お薦め度:☆☆☆+α /
2006年11月30日読了
なんと評してよいのかわからない。
それが正直な感想だ。
讀後感は陰鬱だし、讀んでゐる最中も面白いとは思へなかつた。
いや、むしろ不快だつたと云つてよい。
それでも、この作品世界そのものがさういふ意圖を持つて書かれたのだとしたら、あたりまへなのかもしれない。
この作品は「わたし」といふ一人稱で語られてゐる。
一人稱小説では視點が限定されてしまふので、厚みが出ないことが多いのだが、そこは他の登場人物の手記などで巧妙に補はれてゐる。
登場人物は、「わたし」の妹のユリコ、Q女子高校の同級生・和惠、そして同じく同級生のミツル。
ユリコと和惠は娼婦となつて最後は殺されてしまひ、ミツルはカルト教團の幹部として逮捕される。
「わたし」にしても最後にはユリコの息子・百合雄とともに街頭に立つことになる。
4人の「グロテスク」さの中で、最もグロテスクなのは語り部から最後に行爲者になる「わたし」だ。
名門女子高の出身者がどうしてかういふ人生を歩むのか、そんなことは措いておかう。
作者もそんなことを描かうとしたわけではあるまい。
この作品を味はふには、どうやら論理は必要なささうだ。
理屈を超越した時點で、私の手にはおへないと思つた。
出來ることなら女性の讀者の感想を聞いてみたい。
この作品には皮膚感覺で理解するしかない部分があるやうに思ふ。
齋藤美奈子といふ人が解説で書いてゐる「讀後の不思議な解放感」といふものを私はつひに味はふことはなかつた。
2006年11月26日讀了
2006年11月30日読了
2006年11月30日読了
なんと評してよいのかわからない。
それが正直な感想だ。
讀後感は陰鬱だし、讀んでゐる最中も面白いとは思へなかつた。
いや、むしろ不快だつたと云つてよい。
それでも、この作品世界そのものがさういふ意圖を持つて書かれたのだとしたら、あたりまへなのかもしれない。
この作品は「わたし」といふ一人稱で語られてゐる。
一人稱小説では視點が限定されてしまふので、厚みが出ないことが多いのだが、そこは他の登場人物の手記などで巧妙に補はれてゐる。
登場人物は、「わたし」の妹のユリコ、Q女子高校の同級生・和惠、そして同じく同級生のミツル。
ユリコと和惠は娼婦となつて最後は殺されてしまひ、ミツルはカルト教團の幹部として逮捕される。
「わたし」にしても最後にはユリコの息子・百合雄とともに街頭に立つことになる。
4人の「グロテスク」さの中で、最もグロテスクなのは語り部から最後に行爲者になる「わたし」だ。
名門女子高の出身者がどうしてかういふ人生を歩むのか、そんなことは措いておかう。
作者もそんなことを描かうとしたわけではあるまい。
この作品を味はふには、どうやら論理は必要なささうだ。
理屈を超越した時點で、私の手にはおへないと思つた。
出來ることなら女性の讀者の感想を聞いてみたい。
この作品には皮膚感覺で理解するしかない部分があるやうに思ふ。
齋藤美奈子といふ人が解説で書いてゐる「讀後の不思議な解放感」といふものを私はつひに味はふことはなかつた。
グロテスク〈上〉文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
2006年11月26日讀了
グロテスク〈下〉文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
2006年11月30日読了
お讀みになりましたか・・・
私にはどうにもわからないといふか、捉へどころがないといふか、評するにも自分の立脚點がないといふか、お手上げ状態でした。
もしかすると男には理解できないのかとも考へましたが、女性のかたでも最後まで讀めなかつたといふことであれば、さういふわけでもなささうですね。
私にとつて讀み返さうとは思へない作品であるといふことだけは確かです(笑)
「グロテスク」は、珍しく新刊の単行本で読んだ本です。う~~ん、私も仙丈さんと同様、まさにグロテスクな気持ちで読みました。最後の最後まで「救い」のない話ですよね。桐野さんが、「東電OL殺人事件」にヒントを得て書いた作品だったと思いますが、空しい話しです。
主人公やユリコが立ちんぼをする神泉(井の頭線の渋谷の次)にたまに行くんですが、高級住宅地と渋谷のはずれのホテル街の境目のようなところで、妙に寂しい場所もあります。その暗闇の薄ボンヤリ灯っている街灯の下に、「わたし」が佇んでいるようで、ゾッとしますよ!
でも最後まで読んでしまいました。私の女性の友人に本を貸したら、耐えられずに途中で読むのをやめたそうです。文庫の解説の「開放される」と言うのは、どういう意味ですかねぇ~。