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世界から「堺」へ日本へ! 1.その出会いの歴史年表

2021-02-25 00:43:37 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ! 1.その出会いの歴史年表

前田秀一 プロフィール

 

 < 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

         世界から「堺」へ  日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム こちらか
                3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 

上「表」の拡大は、こちらから

 堺で最初に人が生活したところは、今から15,000年ほど前の旧石器時代にさかのぼり南花田(北区)といわれ、その遺跡から当時使用していた石器が多く出土し発見された。
 縄文時代から弥生時代にかけて、石津川流域の台地で四ツ池遺跡が発見され、和泉地域を代表する集落が営まれていたことが解明されている。
 集落の周囲には、溝や河川が張り巡らされ、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「クニ」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、水耕稲作の文明があり食糧の大量生産体制が整い、大、中規模の墓が存在し死生観の存在したムラであった。さらに農耕祭礼の道具として銅鐸も発見され金属器を使用した文化が考証されている。
 時代が下って古墳時代(4~5世紀後半)には、当時最先端の土木技術を結集して大仙陵をはじめ規模の大小、墳形の多様な古墳群が川上の丘陵地に築造された。
それらの古墳の造成のために働く人々の生活を賄うため泉北丘陵には朝鮮半島からの技術により600~1,000基にわたる窯が築かれ、大規模な須恵器の生産基地として平安時代まで500年もの間栄えた。
 石津川の流域は、周囲の土壌の養分に恵まれ作物の育成に適し、人が生活するに必要な水の供給、さらに大型古墳の築造に必要とする資材の運搬を助け、堺の文明発達史上重要な役割を果たした。
 特に、河内の石津原の地域には大仙陵をはじめとして大型の前方後円墳が多く、大王(おおきみ)の支配するクニ(倭国)があったことが考察されている。
 当時、倭の王権は、鉄資源を確保するため朝鮮半島に関心を持っていた。朝鮮半島と交流が深まる中、北部の大国・高句麗の南下政策は、倭国にとって緊張感があった。そこで、倭国は中国南朝の東晋、その後宋へ遣使・朝貢(*)することによって高句麗に対抗しようとした。
 中国の歴史書『宋書』倭国伝に「宋」国に対し倭の五王「讃」(421年)、「珍」(438年)、「済」(443年)、「興」(462年)、「武」(478年)が遣使・朝貢したとことが記録され伝わっているが、どの古墳が誰に相当するのかは明らかではない。

 538年、百済から仏教が伝来し、663年、朝鮮半島南部・白村江の戦で百済が新羅に攻め立てられ、天智天皇の命により援軍を派遣したにもかかわらず新羅に敗退して百済から渡来人が増え、地域豪族が建立した寺には仏像が伝来した所がある。
 奈良時代、百済系渡来人の末裔と伝わる行基は、師・道昭の教えに従い飛鳥寺での修業を断念し生まれ故郷に帰郷した。生家を家原寺として改修し民衆救済のための仏教布教に専念した。 池溝開発や道端造営のほか布施屋、施薬院の設置など民衆のために尽くした。
土師郷(中区)に大野寺を建立した際、その境内に民衆の力による作善行の土塔(国史跡)を建立し、その偉業は民衆が力量に応じて参画し目的を達成る現代のNPO活動の先駆けとして高く評価されている。
 中世には長尾街道、竹内街道、高野街道、熊野街道など街道が整備され、高野山や熊野神社など浄土信仰の社寺参拝が盛んになり、堺はその通過都市の位置づけにあった。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、寛正6年(1465)の第12回遣明船は、西軍の大内氏が制圧した瀬戸内海と兵庫港を避け土佐沖を廻る南海航路を通り、文明元年(1469)初めて堺港に入港し朝貢貿易に関わることになった。
 文明8年(1476)第13回以後大永3年(1523)まで堺から5回遣明船が派遣され、兵庫に代わり国際貿易港として発展した。
<対明貿易の朝貢の条件>
  朝鮮:1年に数回、琉球:1~2年に1回、日本:10年に1回

 世界的な商業都市として、ヒト、モノ、カネ、情報が集積した堺の繁栄は、遣明船が初めて堺港に入港した1469年から大坂夏の陣で兵站基地として狙いをつける徳川方に堺を渡すのを避けるため豊臣方の大野治房一隊によって焼き打ちされるまでの146年間であった。
 その間、1550年までの前半は遣明貿易および仲介貿易に従事する琉球貿易が盛んとなり、フランシスコ・ザビエルが堺の港に上陸した1550年以降1615年までの後半はポルガルを主とした大航海時代の南蛮貿易の拠点として西洋文明に触れる世界の情報センターの役目を果たした。

 ヨーロッパでは、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心として中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
 さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能になり、1415年、モルッカ諸島(別称:香料諸島)への独自の交易ルートの開拓を目指してポルトガルとスペインが競う大航海時代が始まった。
 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式でによって大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。

 1549年、鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエルは、1550年1月天皇への謁見を目指して堺港に上陸し都を目指した。天皇への謁見の目的は果たすことはできなかったが、引き続きガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスなど宣教師が堺に上陸しキリスト教というヨーロッパ文明の普及が始まった。
 1581年、日本での布教が伸び悩んでいることを案じて巡察師・アレサンドロ・ヴァリニャーノが堺港に上陸し、フロイスを伴って五畿内の布教状況を巡察し、日比屋了珪宅での体験をもとにルイス・デ・アルメイダの見聞を受け入れ、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著して「修道院や教会を建築する際には、日本の大工により日本風に建築し、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室に当てるよう」指示した。
 宣教師として中心的に布教に務めたルイス・フロイスは、「茶室は、その場が清浄であるために、人々に地上の安らぎを与えるので、キリシタンたちも、異教徒たちも、その場を大いに尊重している。司祭としてそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちとそこに集まった」と本部に報告した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスの航海技術と造船技術が注目され徳川家康はアダムスを外交顧問として処遇し、その後のオランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
 リーフデ号には大砲など武器・火薬が積まれており、徳川家康にとってはその後の関ケ原の戦い(10月)の戦備強化に役立った。アダムスは帰化し三浦按針を名乗り徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 17世紀後半以降、商業都市としての大坂の繫栄の一方、堺は鉄砲産業に由来する金属加工技術をもとに18世紀初頭にかけて打ち刃物産業への転換が進んだ。織物産業は江戸中期の絹織物から木綿織物へと移行し、酒造りなど醸造業や香料を原料とする線香産業、石津川流域の木綿晒業など、現代の伝統産業の萌芽の時期を迎えていた。
 1858年、日米修好通商条約が締結し、日本の主要港が開港され外国船の渡来が増えた。1868年2月、測量調査のため堺港に入ったフランス軍艦デュプレー号乗り組兵士と幕府直轄地・堺を警護中の土佐藩士が衝突して、フランス水兵11名を殺傷する堺事件が起こった。
 明治に移り、1897年(明治30年)、河口慧海は人々が分かりやすい正確な和訳の大蔵教(仏典の集大成)を作り日本国民の大安心(心が安らぎ動揺しない境地)の基礎づくりを目指し、単独でヒマラヤを超えインド、チベットへ探検し仏教文物収集を行った。  

               
南海電鉄「七道」駅前 河口慧海銅像                     A・堺アセアンウイークポスター

 堺は、古代より積極的に国際交流が行われ、中世には世界的な商業都市としてヒト、モノ、情報の集積する国際都市として多くの国との交流があった。特に、アジア諸国との関係が深く、そのDNAは現代にも引き継がれ、2006年より「堺歴史文化交流会議」が開催され、「堺で出会う東南アジア」市民交流アセアンウィークが毎年「堺まつり」に合わせて10月に開催されている。

<引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館


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