[注釈]
* s'il faut en croire une philosophie... : en croire...「…を信じる」
* sans pour cela connai^tre la nature de chacune d'elles. : elles = deux choses
* quelle situation elles occupent... : 自分に対して人々がどういう状況を占めているか(occuper)
[試訳]
魂と身体
この講演のタイトルは「魂と身体」です。つまり、物質と精神、また、存在するあらゆるものと、このあとお話しすることになる哲学に従うなら、存在しないなにか、と言うことも出来るでしょう。でもご安心ください。ここでの狙いは、物質の本性を究めることでもなければ、精神のそれを究めることでもありません。わたしたちは、物質と精神それぞれの本性を知ることが出来なくとも、その二つのものを区別することが出来、またある程度まで、その関係を見定めることも出来ます。今わたしには、目の前にいる皆さんと知り合いになることは出来ませんが、それでも皆さんと自分を区別していますし、皆さんがわたしに対してどういう立場にいらっしゃるのかも理解できます。身体と魂に関しても同じことです。それぞれの本質を定義することは、遥かな企てとなることでしょう。ですが、何が二つのものを結びつけ、何が分け隔てるのかを知ることは難しくはありません。それというのも、魂と身体が結びつき、また分け隔てられること、それは経験にもとづく事実だからです。
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今回は、まだほんの出だしにすぎませんが、ウィルさんのおっしゃるように易しかったですね。みなさんの訳文にも読み違いはほとんどありませんでした。ベルクソンの文章を心地よいと感じられた方は、是非がんばって「魂と身体」読み通してみてください。この教室では4回に分けて、導入部のみ扱うことにします。
次回はp.22, l.14 のles etoiles までとしましょう。訳文は9/25(火)締め切りとします。
ベルクソンについては、以前一度ご紹介しましたが、金森修『ベルクソン』(NHK出版)が良質な入門書としてお薦めです。また、最近の訳業としては、『物質と記憶』(ちくま学芸文庫)があります。訳者の合田正人先生の、少し難しいかもしれませんが、ベルクソンのこの代表作の思想的な鉱脈の広がりを捉えた優れた解説も一読の価値があります。
それにしても、大阪は暦がひと月戻ったのではないかと思えるほどの酷暑の日々がまだ続いています。リンさんのパリでの生活がうらやましいばかりです。
* s'il faut en croire une philosophie... : en croire...「…を信じる」
* sans pour cela connai^tre la nature de chacune d'elles. : elles = deux choses
* quelle situation elles occupent... : 自分に対して人々がどういう状況を占めているか(occuper)
[試訳]
魂と身体
この講演のタイトルは「魂と身体」です。つまり、物質と精神、また、存在するあらゆるものと、このあとお話しすることになる哲学に従うなら、存在しないなにか、と言うことも出来るでしょう。でもご安心ください。ここでの狙いは、物質の本性を究めることでもなければ、精神のそれを究めることでもありません。わたしたちは、物質と精神それぞれの本性を知ることが出来なくとも、その二つのものを区別することが出来、またある程度まで、その関係を見定めることも出来ます。今わたしには、目の前にいる皆さんと知り合いになることは出来ませんが、それでも皆さんと自分を区別していますし、皆さんがわたしに対してどういう立場にいらっしゃるのかも理解できます。身体と魂に関しても同じことです。それぞれの本質を定義することは、遥かな企てとなることでしょう。ですが、何が二つのものを結びつけ、何が分け隔てるのかを知ることは難しくはありません。それというのも、魂と身体が結びつき、また分け隔てられること、それは経験にもとづく事実だからです。
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今回は、まだほんの出だしにすぎませんが、ウィルさんのおっしゃるように易しかったですね。みなさんの訳文にも読み違いはほとんどありませんでした。ベルクソンの文章を心地よいと感じられた方は、是非がんばって「魂と身体」読み通してみてください。この教室では4回に分けて、導入部のみ扱うことにします。
次回はp.22, l.14 のles etoiles までとしましょう。訳文は9/25(火)締め切りとします。
ベルクソンについては、以前一度ご紹介しましたが、金森修『ベルクソン』(NHK出版)が良質な入門書としてお薦めです。また、最近の訳業としては、『物質と記憶』(ちくま学芸文庫)があります。訳者の合田正人先生の、少し難しいかもしれませんが、ベルクソンのこの代表作の思想的な鉱脈の広がりを捉えた優れた解説も一読の価値があります。
それにしても、大阪は暦がひと月戻ったのではないかと思えるほどの酷暑の日々がまだ続いています。リンさんのパリでの生活がうらやましいばかりです。
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まず、この点に関して、常識についての直接的で、ありのままの経験が語るものは何でしょうか。我々はそれぞれ、物体であり、全ての他の物質と同じ法則に従っています。それを押せば、前へ進み、引けば、後ろへ下がります。持ち上げて、離せば、下へ落ちます。外的な要因によって機械的に引き起こされるこうした動きとは別に、内部から起こり、その予期できぬ性質によって先ほど申し上げたものとは、はっきり対照をなす別のものが存在します。それを「自発的」と呼びます。その原因は何でしょうか。才能のある方々がそれぞれ、自我(「je」や「moi」)という言葉で示しているものです。それでは、自我とは何でしょうか。それは、正しいか間違っているかは別として、あらゆる場所から、そこに結びつく肉体からあふれ出し、時においても空間においても、それを超えていくように見えるものです。まずは、空間においてです。我々それぞれの肉体は、正確な輪郭で終わっており、それが肉体の限界ですが、一方、我々の知覚能力、よりはっきり言えば視覚能力によって、我々は、我々の肉体を遥かにこえて、広がっているということなのです。我々は、星まで行けるのです。
まず、この点に関して直接的で常識的に素朴な経験とは何を言うのでしょう。私たち一人一人はあらゆる他の物質に作用する法則と同じ法則に従っています。もしも押されたなら前に進み、引き寄せられれば後ずさりし、持ち上げられて投げ出されば落下します。しかしながら、外部要因によって、機械的に引き起こされた動きのほかに、人は内部から生じると思われる他のもの、また思いがけない性格によって今まであったものの上に浮き出してくる他のものでもあるのです。人はそれを「自発的な」と呼びます。その原因は何でしょう。それは私たち一人ひとりが「私」または「自己」と言う言葉で表すものなのです。ところで自己とは何なのでしょう。是非はともかく、空間もまた時間も越えて、結びついた肉体のあらゆる部分からあふれ出てくるように思える何ものかなのです。まず空間の中においては、私たち各人の肉体は限りのある明瞭な輪郭のうちに留まっていますが、一方で知覚する能力、もっと正確にいえば見る能力によって、私たちの肉体を超えて光り輝くのです。私たちは星まで達することができます。
大阪ではまだ残暑が続いているのですね。どうぞ皆さま、体調を崩されぬようお気をつけ下さい。
さてようやくベルグゾンの続きを読まさせて頂きました。意味はわかるような気がするのですが、細かく丁寧に訳すというのはなかなか大変な作業ですね。私は特に一行目が自信がありません。哲学の文章は、ちょっと説明がまどろっこしくって苦手なのですが、それでもベルグゾンはだいぶ読みやすそうではありますね。先生が挙げて下さった入門書も、是非購入して読んでみたいと思います。普段なかなか哲学書を読む気にはなれないのですが、こういう機会に取り上げて下さると、ぐっと身近に感じますし、面白そうだし頑張って読んでみようかなという気にさせてもらえます。有り難うございました。
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まず、この直接的で、ありのままの経験という点について、共通する意味はどのようなものでしょう?私たちのそれぞれは身体であり、他の全ての物質の部分と同じ法則に従わされているものです。もし身体が押されれば前進し、引っ張られれば退き、もし持ち上げられ離されれば、落下します。しかし、外部の要因により機械的に誘発されたこれらの動きとともに、内部から発生するような、そして思いがけない性質によって前に続くものたちと対照をなすような他のものも存在するのです。すなわち、我々が「自発的に」と呼ぶようなものです。その原因となるようなものはどんなものでしょう?それは、それぞれが持つ天賦のものが「私」とか「私(に)」という言葉によって示されるような何かです。では「私」とは何か。それは、間違っていても正しかったとしても、空間と同様に時間軸のただ中においても、そこに結びついている身体のすべての場所からはみ出し、身体を超えて出てしまうようにみえる何かです。まずは空間において。というのも私たちのそれぞれの身体は、限定されるはっきりとした輪郭にとどまっているものだからです。しかるに一方で、私たちの知覚という能力、特に見るということに関しては、私たちは身体を遥かに超えて放射し、星までも行けるというのに、です。
まず、この点について、良識の直接的で素朴な経験は何を語っているでしょうか?わたしたち一人一人は、物質の他のすべての部分と同様、法則に従う体です。押せば前進し、引けば後退します。持ち上げて投げれば落ちます。しかしある外的な原因で機械的に引き起こされる動きの傍らで、内部から起こったと思われること、思いがけない性格によって前例にたいしキッパリと決断することは別物です。それは「自発的意思」と言います。それはいかなる理由にもとづくのでしょうか?それは、私たち一人一人が「私」あるいは「自我」という言葉で指し示していることです。「自我」とは何か?是非はともかく、体がつながっているところのあらゆる部分で満ちているように見え、 時間と同様に空間の中へとはみ出しているように見える何かです。空間においてはまず、我々一人一人の体は、体を区切っている明確な輪郭のところで立ち止まるので、一方、我々の知覚する能力によって、またとりわけ見ることの能力によって、われわれは我々の体の外に光を放ち、そのようにしてわれわれは星に到達するのです。
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それではまずこの点について、常識的に直接的で、自然な経験は何を示しているでしょうか?私たちはそれぞれひとつの身体ですが、それはあらゆる他の物質のかたまりと同じ法則に従っています。押せば前に進みますし、引けば後退します。持ち上げて手を離せば落ちます。しかし、外的要因によって機械的に引き起こされたこれらの運動とは別に、内から生じると思われる他の運動があって、それらは、不測の性質を持つことによって、先の運動とははっきり区別されます。それらの運動は「意思的」な運動と呼ばれています。その意思的な運動の原因は何でしょうか?それは、私たちが、「私」とか「自我」という言葉で指し示すものです。それでは、「自我」とは何でしょうか?正しいかどうかはさておき、それがつなげられている身体から、いたるところではみ出しているように見える何か、空間においてと同様に時間においても身体を越えているように見える何かです。まず空間においてというのは、何故なら私たちの身体は、それを境界づけるはっきりとした輪郭にとどまっていますが、私たちがもつ知覚能力、そしてより著しく視覚能力によって、私たちは身体を大いに越えて移動するからです。私たちは星まで行ってしまいます。