつけてくれる彼らを褒めることなどできはしない。私が認めているのは言葉というものを軽く見ていないという一点のみである。

ともあれ言葉というものに伴う重さを考えている人間が今の世の中にどれほどいるだろうか。雑談程度のことであるならばまだいいが、たとえ友人間で交わされる軽い口約束であったとしても、いったん吐き出した言葉が取り替えしのつかないものであると認識しているものはそういまい。

誇り

2006-07-24 00:24:12 | Weblog
誇り高きものこそに心惹かれる。

プライドが高い、という言い方をするとどちらかというとマイナスな表現になるが、それはよろしくないことなのだろうか?逆にプライドが低いというのは卑屈であるということで、それこそよくないことに思える。

何事にもニュートラルであることが格好いいというような風潮が無きにしも非ずな世の中であるから、どちらとも言えないくらいがちょうどいいと思われているのだろう。だが本当にそんな人間が魅力的に思えるのだろうか。

誇り高くあれるというのは自分に自信を持って、まっすぐに立てているということの証ではないだろうか。もちろん自信の方向性というものもあって、それが間違っているとただの勘違いした人間になってしまうというのも否めないが。

ともあれ、確かな己を持ち、苦境にあってもそれを見失わずにいることができる人間というのは魅力的だ。それがすなわち誇り高いとはいえないだろうが、その存在の形というのは人を惹きつける何かを備えているのではないだろうか。

真に誇り高いということがどういうことか。それを言葉にするのは非常に難しい。完成で感じる物事には総じて言えることであろうが、これもまたご多分にもれないということだ。

それはつまり感性によって左右される部分が大きいということでもあり、どんな人間をそう感じるかは人によって変わってくるという事でもある。私がそう感じても他の人がそう感じないことがあるということだ。

そういったこともあって誇りというものについて語るのは困難であろう。それでもなぜこれを今日の題材に選んだかというと、先に言ったニュートラルであることに疑問を感じたからだ。

単純にクールなのが格好いいという話がたまたま今日の会話の中であって疑問に想っただけなのだが、そもそもクールというものの意味がどうにもおかしい気がする。冷たいそぶりであったり冷静であったりというのがいいというような感じでその人は語っていたのだが、ただそうあるのがいいということもあるまい。

その素振りの根底にあるものがその有様を格好よく見せるかどうかという風に私は感じた。そしてそこにこそその人物の誇りのありようと言うものがあると思える。

格好いい人間はクールだから格好いいのではない。誇り高くあるその心がその素振りとして表れ、格好よく見せているのではないか。そう思ったしだいである。

格好いいとか格好よくないとかはあまり関係ないな。ただ誇り高くあろうとする姿勢こそが人を真に誇り高い人間とし、魅力となるのだろう。

意味

2006-07-18 21:31:00 | Weblog
果てしなく無意味なことを無意味と思ってしまっていいのだろうか。

人生に意味などない。使い古された言葉の一つだろう。とはいえ使い古されるというのはそれなりに共感する人間がいるということの証でもある。かく言う私自身もその言葉を否定することはできない。

だがその言葉を否定できない者は逆なのではないだろうか。どのような人生を歩んできたかはともかく、そこに何らかの意味があってほしいという願いが秘められているのではないだろうか。

この矛盾。人が真に欲しているのはその人生には意味があるという誰かからの言葉。自らのうちから湧き出てくる想い。そんなものを求めてしまうのもまた人の業なのだろうか。

人生には本当に意味などないのかもしれない。何もなしえなかった人生であろうと、歴史に名を刻む偉業を達成した人生であろうと、人によっては後者には何らかの意味があったように思えるかもしれないが、実は等しく意味などないのかもしれない。

だがこうも思えるのだ。自身の人生が無意味だったかどうかを決めるのは結局自分自身でしかないのだと。

誰もが掴みえるちっぽけとも言っていい小さな幸せを掴み取った人生に意味を見出せるかもしれない。世界中の人間が感動するような何かを創りえたとしても本人には虚しいことでしかないかもしれない。

人の人生とは無意味なものであるかもしれない。しかしそうであったとしてもそこに意味を求めることは無意味ではないのではないか。無意味だと格好をつけてさめたふりをするよりも、そう断ぜずに意味を見出そうとあがき、何かを見つけようとすることは意味があるのではないか。

それを私は人の業といったが、それを乗り越えんとする行為は尊いだろう。仮に誰が納得できなくとも、自分の中で確かな何かを掴みえたのならば本当にその人生は無意味だったと言い切ることができるのだろうか。

所詮は自己満足なのかもしれない。それでも何かを掴まんとするその想いと在り方は確かに意味があると私は感じる。人生は無意味であるかもしれない。しかし意味を求めようとするその姿は無様と斬って捨ててはならない重大なものを秘めているのではないだろうか。

信じるというのは難しい

2006-07-17 23:34:28 | Weblog
まれに私のことを働き者という人がいる。私自身として否定したい言葉の一つだ。

私の会社は定額残業制となっている。一月に100時間残業しようと1時間しか残業しなかろうともらえる残業代は同じというわけだ。にもかかわらず私は人より多く残業している。他の人間が帰った後でもこまごまとした仕事をこなしているためにそういったことになるわけだ。私を指して働き者という人は、別に給料が増えるわけでもないのに進んで残業する姿を見てそういうのだろう。

だが私は別に働き者なわけではない。私が残業しているのは人を信頼していないからだ。

全ての人を信頼していないというわけではないが、少なくとも職場にいる人間に対しては適用されることだろう。もちろん信頼というのは過去の行動や言動から築かれるものであるのだから、今に至るまでにそうなる経緯と言うものがあったわけだが。

ともかく職場で働く同僚を信頼できていないから、遅番で来る人間に引き継いで帰宅することができず、自分でやろうとするために結果として残業が増えてしまっているわけだ。

そんな内心をうまく隠せているのか、それとも同僚が楽をできることを喜ぶだけで、信頼されていないなどと考えもしないのかはわからない。とりあえず働き者などと言われている時点で気付かれていないのは間違いないはずだが。

そのことに自覚したのは最近のことなのだが、同時に人を信頼するというのはかくも難しいことなのだとも思い知った。信頼されようと行動する相手と、信頼しようという自身とがかみ合わさったときに初めて成り立つものなのだ。

向こうにしてみれば今の在りようで十分信頼が成り立つレベルで、私が求めるものが高いのかもしれないが、ともかくもそこがかみ合っていないためにこういうことになっているのだろう。

こうして考えると人を信じるというのはなんと難しいことなのだろうかと痛感する。頼めばやっておいてくれると素直に考えられる人たちがうらやましいとすら思えてしまう。疑心暗鬼というほどのものではないが、仕事を任せてしまっていいと思えない自分に嫌気が差すこともあるくらいだ。

それぞれの人間がそれぞれに持つ信頼に足る行動の在り方とそのかみ合わせ。そのズレがなんとももどかしく感じてしまう。私の考えるレベルが高いのだろうとは思うが、なぜそれができないとも思ってしまう。

ただ人を信じるというそれだけのこと。そこに生じる齟齬。少し詩的な言い方をすれば理想のズレとでも言ったところだろうか。それを埋めることのなんと難しいことだろう。

そしてこうも思うのだ。

人に信頼される人間でありたいというのは多くの人が望む自身の理想の姿の一つであろうと思うが、その壁はなんと高いのだろうか。信じるのが難しいということは信じられるのも難しいということなのだから。

理想というそれぞれの心のうちにある求める在り方。それは誰でも持っていて、誰しもが簡単には変えがたい姿。そこに違いがあるゆえのすれ違いなのだから人を信じるということ、人に信じられるというのはこうも難しいのか。

一転して

2006-07-16 23:28:13 | Weblog
久しぶりに更新をしてみる。

とはいえ更新内容は今までとはまったく異なるもののつもりだ。もしもここを定期的に見てくれているような物好きがいるならば、その人は背景が変わったことから察してくれるだろう。

今後ここは今までのようにニュースを取り上げて文句をつけるというものではなく、私個人の内面を掘り下げていく手記のような物としていく予定だ。

自己満足にもならないようなくだらない話が続くところとなるだろう。こんな羞恥プレイを自身に課そうなど我ながらどうかしている。

だが私もいささか歳をとったということか。まだ幼いとすらいえた頃よりもいろいろなことを考え、感じるようになっている。別にそれを人に話して共感してもらいたいなどとはいわないが、その日その時に感じた何かをこうして書き残してみるのも悪くはないと思えるようになってしまった。

くどくどと言い訳めいたことを並べ立てているがつまるところ、今後ここは私が私のために私の思うことを書き連ねる場所となるということだ。

先に述べたようなここを見てくれている奇特な人がひょっとしたらいるかもしれない。そういった人たちに申し訳ないと思わないでもないが、もともとが好きなようにやるための場所だ。その気持ちは押し潰させてもらうこととしよう。