移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

積み木

2007-05-17 00:21:28 | Weblog
人生とは積み木を続けるようなものだ。

人はさまざまなものを積んでいく。そしてそれが生きていくことなのだろう。

友人と交友を積んでいくのもそうであるし、技術を積み重ねていくこともそうである。そもそも「積む」という言葉が多用な意味合いを持って多くの事例に使われること自体がそれを表しているともいえよう。

そしてそれをどこまで積み上げるかというのも個々人が思うままにすることだ。

ある日を境に連絡を絶った友人がいる。それは自分からか相手からかはともかく、交友という積み木を積むことをやめた、あるいはそれを崩したということだ。

ある技術を磨き上げていた。だがそれに飽いたある人はそれの研鑽を積むのをやめて別の何かを努力し始めた。磨いた技術が失われなかったとしたならばそれは、途中まで積み上げた積み木をそこで放置して別の積み木を始めたということだ。

人生は積み木遊びを延々と続けていくことだ。何を積むか、どう積むか。それを試行錯誤しながら、時に崩し時に新たなものを積み始める。同時にいろいろな積み木を積もうとしてすべてを台無しにしてしまうこともあろう。

自分は何をどのように積み上げ、どんな完成形を見たいのか。完成することなどなく、ひたすらに巨大で壮大な積み木を積み上げるのか。小さな積み木をたくさん広げていくことが自分の望みなのか。

人生という積み木遊び。人はそこにどんな理想形を夢見るものなのだろうか。

私が理想とする形とこれを読む誰かが望む形は異なることだろう。だがそれこそが正しい。

所詮は遊び。積み方は無限にあり、誰かの命令や指示によって成すべき事柄ではない。自らの心の赴くままに遊べばいいのだ。

自らの王

2007-04-17 00:13:56 | Weblog
人は自らの王であるという言葉がどこかであったような気がします。

この言葉が元来どういう意味を持って書かれていたかは正直覚えていません。ですが最近ふとこの言葉を思い出したとき、なかなかに面白い言葉であると思いました。

王というのは支配者です。どのような人であろうと自分自身というものを支配しているのだという程度の意味に捉えるのが真っ正直な見方でしょう。こうやって捉えた場合は面白いも何も無い言葉なんですが、王という存在についての思考を一歩踏み込んで考えたとき意味が少し変わるなと思いました。

王というものは支配者だが、果たしてその支配は完全なのだろうか。そんなわけは無く、王の支配が及ばないものというのがあるはずです。

つまり人は自らの王である。自らを支配しているのだ。だが、自らのすべてを支配できないのである。などといったことを考えてなかなかに面白いなと感じたしだいです。

おそらく多くの人が実感したことがあると思うのですが、自分で考えもしないことを口走ってしまったとか、やろうとも思っていなかったことを無意識にやってしまっていたとか。

人は自分自身ですら制御することができない。真っ正直な捉え方とは反対の意味を含んでいる言葉とも見ることができて、たった一言のこの言葉の中にはいろいろ重い意味があるのではないでしょうか。

そして王という存在は裏切られることもある。歴史の中にあるように絶対的な支配者たる王は存在していないのです。それは人は自らを裏切ることもあるということも示しているのではないか。

無論今あげたような負の側面ばかりでなく、被支配者が支配者の思惑すらも超えた偉業を成し遂げることがあるようなこともあるでしょう。人も自身が把握し支配していると思っている自らの能力を上回ることを成し遂げることもあるともいえるでしょう。

人は自らの王である。

この言葉に限ったことではないだろうと思いますが、一言の言葉を踏み込んで考えていくとさまざまな事柄が見えてくることがあると実感した言葉であり、おそらく人は自分で考える以上に己というものを操れていないのだろうと考えさせられた言葉でした。

主柱

2007-03-19 22:03:35 | Weblog
人には己が己たる心の柱というものがあると思う。

たった一人の人間であってもそのありようはさまざまで、いろいろな面を持っていて一概にこんな人間と断定しがたいものがあったりする。友人には几帳面というような性格をしているといわれ、家族には雑だといわれたりする。無論友人なり家族なりの人間性による感じ方の違いもあるわけだが、正反対のことを言われたりするほどがらりと状況によって性格が変化することも少なくない。

だがそんな人であってもその心のうちには確固たる何かが存在していると私は感じる。心の殻をむいていって、一番最後に残る核となる何か。人の性質を決定付ける決定的な、心の主柱とでも言うような何かがあるだろうと。

などとまぁ大げさに言ってみたが、こんな程度のことは誰しもが一度ならず考えることだろう。そんなことをことさらに言ってみたのは、今日仕事をしていてなんとなく思ったからだ。

先日ホワイトデーだったわけだが、私は友人からバレンタインをもらっておきながら返すという意識がまったく無かった。なぜかというと私はホワイトデーは商品を売る日だと考えていて、自分がお返しをする人間だという意識がまったく無かったからだ。そこで自分の気質というか性質が商売人として確定されてしまっているのだなと思ったのだ。

自分という人間の性質、その主柱となるのは商売人というなんとも因果なものなのだなぁと思ってしまったわけだ。果たして真実そうなのかと問われると断言はできないが。

そこでこうも思った。真実これが私の主柱であると断言はできない。ならばそう言いきれる物は何なのだろうか、と。

無論その答えは今は出ていない。これからもでるかどうかわからない。しかしながら実に興味深いと感じたのだ。

自分の心を完全に解き明かすはじめのひとつがこれなのではないだろうか。自らのことといえど人というのは完全な理解はまずもってできない。それでも人は自分という個性を大事にしている。

よくわからないものを大事にする。多くの人はそれを問題視しないのだろうが、私にはそれがどうにもしっくりとこないのだ。ゆえに性質を決定付ける心の主柱というものに強い興味を引かれたのだ。

これを読んでいる人も一度考えてみてはいかがだろうか。己というのはいかなる人間であるのか。それをなす主柱はどんなものであるのか。自分というものを知るというのは想像する以上に難しく、また面白いものであると感じられるのではないだろうか。

心の欲望

2007-03-06 22:46:39 | Weblog
あなたはなんでもひとつ、形の有無にかかわらず何か望んだものが得られるとしたら何を望みますか?

人が生きていくうえで欲望を分離することはかなわない。どんな人間でも何らかの欲をもって生きている。

しかしながらこうして欲だとか欲望だとかいう言い方でぱっと思いつくような俗っぽいものではなく、心の深奥にあるものを考えてみてほしい。私が最初の一文で『形の有無にかかわらず』と書いた理由はそこにある。

他者に愛されることを望むものもいるだろう。永遠の命をと思うものもいるだろう。その望みの根底に何があるのか。何を望むがゆえにそれを欲するのか。また心のそこから欲しているものが真実それであるのか。

どんな人間でも欲望はある。だが心の奥の奥まで潜ったときに欲するものはおそらく各人それぞれが一つずつの絶対的な何かを持っているのではないだろうか。

それはおそらくその人間の真実。生きていくうえでの道標。私はそう考える。

どんな人間でもその絶対的な欲を満たすために生きていくのではないだろうか。自らの心のもっとも深いところに存在する求めに従って行動するのではないだろうか。

問題なのはその存在は幾重にも閉ざされ、自分自身ですら理解し得ない己の中に秘されているということか。どんなにそれを知ろうとしても一朝一夕で察することはできないことだろう。

そう考えると人は自らの真実、絶対の欲を満たすために生きていながらもそれを理解できずにあがいているということになる。人という生き物の無様さはそこに起因するのだろうか。

少々話がそれたが、自らの生きる道標を見つけてみるのはどうだろうかと私は言ってみようかと思う。それは簡単に知り得ない事柄ではあるが、自らの生を納得のいくものとするためには必要な行為ではないだろうか。

領域

2007-02-14 22:14:55 | Weblog
人は領域を持つ。

心の領域。どんな人でも他人に侵されたくは無いそれを持っているものだろう。ただその在り方というものも人によってさまざまだと思う。

他人をその中にどれくらい踏み込ませるか。他人との関係というのはつまるところそういうことではないだろうか。

このくらい踏み込ませられるならば友人。一歩もいれないのは他人。ほとんどの領域を許してしまうのは恋人。一概にこの例のとおりとは言わないが、まぁおおむねこんなところではないだろうか。

ただ問題なのはこのくらいとかほとんどとか言う言い方をしたようにひどくその境があいまいなことである。ほとんどの領域を許す恋人であっても踏み込ませない領域はあるし、また踏み込む際にここを入り口とすることは許可できないということもあるだろう。

それは先日述べた人が歪であるということと関係がある。人がまっすぐな形をしていないのだから、その心の一面である領域もきれいな形はしていない。歪んでいるのである。

逆に領域が歪んでいるからこそ人が歪んでいるとも言えるのだが、なんにせよ心の領域というのもおかしなものなのである。

ある友人に許す領域を他の友人には許せないということも往々にしてある。それは現実の地理にたとえるなら地域差とでも言うべきだろうか。

それもまた心の領域を複雑化させている。人の『顔』というものが複数あるのだからそれぞれの場面において強調される領域が異なってくることももっともである。

どの領域にどの程度まで踏み込ませるか。本来対人関係というのはそういうものなのだろう。もちろんいちいちそんなことを考えながら人と接することなどやっていられない。せいぜいがこの人とこの話題はしないとかするとか考える程度だろう。

だがあえて一度このことについて考えてみてほしい。他人とは自分を映す鏡でもある。自分の周りにいる人たちにどんな領域をさらしているのか考えることは他人を他人として捕らえその人柄を知ると同時に、自分を知るための一助となることだろう。

心の領域とその歪さ。人が人であるがゆえにどうしようもない問題。おそらくは一生かかってもその歪さゆえに理解の深遠にいたることは無いだろう。自らの領域のありようを知るためには人を踏み込ませなければならない。しかしそれに対して多くの人は嫌悪感を感じるだろう。理解の深遠はその先にあるのだろうからなんとも厄介なものだ。

歪み

2007-01-29 00:41:45 | Weblog
人とは歪なものであろう。

どんな人間でも大なり小なり歪みを抱えて生きている、と私は思う。それがどのようなものであるかは人それぞれであれ、何らかの形でそれを持っている。

そして人の集まりとは歪な形を補完しあう関係であるのではないか。歪みと歪みがつながることでひとつの新たな形を形成し、本来存在したゆがみを打ち消すために存在する。

ここまで言うと言い過ぎな感も無くは無いが、人の関係とはそういったものではないだろうか。

さて、私のこの発言をどれだけの人が肯定するだろうか。

大概の人は自らを完全な存在ではないと認識しつつも、完全ではないといわれるとそれを認めたくは無いものであろう。ましてや歪であるなどと言われ、それを受け入れることができるものだろうか。

しかしそれを認めることは大切なことであろう。

人は己を知っているようで知っていないものだ。この文を読んでいる誰かは自らのうちにある歪んだ何かを理解しているだろうか。

私は思う。

自らの歪みを知るべきだ。

たとえそれがどのようなものであっても、それを理解し、向き合う必要がある。己を知ることは己を高めるための第一歩である。人として、人という存在としての向上心を失っていないならば歪であることを認め、それと対峙していかなければならない。

他者と共存することで歪みを矯正しても良い。他者の歪みと繋がることで自らの歪みをそうでなくすることは悪いことではない。

ただ己の歪みを誤魔化すことだけはすべきではない。自らの歪み、欠けたるものを理解していくことが己を知ることであり、己を高みへと導く道標であるということを忘れてはならない。

閑話休題

2007-01-03 21:02:16 | Weblog
12月は特に忙しすぎて更新など考える余裕がまったく無く、結果として惨憺たる有様になってしまいました。しかもいきなり更新しようにもどうも頭が回らないので閑話休題ということでいつもより短めに、いつもとは少し違った形でいこうかと。

さて、ニュースを追うのをやめてから早数ヶ月。とはいいながらもその間での更新数は数えるほどでしかありません。言い訳ではないのですが、毎日更新すればいいというものではないでしょうし、内容的にもそれは難しいと思っています。

日々の中で何気なく感じながらも、つい見過ごしてしまいそうな、当たり前といえば当たり前なことを掘り下げられたらな、というようなことが現在のこのブログのコンセプトみたいなものです。

究極的な到達点の一つとしては「人間を知る」というような考えが始める前にあったのを覚えています。もちろんそれは今でも変わっていません。

今まで書いてきた中にはそれとは一見ずれているようにも見える内容もあったりしますが、上記の「人間」というものの考え方の一端であると私自身は解釈しています。

私にとってもっとも身近な人間は私自身です。身近という表現が適当かはわかりませんが、最も理解しやすいという意味では間違っていないと思います。まぁ自分のすべてを理解できているなどというつもりもありませんがね。

だから自分自身の考え方を整理し、それを理解していくことはそれ自体が人間というものを知ることにつながると考えています。だけれども私のようなことをしている人間は少数であろうことから、私のことを理解したとしても大多数の人にとってはまったく異なり、人間の中でも異質な形を理解することしかできないという可能性も考慮しています。

事物の全てを知りうるのは神のみであり、私は神ではない。生涯の全てをかけたとしても人間の全てを知ることはかなわないだろう。

それは単純に知るための時間が足りないということもあるし、私は私以外になれないのだから、私以外の他人のありようを完全には理解できないだろうからだ。

人間とは歪なものである。その歪みにぴったりとはまるものならある程度の理解もできるやも知れないが、大半はそうならずにわからないままに終わってしまうものだ。

繰り返しのようになるが、私がどんなに頑張ったとしても私に理解できるのは私という欠片と、それにはまりうる何かだけなのだ。「人間を知る」などというのは傲慢に過ぎると思わないでもない。

しかしながらそれを求める想いが確かに我が内にはある。私はそれを持って今後も同じように日々の中の物事を拾い集めていくことだろう。

孤独

2006-11-29 01:05:28 | Weblog
最近無性に孤独を感じてしまうことがある。

なぜそんなことを感じるようになったのか正直よくわからない。これまでと生活のあり方があまり変わったとは思わないし、周囲の環境が多少なりとも変わったとはいえ、それが孤独感に直結するような何かとも思わない。

けれども強い孤独感が自分を苛む瞬間が以前よりも頻繁に訪れているような気がする。

昔からふとした瞬間に自分が一人のような錯覚を抱くことはあった。本当に錯覚なのかどうかはともかく、それはおそらく多くの人が持つ想いではないかと思う。その意味ではまったくもって当たり前のことだ。

ひょっとするといま自分に降りかかっているこの気持ちもそうなのかもしれない。誰もが表に出さず、言葉にしないだけのことなのかもしれない。そうならばこれ自体は当たり前のことなのだろう。

ただこの孤独感が自分の心を蝕んでいくような感覚が恐ろしい。別に自殺したいなどというつもりはない。そこまで私の心は打ちのめされてはいないし、自分の在り方に絶望していない。

恐ろしいのはこの孤独感との付き合い方を誤ったとき、自分という存在が失われてしまうのではないかと思えることだ。

私は人は個であると思って生きてきた。親しい友人と共にあっても、彼らは彼らであって私ではない。心を近づけることはできたとしてもひとつになることはありえず、どこまで言っても交わることはできないものだと。しかしながらそうした人との関係性が自分を形作り、自分に自分というものを知らしめてきたというのも確かである。

問題となるのはこの孤独感がその個であるという思想をより明確にし、他者との関係性を内面的に断絶させ、最終的に自分というものをぼかしてしまうという恐怖を感じてしまうことだ。

人が真に孤独に耐え切れないのはそこにあるのかもしれない。他人という鏡を失うことにより自分というものさえも見失ってしまう。自分の存在というものがなくなってしまうのだ。表面上何事もないように見えたとしても、その実中身が空っぽになってしまうのだ。

まさに虚ろな生というべきだろう。生きながらにして死んでいるようなものだ。

人がどこまで言っても個であるということを超えられない以上、どうしようとも孤独であることからは逃れられない。強い孤独感が自らに襲い来ることも避け得ないことだ。

私は、私たちはその孤独とどう向き合えばいいのだろうか。そもそもが向き合う必要などないというのが答えかもしれない。実際孤独を感じてもそれを口にしない人がほとんどなのは、他者との関係に埋没しようとすることでそれをごまかすことができるからなのだろう。

だが、あえて言おう。他者と共に生き、その中で生じる孤独と向き合い、孤独を見据えて生きていこうとする人間はどうあるべきなのか。

私自身その解を持ち合わせてはいない。こうして言葉を紡ぎ、不特定多数の人に発信して一方的ながらも交流のような何かを行いながらも孤独に恐怖している人間に正答するなど不可能な話だ。

私の一生がどの程度の長さなのかは知りえない。平均寿命にのっとるならあと五十年以上はある。その間にこの孤独との付き合い方を言葉にできるほどに理解できるのだろうか。

繰り返すが私はそれを理由に自殺したいなどと微塵も考えていない。今は心を蝕まんとする孤独に恐怖しているが、その強さは何とか向き合うことができる程度のものだ。これがこれからも強さを増していくかもしれない中で、孤独とともにあろうとする中で私は何を見出すことができるのだろうか。

人は個であり、孤独から完全に逃れることはできない。見ない不利をして生きていくのが賢い生き方だとしても、向き合ったその先に何かを見出すことができるのだとしたら眼をそらしたくはない。恐怖を乗り越えて孤独を否定せずに生きることが自分の選んだ生き方なんだと、孤独の先には何があるのかと、胸を張って言えるようにありたいと思うのだ。

時間

2006-11-16 21:41:20 | Weblog
時間というのは気がつくとずいぶんと過ぎているものだ。

中の良い友人と会った翌日にふとそう思った。その友人と出会ったのは高校生時代であったのだが、当時ほど頻繁に会うことはもちろんないが今でも変わらぬ友好を結んでいると思っている。

彼らとあったとき、話す内容こそ年齢相応になってきてはいるが、その場の雰囲気のようなものは当時とあまり変わっていないように感じる。だからその場においての自分は高校生のころのままの自分であるわけだ。

しかしそれから一日二日と立って職場にて働いていると当然そんな自分でいることはできない。そのギャップを感じながら不意に考えてみると、その友人たちと出会ってから十年がたとうとしているのだ。

十年という時間が自分にとってどれほどのものであったかは今考えても正直よくわからない。だが少なくとも当時十年という時間に感じていたほどの長さが感じられなかったようには思う。

時間というのは瞬く間に過ぎ行くものなのだと強く実感した瞬間であった。

愚かしさすら許される、そんな子供時代であったときのまま成長していないということはないと思いたい。友人と会うときと仕事のときとの己の違いというものに気づいているのだから多少なりとも大人にはなっているのだろう。

あっという間に過ぎ去ってしまった年月の中で自分が成長したという実感はほぼ皆無に等しい。まぁそういったものはえてして自分自身ではわからないものなのだろうが、こうもあっさりと十年という年月を経てしまうと何も変わっていないからそう感じられるのではないかとか思ったりもする。

ともあれ時間というものは気がついたときにはずいぶんと進んでいるものなのだと思わされてしまった。冗談半分で自分もおじさんになってきたとか言ったりすることがあるが、それがもはや冗談でなくなっている。

私はそんな時間の流れを感じたときにこうも思った。

この十年の中で私は自分の中に何かを刻みつけることができたのだろうか、と。

十年という時間は短くはないが若さのうちでの十年というものは周りに何かを刻むのではなく、己のうちに何かを刻み込む時期だと思っていたし、今でも思っている。

己というもの、己の生き方というもの。それは進路だとかなんだとか言う意味ではなく、自分がどういう人間としてこれからの人生を歩んでいくかという人間性におけるあり方のこと。

それは経験によって変わるものであり、大人になってからでも変化しうるものである。しかしその根幹となる部分は若さの中であがくうちに作り上げられるものではないだろうか。そしてその根幹というものはそうそう揺らぐことがないものではないか。

私はそんなものを自分のうちに作り上げられたのだろうか。こうありたいという願いを自身の心のうちに刻みつけることができたのだろうか。

時間の流れの速さというものを感じると同時に、その時間の流れの中で何かを得ることができたのだろうか。瞬く間に過ぎ行く時の中では振り返ってもそれを確認することはできない。

できるのは、気がつけば過ぎてしまっていた十年という年月が自分の中に確かな何かをもたらしていると信じるだけである。

何を成しえるか

2006-10-24 19:57:04 | Weblog
人の一生とは何を成しえたかでその価値が決まる。

本当にそうなのかはともかく、そう言われることが多々あるような気がします。私もその点は否定しません。ただ『成しえた』というのが何をもって判断すべきかというところが疑問だったりもします。

たとえば科学的な大発見をして、歴史に名を残すことは何かを成しえたのでしょうか。まぁ第三者的な視点からすればそうなんだろうと思います。何かを成し遂げたからこそ歴史に名を残せるわけでしょうから。

けれどそれがその人自身にとってそういえるものではないかもしれません。その発見は誰もが認める大きな意義のあるものだったとしても、ひょっとしたらそれを発見した本人からすれば、自説を否定してしまう事象の結果だったのかもしれません。

そのときその本人にとってはそれは何かを成しえた結果として受け入れられるものなのでしょうか。

以前にもこんな話をしたような気もしますが、つまるところ価値は自分で決めるということか。人生の最後で笑って逝ければそれが幸せだとか言うのと同じことであるが。

物の価値というのは他者が決める。一見するとくだらないとしか感じられないものでもそれを大多数の人間が認めてしまえば、製作者の感性に関係なく価値がつく。

だが人生とはそうではない。大多数の人間が認めるものであったとしても、本人が認められなければそれは無価値となってしまう。

往々にして両者が合致することが多いのかもしれないが、その点を忘れてはならないということだ。他人に迎合して、誰もが認める生き方をできたとしても自分にうそを吐き続けたならばそこに価値は生まれないのだ。

つまり何が言いたいのかというと、何かを成す、というのはそんなに難しいことではないと言うことだ。

結局人生におけるそれは己が決めることなのだから、自分が満足できるのならばそこに価値があるのだ。

子を産み、育てる。そうすることで時代に歴史をつないだという事象を成したと思うことができるならそれだけで十分価値ある人生と言い切ることができるのだ。

人生の価値というものを難しく考える必要はない。自分が必要と思うことを突き詰めていけば、そこに満足があり、そうして自分自身で人生を有意義なものだったと振り返ることができたならば、それは何かを成した価値ある人生だったのだと他人に誇ることができるものなのだ。