あたらしいテキスト: Michel Tournier <<Le miroir des idées>> 2016年01月31日 | 外国語学習 今年度最後のテキストとして、先日他界したフランスの作家ミッシェル・トゥルニエの哲学エッセーを読みます。テキストをご要望の方は shuheif336@gmail.com までご一報ください。Shuhei #学習 « ロラン・バルト『明るい部屋... | トップ | ミッシェル・トゥルニエ「魂... »
2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 L'ame et le corps (misayo) 2016-02-04 10:42:16 こんにちは、みさよです。ミッシェル・トゥルニエの訃報を読みながら、「イデーの鏡」を思い出さず、不注意を恥じています。最後の部分が良く分からなかったのですが、よろしくお願いいたします。魂と肉体 魂は肉体に宿る生命に不可欠な、永遠で変わることのない根源である。それは精神とは交じり合うことのない宗教的な概念だ。文化、記憶、想像力は精神を高める。それらは、ひとつの年代から他の年代に、またある状況から他の状況へと変化することができる。眠る人や、酒飲み、また常軌を逸した人は、彼らの精神状態で定義されるが、彼らの魂によって定義されることはない。魂は肉体に囚われ、生の時間に囚われた崇高な光である。死はその解放である。 少なくとも以上のようなことが、魂と肉体についてのプラトン学派や新プラトン学派およびキリスト教の考え方である。その考えは、肉体によって魂に課せられた物質的な束縛を力説する。現在地、また現時点の空間的時間的状況、その弱さ、老い、貧困、病といった状況だ。肉体は食物を必要とし、衣服を着て、世話されなければならない。いったいどんな要求や、どんな苦しみなら、取り囲むことにならないというのだろうか。 返信する Lecon328 (Moze) 2016-02-09 22:26:50 こんにちは。はや節分が過ぎ、新しい春とはいえ寒い毎日です。インフルエンザも流行中です。前回の試訳はとてもきめ細やかな訳語ですばらしい訳だと感じました。あらためてバルトを読み直したいと思いました。以前ご紹介くださった石垣りんの詩集を読みました。その新しさ、現代性に胸うたれました。***************************心は体に宿る生命に不可欠な不滅、不変の要素である。それは精神と混同してはならない宗教的な概念である。文化、記憶、想像力は、精神によるものである。それらは年齢や境遇によって変化しうる。眠っているとか、酔っているとか、気が狂っているとかいうのは、精神の状態によって決められるのであって、心によってではない。心は生きている間、体に閉じ込められた崇高な灯火である。死は心の解放なのだ。以上がプラトン主義、新プラトン主義、そしてキリスト教的な心と体の関係についてのおおよその概念である。その概念は、体によって心に強いられた物理的な束縛を強調している。空間や時間による差し迫った体の状況、その危弱性、老い、生理的要求、病などである。体は食べて着て、手をかけられなければならない。体はなんという要求、なんという苦しみをもっていることか! 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
魂と肉体
魂は肉体に宿る生命に不可欠な、永遠で変わることのない根源である。それは精神とは交じり合うことのない宗教的な概念だ。文化、記憶、想像力は精神を高める。それらは、ひとつの年代から他の年代に、またある状況から他の状況へと変化することができる。眠る人や、酒飲み、また常軌を逸した人は、彼らの精神状態で定義されるが、彼らの魂によって定義されることはない。魂は肉体に囚われ、生の時間に囚われた崇高な光である。死はその解放である。
少なくとも以上のようなことが、魂と肉体についてのプラトン学派や新プラトン学派およびキリスト教の考え方である。その考えは、肉体によって魂に課せられた物質的な束縛を力説する。現在地、また現時点の空間的時間的状況、その弱さ、老い、貧困、病といった状況だ。肉体は食物を必要とし、衣服を着て、世話されなければならない。いったいどんな要求や、どんな苦しみなら、取り囲むことにならないというのだろうか。
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心は体に宿る生命に不可欠な不滅、不変の要素である。それは精神と混同してはならない宗教的な概念である。文化、記憶、想像力は、精神によるものである。それらは年齢や境遇によって変化しうる。眠っているとか、酔っているとか、気が狂っているとかいうのは、精神の状態によって決められるのであって、心によってではない。心は生きている間、体に閉じ込められた崇高な灯火である。死は心の解放なのだ。以上がプラトン主義、新プラトン主義、そしてキリスト教的な心と体の関係についてのおおよその概念である。その概念は、体によって心に強いられた物理的な束縛を強調している。空間や時間による差し迫った体の状況、その危弱性、老い、生理的要求、病などである。体は食べて着て、手をかけられなければならない。体はなんという要求、なんという苦しみをもっていることか!