移日々之事物

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意味

2006-07-18 21:31:00 | Weblog
果てしなく無意味なことを無意味と思ってしまっていいのだろうか。

人生に意味などない。使い古された言葉の一つだろう。とはいえ使い古されるというのはそれなりに共感する人間がいるということの証でもある。かく言う私自身もその言葉を否定することはできない。

だがその言葉を否定できない者は逆なのではないだろうか。どのような人生を歩んできたかはともかく、そこに何らかの意味があってほしいという願いが秘められているのではないだろうか。

この矛盾。人が真に欲しているのはその人生には意味があるという誰かからの言葉。自らのうちから湧き出てくる想い。そんなものを求めてしまうのもまた人の業なのだろうか。

人生には本当に意味などないのかもしれない。何もなしえなかった人生であろうと、歴史に名を刻む偉業を達成した人生であろうと、人によっては後者には何らかの意味があったように思えるかもしれないが、実は等しく意味などないのかもしれない。

だがこうも思えるのだ。自身の人生が無意味だったかどうかを決めるのは結局自分自身でしかないのだと。

誰もが掴みえるちっぽけとも言っていい小さな幸せを掴み取った人生に意味を見出せるかもしれない。世界中の人間が感動するような何かを創りえたとしても本人には虚しいことでしかないかもしれない。

人の人生とは無意味なものであるかもしれない。しかしそうであったとしてもそこに意味を求めることは無意味ではないのではないか。無意味だと格好をつけてさめたふりをするよりも、そう断ぜずに意味を見出そうとあがき、何かを見つけようとすることは意味があるのではないか。

それを私は人の業といったが、それを乗り越えんとする行為は尊いだろう。仮に誰が納得できなくとも、自分の中で確かな何かを掴みえたのならば本当にその人生は無意味だったと言い切ることができるのだろうか。

所詮は自己満足なのかもしれない。それでも何かを掴まんとするその想いと在り方は確かに意味があると私は感じる。人生は無意味であるかもしれない。しかし意味を求めようとするその姿は無様と斬って捨ててはならない重大なものを秘めているのではないだろうか。