移日々之事物

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何を成しえるか

2006-10-24 19:57:04 | Weblog
人の一生とは何を成しえたかでその価値が決まる。

本当にそうなのかはともかく、そう言われることが多々あるような気がします。私もその点は否定しません。ただ『成しえた』というのが何をもって判断すべきかというところが疑問だったりもします。

たとえば科学的な大発見をして、歴史に名を残すことは何かを成しえたのでしょうか。まぁ第三者的な視点からすればそうなんだろうと思います。何かを成し遂げたからこそ歴史に名を残せるわけでしょうから。

けれどそれがその人自身にとってそういえるものではないかもしれません。その発見は誰もが認める大きな意義のあるものだったとしても、ひょっとしたらそれを発見した本人からすれば、自説を否定してしまう事象の結果だったのかもしれません。

そのときその本人にとってはそれは何かを成しえた結果として受け入れられるものなのでしょうか。

以前にもこんな話をしたような気もしますが、つまるところ価値は自分で決めるということか。人生の最後で笑って逝ければそれが幸せだとか言うのと同じことであるが。

物の価値というのは他者が決める。一見するとくだらないとしか感じられないものでもそれを大多数の人間が認めてしまえば、製作者の感性に関係なく価値がつく。

だが人生とはそうではない。大多数の人間が認めるものであったとしても、本人が認められなければそれは無価値となってしまう。

往々にして両者が合致することが多いのかもしれないが、その点を忘れてはならないということだ。他人に迎合して、誰もが認める生き方をできたとしても自分にうそを吐き続けたならばそこに価値は生まれないのだ。

つまり何が言いたいのかというと、何かを成す、というのはそんなに難しいことではないと言うことだ。

結局人生におけるそれは己が決めることなのだから、自分が満足できるのならばそこに価値があるのだ。

子を産み、育てる。そうすることで時代に歴史をつないだという事象を成したと思うことができるならそれだけで十分価値ある人生と言い切ることができるのだ。

人生の価値というものを難しく考える必要はない。自分が必要と思うことを突き詰めていけば、そこに満足があり、そうして自分自身で人生を有意義なものだったと振り返ることができたならば、それは何かを成した価値ある人生だったのだと他人に誇ることができるものなのだ。