仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

恩師の死

2009-11-18 23:08:49 | 日々雜感
高校時代の恩師が亡くなつた。
けふ奧樣から、その旨の葉書が屆いた。
それによると亡くなつたのは9月23日。
入院先の病院で亡くなつたとあるばかりで、詳しいことは書かれてゐなかつた。


櫻井先生は千葉高山岳部の顧問をされてゐた。
昭和30年代の終り頃に顧問になられて、私が高校3年の夏山合宿には一緒に參加して下さつたから、少なくとも25年は顧問をされた筈だ。
正確なお歳はわからないのだが、私が高校3年の頃にはすでに今の私の年齡にはなつてゐたのではあるまいか。
(追記:S43千葉高卒OBのかたがたのサイトで、昨年4月に80歳と判明。といふことは1978年時點で50歳!)


高校3年の夏山合宿は、利根川の支流、楢俣川本流の澤登りだつた。
楢俣川本流を2日かけて遡行してススヶ峰に登り、猛烈な薮をこいで祕境・大白澤池を訪づれ、さらに平ヶ岳まで縱走するといふ、私の中では快心の山登りだつた。
今の私に、そんな山行で高校生についてゆくだけの氣力や體力はどこにもない。
それを思ふにつけ、櫻井先生は偉大だつたと、いまにしてしみじみと思ふ。


櫻井先生は、物理と地學の先生だつた。
私は1年の時に、地學を教へて頂いた。
最初の授業で、先生は「ノートをとらずに聞いて下さい」と前置きをして、1時間熱の入つた講義をした。
そして、チャイムの音とともに、一言、「いままでの話は全部ウソなんです」。
さう云つて、自ら黒板を綺麗に消し去つた。
かはいい1年坊がみんな呆氣にとられてゐたのを思ひ出す。
いまから思へば、例へ教師の云ふことだからと云つて鵜呑みにせずに自分自身の頭でちやんと考へろ、といふ教へだつたのだと思ふ。

山では、さらにいろいろなことを教へて頂いた。
高校2年の夏山合宿は、南アルプスの野呂川右俣の澤登りだつた。
野呂川右俣を遡行して、間ノ岳、農鳥岳、廣河内岳と縱走し、池ノ澤を下降して大井川東俣に降り、そこからさらに雪投澤を遡行、鹽見岳に登るといふハードな山行。
4日目の雪投澤を登る時に、澤から離れて踏み跡を失つたことがあつた。
その時に先生が云はれた言葉をいまだに覺えてゐる。
「山にはもともと道はないのだよ」

いまでは主だつた山にはすべて「道」がつけられている。
日本アルプスと呼ばれる山々はもとより、いはゆる登山者と云はれる人々が登らうとする山々には、たいてい登山道がつけられている。
しかし、本來、山には道はない。
自分で地形を讀みルートを切り開いてゆくのが、山登りの原點ではなかつたか。
少し前に公開されてゐた映畫、『劒岳・點の記』を見て、そのことを思ひ出した。

いま、かうして書いてゐるうちに氣が付いた。
もしかすると、私たちは無意識のうちに、この櫻井先生の言葉に觸發されて、3年の夏山合宿の舞臺を道のない山に求めたのかもしれない。


ああ、想ひ出はつきない。

昨年、山岳部OB總會に出席したのも、櫻井先生にお目にかかりたかつたといふのが大きな目的だつた。
おからだの具合が良くなくて出席されなかつたと聞いて、とても殘念だつた。
たうとうお目にかかれず終ひだつたのが、いまとなつては悔まれてならない。
櫻井先生、どうかそちらで、先に逝つた大木さん、遠藤さん、そして大草くんらと一緒に、また山に登つてください。
そして、いつか私もそちらに行きますので、どうかその時は仲間に入れてやつてください。

「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」



合掌





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