ケロの与太

「全力で与太話」
読んだら忘れてください(” ̄▽ ̄)ゞ  

義母の特養入居手続きとリベンジ花見と愚痴と~( ̄ー ̄”)ゞ

2017年04月08日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)





         




         




        




         





         




        




        




        

     


特養への入居日は契約の一週間以内、来週の平日になってしまいました。
今月末には義母の要介護度が更新されてしまうので、
早ければ早いほうが良いのです。
ココ数年の要介護認定は非常にハードルが高く、現在の認定より一つ2つ下げられてしまう可能性は
十分にあるとのこと。
それはケアマネさんもびっくりするほど
厳しいらしいのです。


「こう言ってはなんですが、要介護2になってしまったら、入居審査の会議にもかけられなくなります。
その可能性も覚悟して下さい。」
と言われて、もう、半ば特養への入居は諦めていました。


数百番目だと言われていたのに一体どうして3ヶ月で順番が回ってきたのか、
聴かないほうが良いような気がして
聴いていないのだけれど
要介護3をもらっている内に入居できるように
暗躍してくれたとしか思えず。

「本当に良かったです!
ご入居を実現させるべく、頑張りましょう!」

と、キラキラした真っ直ぐな眼で喜んでくれたケアマネさんの意気込みに
もう、私は言われるがままについて行くのみ

車椅子の義母ごとタクシーに乗せて、
身の回りのものだけトランクに積み込んで転居していただくしか無い。
私が一人でやると
請け合ってしまいました。

契約のテーブルで電話をかけて
会社の夫にも休めるかどうか打診しましたが
「水曜?それは、無理やん?」
解ってるでしょ?と言いたげな笑い。
余裕がないのだ
と思うけれど
むかつきましたね。 
 ( ̄へ ̄)q

いやね、この機会だから言うんですけど
この私の尽くしっぷりを、
あの兄妹
ほんと理解ってないんすよ。

なんでもかんでも感謝されたい私としては
モヤモヤするのだけれど。

私は私のために。
在宅介護を選択肢に入れなかった自分のために
全力で義母の特養送り←コラ
成功させるのです。




今年の桜は義母絡み。



去年の桜の頃はまだ
義母は大阪で一人暮らしをしていました。

どうしようもなく、
電話の会話がおかしくなってきたのを感じて。
(ねえ、お義母さん、認知症じゃない??)
と言っていいのかどうか
ためらって

夫や義妹が見て見ぬふりをするのをいいことに
私は動かなかったのでした。

今思っても
どこから口を出せばよかったか。

一つ確信を持って言える事は
義父が亡くなった時点で直ぐに、
義母をこちらに呼び寄せ、
一人暮らしをさせずに同居を始めれば良かった
と言う事。
それさえしていれば、
義母には違う未来が有ったに違いない。


それはそれで
私は
今よりもっと苦しんでたはず。 
( ̄ー ̄”)←鬼



なんだかんだ言っても
お世話出来るうちは
楽しんで
有り難くやろうと思うのです。




義母を見て
我が身を思う度
底のない井戸を覗くような
恐ろしい気持ちになります。




今日はそんな話
                       









.




鳥の名は〜 夕焼け小焼けで帰る塒( ̄ー ̄)ゝ

2017年04月04日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)



木枝にとまるこの子達

尾が長くて
木立をすり抜けて飛ぶ姿など
どこかのお伽噺の鳥のよう。
二羽で連なって飛んでいるところなどはもっと素敵
長い尾が優雅に軌道を描く、
神様の関係者(鳥)みたいで
私はこの鳥を見ると

「あ、極楽鳥(身近版)」
と呼んでます。

今更
名前に意味はないのかもしれないけれど


本当の君の名は?




空きが出たと連絡をくれた特別養護老人ホームは
昔家族で出かけた公園の近くで
鳥の声がたくさん聴こえる空気の美味しいところ。  
ここならきっと車椅子でも外に連れ出して上げられる
そんな事を思って申請書類を出したところ。


転出手続きの書類を
いまお世話になってる有料老人ホームに取りに行くと


義母は今まで絶対にやろうとしなかった自力での車椅子の運転をしていました
部屋に行かないと会えなかったのに
ロビーで後ろから声をかけられてびっくり
今週から探検を始めだしたのだそう。
場所に慣れてきて、
活動的になってきたのかもしれないとのこと。
うーん
とても元気になった🌸



その書類を持って特養へゆく
二週間後を目処に入ってもらいたいと言われて

願ってもない展開のはずだったのに
ここへ来て怖気づく


半年前のやり直しになる
また、
義母の脳内ラビリンスを
情報と記憶の
大洪水にしてしまう。







電線に並んだ小鳥たち
集合整列して
ねぐらに帰るのかなあ




おばあちゃんには
もう
帰る家がない


作ってあげられたのは
たぶん私だけだった



やりたくない事は
やらない


私は策士なのだから
今日も策に奔走あるのみ











( ̄ー ̄")






ココから特別養護老人ホーム入居まで ~この私がOk google!( ̄∇ ̄:)ゝ

2017年02月01日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)

神奈川では私の故郷より20分早く夜が始まります。
それでも、四時半で夕闇5時で真っ暗
そんな冬ではもうないのですね。 




さて、
新年早々の帰省の新幹線の中ではグーグルマップで遊んでいた私ですが
あの、テレビコマーシャルで初めて「オッケーグーグル!」を連呼する若者を見たときには、
ドン引きしたものでした。
「オッケー・グーグル!ココから江ノ島まで!」
「オッケー・グーグル!美味しいかき氷が食べられるトコロ」
地球防衛軍の隊員よろしく、手馴れた様子でスマホに向かってオーダーする若者達。
それに答える機械音声。

「いやいやいやいや・・
オッケーグーグル!て・・・」

50のおばちゃんが言うのもなんですが、
それ、ダサくね?
私はその時、「こんな恥ずかしいこと絶対やらない」と即決。
これはいくらなんでも、日本人の文化には合わない。全くの他人事として眺めるつもりでした。
それが今ではどうでしょう。
先月も何度連呼したか分かりません。

「オッケーグーグル!ココから夢見の郷まで、徒歩で」
「オッケーグーグル!ココからやすらぎ園まで」

私の呪文を聞き届け、
地図は開かれ、目的地を探し出し、
またたく間にルートは表示されるのです。
青い私の魂から(←現在地)ルートが地図上をにゅーんと延びてゆく様は、
本当に私が魔法使いになったよう。

こうなるともう
怖いものは



電 池 残 量 だけ  ←これは怖い!( ̄一 ̄::)

ところでこの呪文
オッケーグーグル
と正しく言わないと駄目なんですよ?

「ペにょペにょグーグル!」
とか
「おいおいグーグル!」
では、決して通じないんです。
さすが約束の呪文!
↑検証済み( ̄ー ̄)b



さて?
有料老人ホームに入っていただいた義母の月々の支払いは義母の年金を大きく超過。
いくばくかのたくわえから補填して何とかしのいで入るけれど、このままでは
「お義母さん、いつまでも長生きしてね」と声をかける微笑みも引きつる
死活問題必至。
なので
去年10月に新たに頂いた妖怪誤算・・・・
要介護3の認定が変わらないうちに、
その費用が半減する特別養護老人ホームの入居を目指して次なる活動に出ています。

特養の諸々は自治体によって違うけれど、
日本全国どこの特養に入居申し込みすることも可能は可能。
トコロによっては待たずして入れる穴場もあって、
友人の友人は私の義母とほぼ同じ条件、同じタイミングで施設入居を余儀なくされたけれど
縁あった一つ向こうの県の特養にいきなり入れちゃったのだとか。
年金余っちゃって、貯金も出来るとのこと。
なんたるこの格差!

まあ、それは望むべくもないレアケースとして、私は私なりに粛々とアプローチをするしか有りません。
うちの居住エリアはどうも、
ホームページから申込書をダウンロードし、介護保険証のコピーを添付して施設に直接郵送
施設は申し込み書に記載された入居者の条件を点数化し、多い人から入居させてゆく。
ざっくりそんなシステム。
横浜市は市を通して5件までしか申し込みは出来ないけれど、うちはダイレクトに際限なく申し込みは可能。
数打ちゃ当たるでバンバン申し込みを郵送しちゃって、順番が来たところに飛び込むのも手
かもしれないけれど
行った事も見たこともないところへ書類だけ送るのは、真っ暗で底の見えない穴に石ころを落とすようなもので。
数百人が待機しているという伝説の施設、本当に受け付けてもらえているのか
それでは余りにも不安。
なので、
歩いてでも(私が)通える範囲からピックアップし、
アポイントを入れ、見学方々、現状訴求方々、申し込み書を直接お渡しして入居をお願いするロビー活動(??)をはじめたのです。

実際に足を運んでみれば、
地図上ではそうは見えないけれど、通うには余りにしんどい場所にあることを実感して、建物の前までたどり着きながら見学のキャンセルを入れたり
地図上ではとても良い立地で、市のさきがけ的存在だった施設に高まる期待を胸に出かけたものの
20数年前に設計されたそれはまるで病院のようで、
職員さんは良くも悪くもベテランで、
充満する諦めと疲弊の空気

「要介護4になっていただかないと、おそらく4.5年は無理とお考え下さい」
申し訳なさそうな職員さんに
「頑張ります!」
ともいえず
しおしおと帰ってきたこともあったりで
底の見えない穴に石を落とすような感じは変わらなかったり。
地域やタイミングによって事情は全く違うようでも
私がまわった数件の特養は、少なくて300人待ち、一番多かったのが740人待ち


待ってる間に死んじゃう・・

( ̄一 ̄::)

遠い目をする私に
「一人で何箇所も申し込みが出来るので、この数字が全てではないんですよ」と言ってくれるケアマネさんもいて。
中には順番がまわってきたのに「あ~・・、今はまだいいっす!」って断る人もいる。
条件的には要介護5や4の入所が優先されるべきだけれど、
重い人達ばかり入所させたら施設が回らなくなるので、バランスをとる上で3の人を先に入れることもある。
「困ってる実情を私達にダイレクトに訴えてくだされば、こちらの裁量で動かせる部分もある・・」
そんなことを匂わせてくれるケアマネさんもいる。

もちろん数百人の後ろに並ぶことには間違いはないし、裁量ッたって限度はあるだろうけれども
長期待機を余儀なくされる中でこまめに
「いつになりそうでしょうか・・」と困窮をにおわせながら聞くのも裏技となる予感。


いずれにせよ少なくとも、
入居申込書は
漫画家志望の漫画原稿のように
持込みで担当者と話すほうが絶対良い。


はず!


そんな手ごたえを感じている今日この頃。


まだ、
入れたわけじゃないから分かりません。


いつになることやら・・。


私個人の印象を言えば
老人の施設も子供の療育センターも、
あまり便利なところにはなく
高速道路をくぐって
産業廃棄物処理場をすり抜けて
荒廃した工場跡地を越え



そんな重い現場のハシゴの途中にも、スタバの読書タイムを組み込んだり出来るのも
あの呪文のおかげ。


寒空の下


「オッケー・グーグル!
ココから近いスタバ!」


義母とOk google

私の50代の初めの記憶のファイルに、セットで格納される勢いです。








今日はそんな話でした
                     ( ̄∇ ̄)ノシ

















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義母を介護付き有料老人ホームに入れたことに罪悪感が持てない話(丿 ̄▽ ̄:)丿┻━┻

2016年11月29日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)





    



    



   



   




は言っても、
お金あっての介護付き有料老人ホーム。
義母が10年以上長生きしたら、義母の資金は尽きてしまう計算なので、
その先を思うと、薄氷を踏む思いではあります。


八時間のドライブの果てに、ようやく家にたどり着き
痛い、怖い、嫌だと叫ぶ義母を、力づくで車椅子に乗せて旦那と二人
車椅子ごと義母を担いで玄関の中に入れたのですが
我が家のすべての部屋のドアの幅は、車椅子より狭かった!

私は8時間放置した排泄のケアをしたかったので、何を置いてもまずは寝床に行って欲しかったのですが
義母は自分でトイレに行くと言って聴かない。
「たやすいことや、いけるからほっといて?」
いやいや、病院では70日間ずっと排泄介助を受けていたんだし
第一立つことが出来ない。
ほっとくと言ったって
玄関ホールに車椅子ごと放置はできない。


仕方がないので、気が済むまで待たせてもらうのですが
義母が言うのです
「なあ、
なんで私、
立てへんの?」

夫は半徹で東京大阪を車で往復して、倒れる寸前。
なんとしても寝床まで行ってもらって、下着を替えて、もう明日に備えて寝たい!


二時間の膠着状態を経た0時前。
これ以上義母の言うことを聞いても意味が無いと悟った私たちは
「構わんといて!触らんといて!何すんの!怖い!痛い!」と言い張る義母を、
無理やり担ぎあげて、布団に転がしました。
さあ、じゃあ、
オムツを・・!
と取り掛かろうとしたけれど、

義母は自分の言葉を蔑ろにされた事で、ご機嫌は最悪。
「もう、やめてんか!何がしたいの!ほっといて!」
と叫ぶ義母から、
下着を無理やり剥がすことは出来ず。
寝具も洋服も
高分子吸収体の限界を超えた排泄物に塗れると解っていながらの撤退。

大人の排泄物の混ざった物が酸化する臭いが、コレほどのモノとは思いませんでした。
義母が使った寝具は何度も洗濯をして、ファブリーズで濡れそぼるまでスプレーし、
天日に晒してみましたが
完全に取り切ることは出来ず。


一つの事に数時間が潰える
目が離せない、話も通じない、留守に出来ない。
ふたりきりで家に引きこもる生活
そんな日常が続いたら

気が狂う。
最初の晩で悟ってしまいました。



介護の姉御は言ってました。
歩けない人でも
認知症になると、走れたりすることがあるのだと。



怖すぎる。




という訳で
老人ホームに義母の全てを丸投げしたことは
スミマセン勘弁して下さいと土下座しても

お願いできて良かった・・


という感想しか無いのです。




郁恵センパイの言うとおり
「親の面倒を自分で見る子供の使命」なんて
絵に描いた餅っすョ。




今日はそんな話で。






                          (ノ`Д´)ノ彡┻━┻


















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認知症の義母は決してボケてはいない・・( ̄ー ̄”)

2016年11月23日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
   




       








      








      








      




退院の日、病室まで来てくれてお餞別をくれた社長ご夫妻
高速に乗る前、最後に立ち寄った実家の玄関先で会ったご近所さんが
涙をにじませて別れを惜しんでくれたんだと伝えると
義母はとてもうれしそうでしたが
どんなに説明しても、誰の事なのかは思い出せないようでした。

それはもう仕方がない
義母と別れることを惜しんでくれた人がいたということは
私が記憶して
その都度義母に伝えてゆく事になるのです。



らく、認知症はとても苦しい病だと思います。
かつて「痴呆症」などと呼ばれていたので、
ただのんびりお年寄りがボケてゆくようなイメージがありましたが
まだらに、記憶が曖昧になってゆく自分を生きるのは、
底なしの沼に飲み込まれるような恐怖との戦いなのではないかと、義母を見ていて思います。
義母は調子のいい時に、何度も私に言います。
「私の頭、狂ってるんや。おかしな事言うても相手にせんでええから。」

                        
                      


大阪からこっちまでの長い長いドライブの間も、びっくりするほどおとなしく乗っていてくれた義母ですが
名古屋を超えた辺りで日が落ちて、碧い碧い黄昏れが車内を満たした頃、
義母は不安な子供のか細い声で

「あのな、すごく困ってるねん」

と一度だけ言いました。


「助けて欲しいねん。」


え?吐きたい?
オムツ気持ち悪い? Σ( ̄□ ̄:)


夫と二人で騒然となって
ビニール袋を広げオムツを取り出そうとしていたら


「私な、
帰り道がな。
・・・わからんようになってしもた。」

「私は、どこに帰ればええんやろ。」


義母の左目から出た涙が頬をべったり這っていました。
それは悲しみで出る涙というよりは、ドライアイの影響で滲んだもののようで
その判別つき難い感じをいい事に、
私は見なかったことにしたくなりました。
そう、
黙って車に乗りながら
ずっとそのことを考えていたのかと思うと。

でも、夫は違っていました。
「あ~なんや!
そんなん、全然心配せんでええ!俺らがついてるやろ?
心配せんでええねん。
なんの心配も要らんトコロに行くんやから。
これからはすぐに会えるトコロで暮らすんやから!」

夫はすっかり割り切っているのか
その最善を心から信じているのか
朗らかに、高らかに言って聴かせます。


「そうか・・」



だけど、そこは決して「帰るトコロ」なんてものではない。
私は
翳りゆく車内で影絵のようになってゆく
背中を丸めた義母の姿を見て
おさなごを騙して施設に連れてゆく、悪い大人のような気分になりました。




そして、こんな風に言葉を尽くして説明されても、全て記憶されずにこぼしてしまう。
目の前にいる人は誰なのか、これから何が起こるのか
自分はどこにいるのか、何故ここにいるのか
今はいつなのか
さっきとはいつなのか
これからってなんなのか
何一つ解らないし何一つ納得してない。

それでも、トイレにさえ歩いてゆけない体では
もはや拒む自由も選択の自由もない

ならばと
自分の持っている情報と、この世界をつなげて考えようとすれば
とてつもなく遠い記憶の扉がバンバン開いて、
あふれだす良い思い出
悪い思い出
溺れるように翻弄されて、脳は常にフル回転


義母は認知症でも
頭の中は決して呆けていたりしないのです。





それでもですよ?


「もう疲れた・・一歩も歩かれへん」
と、言われた時は



お母さん!
車椅子乗ってますやんか!」ゞ( ̄ー ̄;)



関西人二人して
両側から
ソッコーツッコんででしまいましたが・・・










今日はそんな話でした。
                     ~( ̄ー ̄)ノシ
































.

上京義母ストーリー ~何から伝えればいいのか ( ̄▽ ̄:)

2016年11月21日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)
        

て、そんなわけで( ̄▽ ̄:?)
早朝の新幹線で
崎陽軒の「秋」のお弁当を堪能し、







前夜仕事上がりからの半徹で東名~名神を車移動してきた夫と落ち合い
丸亀製麺で朝の英気を養って
夫は義母の退院手続きに向かいました。

私は義母の待つ病室へ、一月ぶりに会った義母は着替えも済ませてもらって、満面の笑み。
「こんにちは」と挨拶をしてくれたけれども、私がどういう関係者であるかは全く解らないよう。
「あ~、誰やわからないけど・・こんにちはぁ~」
という辺り、
らしさは失わないんだなと思いました。

病室には退院の時刻に合わせて、亡き義父の友人だと言うご社長ご夫婦が餞別を携えてきてくださっていて
初対面のその方に、私が平身低頭深く深く、ひたすら恐縮と謝意を伝えているその傍らで
義母は可笑しそうに目を丸くして
(「どういうつもりや、そんなもん急にくれても困るわな!聞いてないのにな!」)
と客人に背を向けたまま小声で囁くと、
ぺろっと舌を出してます。

「6回来ましたが、とうとう思い出しては貰えませんでした(笑)。
大変でしょうが奥さん、どうか良くしてあげてください、お元気で。」

古い大樹を思わせる、気品ある礼儀正しい老紳士の深い眼差しの奥に
真摯な願いが読み取れました。
義父が亡くなり、義母の記憶も再生されない今となっては
そのご夫婦と義両親の関係がどのようなものであったか、ワタシには知る由もないのですが
この日、50余年を暮らした大阪を離れてゆく義母にとって、それが長い交際の果ての、今生の別れであったことは間違いなく。

義母に再会して3分
私は認知症の持つ切ない片鱗を見た気がしたのす。
もちろんコレがその「片鱗」でしか無い事を後々にたっぷり思い知るのですが。



荷物を持って一緒に駐車場まで降りては来てくれたけれど
さらっと帰ってしまった看護師さんを見送って、車椅子の義母を車に乗せようとして四苦八苦していたら
デイの送迎から帰ってきた若いヘルパーさんらしき女性が
「義母さん、今から帰りはるんですね~?!」と駆け寄ってきてくれて
柔道の組手のようにうまく体を使って、
義母を車に乗せてくれました。

痛い嫌だ痛いやめて!どうしてこんなんに乗らんととアカンの!と叫び続け、すっかりゴキゲンが悪くなってしまった義母と
(降りるときはどうするんだろう・・)と呆然とする私達に
ヘルパーさんは寂しそうに笑って
「お元気で」と言ってくれました。

そう、
90日ルールに則り、後のない私たちは病院を後に前進あるのみ。
名神~東名をひたすら走り続けること7時間

からの~

施設体験入所までの我が家での一泊二日
娘のおむつを外して18年


からの~
初めてのオムツ替え



それらは確かすべて
11月5日のこと。


このことは
ブログに書いておこう
このことも
このことも
このことも
このことも

様々な出来事があるたびにそんなことを想いながら
とうとう書けずにおりました。


そんな葛藤の果てにふと思ったことは

「小田和正氏は稀有なシンガーであるとともに、やっぱり凄いソングライターなんだなあ・・」

と言う事だったりするのです。
              

何から伝えればいいのか  わからないまま時は流れて
浮かんでは♪ 消えてゆく♪  ありふれた言葉だ けぇ♪



「浮かんでは消えてゆくありふれた言葉だけ。」


そう
まさに。


こんなにすごくて大変で、由々しきことの連続なのに
それらはとっくに一通り
語り尽くされている。
だから私の感嘆は、どれもありふれていて間が抜けていて
笑えてしまう。


義母といたのは48時間位なのに
すぐに分かりました


認知症の義母と暮らして介護するなんて
私には

無理だわ・・・orz




            



そして

介護されるのは
おそらくもっと大変。











今日はそんな話でした。



























.

























遠距離介護記念日 同居してない旦那の親は所詮他人であるけれど( ̄∇ ̄)

2016年08月23日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)




8月
新横浜アゲインですよ
( ̄∇ ̄)




焼売弁当最強!
この間のは焼売弁当の亜種だったのが良くなかったのですね
やっぱりこれでなくちゃ!
私はこの
フタの経木の香りを
いつまでも嗅いでいたいです。



さて、
今日は特別な日に
になるはずでした。

東日本大震災の復興、
いつかは参加したいと思って応募していた海岸林再生プロジェクトの
お手伝いをしている自分に陶酔出来るはずの。

この夏唯一
私が自分の意志で選んで
私が決めたメインイベントに
出かけるはずの。

準備もぽちぽちと
雨上がりの炎天下作業になりそうなので 
ワークマンに何度も足を運んで
それなりの装備も揃え
へたれないように、真昼のウォーキングで紫外線に体を慣らし
被災や危機管理の本なんかも読んじゃったりして
いよいよ
前日
装備のツメも終わった
夕方四時半ころ


滅多に連絡をよこさない
旦那からの入電


「入院したらしいから、
以後そのつもりでお願いします」

えっとー
私明日朝五時から
行きますけど?


あ、そうなんかあ。
仕方ないな
どこに行くの?


いやいや、
言うときましたやんか
( ̄∇ ̄)


昔から
旦那は私に何かをしろ
とか
それはやめろとか
言わないのです。

こういう事になったから
そのつもりでね

と言って
私の人間性に任せるんですよね

ヘルパーさんによると
熱が出たので
一人暮らしでは
熱中症が怖いので入院とのこと

義妹が急遽
生徒さんの昨日のレッスン全部断って
入院手続きをしてくれていました
これは大変なことです。

ここは明日からの休みを取っていた
私の出番ですね。
orz




結婚してこの方
子育てなんかまともにしてへんで!
なんも知らんから手伝えませーん
が口癖だった

義母と私の関係は
仕切り体質の義父が無くなるまで
本当に希薄で
気持ちよその人です。
二人目を作る事以外のオーダーは一切無く
ここまでやりたい放題
助かりました





我慢強いところとか
旦那にそっくりでね。
他人ではないのですね。
もっとも
旦那との関係もそこそこ
希薄ですけどね。

ま、
そんなわけで
楽しみますよ!

入院したことないし!
色々医療の現状
勉強させてもらいます
( ̄∇ ̄)




手始めに
東京ばな奈を
初めて味見してやりました!



中身
白あんちゃうんや~


これにはびっくり






着きました。 






遠距離介護記念日
五十ロードの幕開け





( ̄∇ ̄)ノシ 
  
 











ジェンガな五十路~働けなくなるまでの10年をどう過ごすか( ̄ー ̄)

2016年08月10日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)







二日目の夜に泊まった京橋のホテルから
大阪城は見えませんでしたが、
遠く淀川の花火大会の様子が見えました。



この帰省では、
大学の同窓会ランチの他にもう一人
義母の家の最寄り駅近くに住む会社の同期ともお茶をしました。
今回再会した旧友はみな同じ年で
語り合う近況から見える展望や
考えもほぼ
同じ。

そう、
物理的な子育てが終わり
これから「働けなくなるまでの10年」をどう過ごすかと言うこと。


男女雇用機会均等法の施行されて間もない頃に就職した世代でしたが
類は友を呼ぶのか
私の友人にはバリバリのキャリアウーマンは一人もおらず
偉大なる農家の嫁
個人教室の経営者
サービス業のパート
結婚前の仕事のスキルを活かした派遣社員など
30代の終わりから始めた非正規の仕事の展望について
それぞれ不安と不満と希望の狭間で日々考え暮らしているようでした。


使えない正規社員の多さ、
そのフォローの切なさ
いちいち抗わないと上がらない時給
スキルは正社員に勝ると認めて貰えても、
あくまでもお手伝い扱い
保証されない身分

The
非正規あるある。

私と一人の友人は
この夏の契約更新でさらなる賃金交渉をしていました。
私は微々たる額の時給のupという可愛いものですが
友人は所属する部署の作業効率を独自のプログラミングで著しく上げた見返りとして
正規雇用を要求しているのだそうです。
これは成功したら凄い!
非正規の星として頑張って欲しい。
ただ、プログラムが会社に渡ってしまっているのなら、
ゴネることで
体よく契約を切られたりしないといいけれど・・。


「その仕事だって、誰か一人がどうにかなったら、どうなるかわからないんよね・・」

夫の親・自分の親・支えあうはずの兄弟
皆がそれそれに年を取り、
プチ病もあり
今元気でいることで平穏は保たれているけれど
何がどうなっても不思議ではない世代
誰かの異変で
自分の生活も一変する


って
なんかジェンガみたいやん!


妄想するだけ妄想して
まだ他人事のように笑い合えた私達を
いつかまた
振り返る時が来るのでしょう。




さて、私の義母の件
実は半年くらい前に一度
斜向かいに住む姉御肌の介護職のエキスパートに
ざっくりと相談したことがあります。
男前の彼女は
夜勤明けの散歩中、愛犬のリードを手にふんふんと私の話を聞きながら
ニヤリと私を見つめると
あっさりと言い放ったのです


うん。
それもう(認知症)始まってるね。
でもさ、麦さんみたいな長年の遠距離別居の嫁が
今になって慌てて親身に何かしようとしたって無理よ。
認知かどうかだけ知りたいって
引きずって医療につなげたとしても、
わかってた状況がわかるだけで、たぶん特に何も良くならないわよ。
で、騙したり、無理に連れて行ったって憎まれるんでしょ
認知が進んだら、麦さんへの感情はその憎しみだけになって何かと面倒よ?
本当に不思議と
恨みと憎しみしか残らないのよ。

もうね、八十過ぎてるなら
そのうち転倒して骨折するとか、内臓が弱るとか、なにかしら
どうしても医者に診てもらわなきゃならない時が近々来るって。
その時まで、一人で楽しく好きなように暮らしてもらえばいいわ。
で、そのままプロに預けちゃいなさいよ。
そのためにも、引き取ったりしちゃ駄目よ。
独居老人であることが優先順位になるんだから。



割り切ったプロの発想に心底驚きつつ
彼女に私の黒い腹の中まで
全てを見透かされて


五十路は夜だ黄昏だと騒ぎながら
へえ・・ 
一人でほったらかしておいて
それで本当に優先されて順位が来るのなら
そんな虫のいい事が本当にあるのなら
それはそれで
凄く良いな・・




そんな事を考えている
本当の鬼嫁がココにいます。


全てはきっと
お金があれば
の話なのでしょうけれど





今日はそんな話です。













                     ~( ̄ー ̄)ゞ
















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帰省中 その3~半世紀生きたその先の夜

2016年08月07日 | ゆめゆめ笑うなゆく道だ(義母と施設と)




夕方五時、茶屋町近くカラオケ二次会が終わり
ミナミからキタへと大阪見物していた娘と合流し、
大混雑の新大阪駅土産売り場で大量の買い物を済ませ
新幹線に無事乗れました



娘の待つ新大阪へと急ぎながら
「大阪にはいつまでいるの?」
「お盆嫁ミッション頑張ってね」と、隣りを歩く友人にエールを送って
泉の広場からJR大阪駅へ
夏のレジャーに繰り出す人々に押し流されるようにやってくると
その流れのまま「また来年ね」と手を振ってそれぞれの改札口へ別れていった旧友との四時間は
文字通りのあっという間

久しぶりの再会の勢いから盛り上がった会食
そのままのテンションでのカラオケ
慌ただしいお別れを経て

帰りの新幹線はたいていいつもそうなのですが
人心地ついた座席から見える
電光掲示板、
東京の天気予報が無音で予告するリアルの日常
窓越しに光る羽雲が短い夢の残像のように
なんとも感傷的に映ります。



そして去年の誕生日
五十代は夜の始まりだと書いたことを思い出し
それはやはり
間違いがないのだろうと
確信したりもするのです。


帰省二日目はオリンピック開会式を横目に観ながら実家を出て
夫の実家へ向かいました。
 
昨今
親と離れて暮らす夫婦はそれぞれが
それぞれ自分の親を見る
そんなケースも珍しくないようですが、

忘れもしない、
義父の葬儀の挨拶は、
私の婚姻の覚悟の不足が如実に現れたものになりました。

葬儀に慣れてなかったこと
親と同居していなかったこと、
宣告はされていたけれど、元気だったお父さんがあっという間に死んでしまった事実に
混乱していた事も有っただろうとは思いますが

夫は、義父の遺骨を義妹に持たせ、義母の後ろに二人で並んで
「残された家族三人頑張ります」と
葬儀の挨拶を締めくくってしまいました。

義妹の嫁ぎ先の家族は、
嫁の鏡、今や一家のリーダーとなっている義妹に、
「違う!違う!お前はうちの嫁やろが!」
と必死でサインを送っているし
声をかけられなかった私は
突然始まった挨拶をあらあらあらと眺めていました。

普段は夫が赴任先から義母の様子を見に行きます。
義母は近くに住む義妹を当てにしたくて
頻繁に電話をかけていたようでしたが
人気の教室を経営する義妹には相手がしきれず、寂しい思いをしたようで。

そう、誰も
嫁の私に
何かをして欲しいとは言わない。

お母さんお元気だった?
と聞くと
夫は元気だったよと言い
3ヶ月に一度位様子を見てくれる義妹からも
「元気そうでしたー!」
とメールがきます。


この兄妹は呑気すぎないか?


私は思うのです。
見たくないものを
見て見ぬ振りをしているのではないか


普通にしてたら病気は治る
がモットーの、薬箱の無いワイルドな家だっただけに
生きているからそれで良いとしているのかもしれない。
何よりも
義母がワタシになにも望まない

いや、
実は
私が嫌がるに違いないから
誰も私には出来ると思わないから
話が進まないのかもしれない。




改札口の向こうに
亡くなった義父の姿が見えるような気がしました
孫に会いたい一心で
いつも最寄り駅で一時間位前から待っていたと言う
マメな義父はもういないので

私は乗り慣れないバスを乗り間違え
炎天下タクシーが捕まる場所まで引き返して
駅から二十分もあれば着くはずの家に
一時間かけて行く羽目になりました。

社交的な義父とは正反対の義母はとにかく人が嫌いで
友人はいると言うのですが、私は会ったことがありません
家に引きこもり
私が嫁いだ時にはすでに
膝が痛くて外出はしたくないと言っていたその足が
実際どれほど萎えているか
知るべくもないほど座ったまま動かない

チャイムをならし
勝手に門扉をあけて
戸口まで行ったものの
気配はするのに、ドアが開くまで
10分以上かかりました

「鍵、あいてませんか?」
ドアの向こうで義母は繰り返します
閉まっているのが見えるので
「開いていないんです、お母さん」
「おかしいな、あいてるはずやで」

壊れない程度に扉をガタガタさせてみて
「開いてないみたいですね、
お母さん」

眉に溜まった汗を拭きながら
このやりとりは四回位したでしょうか


ようやく玄関が開いたとき
「なんか用ですか?うちに来てもなにも出来ませんよ」
と玄関のドアノブを離さず立ちはだかる義母の姿を見て

鍛えればこの足はまだ
もっと動くのだろうか

三年ぶりに会う孫娘の事は
思い出せないから見ないのだろうか

朝の電話のことは
やっぱり覚えてないんだな

「(夫)さんから言づかった用もあるので、中に入れてもらえますか?」

「あ、そうですか、ではどうぞ。」

とお願いして
ようやく中に入れました

義母は私達がくつを脱いでいる間に
短い廊下の突き当りの台所の隣の部屋の定位置に収まり
私達が部屋にはいると
「ご用は何ですか?」と私達を見上げます。

ワタシは持ってきた義父のお供えを持って
娘を連れて仏壇にお参りをし、
義母へのお菓子を取り出すと
「ああ、そのへん置いといて」といつものように指示があるので、
使っていないストーブの上に置く事になりました。

「外は暑いでしょう~」
「そうです!大阪はもうむちゃくちゃですね。」と返しつつ
娘には用意してきたペットボトルの飲料を飲むように言って
自分の分の飲料を忘れたことを思いつつ
義母のそばの板の間に腰を下ろしました。


「お元気ですか?」
「はい!このとおり、何も変わってませ~ん!」


何回聞いたか思い出せない苦労話を聞いて
最近の話をふるとたちまち機嫌が悪くなることを
何度も確認し
携帯で夫に指示を仰ぎながら、
義母のお金の入った缶に壱万円札を補充すると
奇妙な会合は終わりました

義母は最後まで、
一度も娘に注意を払うこと無く、話しかけることもありませんでした。
「お母さん、ご無沙汰しています。ユキです」
とちゃんと名前を添えて紹介すれば違っていたかなと
後になって思うくらいで。


義母が口を閉ざす話
「まあ、適当にやってますので心配いりません。」といって言葉を濁すことは
言いたくないのではなくて
何を言われているのか理解が出来ていないのでは

私が夫に言って良いだろうか。



帰りの新幹線の中で
娘に聞いてみました

兄ちゃんに出て行ってもらって
おばあちゃんに住んでもらうしか無いと思うんだけど。

おばあちゃん
私は一人で元気にやってるって
楽しそうだったじゃん


(あんなエキセントリックな時間が?)


あの、
動物なんていないのに
動物がいるかのような匂いは?



ケアマネさんとの話はどうなっているのだろう?
介護保険に幾ばくかプラスして毎日来てもらっているというヘルパーさんは
どう思っているのだろう?

夫はこの先
どうするつもりなのだろう?

遠いところで 
独りで住み続けてくれるならそれは
願ってもないことだけど
二進も三進も行かなくなってから
お鉢が回ってくるなら


どこまでも
自分都合の発想で


この先の闇を前に
子育てが終わった
今の有り余る時間はきっと


やっぱり
黄昏なのだと思うのです