移日々之事物

気になったこととかに関する戯言とか

2006-10-05 22:17:07 | Weblog
人は傷つきながら生きていく。

どんな人間でも傷一つなく生きることはできない。身体の傷も、心の傷も、どちらであっても人は持っている。生まれたときのようなまっさらな身体と心を持ったまま時を重ねることはできない。

傷というのは多くの場合痛みをともなって刻まれる。それゆえに忌避されがちなもので、人は傷を受けることを恐れながら生きていく。どんなに堂々とした生き方をしていても、その痛みには常に臆病なのがたいがいの人のありようだ。

しかし、同時に傷つくことが成長する大きな要因となっていることも知っているものだ。何らかの痛みを受けたとき、もう一度その痛みを受けることがないようにするだろうし、もしもそれでも同じ痛みを受けてしまってもそれを乗り越える術を手に入れ、痛みに耐える力を手に入れる。

そう。傷というのは人の成長の糧であり、その人の人生の跡なのだ。特に心の傷というものは。

心の傷というのは完全に癒えることはない。いったんふさがり、そのまま忘れ去ってしまうことはあるだろうが、再度同じようなことがあれば傷口は開き、そのときの痛みをともなって新たな傷口を作り出すだろう。

傷と痛みを引きずりながら人は生きていく。一生涯消えることないそれらと共に生きていく。それは悲しいことだろうか。

否。私はそうは思わない。

先に言ったように傷とは人生の跡なのだ。それを受け入れ、毅然と前を向いたとき、それはただの傷から誇りへと変わると私は思う。

痛みを引きずりながら明日を見つめ、今日よりもより素晴らしい自分を目指して歩み続けるのであれば、どんなに愚かしい行為によってついた傷であっても、その先を目指す姿は何者であっても愚弄することは許されない。それは誇り高きものの姿なのだ。

どんなに絶望的に思える闇にあっても希望という一筋の光が必ずあるように、立ち上がることが困難な痛みであっても、心には常に屈することなき想いを持つ者は確かに気高く高潔な魂であるといえるだろう。

それゆえに傷を恐れるな、などというつもりはない。たとえより良い自分へと、より高みへと上るための礎となるとしても、痛みと共にある傷というものを恐れぬことは勇気ではないのだ。慎重さの足りない愚者の行為というものだ。

傷とは恐れずにあろうとするものではない。屈せぬことを心に誓うものだ。

受けた傷から眼を逸らさず、しっかと見つめ、毅然と立ち上がり前を見つめるのだ。そうして見据える先にこそより高みに立つ自分の姿があるはずだ。

耐え難い傷を受け、足を引きずりながらでも地面をはいずるようにしながらでも前に進もうとする者を嘲笑う者がいたならば、私はその者の愚かさこそを笑おう。気高く高潔な魂を無様と言うものがいたならば私はその姿こそが下劣であると言おう。

傷を受けることを恐れたとしても、その先にあるものを見る心を失ってはならない。痛みに凍りつきそうになったとしても歩もうとする想いを止めてはならない。そうして傷を乗り越えた先に求める自分がある。そうして傷を己が心身に刻みながらそれを乗り越えて歩む道程こそが、己に誇りを与えるのだ。