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フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

<<Ecouter Haendel>> (1)

2012年07月04日 | Weblog
 [注釈]
 
 *une fixite' du ragard qui surprend. : 何かをじっと見つめるギャランスの目が私たちを驚かすのでしょう。
 *Mais pas de quoi s'alarmer : s'alarmer de ….…を心配する。ですから、「心配することはなにもない」 
 *ce ne saurait e^tre avec la prise de distance...: ne +条件法 savoir + inf. 「…できない」

 [試訳]
 
 スカーレット&フィリップ・ルリケ『ヘンデルを聴くよ !』
 
 女の子の名はギャランス。おそらくその両親、この本の著者たちは「天井桟敷の人々」に思い出があったのであろう。
 娘のギャランスは明るい眼の色を、ほとんどワスレナグサのような、あまりにも明るい眼の色をしている。じっと見詰めるその眼は私たちをドキマギさせる。おとなしい、ひょっとすると、おとなしすぎる女の子。けれども心配するようなことはなにもなかった。少し発達が遅れていることをのぞけば。
 それからさまざまな検査や、有名な専門医の診察が続く。それでも診断は曖昧なまま。ただ困惑し、多くも語られない。ギャランスは他の子どもたちとは違う、普通ではない。ギャランスは特別だし、きっとこれからも特別なままなのだ。「広汎性発達障碍」というのが最終的な診断であった。
 こうした障碍を、ギャランスのふた親は観察するだけではなく、日々生きることとなる。二人は娘の振る舞い、言葉、反応、激しい発作などをノートに記すのだが、それは距離をおいた医療者の観察となるはずもない。二人は驚き、ときに娘の発見を、飛躍を喜び、また不安に沈む。絶望と希望が交錯する。
 十余年に及ぶ、ギャランスと共にした生活からこの希有な証言は生まれた。その短い各章を通じて、多くの専門書にも増して、私たちは「障碍」について教えられる。なによりも、この普通ではない女の子、くり返し「ヘンデルを聴くよ !」とせがむギャランスを、私たち読者は愛さずにはいられない。
…………………………………………………………………………………………….
 それでは、次回より<<Ecouter Hanendel>>の本文を読むことにします。
 
 この書物に興味を持ったのは、前回もお話ししたように、なによりもその文体が魅力的だったからですが、実はもうひとつ、ちょっとしたきっかけがありました。
 この春フランスで<<Oslo, le 31 aou^t>>というノルウェーの映画を二度見ました。薬物患者の更生施設からの退院を許可された文学青年が、ふたたび大量の薬物の摂取に因って死に至るまでの数日を追った作品です。その作品のラスト、廃墟のようなアパルトマンで青年は薬物に再び手を染めるのですが、その直前に、調律もあやうい、打ち捨てられたようなピアノの前に座り、ヘンデルの旋律を奏でるのでした。その短い一節にすっかり魅せられたのですが、音楽に疎いぼくは、それが誰の、どんな古典音楽かもわからず、エンド・ロールを最後まで確かめてようやく、それがヘンデルの作品であることを知ったのでした。
 後日ピアノに詳しい友人に聴いてみたところ、ヘンデルはピアノの独奏曲は作っておらず、なにかの作品を編曲したものだろうということでした。
 そんなこともあって、<<Ecouter Haendel>>を手に取ってみました。
 
 さて、実はひょんなことから9月の初旬に大阪を離れることになりました。またそれ以前に、毎夏トゥールーズで一月余りの休暇を過ごす高齢の恩師からパリ近郊のご自宅のお留守番を頼まれ、その役目を果たすべく、8月はお盆の頃までIssy-les-Moulineauxという街で過ごすことになっています。
 それで、今後ですが、新しいテキストの試訳を7月18, 25日の両日お目にかけ、そのあと勝手ながら夏休みとさせて下さい。<<Ecouter...>>は夏休みを挟んで読むことになりますが、Rentre'e scolaire,は、転居先での生活が落ち着くだろう9月半ば頃を予定しています。
 テキストはこの週末までにはみなさんのもとをお届けします。
 Smarcel


5 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Naissance de la peine 1 (misayo)
2012-07-13 15:05:19
 こんにちは、みさよです。蒸し暑い毎日ですね。先生はお忙しそうで大変ですが、先生も皆様もお体お大事にして下さい。今回の訳は文法的に良く分からないところがありましたが、心情的に訳してしまいました。
苦しみの誕生

 ガランスはある晴れた日、1月6日に生まれました。公現祭です。覚えやすく、祝いやすい、美しく、喜びに満ちた日付です。出産は容易なものではありませんでした。どちらかというと長引いて、苦痛に満ちたものでした。しかし私たちが腕に幼子を抱いた時の何という幸せ。熱い新生児の体、すでに真っ青な瞳。保育士が言いました。「赤ちゃんはブロンドですよ」と。私たちはガランスを産着にくるむ時をどんなにか望んでいたか。期待に胸ふくらませる歳月がもはや僥倖や夢や詩ではなくなったのです。
 私たちがこのガランスという名前を選んだのは、それがひとつの植物、花を思い起こさせるからです。「ガランスそれはひとつの花の名前です。」 花であり、植物でありますが、それよりは、その赤い根がとても鮮やかな赤の染料に使われています。情熱のように赤く、誕生を思い起こさせる情熱です。そして大好きな映画の思い出。百回も繰り返し見て、思い出を共有しています。ガランスのために私たちはピエール・フランソワ(ラスネール)の目を持つでしょう。彼は彼女に楽しげに呼びかけます。「私の天使」と。フェデリック(ルメートル)の目も持ちます。彼は彼女にささやきかけます。「ノンと言うんじゃないよ。笑っていただろう。」 彼は彼女にまた会うと知っていたのです。「パリは僕たちのように、お互いにいとおしく思い、愛し合う人間にはあまりに小さいのさ。」 そしてもちろん愛におののくパントマイム役者のバチストの目も持っています。彼は彼女のために立ち去り、そして彼女を支配しようともせずに、再会します。ただ夢見るだけで、支配しようとしない詩人のように。
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Unknown (midori)
2012-07-14 09:33:05
先生、みなさん、こんにちは。先生、いつもテキストをお送りいただき、ありがとうございます。
前回のテキストと今回のテキストの中に、明らかに過去のことを語っているのに、動詞の時制が現在形になっているところがありますが、これは臨場感を出すためでしょうか。このように、フランス語では過去のことを動詞の現在形で描写することはよくあるのでしょうか。

困難の始まり

ある日、ガランスは生まれた。ある年の1月6日。その日は、公現祭。美しく、喜ばしい日。覚えやすい、祝いの日。出産は楽ではなかった。むしろ、長く、痛みに苦しんだ。けれど、私たちがその小さな子を腕に抱くと、生まれたばかりの赤ん坊の高い体温と、生まれて間もないというのに鮮やかな青い目を小児看護専門看護師は幸福として祝福した。彼女はまた、この子がブロンドになるだろうと言った。こんなにも待ち望んだガランスを産着でくるむとき、これからの日々、年月はもはやこの上ない贅沢、夢、詩以外のものにはなりえない。
その名が植物、花の名前を思わせることから、私たちはガランスという名前を選んだ。「ガランス、これは花の名だよ。」花、むしろ植物と言うべきか、その赤い根は染色に使われる。非常に鮮やかな赤、情熱のように赤く、情熱が命を与え、それゆえにその赤が生まれたかのようだ。それから、気に入っている映画の思い出。数えきれないほど見ては、また見た。そして、二人で一緒に見た。ガランスを、私たちはピエール=フランソワ(ラスネール)の目で見つめるだろう。彼はガランスを感じよく呼びとめる。「かわいい人。」それから、フレデリック(ルメートル)の目で。彼はガランスに話しかける。「ちがうとは言わせない。あなたは笑った!」フレデリックはガランスにまた会えることをわかっていた。「僕たちみたいに、こんなに大きな愛で愛し合う者にとって、パリはこんなにも狭い。」そして、何よりもバチストの目で。愛に臆病なパントマイム役者。ガランスのためにすべてを捨てようとするだろう。ガランスを得ることなく、夢見つづけるだろう。詩人のように。夢見る、けれど何も持っていない、そんなことをするのは詩人だけだ。
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Leçon260 (Moze)
2012-07-17 14:44:28
暑中お見舞い申し上げます。暑くなりましたね。連休に徳島にある大塚国際美術館に行ってきました。陶板画によって名画をオリジナル作品と同じ大きさに複製して展示しているのですが、その耐久性によって記録保存にも貢献しているそうです。古代の壁画や、中世の聖堂の復元は見ごたえがありました。
**************
苦労のはじまり
ギャランスが生まれたのは、晴れの日だった。1月6日、公現祭。佳き、おめでたい日で、覚えやすく、お祝いもしやすい。出産は容易ではなかった。むしろ時間がかかり、難産だった。私たちがわが腕に幼子を抱いたとき、しっかり暖かい新生児の体の、保母さんが言うには、もう青い目をしていて、それは金髪の子しるしでもあるというのだが、その幸福を手にした時、私たちが、かくも望んだギャランスを産着にくるんだ時は、これからの年月は、もはや幸せや夢、詩のようでしかなかった。
 私たちが、この名前、ギャランスを選んだのは、それがある植物、花を連想させるからだ。「ギャランス、それは花の名よ」花、というよりは植物で、その赤い根は、染色に使われるが、鮮烈な赤、情熱のように激しい赤。ギャランスを身ごもらせ、誕生させた情熱のように。そして幾度となく繰り返し見た好きな映画の思い出もこめられている。ギャランスに対して、私たちは、「私の天使」と美しく呼びかけるピエール・フランソワ(ラスネール)の眼差しを向けているかもしれない。「違うとは言わせません。あなたは微笑みました」とギャランスに近づくフレデリック(ルメートル)の眼差しをもっているのかもしれない。フレデリックは、ギャランスに再会するであろうことがわかっていて言う。「パリは、私たちのように、こんなにも愛し合う者たちには狭すぎます」そして誰より、バチストの眼差しを。愛におののくパントマイム俳優は、ギャランスのためにすべてを捨てる。ギャランスをわがものとすることなく夢見るのだ。夢見るだけで、手にすることはないのが詩人だけであるように。
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Unknown (雅代)
2012-07-17 23:38:37
先生、皆様、こんばんは。『天井桟敷の人々』を再び観たくなりました。ところで最近、BS放送でパリの1区から20区まで、それぞれの区の中にある1軒のカフェを紹介し、そこにやってくる客の生活や仕事などを通じてパリの生活を垣間見せてくれる番組を見ています。それぞれに雰囲気の違う町やカフェの佇まいがあって、毎週楽しんでいます。


「苦しみの誕生」

  ある日、ギャランスが生まれました。1月6日。公現祭。幸せな楽しい日、覚えやすいし祝いやすい日。出産は楽ではありませんでした、とても長く苦痛を伴いました。しかし小さな子供を腕に抱いたとき、新生児の温かな体と、とても青い目を持っていると、また金髪のお子さんですと保母さんが教えてくれたその幸せを抱いたとき、待ち望んでいたガランスを私たちが産着でくるんだそのとき、この日々はこれ以上なく幸せで、夢のようで、詩に満ちていました。
  私たちはこの名前を選びました、ギャランス、なぜならこの名前がある植物を、花を思い起こさせるからです。《ギャランス、それは花の名前です》。ある花、いえある植物、その赤い根っこは染料に使われます、とても力強い赤です、情熱的な赤、妊娠し誕生する情熱。大好きな映画の思い出も、100回も繰り返し見て分かち合う映画。ギャランスに対して私たちはピエール・フランソワ(ラスネール)の目を持つといえるかもしれない、彼はギャランスに可愛らしく呼びかけていた、《僕の天使》、フレデリック(ルメートル)の目は彼女に迫っていた。《拒まないで、あなたは微笑んでいた!》彼は彼女を再開するだろうことを知っていた:《私たちのように大きな愛で愛し合う人々にとってパリはあまりにも小さい》;むしろバプティストの目です、愛ゆえに畏れたパントマイム役者、彼女を思って立ち去るだろう、そして誰もが夢見るように彼女を所有することなく彼女を夢見る、所有しようとしない詩人たちのように。
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Unknown (shoko)
2012-07-18 06:47:35
先生、皆さん、こんにちは。
梅雨が明け、本格的な夏到来ですね。
<質問>
次の文法的構造がわかりませんでした。
Mais lorsquu nous tenons le petit enfant~、le bonheur du corps~ のところで、le bonheur du corpsは構造上、文法的には主語になるのでしょうか?もしその場合、動詞はどれでしょうか?
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苦難のはじまり

ガランスが生まれた。それは1月6日、公現祭の日だった。おめでたくて楽しい日だから覚えやすいし祝える日だ。出産は楽ではなく、むしろ長くて辛いものだった。だが、この手に我が子を抱いた時、十分に温もりのある体は幸福感そのものであった。鮮やかな青い瞳に、新生児看護師は言った。ブロンドの髪になるわねと。待望の赤ん坊ガランスに産着を着せた時、これからの日々は幸せに満ちた、夢のような、詩の世界、というふうにしか思えなかった。

私たちがガランスという名前を選んだのは、その名をもつ植物、花を想起させるからだった。「ガランスって、花の名前なんですよ」。花、というよりは植物で、赤い根っこは染め物に使われる。鮮やかな赤色は情熱の赤だ。情熱といえばその手の赤が思い浮かぶ。それに数え切れない程みたお気に入りの映画は、私たち二人の想い出でもあった。私たちはガランスを、犯罪詩人ピエール・フランソワ・ラスネールの眼差しで見つめる。そして優しく囁く。「僕の天使さん」と。或いはシェイクスピア俳優フレデリック・ルメートルの眼差しかもしれない。彼もガランスに言った。「いいや、おまえは笑ったよ」と。フレデリックはガランスに再会するだろうことがわかっていたのだろうか、「パリという街は、僕たちのように強く愛し合う二人にはあまりにも狭いね」と言った。或いはむしろ、恋愛に臆病なパントマイム役者バチストの眼差しであったかもしれない。バチストはガランスのために全てを捨てるだろう。彼女を手にいれることはなく夢の中にいだき続けるであろう。夢想するだけで手に入れることのない詩人のように。
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