移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

主柱

2007-03-19 22:03:35 | Weblog
人には己が己たる心の柱というものがあると思う。

たった一人の人間であってもそのありようはさまざまで、いろいろな面を持っていて一概にこんな人間と断定しがたいものがあったりする。友人には几帳面というような性格をしているといわれ、家族には雑だといわれたりする。無論友人なり家族なりの人間性による感じ方の違いもあるわけだが、正反対のことを言われたりするほどがらりと状況によって性格が変化することも少なくない。

だがそんな人であってもその心のうちには確固たる何かが存在していると私は感じる。心の殻をむいていって、一番最後に残る核となる何か。人の性質を決定付ける決定的な、心の主柱とでも言うような何かがあるだろうと。

などとまぁ大げさに言ってみたが、こんな程度のことは誰しもが一度ならず考えることだろう。そんなことをことさらに言ってみたのは、今日仕事をしていてなんとなく思ったからだ。

先日ホワイトデーだったわけだが、私は友人からバレンタインをもらっておきながら返すという意識がまったく無かった。なぜかというと私はホワイトデーは商品を売る日だと考えていて、自分がお返しをする人間だという意識がまったく無かったからだ。そこで自分の気質というか性質が商売人として確定されてしまっているのだなと思ったのだ。

自分という人間の性質、その主柱となるのは商売人というなんとも因果なものなのだなぁと思ってしまったわけだ。果たして真実そうなのかと問われると断言はできないが。

そこでこうも思った。真実これが私の主柱であると断言はできない。ならばそう言いきれる物は何なのだろうか、と。

無論その答えは今は出ていない。これからもでるかどうかわからない。しかしながら実に興味深いと感じたのだ。

自分の心を完全に解き明かすはじめのひとつがこれなのではないだろうか。自らのことといえど人というのは完全な理解はまずもってできない。それでも人は自分という個性を大事にしている。

よくわからないものを大事にする。多くの人はそれを問題視しないのだろうが、私にはそれがどうにもしっくりとこないのだ。ゆえに性質を決定付ける心の主柱というものに強い興味を引かれたのだ。

これを読んでいる人も一度考えてみてはいかがだろうか。己というのはいかなる人間であるのか。それをなす主柱はどんなものであるのか。自分というものを知るというのは想像する以上に難しく、また面白いものであると感じられるのではないだろうか。

心の欲望

2007-03-06 22:46:39 | Weblog
あなたはなんでもひとつ、形の有無にかかわらず何か望んだものが得られるとしたら何を望みますか?

人が生きていくうえで欲望を分離することはかなわない。どんな人間でも何らかの欲をもって生きている。

しかしながらこうして欲だとか欲望だとかいう言い方でぱっと思いつくような俗っぽいものではなく、心の深奥にあるものを考えてみてほしい。私が最初の一文で『形の有無にかかわらず』と書いた理由はそこにある。

他者に愛されることを望むものもいるだろう。永遠の命をと思うものもいるだろう。その望みの根底に何があるのか。何を望むがゆえにそれを欲するのか。また心のそこから欲しているものが真実それであるのか。

どんな人間でも欲望はある。だが心の奥の奥まで潜ったときに欲するものはおそらく各人それぞれが一つずつの絶対的な何かを持っているのではないだろうか。

それはおそらくその人間の真実。生きていくうえでの道標。私はそう考える。

どんな人間でもその絶対的な欲を満たすために生きていくのではないだろうか。自らの心のもっとも深いところに存在する求めに従って行動するのではないだろうか。

問題なのはその存在は幾重にも閉ざされ、自分自身ですら理解し得ない己の中に秘されているということか。どんなにそれを知ろうとしても一朝一夕で察することはできないことだろう。

そう考えると人は自らの真実、絶対の欲を満たすために生きていながらもそれを理解できずにあがいているということになる。人という生き物の無様さはそこに起因するのだろうか。

少々話がそれたが、自らの生きる道標を見つけてみるのはどうだろうかと私は言ってみようかと思う。それは簡単に知り得ない事柄ではあるが、自らの生を納得のいくものとするためには必要な行為ではないだろうか。