移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

過去

2006-09-28 21:34:18 | Weblog
人の人生は過去の積み重ねである。

時に人は過去など関係ないと言う。それは基本的には成立し得ない。どんな人間であろうと過去をもち、過去を積み重ねた結果として現在を持つのだから。

私がこうして書いている「今」も次の瞬間には過去となり、こうして文章をつづっているときに感じている気持ちも明日には過去の中に埋もれ、己を構成する一要素として分解されていくだろう。

日々の中でどのような想いを持ったか。どのようなことをしたか。その全てが記憶していようとしていなかろうと自身の中に刻み込まれ、自分を作り出す。仮に過去に犯罪を犯し公正した人間がいて、その人のその時点での人となりを見て過去を関係ないという人がいたらそれは何も見ていないだけであろう。

過去というのは否定するものではない。それを踏まえたうえで判断するものだ。もちろん犯罪者は公正しようがよろしくないと言いたいわけではない。犯罪を犯してしまったがそうしてしまった自分を改めることができた人物なのだ、と見るべきなのだ。犯罪を犯した過去、そうしてしまったその人を作ってしまった過去をないがしろにすべきではない。

過去というのは人の歴史であるというのはよく語られることだ。一人の人の歴史というのはその人物の人間性に関わらず軽視されてはならない。どのような人であろうとそうなるにいたった経緯というものを考慮しなければならない。

それは他人の見方だけでなく、自分自身を省みるときにもそうである。

未来を見ることが大事であるというのもよく言われることだ。それはまぁ間違いではないだろう。人が生きるのは過去ではなく、現在であり未来であるのだからそこに眼を据えるのは大事なことだ。

だがその言葉が語られるときはえてして過去を否定するときというのが多いのではないだろうか。

未来を見るその土台には過去が存在している。未来へと歩む道筋は過去が作り出している。そのことを忘れてはならない。

誰しもがもつ忘れたい思い出、忘れたくない記憶。そういったものや何気ない日々の日常という無数の過去の積み重ねが道を照らすのだ。自分がこれから進もうとする道は過去から連なるものなのだ。

今自分に見えている未来への道はどういう道なのか。それは過去を振り返れば見えてくることが少なくないだろう。過去という名の歴史が今の自分を作り出している。その作り出された自分がこれからどうなっていくのか。

時にはそういったことに思いを馳せてみてはどうだろうか。以前の自分は何をどう感じていたか。どういう気持ちで日々を生きてきたか。そしてそれらが自分の中でどう溶け込んでいるか。未来を望むからこそ、過去というものを一度考えてみるのもまた一興ではないだろうか。

理想

2006-09-06 23:57:45 | Weblog
人が誰しも一度はぶつかる壁。それが理想というものだろう。

理想と現実というものは常にギャップがある。理想というのは変な言い方をすれば自分自身が思い描く妄想に過ぎない。現実というのは自身がどう思おうと厳然としてそこに存在し、それぞれがどういう想いをもっていようと完全にその通りに動くことはありえない。

そして理想というのは都合のいい妄想といえるのだから、多くの人は現実がそうあってほしいと望んでいる。故にそうでない現実との間に壁を感じ、時にそれに絶望すらするだろう。

口当たりの良い言葉を吐くならば、そのことを受け入れた上で少しでも現実を理想に近づけるべく研鑽を積み重ねていくべきだ、とでも言うところだろうか。無論それは口当たりの良いとあらかじめいったように、それができる人間もまた一握りである。つまるところそれこそが一つの理想論であって、理想を求めるために理想を振りかざすというおかしな論理であると私は感じている。

多くの人は両者の間に妥協点を見出し、そこに満足をすることでこのギャップによる不満を解消している。努力できるのも一つの才能とはよく言ったもので、それができない多くの人はそこで落ち着くものだ。

要するに中途半端な状態で人は満足を覚えてしまっているのだ。それが必ずしも悪いとは言わぬが、あまりいいともいえないとも思ってしまう。普段はなんとも思わずとも突きつけられるとそう思ってしまうのが人というものだ。

突き詰めようとすることを多くの人はできず、それは理想論の上塗りだといっておきながら、そんなことを言うのは支離滅裂だと言わざるを得ない。そんなことは私自身承知している。

結局のところ人は理想を求めてしまうということだろうか。それが到達しえぬ高みであると思いながらも、否、思うからこそそれを望んでしまうのだろう。なんともつまらぬ結論だ。

人にとって理想というものは何なのだろうか。自らの妄想のようなものといったが、実際のところはそんな表現ができるような薄っぺらいものではない。もしそうであるならそれはまさしく妄想に過ぎず、理想などと語る価値の無いものであろう。

理想とは到達しえぬ高みであり、遥か遠きものである。ひとたびたどり着いたと思ったとしても、そのときにはそれはさらに高く遠くに見え、今いる場所が理想郷ではないと人は知るだろう。

理想とはどこまでも理想なのだ。つまらぬ結論と嘲笑うならばそれも良い。理想など持つべきではないと語るものほど、己が理想に囚われているが故にそのような言葉が出てくるものなのだ。

人にとって理想というものは欠くことのできぬ要素なのだろう。こうありたいと願うものがあるからこそ人は動くことができる。それなくして何かを求めることは無い。

人は現実と理想の壁に苦しむことだろう。それは現実というものの厳格さがそれを与えてくれるのだ。しかしそれを恨むことでは何も得ることはできまい。厳格であるが故にそこで得たものは意味を成すのだ。

人は理想を想いながら現実を生きなければならない。理想を求めるために理想に逃げ込むことがあってはならない。理想を胸に秘めながら、現実で確たるモノのを得るためにあるべきなのだろう。