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移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

2006-10-05 22:17:07 | Weblog
人は傷つきながら生きていく。

どんな人間でも傷一つなく生きることはできない。身体の傷も、心の傷も、どちらであっても人は持っている。生まれたときのようなまっさらな身体と心を持ったまま時を重ねることはできない。

傷というのは多くの場合痛みをともなって刻まれる。それゆえに忌避されがちなもので、人は傷を受けることを恐れながら生きていく。どんなに堂々とした生き方をしていても、その痛みには常に臆病なのがたいがいの人のありようだ。

しかし、同時に傷つくことが成長する大きな要因となっていることも知っているものだ。何らかの痛みを受けたとき、もう一度その痛みを受けることがないようにするだろうし、もしもそれでも同じ痛みを受けてしまってもそれを乗り越える術を手に入れ、痛みに耐える力を手に入れる。

そう。傷というのは人の成長の糧であり、その人の人生の跡なのだ。特に心の傷というものは。

心の傷というのは完全に癒えることはない。いったんふさがり、そのまま忘れ去ってしまうことはあるだろうが、再度同じようなことがあれば傷口は開き、そのときの痛みをともなって新たな傷口を作り出すだろう。

傷と痛みを引きずりながら人は生きていく。一生涯消えることないそれらと共に生きていく。それは悲しいことだろうか。

否。私はそうは思わない。

先に言ったように傷とは人生の跡なのだ。それを受け入れ、毅然と前を向いたとき、それはただの傷から誇りへと変わると私は思う。

痛みを引きずりながら明日を見つめ、今日よりもより素晴らしい自分を目指して歩み続けるのであれば、どんなに愚かしい行為によってついた傷であっても、その先を目指す姿は何者であっても愚弄することは許されない。それは誇り高きものの姿なのだ。

どんなに絶望的に思える闇にあっても希望という一筋の光が必ずあるように、立ち上がることが困難な痛みであっても、心には常に屈することなき想いを持つ者は確かに気高く高潔な魂であるといえるだろう。

それゆえに傷を恐れるな、などというつもりはない。たとえより良い自分へと、より高みへと上るための礎となるとしても、痛みと共にある傷というものを恐れぬことは勇気ではないのだ。慎重さの足りない愚者の行為というものだ。

傷とは恐れずにあろうとするものではない。屈せぬことを心に誓うものだ。

受けた傷から眼を逸らさず、しっかと見つめ、毅然と立ち上がり前を見つめるのだ。そうして見据える先にこそより高みに立つ自分の姿があるはずだ。

耐え難い傷を受け、足を引きずりながらでも地面をはいずるようにしながらでも前に進もうとする者を嘲笑う者がいたならば、私はその者の愚かさこそを笑おう。気高く高潔な魂を無様と言うものがいたならば私はその姿こそが下劣であると言おう。

傷を受けることを恐れたとしても、その先にあるものを見る心を失ってはならない。痛みに凍りつきそうになったとしても歩もうとする想いを止めてはならない。そうして傷を乗り越えた先に求める自分がある。そうして傷を己が心身に刻みながらそれを乗り越えて歩む道程こそが、己に誇りを与えるのだ。

過去

2006-09-28 21:34:18 | Weblog
人の人生は過去の積み重ねである。

時に人は過去など関係ないと言う。それは基本的には成立し得ない。どんな人間であろうと過去をもち、過去を積み重ねた結果として現在を持つのだから。

私がこうして書いている「今」も次の瞬間には過去となり、こうして文章をつづっているときに感じている気持ちも明日には過去の中に埋もれ、己を構成する一要素として分解されていくだろう。

日々の中でどのような想いを持ったか。どのようなことをしたか。その全てが記憶していようとしていなかろうと自身の中に刻み込まれ、自分を作り出す。仮に過去に犯罪を犯し公正した人間がいて、その人のその時点での人となりを見て過去を関係ないという人がいたらそれは何も見ていないだけであろう。

過去というのは否定するものではない。それを踏まえたうえで判断するものだ。もちろん犯罪者は公正しようがよろしくないと言いたいわけではない。犯罪を犯してしまったがそうしてしまった自分を改めることができた人物なのだ、と見るべきなのだ。犯罪を犯した過去、そうしてしまったその人を作ってしまった過去をないがしろにすべきではない。

過去というのは人の歴史であるというのはよく語られることだ。一人の人の歴史というのはその人物の人間性に関わらず軽視されてはならない。どのような人であろうとそうなるにいたった経緯というものを考慮しなければならない。

それは他人の見方だけでなく、自分自身を省みるときにもそうである。

未来を見ることが大事であるというのもよく言われることだ。それはまぁ間違いではないだろう。人が生きるのは過去ではなく、現在であり未来であるのだからそこに眼を据えるのは大事なことだ。

だがその言葉が語られるときはえてして過去を否定するときというのが多いのではないだろうか。

未来を見るその土台には過去が存在している。未来へと歩む道筋は過去が作り出している。そのことを忘れてはならない。

誰しもがもつ忘れたい思い出、忘れたくない記憶。そういったものや何気ない日々の日常という無数の過去の積み重ねが道を照らすのだ。自分がこれから進もうとする道は過去から連なるものなのだ。

今自分に見えている未来への道はどういう道なのか。それは過去を振り返れば見えてくることが少なくないだろう。過去という名の歴史が今の自分を作り出している。その作り出された自分がこれからどうなっていくのか。

時にはそういったことに思いを馳せてみてはどうだろうか。以前の自分は何をどう感じていたか。どういう気持ちで日々を生きてきたか。そしてそれらが自分の中でどう溶け込んでいるか。未来を望むからこそ、過去というものを一度考えてみるのもまた一興ではないだろうか。

理想

2006-09-06 23:57:45 | Weblog
人が誰しも一度はぶつかる壁。それが理想というものだろう。

理想と現実というものは常にギャップがある。理想というのは変な言い方をすれば自分自身が思い描く妄想に過ぎない。現実というのは自身がどう思おうと厳然としてそこに存在し、それぞれがどういう想いをもっていようと完全にその通りに動くことはありえない。

そして理想というのは都合のいい妄想といえるのだから、多くの人は現実がそうあってほしいと望んでいる。故にそうでない現実との間に壁を感じ、時にそれに絶望すらするだろう。

口当たりの良い言葉を吐くならば、そのことを受け入れた上で少しでも現実を理想に近づけるべく研鑽を積み重ねていくべきだ、とでも言うところだろうか。無論それは口当たりの良いとあらかじめいったように、それができる人間もまた一握りである。つまるところそれこそが一つの理想論であって、理想を求めるために理想を振りかざすというおかしな論理であると私は感じている。

多くの人は両者の間に妥協点を見出し、そこに満足をすることでこのギャップによる不満を解消している。努力できるのも一つの才能とはよく言ったもので、それができない多くの人はそこで落ち着くものだ。

要するに中途半端な状態で人は満足を覚えてしまっているのだ。それが必ずしも悪いとは言わぬが、あまりいいともいえないとも思ってしまう。普段はなんとも思わずとも突きつけられるとそう思ってしまうのが人というものだ。

突き詰めようとすることを多くの人はできず、それは理想論の上塗りだといっておきながら、そんなことを言うのは支離滅裂だと言わざるを得ない。そんなことは私自身承知している。

結局のところ人は理想を求めてしまうということだろうか。それが到達しえぬ高みであると思いながらも、否、思うからこそそれを望んでしまうのだろう。なんともつまらぬ結論だ。

人にとって理想というものは何なのだろうか。自らの妄想のようなものといったが、実際のところはそんな表現ができるような薄っぺらいものではない。もしそうであるならそれはまさしく妄想に過ぎず、理想などと語る価値の無いものであろう。

理想とは到達しえぬ高みであり、遥か遠きものである。ひとたびたどり着いたと思ったとしても、そのときにはそれはさらに高く遠くに見え、今いる場所が理想郷ではないと人は知るだろう。

理想とはどこまでも理想なのだ。つまらぬ結論と嘲笑うならばそれも良い。理想など持つべきではないと語るものほど、己が理想に囚われているが故にそのような言葉が出てくるものなのだ。

人にとって理想というものは欠くことのできぬ要素なのだろう。こうありたいと願うものがあるからこそ人は動くことができる。それなくして何かを求めることは無い。

人は現実と理想の壁に苦しむことだろう。それは現実というものの厳格さがそれを与えてくれるのだ。しかしそれを恨むことでは何も得ることはできまい。厳格であるが故にそこで得たものは意味を成すのだ。

人は理想を想いながら現実を生きなければならない。理想を求めるために理想に逃げ込むことがあってはならない。理想を胸に秘めながら、現実で確たるモノのを得るためにあるべきなのだろう。

罪とは何ぞや?

2006-08-23 00:36:55 | Weblog
罪とは何なのだろうか。

人の世における罪とは簡単に言うならば、人の倫理に反した行いをすることとなるでしょうかね。犯罪の多くはそれによって定義されているでしょうから。

さらに言うと殺人は罪とされるが戦争におけるそれは必ずしもそうはならない。それは人の倫理の中において戦争における殺人は殺人とは違うとされるからかと思います。

つまるところ罪とは曖昧なのです。法によって定義されてはいますが、例え同じ罪であっても状況によってその罰則が変わってくることからもそういえるでしょう。

人の心の曖昧さが罪というものの概念を曖昧化しているのです。もちろんそれを悪いというつもりはありません。人が感情を持ち、思考する存在であるいじょうそこからそういった要素を排除すれば厳格すぎるがゆえの歪みを生み出すのは必至でしょう。

人は生まれ、成長していく過程で多くの罪を背負っていきます。それは多くのものを傷つけるということです。それは他社の肉体を傷つけたいする物質的な意味でもそうでしょうし、心に大なり小なりの傷をつける精神的意味でもあります。

どちらにしても人の倫理が他者を傷つける行為を是としていないということでしょう。でもそれらは行き過ぎた行為でなければ当たり前のことで、そうせずに年を経ていく人はまずいません。

それでもそれらに罰則を与えられることはありません。当たり前に存在する事柄にいちいち罰を与えていては社会が成り立ちません。見方によっては罪が罪とされないということです。

多くの人はそうやって許しを与えられ、罪ではないとされながらも自分の心は罪であるという自覚を持ち、自分で自分を戒めていきます。

最初に罪とは人の倫理が決定するというようなことが言いましたがそれは一面においては正しかったとしても、別の面においては間違っています。

それが成立するのは社会的な側面で罪を見た場合であって、個人にスポットを当てた場合はそうとも言い切れません。人に害を与えれば罪となるのが社会ではありますが、ある人にとってはそれを害であると感じられないこともあるでしょう。

前提としている倫理が食い違っているので、社会において罪とされることがその個人にとっては罪となりえないのです。罰せられたとしてもなぜ罰せられるのかが理解できないのではないでしょうか。

結局のところ最終的な点においては個人の倫理が罪を定義するということでしょうか。人に害を与えたりしてそれが自身の心を戒める。それゆえに罪が罪として成立する。社会的に罪とされなくてもその人物は罪であると認識する。

罪とは個人の感性が決定する。故に法によって定義される罪に依存するのではなく、自らの心の認識する罪と言うものを見つめなおすことも時には必要なのではないだろうか。

悪人ですか、善人ですか?

2006-08-08 20:03:38 | Weblog
先日知人にこんな問いかけをしてみた。
「○○さんは自分が善人だと思いますか? それとも悪人だと思いますか?」
そのときなんとなく思いつきで言ったんですが、言われたほうはずいぶんと戸惑っていました。

普通生きている中で自分が善人か悪人かなんてそうそう考えません。実際その知人も何で突然そんなことを言い出したのかとか、いつもそんな変なことを考えてるのかとか言ってきました。思いつきで言っただけですが、まぁ一般的に変と言えてしまう様なことをつづっている最近の内容を顧みるといつもではないにしてもよくそういったことを考えているのは否定できません。

それはともかく何とはなしに口にしたこの質問ですが、以外と答えが出しにくいなと思いました。本人としてどう思っているかはともかく、どちらと答えたとしても素直な受け止め方をされにくいかな、と。

善人と自ら言ってしまうような人はえてして信用しがたい人が多く、また恥を知らないと相手に受け止められてしまいそうな感じがします。悪人と自分の事を言う人はやはり良い印象はなく、さらに言うと今の世の中の風潮では悪ぶって格好つけていると思われかねないという点もあるでしょう。

知人はどちらかといえば善人だと思う、という曖昧な答え方で逃げてくれました。おそらくは多くの人が同じように「どちらかといえば~だと思う」というような答え方をするでしょう。

日本人というのは曖昧さを尊重するものですから、そういった意味では別に悪い印象は与えないでしょうが、でもそう答えるということは自分というものに思いをめぐらすことが少ない証であると感じて、私的には考えることをしない人という感じがしていい感じがしません。そんなことに考えをめぐらす私であるが故の感じ方でしょうがね。

悪人だ善人だというのは他者から見て判断されるべきことで、自分で考えることではありません。大多数の存在が決定する倫理観によって他者が決定するものです。自分が自分のあり方の善悪を決定してもそれが他者に受け入れられることはなかなかないです。そうでなければ法律とか意味が無いですからね。盗みを働いてそれが私にとっての善行ですとか主張しても受け入れられるわけがないんですから。

そういう意味ではこの質問には何の意味もありません。しいて言うなら自分というものをどの程度理解しようとしているかという、その人の在り方を探るという悪趣味なものです。

では質問することが無意味でも、それを自身で考えようとすることは無意味でしょうか? 私はそう思いたくありません。

自分が善人だろうが悪人だろうが、それを自分で判断する意味はなくともそれを探ろうとすることで自分というものに対する理解を深めれば、相対的に他者をも理解しようとすることに繋がります。その判断基準を他人にゆだねることを考えているのですから、自分自身のことを思考していても突き詰めていく中で他人という存在がその中に絡んでくるはずなのですから。

ちなみに私は自分を悪人だと思っています。別に重犯罪をしたことはないですからそういった点において社会的悪人ではないのですが、自身の望みを本当に満たすためならば手段を選ぶべきではないと本気思っています。例え他の人に傷を負わすことになっても自身の渇望を満たすのに必要ならばそれを躊躇ってはならないと思っています。このあたりについては本日の御題とは関係ないので細かいところは省きますが、こういった考え方が社会的に否定されるべきものだとは理解してますんで、自分は悪人なんだろうと思っています。

さて、本日の駄文を締めくくるのにふさわしいのはこれでしょう。はたしてこれを読んでくれた奇特なあなたはどちらでしょうか。
「あなたは善人ですか? 悪人ですか?」

尊さ

2006-08-04 01:51:18 | Weblog
命は本当に尊いものなのか。

命の尊さ、という言葉がある。漫画や小説なんかを読んでみれば腐るほど語られるフレーズだろう。私はこれに疑念を感じている。

別にその考え方を否定するものではないが、尊いとかなんだとかごてごてと飾り立てることに違和感を感じるのだ。はたしてそんな崇めたてるようなたいそうなものなのだろうか。

人間という生き物の倫理観からすれば無意味に生き物を殺すということは悪である。しかし食べるために牛や豚を殺すのは悪ではない。まぁこれもなんだかんだでよく言われることなのであえて何を言う必要もあるまい。

命が尊いとかいうのは無意味に何かを殺すこと、または人が人を殺すことを悪とするという倫理に基づいた言葉だろう。そこで不意に思ったのが、これはどちらが先なのだろうかということだ。

倫理に照らし合わせて悪であるから命を尊いと崇めるのか、命が尊いものであるから人を殺すのが悪であるのか。鶏が先か卵が先かという理論であるのだが、はたしてこの場合はどちらなのだろうか。

そうやって思考をつめていくと、人の理性の基本として同族殺しを良しとしないという基本概念があることに思い至る。殺人事件などに対する派手な報道を見ていて
、娯楽としての意味合い以外にその点があるのではないかと感じたのだ。

人間以外を殺すことは死というものにたいする基本的な恐怖や嫌悪が促すものでしかないと思えるので、わざわざ触れるほどのものでもないと思う。

ともあれ数多存在する動物を見てみると別段同族殺しというのはそれほど珍しいものではないと思う。共食いとなると餌がないゆえのことだろうからまた別種となるだろうが、縄張り争いなどの結果として同種族を殺す生物というものは確かに存在する。

もともと殺すために殺しているわけではないが、同族殺しを嫌悪して忌避しているということはあるまいと思う。他の動物の理性を人間とまったく同じ形式で当てはめること自体愚劣ではあるかも知れないが、そう考えることはまったくの見当違いということもあるまい。

少々脱線した感があるが何が言いたいかというと、人の理性の根源的な部分に同族殺しを避けようとする意識が存在し、それを確固たるものとしようとした結果として「命の尊さ」というものが生まれ出たのではないだろうか。

つまり命は別に尊いということはない。とまで言うといいすぎだが、理性という人を構成する基本的且つ根源的部分に根ざした、理性でありながらある種の本能である思考回路が訴えかける同族殺しを避けるべきという意識を飾り立てただけのことに過ぎないのではないか。

私からすると宗教的な印象を感じてしまった。人の精神の根源にある理解しがたいものにすがる気持ちや逆に恐怖心などを飾り立てたのが宗教の一面であると私は考えているので、そういう点では大差ないと感じるのだ。

命は尊いだなんだといってもっともらしいことを並べ立てたところで何のことはない、本能の訴えそのままではないか。まぁ私は生物学者でも心理学者でもないので理論的な穴はいくつもあるのだろうが、少なくともそんなご立派なお題目には何の意味もないと感じてしまうのだ。

命は尊いなどとわざわざお題目を唱える必要はない。命を消失させる、何かを殺すというのは人の理性の基本構造が訴える禁則事項であり、それゆえに実行すべきでない行動である。無味乾燥とし言い分だがそれで事足りるし、変に飾り立ててそれが美しいものであるかのように見せかけて重要な本質を見失うようにするべきではないと感じたのだ。

言葉の重み

2006-07-30 00:52:12 | Weblog
言葉というのは決して軽くはない。

口約束は約束のうちじゃないという話がある。実際重要な契約は書面をもって交わされることからも、それはごく一般的な認識といえるのではないだろうか。

それは言葉だけで証拠が残らないのでは簡単に保護にできるということから、そういう措置がとられるということ。言葉というものが軽んじられていることの一端を表しているといえよう。

だが言葉というのはそんな軽々に扱っていいものではない。証拠が残らないからこそより慎重でなければいけない類のもののはずだ。証拠が残らないのだから何を言ってもいいなどという考えを持つ輩がいるならば、その人物は愚人であると私は断言しよう。

言葉というものは重いのだ。形に残らないから簡単に翻すことができるのではなく、残らないからこそ一度出た言葉は変える事ができず、そこに発言の責任が生じるのだ。

政治家というのはある意味それをよくわかっている。彼らの場合発言が何らかの形で記録されるから慎重になるのは当然で、ある意味書面を交わすのと同様な状況ではあるが、言葉というものがいかに重みを持っているかを良く理解している。だからあの持って回ったような表現だとか、どうとでも取れるような曖昧なニュアンスの言いようを好んで使うのだ。

もちろんそれが褒められたことではないと思っている。言葉の重みを知っているとしても、責任を逃れようという意思をありありと見せつけてくれる彼らを褒めることなどできはしない。私が認めているのは言葉というものを軽く見ていないという一点のみである。

ともあれ言葉というものに伴う重さを考えている人間が今の世の中にどれほどいるだろうか。雑談程度のことであるならばまだいいが、たとえ友人間で交わされる軽い口約束であったとしても、いったん吐き出した言葉が取り替えしのつかないものであると認識しているものはそういまい。

誇り

2006-07-24 00:24:12 | Weblog
誇り高きものこそに心惹かれる。

プライドが高い、という言い方をするとどちらかというとマイナスな表現になるが、それはよろしくないことなのだろうか?逆にプライドが低いというのは卑屈であるということで、それこそよくないことに思える。

何事にもニュートラルであることが格好いいというような風潮が無きにしも非ずな世の中であるから、どちらとも言えないくらいがちょうどいいと思われているのだろう。だが本当にそんな人間が魅力的に思えるのだろうか。

誇り高くあれるというのは自分に自信を持って、まっすぐに立てているということの証ではないだろうか。もちろん自信の方向性というものもあって、それが間違っているとただの勘違いした人間になってしまうというのも否めないが。

ともあれ、確かな己を持ち、苦境にあってもそれを見失わずにいることができる人間というのは魅力的だ。それがすなわち誇り高いとはいえないだろうが、その存在の形というのは人を惹きつける何かを備えているのではないだろうか。

真に誇り高いということがどういうことか。それを言葉にするのは非常に難しい。完成で感じる物事には総じて言えることであろうが、これもまたご多分にもれないということだ。

それはつまり感性によって左右される部分が大きいということでもあり、どんな人間をそう感じるかは人によって変わってくるという事でもある。私がそう感じても他の人がそう感じないことがあるということだ。

そういったこともあって誇りというものについて語るのは困難であろう。それでもなぜこれを今日の題材に選んだかというと、先に言ったニュートラルであることに疑問を感じたからだ。

単純にクールなのが格好いいという話がたまたま今日の会話の中であって疑問に想っただけなのだが、そもそもクールというものの意味がどうにもおかしい気がする。冷たいそぶりであったり冷静であったりというのがいいというような感じでその人は語っていたのだが、ただそうあるのがいいということもあるまい。

その素振りの根底にあるものがその有様を格好よく見せるかどうかという風に私は感じた。そしてそこにこそその人物の誇りのありようと言うものがあると思える。

格好いい人間はクールだから格好いいのではない。誇り高くあるその心がその素振りとして表れ、格好よく見せているのではないか。そう思ったしだいである。

格好いいとか格好よくないとかはあまり関係ないな。ただ誇り高くあろうとする姿勢こそが人を真に誇り高い人間とし、魅力となるのだろう。

意味

2006-07-18 21:31:00 | Weblog
果てしなく無意味なことを無意味と思ってしまっていいのだろうか。

人生に意味などない。使い古された言葉の一つだろう。とはいえ使い古されるというのはそれなりに共感する人間がいるということの証でもある。かく言う私自身もその言葉を否定することはできない。

だがその言葉を否定できない者は逆なのではないだろうか。どのような人生を歩んできたかはともかく、そこに何らかの意味があってほしいという願いが秘められているのではないだろうか。

この矛盾。人が真に欲しているのはその人生には意味があるという誰かからの言葉。自らのうちから湧き出てくる想い。そんなものを求めてしまうのもまた人の業なのだろうか。

人生には本当に意味などないのかもしれない。何もなしえなかった人生であろうと、歴史に名を刻む偉業を達成した人生であろうと、人によっては後者には何らかの意味があったように思えるかもしれないが、実は等しく意味などないのかもしれない。

だがこうも思えるのだ。自身の人生が無意味だったかどうかを決めるのは結局自分自身でしかないのだと。

誰もが掴みえるちっぽけとも言っていい小さな幸せを掴み取った人生に意味を見出せるかもしれない。世界中の人間が感動するような何かを創りえたとしても本人には虚しいことでしかないかもしれない。

人の人生とは無意味なものであるかもしれない。しかしそうであったとしてもそこに意味を求めることは無意味ではないのではないか。無意味だと格好をつけてさめたふりをするよりも、そう断ぜずに意味を見出そうとあがき、何かを見つけようとすることは意味があるのではないか。

それを私は人の業といったが、それを乗り越えんとする行為は尊いだろう。仮に誰が納得できなくとも、自分の中で確かな何かを掴みえたのならば本当にその人生は無意味だったと言い切ることができるのだろうか。

所詮は自己満足なのかもしれない。それでも何かを掴まんとするその想いと在り方は確かに意味があると私は感じる。人生は無意味であるかもしれない。しかし意味を求めようとするその姿は無様と斬って捨ててはならない重大なものを秘めているのではないだろうか。

信じるというのは難しい

2006-07-17 23:34:28 | Weblog
まれに私のことを働き者という人がいる。私自身として否定したい言葉の一つだ。

私の会社は定額残業制となっている。一月に100時間残業しようと1時間しか残業しなかろうともらえる残業代は同じというわけだ。にもかかわらず私は人より多く残業している。他の人間が帰った後でもこまごまとした仕事をこなしているためにそういったことになるわけだ。私を指して働き者という人は、別に給料が増えるわけでもないのに進んで残業する姿を見てそういうのだろう。

だが私は別に働き者なわけではない。私が残業しているのは人を信頼していないからだ。

全ての人を信頼していないというわけではないが、少なくとも職場にいる人間に対しては適用されることだろう。もちろん信頼というのは過去の行動や言動から築かれるものであるのだから、今に至るまでにそうなる経緯と言うものがあったわけだが。

ともかく職場で働く同僚を信頼できていないから、遅番で来る人間に引き継いで帰宅することができず、自分でやろうとするために結果として残業が増えてしまっているわけだ。

そんな内心をうまく隠せているのか、それとも同僚が楽をできることを喜ぶだけで、信頼されていないなどと考えもしないのかはわからない。とりあえず働き者などと言われている時点で気付かれていないのは間違いないはずだが。

そのことに自覚したのは最近のことなのだが、同時に人を信頼するというのはかくも難しいことなのだとも思い知った。信頼されようと行動する相手と、信頼しようという自身とがかみ合わさったときに初めて成り立つものなのだ。

向こうにしてみれば今の在りようで十分信頼が成り立つレベルで、私が求めるものが高いのかもしれないが、ともかくもそこがかみ合っていないためにこういうことになっているのだろう。

こうして考えると人を信じるというのはなんと難しいことなのだろうかと痛感する。頼めばやっておいてくれると素直に考えられる人たちがうらやましいとすら思えてしまう。疑心暗鬼というほどのものではないが、仕事を任せてしまっていいと思えない自分に嫌気が差すこともあるくらいだ。

それぞれの人間がそれぞれに持つ信頼に足る行動の在り方とそのかみ合わせ。そのズレがなんとももどかしく感じてしまう。私の考えるレベルが高いのだろうとは思うが、なぜそれができないとも思ってしまう。

ただ人を信じるというそれだけのこと。そこに生じる齟齬。少し詩的な言い方をすれば理想のズレとでも言ったところだろうか。それを埋めることのなんと難しいことだろう。

そしてこうも思うのだ。

人に信頼される人間でありたいというのは多くの人が望む自身の理想の姿の一つであろうと思うが、その壁はなんと高いのだろうか。信じるのが難しいということは信じられるのも難しいということなのだから。

理想というそれぞれの心のうちにある求める在り方。それは誰でも持っていて、誰しもが簡単には変えがたい姿。そこに違いがあるゆえのすれ違いなのだから人を信じるということ、人に信じられるというのはこうも難しいのか。