テキサス州ヒューストンで名家に生まれたハワード・ヒューズは、
1924 年に19歳の若さで自身の帝国の基礎を築きます。
彼はもともとテキサスの裕福な家庭に生まれましたが、
両親の相次ぐ死により“お金持ちの孤児”になります。
ドラマの決まりごとのように彼の周りには遺産目当ての親族が群がりますが、
法廷で争い、ハワードは顧問弁護士に自身の権利を買い上げさせ、
父の会社ヒューズ・ツール・カンパニーが製造した石油掘削器の特許権継承に
成功します。
原作「ハワード・ヒューズ」は訳者によると、
“公式には映画「アビエイター」の原作とは呼べない“
ことになっているのだそうです。
原作本は、故人の財団と著作内容について激しく法廷で争い、
なんとか勝利を勝ち取って出版にこぎつけたといういわくつきのものです。
この裏の事情と、さらに映画そのものが多くの追加取材を経て脚色されたため、
そのような体裁となっているのでしょう。
ハワードは学校を7度も転校し、遺産争い後、すぐさま実業界に入ったため、
大学は一年の一学期を通っただけです。
映画の冒頭で、のちのトラウマを髣髴させる母親とのエピソードが出てきますが、
原作では父親との関係が描写の大半を占め、
母親のことはほとんど触れられていません。
映画に出てくるような神経症の兆候が幼年時代に伏線のある話である、
ということはもちろん、成長後、服を脱いで燃やしたりというあからさまな奇行
についてもほとんど出てきません。
それらは他のヒューズ伝説にお決まりのように登場する逸話ですが、
精神衰弱等の正規の医学的診断をくだされたという記録が無いので、
(故人の財団が証拠隠滅したのかもしれませんが)
伝記より排除されたものと推測できます。
(裏取引で、病気遍歴には触れないことになっていたのかも)
ヒューストンの故郷では、父親は「ビッグ・ハワード」、
息子であるハワード・ヒューズ本人は「リトル・ハワード」
あるいは「ジュニア」のニックネームで呼ばれていましたが、
ハワードは「リトル」「ジュニア」と呼ばれることが嫌いで、
家督を継いだあとは、自分をハワードと呼ぶよう周辺の人たちに繰り返し
要望していたようです。
レオナルド・ディカプリオの最初の登場場面でも、
「ジュニア」と声をかけられて「ハワードだ」と訂正するセリフがありますが、
これはそのような事情によるものです。
父親はテキサスの油田開発時代に岩盤を貫く強度のあるドリルの開発に成功しましたが、
掘削機のそのものの販売はせず、パテントをとって機器リースで巨万の富を得ました。
当時としてはとてもユニークなビジネスの展開方法でしたが、
すばやい資金調達と機器の製造とメンテナンスのための工場の整備、
それをリースする営業システムの同時開発に成功したのですね。
単なる技術屋でなく商才にもたけていました。
ハワードは父と対比されることを嫌がりましたが、
結果とてその経営センスを大いに学びヒューズ財団の帝王学のベースとなっています。
飛行機に興味を持ったのは14歳のころです。
父親にせがんで水上飛行機に乗る機会をもらったことが始まりです。
この時代、飛行機といえば複葉機でしたが、
父は、息子がバイクに乗りたいといえばバイクを与え、
飛行機に乗りたいと言えば乗せ、望むものは何でも与えました。
“実践的帝王学”自分で体験して初めて身に付くのだ、という哲学を
持っていた人です。
大変な遊び人で、ハワードは会社と一緒に法外な請求書の山を相続しています。
はじめて飛んだ彼はたちまち飛行機の魅力に取り付かれたようです。
ハワードはハム無線機の自作と飛行機に夢中になりました。
家督を継いだ直後、大叔母といとこたちとともに世界一周の旅に出ていますが、
どうやって老人を説き伏せたのか、イギリス海峡横断に、
飛行機旅行で出てかけています。
1925 年 6 月 1 日に、彼はヒューストン社交界の花エラ・ライスと結婚しています。
改革者でプレイボーイの彼がどうして旧家の娘と自ら望んで結婚したかのか、
不思議といえば不思議です。
世間にはやく自分が一人前であることを誇示したかったのかもしれませんが、
既婚者であるという事実を手に入れると彼はたちまち美しくも退屈な田舎者の妻への
関心を失い、好きな事業と新しいガールフレンド作りに励み、
1930 年には離婚しています。
映画では触れられていませんがハワードは3 度の結婚歴があります。
映画産業への興味は以前からあったが、実際にハリウッドへ進出したのは、
父が高くかっていた元映画スターのラルフ・グレイグスを何か支援してやってほしい、
という遺言から始まったことでした。
ハワードがラルフと会うと、彼は自分の暖めていた映画の構想を打ち明けます。
もらいっ子を育てる浮浪者のドラマは「スウェル・モーガン」といタイトルがついて
撮影が始まります。
ラルフが当初、「四万ドルもあれば」と言っていた制作費は、
倍の八万ドルに迫る勢いで膨れ上がりました。
完成した映画は内容的にも興行的にも失敗しました。
父の遺言を果たしヒューストンに帰るつもりでいたハワードが足を止めたのは、
親族の一言でした。
「だから言わぬことじゃない」
ハワードは負けん気を起こして2作目「芝居の世の中」に15万ドルをつぎ
込みました。
マーシャル・ニーラン監督のこの作品は、評論家たちにも好評で、
興行的にも1作目の失敗の穴埋めをして更に10万ドルの利益をもたらしています。
これに味をしめたハワードは映画会社キャドー・コーポレーションを設立、
マイストーン監督と契約し「美人国二人行脚」「暴力団」という
コメディとギャング映画の二つでさらに成功を収めました。
「美人国二人行脚」のスタジオに夜な夜なハワードが現れ、勝手にフィルムを
編集していることを知ったマイストーン監督は激怒しますが、
ハワードに「まあ、一緒にドライブでもしましょう」と誘われ、
160キロもの猛スピードで走られ、恐怖のあまり「分かったからもう止めてくれ」。
「美人国二人行脚」はアカデミー賞に輝いています。
そして一番好きな飛行機をテーマにした作品づくりにルーサー・リード監督を
パナマウント映画より招き企画を進めましたが、
シナリオ検討段階で配役や演出方針で衝突し、
自らメガホンを取ることとなります。
映画「アビエイター」でレオナルド・ディカプリオの初登場場面となる
『地獄の天使 (1930)』の製作はこうして始まりました。
やっかいなことにハリウッドの名匠ホークス監督がこの時すでに
映画史上に輝く航空映画の不朽の名作「暁の偵察」の製作に取り掛かっており、
ある朝、ハワードはホークスの自宅に押しかけると…
以下はネタバレになるので、この続きはhttp://www.cam.hi-ho.ne.jp/la-mer/pro-aviator.htmlにて脚本レビューの頁をご覧下さい。
1924 年に19歳の若さで自身の帝国の基礎を築きます。
彼はもともとテキサスの裕福な家庭に生まれましたが、
両親の相次ぐ死により“お金持ちの孤児”になります。
ドラマの決まりごとのように彼の周りには遺産目当ての親族が群がりますが、
法廷で争い、ハワードは顧問弁護士に自身の権利を買い上げさせ、
父の会社ヒューズ・ツール・カンパニーが製造した石油掘削器の特許権継承に
成功します。
原作「ハワード・ヒューズ」は訳者によると、
“公式には映画「アビエイター」の原作とは呼べない“
ことになっているのだそうです。
原作本は、故人の財団と著作内容について激しく法廷で争い、
なんとか勝利を勝ち取って出版にこぎつけたといういわくつきのものです。
この裏の事情と、さらに映画そのものが多くの追加取材を経て脚色されたため、
そのような体裁となっているのでしょう。
ハワードは学校を7度も転校し、遺産争い後、すぐさま実業界に入ったため、
大学は一年の一学期を通っただけです。
映画の冒頭で、のちのトラウマを髣髴させる母親とのエピソードが出てきますが、
原作では父親との関係が描写の大半を占め、
母親のことはほとんど触れられていません。
映画に出てくるような神経症の兆候が幼年時代に伏線のある話である、
ということはもちろん、成長後、服を脱いで燃やしたりというあからさまな奇行
についてもほとんど出てきません。
それらは他のヒューズ伝説にお決まりのように登場する逸話ですが、
精神衰弱等の正規の医学的診断をくだされたという記録が無いので、
(故人の財団が証拠隠滅したのかもしれませんが)
伝記より排除されたものと推測できます。
(裏取引で、病気遍歴には触れないことになっていたのかも)
ヒューストンの故郷では、父親は「ビッグ・ハワード」、
息子であるハワード・ヒューズ本人は「リトル・ハワード」
あるいは「ジュニア」のニックネームで呼ばれていましたが、
ハワードは「リトル」「ジュニア」と呼ばれることが嫌いで、
家督を継いだあとは、自分をハワードと呼ぶよう周辺の人たちに繰り返し
要望していたようです。
レオナルド・ディカプリオの最初の登場場面でも、
「ジュニア」と声をかけられて「ハワードだ」と訂正するセリフがありますが、
これはそのような事情によるものです。
父親はテキサスの油田開発時代に岩盤を貫く強度のあるドリルの開発に成功しましたが、
掘削機のそのものの販売はせず、パテントをとって機器リースで巨万の富を得ました。
当時としてはとてもユニークなビジネスの展開方法でしたが、
すばやい資金調達と機器の製造とメンテナンスのための工場の整備、
それをリースする営業システムの同時開発に成功したのですね。
単なる技術屋でなく商才にもたけていました。
ハワードは父と対比されることを嫌がりましたが、
結果とてその経営センスを大いに学びヒューズ財団の帝王学のベースとなっています。
飛行機に興味を持ったのは14歳のころです。
父親にせがんで水上飛行機に乗る機会をもらったことが始まりです。
この時代、飛行機といえば複葉機でしたが、
父は、息子がバイクに乗りたいといえばバイクを与え、
飛行機に乗りたいと言えば乗せ、望むものは何でも与えました。
“実践的帝王学”自分で体験して初めて身に付くのだ、という哲学を
持っていた人です。
大変な遊び人で、ハワードは会社と一緒に法外な請求書の山を相続しています。
はじめて飛んだ彼はたちまち飛行機の魅力に取り付かれたようです。
ハワードはハム無線機の自作と飛行機に夢中になりました。
家督を継いだ直後、大叔母といとこたちとともに世界一周の旅に出ていますが、
どうやって老人を説き伏せたのか、イギリス海峡横断に、
飛行機旅行で出てかけています。
1925 年 6 月 1 日に、彼はヒューストン社交界の花エラ・ライスと結婚しています。
改革者でプレイボーイの彼がどうして旧家の娘と自ら望んで結婚したかのか、
不思議といえば不思議です。
世間にはやく自分が一人前であることを誇示したかったのかもしれませんが、
既婚者であるという事実を手に入れると彼はたちまち美しくも退屈な田舎者の妻への
関心を失い、好きな事業と新しいガールフレンド作りに励み、
1930 年には離婚しています。
映画では触れられていませんがハワードは3 度の結婚歴があります。
映画産業への興味は以前からあったが、実際にハリウッドへ進出したのは、
父が高くかっていた元映画スターのラルフ・グレイグスを何か支援してやってほしい、
という遺言から始まったことでした。
ハワードがラルフと会うと、彼は自分の暖めていた映画の構想を打ち明けます。
もらいっ子を育てる浮浪者のドラマは「スウェル・モーガン」といタイトルがついて
撮影が始まります。
ラルフが当初、「四万ドルもあれば」と言っていた制作費は、
倍の八万ドルに迫る勢いで膨れ上がりました。
完成した映画は内容的にも興行的にも失敗しました。
父の遺言を果たしヒューストンに帰るつもりでいたハワードが足を止めたのは、
親族の一言でした。
「だから言わぬことじゃない」
ハワードは負けん気を起こして2作目「芝居の世の中」に15万ドルをつぎ
込みました。
マーシャル・ニーラン監督のこの作品は、評論家たちにも好評で、
興行的にも1作目の失敗の穴埋めをして更に10万ドルの利益をもたらしています。
これに味をしめたハワードは映画会社キャドー・コーポレーションを設立、
マイストーン監督と契約し「美人国二人行脚」「暴力団」という
コメディとギャング映画の二つでさらに成功を収めました。
「美人国二人行脚」のスタジオに夜な夜なハワードが現れ、勝手にフィルムを
編集していることを知ったマイストーン監督は激怒しますが、
ハワードに「まあ、一緒にドライブでもしましょう」と誘われ、
160キロもの猛スピードで走られ、恐怖のあまり「分かったからもう止めてくれ」。
「美人国二人行脚」はアカデミー賞に輝いています。
そして一番好きな飛行機をテーマにした作品づくりにルーサー・リード監督を
パナマウント映画より招き企画を進めましたが、
シナリオ検討段階で配役や演出方針で衝突し、
自らメガホンを取ることとなります。
映画「アビエイター」でレオナルド・ディカプリオの初登場場面となる
『地獄の天使 (1930)』の製作はこうして始まりました。
やっかいなことにハリウッドの名匠ホークス監督がこの時すでに
映画史上に輝く航空映画の不朽の名作「暁の偵察」の製作に取り掛かっており、
ある朝、ハワードはホークスの自宅に押しかけると…
以下はネタバレになるので、この続きはhttp://www.cam.hi-ho.ne.jp/la-mer/pro-aviator.htmlにて脚本レビューの頁をご覧下さい。