移日々之事物

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領域

2007-02-14 22:14:55 | Weblog
人は領域を持つ。

心の領域。どんな人でも他人に侵されたくは無いそれを持っているものだろう。ただその在り方というものも人によってさまざまだと思う。

他人をその中にどれくらい踏み込ませるか。他人との関係というのはつまるところそういうことではないだろうか。

このくらい踏み込ませられるならば友人。一歩もいれないのは他人。ほとんどの領域を許してしまうのは恋人。一概にこの例のとおりとは言わないが、まぁおおむねこんなところではないだろうか。

ただ問題なのはこのくらいとかほとんどとか言う言い方をしたようにひどくその境があいまいなことである。ほとんどの領域を許す恋人であっても踏み込ませない領域はあるし、また踏み込む際にここを入り口とすることは許可できないということもあるだろう。

それは先日述べた人が歪であるということと関係がある。人がまっすぐな形をしていないのだから、その心の一面である領域もきれいな形はしていない。歪んでいるのである。

逆に領域が歪んでいるからこそ人が歪んでいるとも言えるのだが、なんにせよ心の領域というのもおかしなものなのである。

ある友人に許す領域を他の友人には許せないということも往々にしてある。それは現実の地理にたとえるなら地域差とでも言うべきだろうか。

それもまた心の領域を複雑化させている。人の『顔』というものが複数あるのだからそれぞれの場面において強調される領域が異なってくることももっともである。

どの領域にどの程度まで踏み込ませるか。本来対人関係というのはそういうものなのだろう。もちろんいちいちそんなことを考えながら人と接することなどやっていられない。せいぜいがこの人とこの話題はしないとかするとか考える程度だろう。

だがあえて一度このことについて考えてみてほしい。他人とは自分を映す鏡でもある。自分の周りにいる人たちにどんな領域をさらしているのか考えることは他人を他人として捕らえその人柄を知ると同時に、自分を知るための一助となることだろう。

心の領域とその歪さ。人が人であるがゆえにどうしようもない問題。おそらくは一生かかってもその歪さゆえに理解の深遠にいたることは無いだろう。自らの領域のありようを知るためには人を踏み込ませなければならない。しかしそれに対して多くの人は嫌悪感を感じるだろう。理解の深遠はその先にあるのだろうからなんとも厄介なものだ。