明主様御垂示 「人を見て法を説け」 (昭和27年12月1日)
信者の質問
「もう一つは、人間の目で見ましたところでは、ああいう人、こういう人ということがございますが、
一番はっきりしていることは、一万円と二万円は誰にでも分かります。
それから期間で、その連続が一番お蔭をいただくというわけでございます」
明主様御垂示
「そうです。はっきり分かるのです。だから要するに理屈は簡単なものです。
ややこしいことはありません。むしろ簡単なために分からない場合がよくあるのです。
こうして(御浄霊)病気が治るということと同じです。
医者が大騒ぎをして治らない、こうして治るものか、と。反って簡単すぎるために分からないことが多いのです。
それは今までややこしい面倒臭い世界に住んでいたからで、ちょうど薄暗い所に住んでいたから見えないが、明るいとすぐ見えるのです。
それが霊的であって物質的でないから、すぐに分からない。
従っていろいろと分かりにくいわけです。
それが一つの仕事というわけです。
だからその人によって、話で分からせるのの上手下手と言うか、急所ですが、さっきも言った通り急所を見るのです。
この人にはこういうことを言えば分かる、しかしまた人によって違うのです。
この人にうまく言ったことを他の人に言っても分からないのです。
人を見て法を説けということです。
それは別に考えなくても自然になるものです。
その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行くようになるのです。
それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分が喋ろうということになるから、それでスーッといかないのです。
この教えは応身というのですから、先方に応ずるようにすると、ちょうど先方に触れるような話になってしまうのです。
これはなかなかやさしくて難しいのです。それが一つの修行です。
そこに行くようにだんだんやることです。
そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。
だから頭が良いとも言えるし、霊位が非常に高くなるとそうなるのです。
むやみに喋っても割合に効果がないのがありますが、鉄砲打ちの名人みたいなもので、一発であたるのと、散弾などをバラバラ射って、やっと一つあたるというのと同じです。」
信者の発言
「やはり叡智(えいち)と濁智(だくち)でございます」
明主様御垂示
「そうです。そういった味わいはおもしろいものです。
あんまり喋ってはいけないし、喋らなくてもいけないし、時と場合によって千変万化自由無碍というわけです。
だから一つの学問みたいなものです。
ただこのほうの学問は世の中の学問とは違うわけです。
こっちは高級なのです。大学以上です。
だからそういうふうになれば、どんな学者や大学の先生でもちゃんと先方で頭を下げます。
私は高等小学だけみたいなものですが、先方は大学の先生でも頭を下げて来ます。これはその一つの見本です。」
信者の発言
「先日秦さんという作家の人が、明主様にお目にかかりました後で私のところに来まして一時間半くらい話しましたが、
今日は来て良かったと非常に喜んでおりました。
その場合にもどんな人と会いましても、相手が感心するようなことを話させていただけ、一歩上のことを言わしていただけますことは、実にありがたいことでございます」
明主様御垂示
「それはそうです。世界が違いますから。」