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誇り

2006-07-24 00:24:12 | Weblog
誇り高きものこそに心惹かれる。

プライドが高い、という言い方をするとどちらかというとマイナスな表現になるが、それはよろしくないことなのだろうか?逆にプライドが低いというのは卑屈であるということで、それこそよくないことに思える。

何事にもニュートラルであることが格好いいというような風潮が無きにしも非ずな世の中であるから、どちらとも言えないくらいがちょうどいいと思われているのだろう。だが本当にそんな人間が魅力的に思えるのだろうか。

誇り高くあれるというのは自分に自信を持って、まっすぐに立てているということの証ではないだろうか。もちろん自信の方向性というものもあって、それが間違っているとただの勘違いした人間になってしまうというのも否めないが。

ともあれ、確かな己を持ち、苦境にあってもそれを見失わずにいることができる人間というのは魅力的だ。それがすなわち誇り高いとはいえないだろうが、その存在の形というのは人を惹きつける何かを備えているのではないだろうか。

真に誇り高いということがどういうことか。それを言葉にするのは非常に難しい。完成で感じる物事には総じて言えることであろうが、これもまたご多分にもれないということだ。

それはつまり感性によって左右される部分が大きいということでもあり、どんな人間をそう感じるかは人によって変わってくるという事でもある。私がそう感じても他の人がそう感じないことがあるということだ。

そういったこともあって誇りというものについて語るのは困難であろう。それでもなぜこれを今日の題材に選んだかというと、先に言ったニュートラルであることに疑問を感じたからだ。

単純にクールなのが格好いいという話がたまたま今日の会話の中であって疑問に想っただけなのだが、そもそもクールというものの意味がどうにもおかしい気がする。冷たいそぶりであったり冷静であったりというのがいいというような感じでその人は語っていたのだが、ただそうあるのがいいということもあるまい。

その素振りの根底にあるものがその有様を格好よく見せるかどうかという風に私は感じた。そしてそこにこそその人物の誇りのありようと言うものがあると思える。

格好いい人間はクールだから格好いいのではない。誇り高くあるその心がその素振りとして表れ、格好よく見せているのではないか。そう思ったしだいである。

格好いいとか格好よくないとかはあまり関係ないな。ただ誇り高くあろうとする姿勢こそが人を真に誇り高い人間とし、魅力となるのだろう。