青眼(せいがん)というのは、気心が知れた友達のことです。
この「青眼」という言葉は、中国の歴史書である晋書(しんじょ)の阮(げん)籍伝(せきでん)に出てくる言葉で、竹林の七賢といわれた魏の阮籍の言葉として、「籍大悦、乃見青眼」、青眼を見るにおよび、籍 (阮籍のこと) 大喜びす。と、「親しい人に対する目付」からきている言葉です。これと反対の言葉が「白眼」になります。
この青眼をもう少し詳しく見てみますと、お互いに心が通じ合っていて、何も言わなくても分かり合うことができ、何を言っても誤解される心配のない、知己ともいうべき間柄のことをいいます。ただ黙って傍にいてくれるだけでいいという、空気のような存在の人のことです。
また、知己というのは、自分のことを自分と同じくらい知っていてくれる人のことで、心の拠り所として、この世にこれ以上の人はいないという人のことをいいます。王陽明の言葉を借りて申し上げればこうなります。
「そのことごとく天下に信じられんよりは、真に一人に信じられんに若(しか)ず、天下、之を信じて多しとなさず、一人、之を信じて少なしとなさず」と。
世の中の全ての人に信じてもらうよりは、たった一人でいいから、自分のことを本当に理解してくれる人がいたら、何も言うことはない。世界中の人が信じてくれたとしても多過ぎることはないし、たった一人だけが信じたとしても少な過ぎはしない。
友というのは、信じた以上とことんその思いを貫いて、自分の利害を度外視して、その人のためになることなら、例えそれが自分の不利になることであっても、平然としてのけ、親にも言えず、兄弟にも打ち明けられないほどの悩みを聞いて、だまって一緒に泣いてくれる、そんな人のことをいいます。
「あいつがいるから、おれも生きていたい」、こんな友が一人いたら、この世は十分に生きる価値があるというものです。
この「青眼」という言葉は、中国の歴史書である晋書(しんじょ)の阮(げん)籍伝(せきでん)に出てくる言葉で、竹林の七賢といわれた魏の阮籍の言葉として、「籍大悦、乃見青眼」、青眼を見るにおよび、籍 (阮籍のこと) 大喜びす。と、「親しい人に対する目付」からきている言葉です。これと反対の言葉が「白眼」になります。
この青眼をもう少し詳しく見てみますと、お互いに心が通じ合っていて、何も言わなくても分かり合うことができ、何を言っても誤解される心配のない、知己ともいうべき間柄のことをいいます。ただ黙って傍にいてくれるだけでいいという、空気のような存在の人のことです。
また、知己というのは、自分のことを自分と同じくらい知っていてくれる人のことで、心の拠り所として、この世にこれ以上の人はいないという人のことをいいます。王陽明の言葉を借りて申し上げればこうなります。
「そのことごとく天下に信じられんよりは、真に一人に信じられんに若(しか)ず、天下、之を信じて多しとなさず、一人、之を信じて少なしとなさず」と。
世の中の全ての人に信じてもらうよりは、たった一人でいいから、自分のことを本当に理解してくれる人がいたら、何も言うことはない。世界中の人が信じてくれたとしても多過ぎることはないし、たった一人だけが信じたとしても少な過ぎはしない。
友というのは、信じた以上とことんその思いを貫いて、自分の利害を度外視して、その人のためになることなら、例えそれが自分の不利になることであっても、平然としてのけ、親にも言えず、兄弟にも打ち明けられないほどの悩みを聞いて、だまって一緒に泣いてくれる、そんな人のことをいいます。
「あいつがいるから、おれも生きていたい」、こんな友が一人いたら、この世は十分に生きる価値があるというものです。