穴の空いた多様体の大きさと形は、モジュライと呼ばれるパラメータによって決定される。
たとえば二次元トーラスは、一つは穴を取り囲み、もう一つは穴を通る、二つの互いに独立なループすなわちサイクルによって、何通りにも定義される。
モジュライはそれらのサイクルの大きさの指標として定義され、サイクルが多様体の大きさと形を決定する。
二つのサイクルのうちドーナツの穴を通るサイクルの方が小さければ、ドーナツは細くり、逆に大きければ、ドーナツは太くなり、中央の穴は比較的小さくなる。
そして三番目のモジュライは、トーラスがどの程度ねじれているかを記述する。
しかしカラビ=ヤウには、最大500個の穴があり、さまざまな次元のサイクルが数多く存在するため、モジュライの数も数十から数百とはるかに多くなるという問題が生じる。
もし多様体の大きさと形状に何の制限もなければ、モジュライ問題に頭から突っ込んでしまうことだ。
そうなると、多様体の幾何から現実的な物理を引き出せるかもしれないという望みは潰えてしまう。
この間題に直面するのは、多様体の大きさと形状に関係したスカラー場が、質量ゼロ、つまり変化させるのにエネルギーを必要としない場合だ。
言い換えると、何の障害もなしに自由に値を変えられる場合である。
さらに大きな問題がある。
そのような場は、自然界には決して存在しないことがわかっているのだ。
もしそのような場が存在したら、そのスカラー(モジュライ)場に伴うあらゆる種類の質量ゼロのモジュライ粒子が、光速で飛び交っていることになる。
それらのモジュライ粒子はグラヴィトン(重力を仲介すると考えられている粒子)とおおよそ同じ強さで他の粒子と相互作用するため、アインシュタインの重力理論は破綻してしまう。
一般相対論として記述されるその重力理論はきわめて有効であるため、これらの質量ゼロの場や粒子は存在しえないことがわかる。
確立された重力法則と矛盾するだけでなく、決して観測されたことのない第五の力や、さらに他の力を生じさせることになってしまうのだ。
ひも理論の大部分が現在、カラビ=ヤウ多様体のコンパクト化に運命を握られていながら、そのカラビ=ヤウ多様体が、存在しないと思われる質量ゼロのスカラー場や粒子を伴うモジュライをもっているとしたら、ひも理論自体に望みはないのではないか?
この間題を回避する方法があるかもしれない。
というのも、ひも理論には、素性はすでにわかっているものの、計算を単純にするために無視された別の要素があるからだ。
そのような追加成分の一つが、「フラックス」と呼ばれる、電場や磁場に似ているが、ひも理論に由来しており電子や光子とは何の関係性ももっていない場だ。
再び二次元トーラスを取り上げるが、今度の場合は、細いものから太いものへと連続的に変形できる、特別に柔らかいドーナツを考える。
このトーラスに針金を通したり巻きつけたりすれば、一定の形に安定化させることができる。
それがいわば、フラックスの役割だ。
それに似た効果は、たとえば、磁場のスイッチを突然オンにすると、それまでばらばらだった鉄粉が一定のパターンをつくるという場面で見たことがあるだろう。
磁力線によって鉄粉が保持され、エネルギーを加えて動かそうとしない限りそこに留まるというわけだ。
同じように、フラックスが存在すると、多様体の形状を変えるにはエネルギーが必要となり、質量ゼロのスカラー場は質量をもつスカラー場に変わる。
六次元カラビ=ヤウ多様体はもちろんもっと複雑で、ドーナツよりはるかに多くの穴をもち、その穴自体も高次元(最大六次元)だ。
そのため、フラックスが向くことのできる内部方向ももっとたくさんあり、それに伴って、穴にその力線を通す方法もはるかに多く考えられる。
多様体を貫くそれらのフラックスがすべてわかれば、次には、それに伴う場にどれだけのエネルギーが蓄えられているかを知りたくなるだろう。
それを知るには、その場の強度の二乗をコンパクトな次元の正確な形状の上で、つまりカラビ=ヤウの表面上で積分する必要がある。
すなわち、その曲面を無限小の断片に分割して、それぞれの断片における場の強度の二乗を求め、それらの寄与をすべて足し合わせ、それを断片の数で割れば、平均値つまり積分が求まる。
形状が変われば場の合計エネルギーの大きさも変わる。
多様体は、この場のフラックスエネルギーが最小となるような形状を選ぶ。
導入されたフラックスはそのような方法により、多様体のモジュラィ、そして多様体の形そのものを安定化してくれるのだ。
磁場や電場が量子化されるのと同じく、ひも理論のフラックスも量子化され、整数値しかとらないのだ。
フラックスがモジュライを安定化するというのは、フラックスがモジュライを特定の値に制限するという意味だ。
モジュライを好きな値にすることはできず、離散的なフラックスに対応した値にしか設定できない。
それにより、多様体 - カラビ=ヤウ - も一連の離散的な形に制限されることになる。
実はヘテロティックなモデルにフラックスを導入するのはかなり難しい。
しかし幸いにも、ある条件においてヘテロティックな理論と双対になるⅡ型ひも理論(ⅡA型とⅡB型を含む)のもとでは、フラックス導入のプロセスをもっとよく理解できる。
2003年にⅡB型においておこなわれた重要な解析の結果が、その点に関しては秀でていることを紹介しておこう。
KKLTと呼ばれている論文は、カラビ=ヤウのすべてのモジュライ、すなわち形状のモジュライと、大きさのモジュライの両方を安定化する一貫した方法を示した論文である。
カラビ=ヤウ多様体に基づくどのひも理論においても、大きさを安定化するのはきわめて重要であり、それがうまくいかなければ、隠れた六次元がほどけて際限なく大きくなり、残りの四次元と同じ無限の大きさになるのを防ぐことができない。
もし目に見えない小さな次元が突然はじけて膨張したら、私たちは10個の大きな次元をもつ時空に住むことになり、歩き回ったり鍵を探したりする方向が10個になってしまうが、この世界は決してそのようなものではない。
何ものかがそれらの次元を食い止めていなければならず、それは、KKLTの論文によれば「D-ブレーン」である。
形状と大きさが安定化されているというのは、つぶそうとしても何かに押し戻され、膨らませようとしても何かに押し戻されるということだ。
目標はコンパクトで安定な時空をつくることであり、KKLTはそのやり方が、一通りだけでなくいくつもの異なるやり方を示してくれた。
宇宙のインフレーションのような現象を説明しようとしたら、体積と大きさを安定化させるのはきわめて重要だ。
宇宙のインフレーションとは、今日の宇宙で見られるほぼすべての特徴が、ビッグバンのときに起こった一瞬の爆発的膨張に由来するという考え方である。
その理論によれば、この急速な膨張はいわゆるインフラトン場によって引き起こされ、それが宇宙に正のエネルギーを与えて膨張を促した。
ひも理論では、その正のエネルギーは10次元の何らかの源に由来するはずだとされており、その源は、コンパクトな[カラビ=ヤウ」空間を大きくすると、それに伴うエネルギーが小さくなるという性質をもっている。
すべての場は、チャンスがあれば膨張して希薄になろうとする。
つまり、内部空間が大きくなってエネルギーが低くなるほど、その系は「ハッピー」になる。
系は膨張することでエネルギーを下げることができ、無限に膨張すればエネルギーをゼロにできる。
内部空間は、もし押しとどめるものがなければ膨張していくのだ。
そうなれば、インフレーションを起こしたはずのエネルギーは急速に拡散し、そのプロセスは始まる前に終わってしまうだろう。
KKLTのシナリオでは、私たちの見ている宇宙 - インフレーションに大きく影響を受けた宇宙 -を実現するメカニズムを、ブレーンが提供してくれる。
最終的には、すべてのスケールにおいて有効である理論 - 素粒子物理学と宇宙論の両方を与える理論 - が欲しい。
KKLTの論文と、ギディングス=カチユル=ポルチンスキー(GKP)の2002年の論文は、ひも理論においてインフレーションがどのようにはたらくかの手掛かりを与えたのに加え、重力が電磁気力の「一兆の一兆倍の一兆倍」分の一の弱さに見える理由をひも理論によってどのように説明できるかも示した。
ひも理論によれば、それは、重力が10次元すべてに広がり、その強さが薄まってしまうからだという。
しかし、GKPのシナリオでは、その効果は、幾何学的なワープ(歪み)の概念によって指数関数的に強められる。
KKLTによって達成されたもう一つの重要なポイントは、1990年代後半からの観測によって存在が明らかとなった正の真空エネルギー - ダークエネルギーと呼ばれる - がこの宇宙にどうやって与えられるかを、ひも理論によって記述したことだ。
重要な点として、モジュライの安定化へ向けた研究が前進しつづけ、また素粒子物理へ向けた研究が前進しつづけるなら、少なくとも可能性として、すべて完結するかもしれない。
カラビ=ヤウ多様体を一つ取り上げ、D-ブレーンとフラックスを放り込めば、標準モデル、インフレーション、ダークエネルギーなど、この世界を説明するのに必要な要素を原理的に導くのに欠かせない、すべての材料が手に入るかもしれない。
KKLT論文のポイントは、モジュライをどのようにして安定化すればいいかを示すことにより、カラビ=ヤウ多様体そのものを、安定な、あるいは準安定な一連の形状に制限する方法を明らかにしたことにある。
つまり、ある特定のトポロジー型のカラビ=ヤウを取り上げ、それをフラックスやブレーンで飾りつける方法を導き、可能な構成を逐一数え上げられるということだ。
問題は、その可能な構成の数が最大10^500と、とてつもなく大きく、一部の人はその結果に不満をもっていることである。
「この10の500乗という数は、数学者が求めた、多様体がもちうる穴の最大数 - 約500個 - と、それぞれの穴に通すことのできる場すなわちフラックスが、10種類の状態をとりうるという仮定から導かれた」と、この数を導いた一人であるポルチンスキーは説明する。
かなりおおざっぱな数え方で、もっとずっと大きいかもしれないし、もっとずっと小さいかもしれないが、おそらく無限大にはならないだろう。
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