「それから、その奥の奥は説明ができないことがあります。むしろ感じです。これが覚りというものです。
とにかく実に微妙なるものです。だから話すことも書くこともできません。
これはやっぱり世界中で私一人だけが分かっているのでしょう。
他の人は分からないでしょう。
しかしその人の役目さえできれば、それだけ分からなくてもよいのです。
仮に星なら星が、どうも太陽の奴はあんなに光ってシャクに障る。
太陽のように光りたいと言ったところでしようがないので、星はやっぱりそれだけの光しかないのです。
だから本当に考えたら実に神秘幽幻なものです。
またそれが分かってしまっては面白くないので、分からないところに面白みがあるのです。
実に神様というのは、何とも言葉では言えない神秘なものです。
そこで一番間違いないことは、物事を決めるということがいけないので、決めないことが間違いないのです。
つまり物事を決めるところに間違いが生ずるのです。
そうかと言ってまるっきり決めなければ変です。
やはり決めるべきところは決め、決めるだけのものは決めるのです。
それから決められないものは決めないでおくことで、決めようとしてあせったり、苦しんだりすることは損です。
それからまた時というものがあって、その時にはこうしたほうがよい、また時が変るとそうしてはいけない、またこっちに行ったほうがよいということになります。
それも決めて決められないで、決められないで決めなくてはならないのです。
そこで実に幽幻微妙と言いますか、何とも言えないものがあります。
それから分かっていて分からなくて、分からなくて分かっているということがあります。
そうかと言って両方同じでは、分からなくて迷ってしまいますから、どっちかに決めなければなりません。
それからいつまでは決めていて、その先は決めないほうがよいこともあります。
それから一時間だけ決めてよいようなこともあります。
一時間だけ決めれば非常によいものを、一日決めていたために非常に悪くなります。
その限度というものが分からないのです。
しかしまるっきり分からなければ、何にも分かりませんから、ある程度は分からなければならないのです。
お釈迦さんは“一切空”と言っているのですが、そう言えば絶対に間違いはありませんが、しかしそれではとにかくあんまり無責任です。
生長の家などではよくそういうことを言ってます。
“病気を病気と思うからあるのだ、病気はないのだと思えば病気はなくなってしまう”という説を唱えていますが、これもやっぱり決めたわけです。
ないと決めていても、痛いときには痛いのです。
いくら痛くないと思っても痛いのです。
それは人間は霊だけで生きているのならそれでよいが、肉体というものがあるのですから。
そこで覚りの境地というのは、昔から坊さんはその境地に入ろうとしていろんな修業をするのです。
真言密教などもそうです。ぜんぜん何もないのです。
それで“お前分かったか”と言うと、“分かりました”“よし”と、それでよいのです。
何が分かったのだか分からないのだかさっぱり分かりません。
しかし師匠にはそれが分かるのだそうです。
もっともこれは分からないことはありません。
その人の言葉と行いによって、どのくらい分かったかということは見当がつきます。
そこで大僧正が法を授ける場合に、あいつはたいてい修業ができたから大丈夫だなと思うから、
“お前分かったか”と言うと“分かりました”“よし”と言って、お前には阿闍梨(あじゃり)の位をやると言うのです。
阿闍梨の位と言っても、形のあるものは何もないのです。
そういった煙(けむ)のものでやるのです。」