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下関の史跡5!

2011-08-05 | サイト

■サイト更新 史跡 全般 【下関5:桜山神社・了円寺・厳島神社】

先日書きました高杉晋作関係の史跡です。
時代順に並べると 了円寺→桜山神社→厳島神社 となるのですが、歩く時の便宜を考えてこの順番にしています。

元治元(1864)年12月15日、高杉晋作は伊藤博文(当時俊輔)、石川小五郎といった人々を引きつれて功山寺で決起します。
その後野久留米街道を通って下関の萩藩新地会所を襲撃する。
この、長府から下関へと向かう野久留米街道に、広瀬武夫の石碑があるのは3月に史跡ページで紹介しました。
亡くなった友人がこちらに住んでいたんですね。
それで広瀬も長府を訪れた事がある。
 
この新地会所というのは萩藩の出先機関でして、高杉はこの一挙で藩政府に反旗を翻した事になります。
つまり当時藩を牛耳っていた俗論派に喧嘩を売った。
その後落ち着いた先が新地会所の近くにある了円寺になります。
 


計画的な行動ではなかったため、その後の準備がなかったんですね。
とりあえず新地の会所を襲えばお金も食糧もあるだろうという事だったらしいですが、そうは上手く行きませんで。笑。
ここで活躍したのが伊藤博文になります。流石周旋家(by吉田松陰)。笑
奇兵隊を初めとする諸隊が及び腰であったのは、こういう点も大きかったんでしょうね。
今何の計画もなく暴発して、その後はどうするの?という。しかも一方で奇兵隊総管赤禰武人が解決策を求めて走り回っている訳ですし。

桜山神社は、個人的には桜山招魂社という方が馴染みがあります。
日本で1番初めの招魂社で、靖国神社のモデルになったものだそうで。
靖国神社も創建当時は「東京招魂社」と呼ばれており、「靖国神社」となったのは明治12年の事になります。
こちらは高杉晋作やそのパトロン白石正一郎らが中心となって建立したものになります。
社殿が落成したのが、慶応元(1865)年8月6日。
旧暦の明日ですね。
 
高杉は慶応2年の四境戦争(第2次長州征伐)の最中に労咳(肺結核)で倒れます。
病気が病気だけに、晩秋、愛人のおうのちゃんを連れて東行庵と名付けた小屋に移るのですが、それがこの桜山招魂社の近くでした。
先生であった吉田松陰も久坂玄瑞や入江九一、吉田稔麿といったライバルや友人もみんなここに招魂されている。
色々な想いがあったのだろうと思います。
  
厳島神社には上記の四境戦争に関するものが。
四境戦争というのは、第2次長州征伐の、長州側から見た呼び方になります。
4つの国境で起きた戦争であるから四境戦争。長州征伐は幕府方から見た呼び方ですな。
この4つの境の内、高杉が指揮官として出陣したのは小倉口。
いわゆる小倉戦争になります。
 
また幕府方の大将は老中小笠原長行(ながみち)。
広瀬武夫の親友、小笠原長生(ながなり)の父親になります。
小笠原は日清・日露戦争の海戦史を纏めた人物、また晩年は「東郷の副官」なんて残念な呼ばれ方をしていた人物でもあります。
時代が時代なら東郷平八郎や広瀬武夫なんて口を聞く事も出来なかった出自ですな…
 
私、ずっと小倉藩主だと思っていたんですが、違うんですね。知らんかった…
小笠原長生の事を書いた時に藩主の息子と書いてるかも。
サイトの方は追々確認していきますが、もしそういう記述をしていたらここで訂正させて下さい。
 
小笠原長行は藩主でもないのに老中にまでなった珍しい人だったそうです。
まあ、随分出来る人だったそうですが、この小倉戦争での行動を見てると私は好きにはなれないなあ…
徳川慶喜といい小笠原といい戦ってる家臣や部下を何だと思ってるんだ(※味方にも知らせず敵前逃亡)。
幕府にとっては本当に要所になる場面であんな行動に出るなんて、ちょっと理解しがたい。
こういう所で非常に憤ってしまう。
  
こんな感じですが、お読み頂ければ幸いです。


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4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
やっぱり… (ジゴロウ)
2011-08-06 06:10:59
やっぱりヒジハラさんの、人物の見方って、好きだし参考になります。

時代によっては、『あん?』みたいな文章も、敵味方問わずあるのに、ある種の達観というかなんというか…

小笠原さんは気の毒ですね。
家からは廃嫡されるわ、ドラマだと長州の噛ませ犬にされるわで、結構幕末がんばってるんですけど…
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-08-07 07:13:22
そう言って頂けると書いている身としてはありがたいです。
好きな人物、好きではない人物、両方いますが、
どちらに対しても『褒め殺しで終わり』も『けなして終わり』も、私にはちょっと合わないようで(汗
どちらにも良い所があれば悪い所もある筈ですし。

小笠原は本当に優秀な人物ですね。
仰る通り色々な所で頑張ってますし結構果断ですし。
しかしながら幕府にとってはこの長州征伐が乾坤一擲の勝負だという事は分かっていたと思うんですよ。
だから尚更小倉戦争の敵前逃亡さえなければ、と思うんです。
敵前逃亡というより、自分だけ逃げたという点ですか。
本当にこれさえなければ。なんでこんなことに…orz
  
この一事だけで小笠原を評価することは難しいですが、
この一事が小笠原の評価を当時から今に至って著しく下げているのは事実だと思います。残念ながら。

ただ酷い評価しか見ない、とかになって来ると、もっといい所もあっただろうにと思ってしまうんです。笑。
梶原景時とか藤原泰衡とか。
判官贔屓の煽りを食らいまくっていて気の毒過ぎです。
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Unknown (ジゴロウ)
2011-08-07 14:45:00
仰る通り、基準を何にするかでも、大分人物の評価が変わりますよね。

世界を見渡しても、『絶対悪』というのが、日本にだけは無いらしく、そのため、感情的な部分が、よくも悪くも評価を決めていると思います。

徳川慶喜も、そんな感じの人物だと思います。
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>ジゴロウさん (ヒジハラ)
2011-08-07 22:11:42
>『絶対悪』というのが、日本にだけは無いらしく

そうなんですか。
何となくわかるような気がしますが…
仰る通り理屈ではなく感情に流される部分というのはあると思います。
人間ですしある程度は仕方ないと思うのですがそれも偏り過ぎるとちょっと…
出来るだけフェアに見たいとは思うのですが、それが中々難しいです^^ゞ
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