2月に、初めて、自分で抹茶茶碗を作ってみた。
それが、最近、焼きあがってきた。
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ひとつは、大振りの濃茶茶碗を狙って。
残りの土で、三人形の蓋置。
それでもまだ余ったので、山歩き用の小服茶碗も。
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初めての僕には、やっぱり、なかなか難しいもの。
「手びねり」の基本的な技法にも慣れていないうえに。
どのくらいの厚さ(薄さ)に仕上げたらいいか、とか。
焼くとどのくらい縮むか、とか。
抹茶茶碗としての“約束事”をどうしようか、とか。
使い勝手の工夫や、好みを盛り込むこと、とか。
さっぱり、感じが出ないもの。
仕上がりは、いかにも、素人らしい、初めてらしいものに。
それでも。
楽しい“陶芸体験会”だった。
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さて。
面白いのは。
その後のこと。
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やきものを自分で作ってみたら。
やきものをみる目が変わったのだ。
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茶の稽古場の茶碗が、大層、立派に観える。
今までは、当たり前にそこにある、“そういうもの”として見ていたのに。
名工が作った茶碗と僕の素人作とを比べるわけではないけれど。
どの茶碗も上手で、それぞれによく出来ていることが分かる。
今まで、“コレは、なんか好きじゃないなあ”なんて思いながら扱っていたのは、浅はかだったなあ。
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茶碗は、茶を点て、飲むのに、都合よく造られている
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という当たり前のことが、改めて、リアルに、実感として、お腹に落ちる。
自分で作ってみると、それがなかなかカタチに出来ない。
それに引きかえ、本職の作ったものは、全体から細部まで、実に考えられ、またそれが見事に具現化している。
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例えば、楽焼。
茶の湯において楽焼の茶碗が賞玩されてきた理由も、改めて、つくづく合点がいく気が。
茶溜まり・見込み・茶筅擦り、腰・胴・口づくり、高台のつくり、全体の姿・形(なり)、厚さ・薄さ、土味、釉薬、景色…
そのひとつひとつに、ひとの意匠が、自然のわざが、見え隠れする。
カタチには、ココロがひそむんだな。
例えば、長次郎の黒楽茶碗は、なぜ、ああでなければならなかったか。
利休居士と対話するような気すらしてくるから不思議だ。
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こりゃ、茶碗ひとつ取っても、その面白味は尽きないだろう。
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してみると。
色々な産地の色々な焼き物の、それぞれの特色にも、初めて興味が湧いてきる。
島物・唐物・高麗物・和物。
日本の中にも、やきものの里は数多ある。
現代作から、桃山の名物まで。
高名な作家のものも、無名の職人に手になるものも。
やきものは、時空の旅、風俗史でもあるな。
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…いやいや、長くなっちゃい。
まあ、そんなわけで。
手びねり体験1回から、生意気なことを書いてしまったけれど。
とにかく。
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なんでも、やってみるもんだよ。
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という、僕のお師匠さんの教えは。
まったく、真なり!!!
何事も、手を出して、触れて、初めて、リアル。
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陶芸。
また、やりたいな。
美しい暮らしも、“美しい国”も、自分の手でつくり、自分の体で感じたいもの…。
追記:
やきもの・茶碗って、面白いかも。
とは言うものの。
僕は、茶道具に贅沢するのは、イヤ。
茶をやっていて、よく、思うのだけれど。
僕らがこうして遊んでいるうちに。
同じこの星で、ものが食べられずに、医者にかかれずに、死んでいく子供達がいる。
日本では、ツキノワクマは絶滅の危機にある。
美しい森も、自然なお茶畑も、美味しい水も、僕らの暮らすこの星の上から、消えつつある。
そして、そうした全ては、他でもない、僕ら自身が引き起こしてきたんだ。
21世紀の茶人は、そうしたことを、いつも、心に抱いていたいもの。
それが、僕らの「宝剣」、「堤ル我得具足の一太刀」だろう。
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釜ひとつあれば茶の湯はなるものをよろづの道具をもつは愚かな (「利休百首」より)
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画像: 黒楽茶碗 銘 禿 長次郎 桃山時代
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