移日々之事物

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信じるというのは難しい

2006-07-17 23:34:28 | Weblog
まれに私のことを働き者という人がいる。私自身として否定したい言葉の一つだ。

私の会社は定額残業制となっている。一月に100時間残業しようと1時間しか残業しなかろうともらえる残業代は同じというわけだ。にもかかわらず私は人より多く残業している。他の人間が帰った後でもこまごまとした仕事をこなしているためにそういったことになるわけだ。私を指して働き者という人は、別に給料が増えるわけでもないのに進んで残業する姿を見てそういうのだろう。

だが私は別に働き者なわけではない。私が残業しているのは人を信頼していないからだ。

全ての人を信頼していないというわけではないが、少なくとも職場にいる人間に対しては適用されることだろう。もちろん信頼というのは過去の行動や言動から築かれるものであるのだから、今に至るまでにそうなる経緯と言うものがあったわけだが。

ともかく職場で働く同僚を信頼できていないから、遅番で来る人間に引き継いで帰宅することができず、自分でやろうとするために結果として残業が増えてしまっているわけだ。

そんな内心をうまく隠せているのか、それとも同僚が楽をできることを喜ぶだけで、信頼されていないなどと考えもしないのかはわからない。とりあえず働き者などと言われている時点で気付かれていないのは間違いないはずだが。

そのことに自覚したのは最近のことなのだが、同時に人を信頼するというのはかくも難しいことなのだとも思い知った。信頼されようと行動する相手と、信頼しようという自身とがかみ合わさったときに初めて成り立つものなのだ。

向こうにしてみれば今の在りようで十分信頼が成り立つレベルで、私が求めるものが高いのかもしれないが、ともかくもそこがかみ合っていないためにこういうことになっているのだろう。

こうして考えると人を信じるというのはなんと難しいことなのだろうかと痛感する。頼めばやっておいてくれると素直に考えられる人たちがうらやましいとすら思えてしまう。疑心暗鬼というほどのものではないが、仕事を任せてしまっていいと思えない自分に嫌気が差すこともあるくらいだ。

それぞれの人間がそれぞれに持つ信頼に足る行動の在り方とそのかみ合わせ。そのズレがなんとももどかしく感じてしまう。私の考えるレベルが高いのだろうとは思うが、なぜそれができないとも思ってしまう。

ただ人を信じるというそれだけのこと。そこに生じる齟齬。少し詩的な言い方をすれば理想のズレとでも言ったところだろうか。それを埋めることのなんと難しいことだろう。

そしてこうも思うのだ。

人に信頼される人間でありたいというのは多くの人が望む自身の理想の姿の一つであろうと思うが、その壁はなんと高いのだろうか。信じるのが難しいということは信じられるのも難しいということなのだから。

理想というそれぞれの心のうちにある求める在り方。それは誰でも持っていて、誰しもが簡単には変えがたい姿。そこに違いがあるゆえのすれ違いなのだから人を信じるということ、人に信じられるというのはこうも難しいのか。