移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

時間

2006-11-16 21:41:20 | Weblog
時間というのは気がつくとずいぶんと過ぎているものだ。

中の良い友人と会った翌日にふとそう思った。その友人と出会ったのは高校生時代であったのだが、当時ほど頻繁に会うことはもちろんないが今でも変わらぬ友好を結んでいると思っている。

彼らとあったとき、話す内容こそ年齢相応になってきてはいるが、その場の雰囲気のようなものは当時とあまり変わっていないように感じる。だからその場においての自分は高校生のころのままの自分であるわけだ。

しかしそれから一日二日と立って職場にて働いていると当然そんな自分でいることはできない。そのギャップを感じながら不意に考えてみると、その友人たちと出会ってから十年がたとうとしているのだ。

十年という時間が自分にとってどれほどのものであったかは今考えても正直よくわからない。だが少なくとも当時十年という時間に感じていたほどの長さが感じられなかったようには思う。

時間というのは瞬く間に過ぎ行くものなのだと強く実感した瞬間であった。

愚かしさすら許される、そんな子供時代であったときのまま成長していないということはないと思いたい。友人と会うときと仕事のときとの己の違いというものに気づいているのだから多少なりとも大人にはなっているのだろう。

あっという間に過ぎ去ってしまった年月の中で自分が成長したという実感はほぼ皆無に等しい。まぁそういったものはえてして自分自身ではわからないものなのだろうが、こうもあっさりと十年という年月を経てしまうと何も変わっていないからそう感じられるのではないかとか思ったりもする。

ともあれ時間というものは気がついたときにはずいぶんと進んでいるものなのだと思わされてしまった。冗談半分で自分もおじさんになってきたとか言ったりすることがあるが、それがもはや冗談でなくなっている。

私はそんな時間の流れを感じたときにこうも思った。

この十年の中で私は自分の中に何かを刻みつけることができたのだろうか、と。

十年という時間は短くはないが若さのうちでの十年というものは周りに何かを刻むのではなく、己のうちに何かを刻み込む時期だと思っていたし、今でも思っている。

己というもの、己の生き方というもの。それは進路だとかなんだとか言う意味ではなく、自分がどういう人間としてこれからの人生を歩んでいくかという人間性におけるあり方のこと。

それは経験によって変わるものであり、大人になってからでも変化しうるものである。しかしその根幹となる部分は若さの中であがくうちに作り上げられるものではないだろうか。そしてその根幹というものはそうそう揺らぐことがないものではないか。

私はそんなものを自分のうちに作り上げられたのだろうか。こうありたいという願いを自身の心のうちに刻みつけることができたのだろうか。

時間の流れの速さというものを感じると同時に、その時間の流れの中で何かを得ることができたのだろうか。瞬く間に過ぎ行く時の中では振り返ってもそれを確認することはできない。

できるのは、気がつけば過ぎてしまっていた十年という年月が自分の中に確かな何かをもたらしていると信じるだけである。