
娘が通う小学校の社会科の自由研究
で藤枝市の歴史を調べるものがあり、何点かテーマがある中、娘は「田中城」のことを調べることになりました。そこで先週の日曜日小雨
のぱらつく中、「田中城下屋敷」に出かけてきました。
田中城は約500年ほど前に今川氏の命を受け、この地の豪族である一色信茂が築城したとされています。その頃は「徳一色城(とくのいっしきじょう)」と呼ばれていました。その後武田信玄がこの城を攻略、全く新しい城に改築し名前も「田中城」に改めました。武田信玄死後、息子の武田勝頼が長篠・設楽が原の戦いに敗れた後は、徳川家康に攻められますが、田中城は難攻不落の城だったようで、この城が開城するまで8年余りかかっています。理由としては、別名「亀城」と呼ばれる由来となる直径600㍍の同心円状に3重の堀を巡らす武田氏流の築城方法もさることながら、この辺りが戦の妨げになる湿地帯だったことが挙げられています。江戸時代には4万石の大名がこの地を治め、サッカー元日本代表の名波浩選手を輩出した西益津(にしましづ)小学校
のある場所にかつての本丸が、西益津中学校
のある場所に藩主の屋敷があったとされています。明治の代となり、田中城は廃城となり、城跡と建物は民間に払い下げられました。
田中城の下屋敷(別荘)は城の南東にあり、江戸時代の後期には築山、泉水、茶屋などがあって四季を通じて景観よかったそうです。時の流れとともにその姿も変わっていき、近隣河川の改修などで下屋敷跡は昔の半分ほどの面積となってしまいます。藤枝市では1987年に田中城跡の保存整備事業が始まり、1992年から下屋敷跡で庭園の復元をするとともに、田中城ゆかりの建物をこの場所に移築・復元していき、1996年に史跡田中城下屋敷が誕生しました。
ちなみに鷹狩りで田中城を訪れていた家康がこの地で食した鯛の天ぷらが原因で亡くなったとか。また池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の先祖が田中城の城主だったという説のあるそうです。本当かな…。
冠木門(かぶきもん)
20分の1に縮尺されていた当時の図面を復元したものです。
本丸櫓(ほんまるやぐら)
田中城の本丸にはもともと天守閣はなく、2層2階の物見櫓が高さ2.7㍍の石垣の上に建っていたそうです。この本丸櫓は中は資料館になっており、史跡田中城下屋敷を代表する建物といえます。
藩主の服装でしょうか?
田中城下の模型
長楽寺村郷蔵(ちょうらくじそんごうぐら)
郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常米を保存すための蔵だそうです。
茶室
仲間部屋・厩
庭園
徳川家康が植えた蜜柑の木
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます