goo blog サービス終了のお知らせ 

堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

山上宗二432年忌 記念講演「利休の消息」(直筆手紙)

2022-04-11 12:19:28 | 茶の湯

利休の消息  (直筆手紙)

増田 孝 愛知東邦大学 客員教授

投稿:前田秀一 プロフィール

 2022年3月8日、BSテレビ東京放映「なんでも鑑定団」で、出品者の評価額百万円を大幅に超えた1,200万円と鑑定された千利休直筆書簡(*)が大きな話題になり驚きました。
   *:堺の商人宛に「ルソン(フィリッピン)の壺を金子12,13枚(現在価値約400万円相当)でもいいから買いたい人が複数いる」と利休の目利きの壺を求めた内容

  

 それから数日後、堺衆文化の会・谷本順一会長から恒例の「山上宗二432年忌」に、なんと、お宝大発見を鑑定されて増田 孝先生(愛知東邦大学客員教授)に「利休の消息(手紙)」と題してご講演いただく旨ご案内がありました。

 増田先生のお話しでは、茶会の準備は人任せにしない利休には、書簡に関しては、多くの祐筆(代書担当)がいて、「鳴海」などが有名で、そのほかにも何人かいたので直筆の発見は少ないとのことでした。
 ご講演では、利休自刃2週間前(1591年2月14日付)、細川幽斎の家臣で利休の高弟でもあった松井康之に宛てた最後の直筆手紙(細川幽斎家臣・松井康之宛)を事例として、筆跡、花押はもとより紙の端を割いて巻き留めとする「切封墨引」が残り利休から届いた状態のままであることなど貴重な直筆証左を解説していただきました。

熊本県指定重要文化財(書跡)  松井文庫(熊本県八代市)所蔵

          <文意> 
              わざわざの飛脚、大変ありがとうございます。
              富田知信殿と柘植与一殿を使者に、堺に下るようにと、秀吉様から命じられたので、にわかに昨夜、出立しました。
              淀まで細川忠興様と古田織部様が見送りに来られたのを船着場で見つけ、驚きました。
              感謝の旨をお二人にお伝えください。恐惶謹言。
                      二月十四日
                                          利休宗易
                   松井佐渡様

 

 当日は、臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺で、恒例の三千家(表千家・裏千家・武者小路千)持ち回り「大茶会」(令和四年は「裏千家」主催)開催と重なり、大勢の方々が参加され大盛況(先着40名入場制限)でした。

 

SDGs魅力情報「堺から日本へ、世界へ!」こちらから 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『漱石と煎茶』 俳句的小説『草枕』の背景

2021-08-14 16:03:14 | 茶の湯

『漱石と煎茶』 俳句的小説『草枕』の背景

前田秀一 プロフィール

 

 

プロローグ
 「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、飲むにあらず、喫するなり」(小川流煎茶流祖・小川可進1786~1855、『漱石と煎茶』54頁)

 夏目漱石は、著書『草枕』に「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へひとしずくずつ落として味わって見るのは閑人適意の韻律(*)である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。下頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。只馥郁たる匂いが食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。」(『草枕』101頁)と著し注目された。
    *:閑人適意の韻律=ひまな人間が気ままに行う風流(『草枕』203頁)
 
俳句的小説「草枕」の背景
 隠元禅師(1654年明国から来日、日本の黄檗宗開祖)により伝えられた喫茶(煎茶)は、江戸中期には売茶翁を介して門下の伊藤若冲、池大雅、上田秋成、富岡鉄斎など文人が嗜み、煎茶の精神性は頼山陽を介して幕末には尊王の志士たちに影響を与えた。

 

 夏目漱石は、明治38年(1905)に俳句誌「ホトギス」に『吾輩は猫である』を書き、それが好評であったため、主宰の高浜虚子の要請で、その翌年『草枕』を書き「写生文家」として注目を浴びた。
 『草枕』は、主人公・画工(絵描き)の視点から、筋書きを追うことなく、非人情的で詩的に、写生的に描写することに特化し、絵画的に、俳句的に言葉(表現)を織り上げた。
 しかし、文壇主流の人びとは、『草枕』を文学としては受け入れることには異論があったが、漱石自身も「天地開闢以来類のない小説」と語り、むしろ当時の文学論への批評と位置付けていた。
 漱石(国立第五高等学校教授)を茶(煎茶)でもてなした前田案山子(1828~1904)は、熊本県玉名郡小天(おあま)村の豪農(郷士)の出で、明治維新を迎えた時、逸早く「武」を捨て「文」に生きることを決意し、僻村の人材育成に務め、「経世済民」の志をもって中江兆民(1847~1901)の自由民権運動に参加した。明治23年(1890)第1回衆議院議員に選出され、1期務めた後引退し「閑人適意」の生活に入っていた。
 漱石は、前田案山子にもてなされた煎茶の中に相手への温かい思いやりと脱俗、清風の理念を感じ取り、決して技巧を露骨に表に出すことなく、ただ相手に美しく感じ覚えさせる煎茶の精神に大きく感化され「知、情、意」の三つの表現のあり方に意を注いだ。
 読者は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。・・・」と諳んじ、立ち止まって意味を深く考えず文章の流れに沿って韻律を味わえばよい。漱石はそのように読まれる作品が「文学」として受け取られないことをよく承知していた(『草枕』235頁)。

エピローグ
 コロナ禍で悶々としている時、かつて「茶の湯」の文化をテーマに市民活動でご縁をいただいた方から、小川流煎茶6代目家元・小川後楽先生の遺作『漱石と煎茶』のご紹介を受けました。
 俳句的小説といわれる夏目漱石著『草枕』の「美しい感じ」や「人生の苦を忘れ慰められる」ような詩文(表現)の中には、漱石の理想や思想が秘められており、それは「煎茶」の世界とその精神に通じることを教えられました。

 「山を登りながら、こう考えた。・・・」と書き出された『草枕』の舞台〔熊本県玉名郡(現・玉名市)小天(おあま)村への山道〕は、小学生時代〔熊本県玉名郡鍋村立鍋(なべ)小学校卒業〕を過ごした郷里・熊本に纏わり、私にとってひとしお思い出深い場所です。

  小川流煎茶‟おもてなし" (写真)と講演要旨は、こちらをクリック
  
「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化は、こちらをクリック
  「アカシア俳句会」は、 こちらをクリック

 

 夏目漱石著『草枕』、もう一つの背景

 

 

SDGs魅力情報「堺から日本へ、世界へ!」こちらから 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

2021-07-24 23:20:19 | 茶の湯

「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

角山 榮「真に、堺衆ということについて」
第2回山上宗二忌講話 平成21年4月11日 南宗寺塔頭 天慶院にて

前田秀一 プロフィール

<時代背景>           
 住吉大社の「開口庄官」を起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する商人たちが台頭した。           
 商人たちは会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った。           
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期(1532年から1555年)以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展した。豪商として財を成した商人たちは、その富を寺に寄進し、堺は商人の町と共に寺町として栄え「まち衆」たちの文化(連歌、茶の湯など)を嗜む拠点として役割を果たした。           

 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった。           
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた。

     「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。           
 しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(四季)を友とす。・・・」    

     松尾芭蕉は、貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石へ旅し、その道中でつづった3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に有名な風雅論を書いた。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。           
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張し、それぞれの時代の文化的背景を的確に言い表した。    

      
<室町文化> 1336年(初代足利尊氏)~1573年(第15代足利義明)           
 八代将軍・足利義政の時(1489~1490)、禅の精神にもとづく簡素さ、枯淡の味わいと風雅、幽玄、侘(わび)を精神的基調とする北山文化(例、鹿苑寺金閣)が開花し、その芸術性が生活文化のなかにとり込まれ根づいた。      

      

 「禅」の系譜 血脈)          

  釈迦牟尼仏(紀元前5,6世紀・仏教開祖)➡1.摩訶迦葉・・・28.菩提達磨(紀元5,6世紀・達磨大師:禅の初祖)➡仏法(印可)を受け継いだ禅師(宗派開祖)           
  「禅」=瞑想=精神統一(坐禅)を通して実戦的体験により自己を整え、「自分という存在」を明らかにする〔「悟り」(真円)の境地に達す〕  。         
      ➡ 仏教から発生した実践哲学 ➡ 教義の根本に坐禅があり、自らが仏となって自らを救おうとする「自力」の教え。

        
 「禅宗」「禅」を旨とする宗派をまとめた「総称」堺の名刹                参考資料:「堺市内禅宗寺院宗派別一覧」こちらから


 「臨済宗」  開祖・栄西禅師(1187~1191年2度目の南宋へ留学)
           生まれつきそなわっている仏性を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かに生きる。
          「真実の自己」へ導く修行として公案(禅の問題)が出題され、座禅実践の中で考え抜き段階的に「悟り」(多角形から真円の境地)を目指す。
          日常のすべてが修行であるとし掃除、畑仕事などの労働も重んじる。
         栄西禅師が南宋から帰国の際、茶樹を持ち帰り、『喫茶養生記』を著して茶の薬効を教え、喫茶文化の切っ掛けを作った 。      
          ➡ 堺の名刹 大徳寺派龍興山「南宗寺」(堺区南旅篭町):千利休「茶の湯」(わび・さび)大成          

あらすじは こちらから

    「曹洞宗」  開祖・道元禅師(1223~1228年南宋へ留学)  
         「人は本来仏である」という言葉に出会い、「どうしてさらに修業して悟りを開く必要があるのか」その解を求めて南宋へ渡った。
           帰国後は、越前・永平寺を創建し「坐禅修行」を広めた。
         仏陀が悟りを開いたのは坐禅によるものであり、坐禅こそ仏教の根幹であると「公案」もなく、一気に「悟り」(真円の境地を)を目指す 。

          ➡ 堺の名刹 天皇山「紅谷禅庵」(堺区三国ヶ丘町):牡丹花肖柏、堺の町人衆に古今和歌集を伝授(「堺伝授」) 
            文明・応仁の乱後戦火を逃れて北摂(池田藩)に地に在った連歌師・詩人牡丹花肖柏が、戦乱となった北摂から堺に移り、
            1518年豪商・紅谷喜平の世話で「紅谷庵」(現・堺区中三国ヶ丘町)に住まい堺のまち衆に和歌や連歌の指導を始た。

       

      中世の文化センター「紅谷禅庵」について こちらから   古今伝授としての「堺伝授」受講ノートは こちらから

 「黄檗宗」  開祖・隠元禅師(1654年、日本からの度重なる招請に応じて明国から弟子20人他を伴って来日)
         坐禅を通して自分の心の中に存在している仏性(阿弥陀仏)に気付き自己解決(自己の究明)する。
         ➡「この世の中に存在するのは心だけで、目に見えるすべての物事や起る現象は、心の働きがもたらしたもの」(唯心)の教えを大切にする。
            隠元禅師は、後水尾法皇や徳川幕府の帰依を受け、宇治・大輪田の約9万坪の寺地を賜り黄檗山満福寺を創建した。
         煎茶、普茶料理など文化・芸術・建築・音楽・医術・印刷など幅広い分野で功績をあげ、皇室から国師号を宣下された。   
         ➡「茶の湯」を政道と位置付けた織田・豊臣時代に対して江戸時代では隠元禅師が後水尾院の帰依を受け公家をはじめ尊王派に煎茶が重んじられた。
          江戸中期では売茶翁の薫陶を受けた伊藤若冲、池大雅、上田秋成、富岡鉄斎など文人が煎茶を嗜み江戸後期に活躍する志士たちに繋がっていった。
            ➡ 小川流煎茶(流祖・小川可進)の流儀は こちらから      小川可進「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、喫するなり」は こちらから
           ➡ 堺の名刹 大寶山「法雲寺」(美原区今井):狭山藩 後北條氏の菩提寺    後北條氏について詳しくは こちらから

   

 

 

SDGs魅力情報「堺から日本へ、世界へ!は こちらから 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南宗寺 表千家 献茶式 お茶席体験記

2021-02-25 00:33:18 | 茶の湯

前田秀一 プロフィール

 

 毎年、4月27日は茶道・三千家(表、裏、武者小路)が交代で堺市の南宗寺で献茶式を執り行っておられます。
 今年は、表千家・千宗左宗匠(第14代)による献茶式がありました。
 昨年より少し茶の湯を勉強し、お稽古にも通っていましたので、お師匠さんのお勧めに乗せられて恥を顧みず献茶式および関連行事のお茶席に参列させていただきました。
 全国から500人弱の茶の湯の心得をお持ちの方々が一堂に南宗寺および塔頭に参集され、はじめて見る光景に改めて堺の南宗寺の伝統の重みを実感しました。
 方丈(本堂)での献茶式の後、お師匠さんに従い「濃茶」席から参列させていただきました。お客が多いので「大寄席」の方式で20人くらいが一度に会する席となりました。念には念を入れて、席取りをしていただいたのですが、よりによってお菓子のお鉢が私の前におかれあわてました。何かの間違いではと思い、上座のお師匠さんの前に動かすと睨まれて「あなたが初めです」と言われビビりました。
 3人ごとと予測しての席取りだったんですが、お客が多いので4人ごとでとなって目論見が外れたわけです。「濃茶」は駆け出しの私から始めになりどうしてよいやらパニックになりました。上座のお師匠様が小声でお指図に従い所作を始めましたが、さらに困ったのはどの程度いただいてよいやら飲み加減が分からず、横を見ながらお師匠様の顔色を見ながら・・・。お茶碗の淵の汚れをふいていると、「傷がつくから柔らかく・・」と言われ、楽茶碗の取り扱いに対する神経の使い方を教わることにもなりました。
 いただいている時は、必死ですから味もなにもあったものではありませんでしたが、お茶碗をお隣の方へまわしてから、ほっとしている内に口の中に「濃茶」の余韻が蘇ってきて上座に目を移しますと「いいお味でっしゃろ」と優しくお声をかけていただきました。
 やはり、茶事は、「濃茶」と言われるだけあって雰囲気が違いますね。席を離れてから、お師匠様から「濃茶」の回し飲みや「袱紗」扱いはカソリックのしきたりの影響を受けているって聞きますが本当ですか?と聞かれ、今、私が勉強してていることでしたのでお礼の気持ちを込めてご説明させていただきました。
 「濃茶」の後は、本源院についで天慶院で「薄茶」をいただきました。やっと我に返った思いがして少し落ち着きが戻り、何とお師匠様の日頃の教えに従いお茶席を楽しませていただきました。
 「濃茶」から「薄茶」まで茶の湯三昧と聞こえは良いのですが、本音は正座の我慢の限界に耐え忍ぶつらさがあり、待ち時間の長さに心を整えて待つ「禅」の心を考えさせられました。貴重な体験の一日で、帰途には心に重みを実感できる喜びもありました。

 十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」 詳しくは こちらから

動画に見る 緑のミサ(茶道)と紅いミサ(パンとブドウ酒の儀式) 詳しくは こちらから

 

堺の魅力情報 堺から日本へ!世界へ! 詳しくは こちらから


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角山 榮「真に、堺衆と言うことについて」第2回山上宗二忌講話

2021-02-25 00:31:59 | 茶の湯

文責 前田秀一  プロフィール

 

 4月11日(平成21年)、「堺衆文化の会」会長・谷本陽蔵先生(主宰者)のお声掛けで堺の南宗寺塔頭・天慶院で開催された「山上宗二忌法要」に参列させていただき、角山 榮先生(和歌山大学名誉教授、元堺市博物館長)から「16世紀における堺衆」というお話を拝聴しました。
 天慶院での法要を兼ねた記念のお茶会と講座は昨年から始められ、今回は第2回目です。お茶のおもてなしでは西大寺(奈良)の「大茶会」かと見間違えるような大きな赤膚焼のお茶碗で天慶院・小野雲峰住職様(「堺衆文化の会」副会長)がお点てになられたお抹茶を介添えを頼まれて谷本先生がお召し上がりになられ、ちょっと驚かされました。
 角山先生はとても堺がお好きなのだなと感じました。今回も熱く語って頂き、奥深いお茶の世界と歴史に触れさせて頂けたひと時でした。
 お話を拝聴して特に感銘を受けたのは、千利休が「茶の湯」を大成した茶人でありながら、その一方で魚を商う堺の有力な商人とも言われている背景がよく理解できたこと、反面、自由自治都市とうたわれた「堺」が本当のところは必ずしもそうではなかったという中世の堺の町衆の状況について示唆に富む深いお話を伺ったように思えたことでした。
 以下に要点をまとめてみました。

1.千利休の家業について
 住吉神社と堺が一体となっていて一つの港(住吉津=堺津)ができ、当初、陸揚げ品は朝鮮から輸入された鉄や馬であったものが、鎌倉時代から室町時代に至って魚の集配所となり、今につながる「魚夜市」が立つようになった。そして、漁師が集まり賑わいの町となった。
 魚を商品として日持ちさせるために干し魚(干物)として加工し貯蔵する納屋(なや)=倉庫を持つようになった。卸の魚を扱う商人として、豪商として納屋衆の一人に数えられるようになった。

2.真に、“堺衆”ということについて
 堺が商業都市として脚光を浴びるようになったのは、1469年のことだが、日明貿易で遣明船2隻が応仁の乱による荒廃ため出発港の兵庫港へ入港することができず、急拠、堺港に入港したことに始まる。
 日明貿易の背景は、幕府の権力が弱まるにつれて時の武将(大内と細川)がその権益を横取りし、さらに、南禅寺の下にある五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)も独自に船を出すなど、堺商人はこれらの請負業者として役割を果たす一方で貿易をさせてもらう特権を持っていたというのが実情のようである。
 堺を自由自治都市と言ったのは、京都との比較において言ったのではなく、16世紀の中ごろに堺へ来たポルトガル人(イエズス会の宣教師・ガスパル・ヴィレラ)が西洋の都市と比較して表現したまでであり、本来的な意味においてまで掘り下げて言ったかどうかは疑問が残る。当時、堺商人と一口に言っても、いわゆる「会合衆」(かいごうしゅう)とか、納屋持ちの豪商(納屋衆)とか、生糸を一括購入する特権的商人「生糸10人衆」など様々であり、これらの町人は権力者の請負業であるという立場からすれば必ずしも自由で自治を布いていたとは言い難い。
 ポルトガル人にヨーロッパの中世都市によく似ていると言わしめたのは、幕府の権力が弱まっていた時に勢いのあった堺の町衆の様子に印象を強くして表現したということではないだろうか。
 その点、商人でありながら茶人でもあった千利休や山上宗二は、「茶の湯」においては、上下の関係もなく真剣に勝負するという哲学*「一期一会」、「和敬清寂」を導き、茶の湯において本当の自由と自治を貫いた、まさしく真の“堺衆”だったと思う。
 つまり、堺商人には、特権を背後に富を蓄積した商人や自由を求めてアジア海域に進出し帰国しなかったルソン助佐衛門や具足屋次兵衛など冒険商人がいるが、本当に自由を求めて活動した堺商人は連歌や茶の湯の文化の中に自由の神髄を見出したのではないか。

 *:「一期一会」
    茶会を一生に一度の出会いの場ととらえ、
    相手に誠意を尽くすこころ
   「和敬清寂」
    お互いに心を開いて仲良く、敬いあい、心を
    清らかにして、どんなときにも動じないこころ 

論文 十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」 詳しくは こちらから

 

SDGs魅力情報 堺から日本へ、世界へ 詳しくはこちらから


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第140回直木賞受賞作・山本兼一著『利休にたずねよ』 あらすじと読書感想

2021-02-25 00:31:06 | 茶の湯

前田秀一 プロフィール

 

 本書は、月刊誌「歴史街道」(PHP研究所)に平成18年(2006)7月号から平成20年(2008)6月号まで2年間連載された掌編(短編型)小説で、それぞれの章が、利休との関わりの深い人物を主人公として完結する単独の物語の連載として構成されている。
 24回の連載の内、登場した主人公は、千利休自身が7回、秀吉が3回、古渓宗陳と宗恩が2回でこの物語の構成における重みを示唆している。
 とりわけ特徴的なのは、天正19年(1591)2月28日朝、利休切腹当日、京都・聚楽第にある利休屋敷の一畳半の茶室で「――かろかろとは、ゆかぬ」どうしようもない怒りがたぎっている利休と後妻・宗恩との会話から始まり、謎めいた利休の茶の湯にかける胸の内を、追憶をたどるように時間を遡りながら物語の核心に迫る展開を取って読者の関心ひきつけることにある。
 なかんずく、物語のモチーフとしては茶道史上には知られていない古い時代の新羅の緑釉の平たい壺を設定し、多感な時代の利休の女性遍歴にからませ、秀逸な文章力で侘び茶の中にある艶をめぐる謎を追い、意外性に満ちた展開があって読者の好奇心を駆り立てる。
 表面的には「歴史街道」の連載小説として歴史小説と見られがちであるが、内容的には茶道史に関わり、物語の展開は19歳のころに出会った高麗からの高貴な女を想う利休の心を描いたプラトニックな恋愛物語とも言える。

『利休にたずねよ』-利休の胸の内にあるもの

 

  天正18年(1590)11月7日 大徳寺門前利休屋敷にて秀吉をもてなす
「菓子は、麩の焼き。小麦の粉を水で溶いて、鉄鍋で薄く延ばして焼き、味噌を塗って丸めたものだ。素朴な見かけだが、味噌にひと工夫しておいたので、噛むほどに味わいが深い。」

〔あらすじ〕
 天正19年(1591)2月28日朝、利休切腹当日、京都・聚楽第にある利休屋敷の一畳半の茶室で「――かろかろとは、ゆかぬ」どうしようもない怒りがたぎっている利休と妻・宗恩との会話から始まっている。
 利休の死に及んで、宗恩はいつにもましておだやかな口調で、意を決して永年わだかまっていた利休の心の中にある想い女のことについてたずねた。思いもよらない宗恩の詰問に利休は驚き否定するが、50年も昔のこと、口に出したことはないが、それでも、その女の凛とした顔は、忘れたことはない。いつも心の中に棲んでいる女・・・19の時、利休が殺した女を思い起こさせられた。
 利休は、掌にすっぽりとおさまるあの女が持っていた緑釉の平たい壺を形見として肌身離さず持ち続けていた。

 秀吉に出会ったからこそ、利休は独創的な侘び茶の世界を創ることができた。
 天正13年(1585)7月11日、秀吉が関白になり、10月7日就任返礼の禁中茶会で後見役を務めるに際して、その前9月に正親町天皇から法号「利休居士」が勅許された。その名を帝に奏上したのは大徳寺の古渓宗陳であった。内裏をさがって大徳寺を訪れ、宗陳に「利休」という号の由来をたづねると「名利頓休、老古錐となって禅にはげめ」と諭され利休は深々とうなずいた。
 人の世は、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろか)の三毒の焔が燃え盛っている。肝要なのは、毒をいかに志にまで高めることができるかである。高きを目指して貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばよい。師・古渓宗陳の教えは利休の心にずしりと響いた。

 利休は、秀吉の点前に感じ入るものがあった。野人と侮っていると、ドキリとするくらい鋭さを見せることがある。自分よりも、はるかに鋭利なくせに微塵もそれを人に見せない。鋭さを見せるも隠すも自由自在、どこまでも鋭くなれるし、それを綿で包み隠し笑いにまぎれさせてしまうのもお手のもだと利休は感心していた。
 利休は、茶の湯には人を殺してでもなお手に入れたいほどの麗しさがあり、道具ばかりではなく、点前の所作にもそれほど美しさを見ることができると頑なに信じていた。美しは決してごまかしがきかない。道具にせよ、点前にせよ茶人は常に命がけで絶妙の境地を求めるものであると考えていた。
 一方、秀吉は、なぜ、あの男はあそこまでおのれの審美眼に絶対の自負を持っているのか。悔しいことに、あの男の眼力は外れたことがないことを認めねばならない。悔しいがただものでないことを認めねばならないと、利休に畏敬の念さえ持っていた。
 島津討伐の際に、利休から敵をたらしこむ緩急自在の呼吸を教わった。戦勝の論功行賞で利休の名を挙げるのをはばかり、手柄の第一等は茶の湯であるといった。秀吉は、冗談ではなく本気でそう思った。
 利休は、朝鮮討伐を構想する秀吉を博多湾の浜で野立てに招待した。そこで、利休の指のすきまから鮮やかな緑色の香合を見た。今まで、秀吉が目にしたどんな陶磁器より瀟洒で繊細だった。「わしにくれ。望みのままに金をわたそう」と、黄金一千枚を積んでも利休は首を縦にふらなかった。「お許しください。わたしに茶の心を教えてくれた恩義のおるかたの形見でございます」。秀吉は、利休がずっと隠していた秘密を見た気がして、「女じゃな、女に茶をなろうたか」といった。
 古田織部は、師の利休が、秀吉の勘気をこうむっている。「なんとかせねばならん。」と秀吉に「なにとぞ利休居士にご寛恕をたまわりたく・・・」と頭を下げたが、秀吉は取り合わなかった。
 織部が、退出の挨拶をしようとすると、秀吉が朱塗りの扇子で織部を招き、「わしはどうしてもあの緑釉の香合がほしい。橋立の壺もほしいが、あの香合は別格だ。碧玉のごとく美しい壺だ」。「わしは、あの香合の来歴だけでも知りたい。古い高麗の焼き物らしい。あれだけの香合だ。世に知られてもよいはずだが、誰も知らぬ。どこの伝来品か。聞き出せば、お前の手柄だ」と命じた。
 秀吉は人の心底を見透かす鋭い直感力を持っている。
 利休という男、一服の茶のためなら、死をも厭わぬしぶとさがある。その性根の太さは認めよう。たかが茶ではないか。なぜ、そこまで一服の茶にこだわるのか、秀吉はそれを知りたがった。
 秀吉は、その秘密があの緑釉の香合にあり、その背景に大事な秘めごとがあると見透した。

 利休が、晩年、「上様(秀吉)御キライ候ホトニ、此分ニ仕候ト也」〔天正18年(1590)9月10日昼、聚楽第・利休茶室にて:『宗湛日記』〕と言いつつも、「赤ハ雑ナルココロ也、黒ハ古キココロ也」〔天正15年(1587)1月12日朝、大阪利休屋敷にて:『宗湛日記』〕と侘びの境地の象徴として使い続けた黒楽茶碗のもととなる赤い釉薬をかけた楽茶碗の制作を明国渡来系の瓦職人・屋号“あめや”長次郎に依頼した。
 「白い指が持って、なお、毅然とゆるぎない茶碗をつくってください」と茶碗を使う人の楽を考えて、毅然とした気品のある茶碗――それでいて、はっとするほど軽く柔らかく、掌になじみ、心に溶け込んでくる茶碗の制作を依頼した。
 長次郎は、注文通り、掌にぴったり寄り添う茶碗をこしらえた。しかし、宗易は「あなたの茶碗は媚びてだらしがない」と一蹴し、毅然として気品がある焼物の見本として、道服の懐から緑釉の小壺を取りだして見せ納得させた。
 「これはいい」と宗易の顔がほころんだ。「さっそく茶を点ててみましょう」、毛氈に置いた茶碗を見つめ、宗易は、目を細めている。なにかを思い出している顔つきだ。宗易の目尻に、皺が寄った。茶碗を持つ女の白い手をどこか遠い彼方に見ているかのようだ。ひとつ大きな溜息をついた。
 「あの女に茶を飲ませたい-。それだけを考えて、茶の湯に精進してきました」。「あんな気の毒な女はいません。高貴な生まれなのに、故郷を追われ、海賊に捕らわれ、売りとばされ、流れ流れて、日本まで連れてこられた」。思わぬ話の展開に、長次郎は息をのんだ。宗易はそれきり、口を閉ざした。
 利休が茶を点て、長次郎の前にさしだした。茶碗は、じぶん(利休)でも驚くほど軽かった。(長次郎は)玄妙な気持で、茶を口にふくんだ。やがて、口中に苦みがひろがった。人が生きることのとてつもない重さを、むりに飲まされた気がした。

 利休は、若いころあの女の故郷の家の設えを知りたいと思って学んだことがあった。堺には高麗の商人がいる。その者たちを訪ね、絵や図をたくさん描いてもらった。そこには、やっと潜れる小さな入り口や室床とても狭い二畳の庵室もあった。
 老いとともに、利休は茶室を狭い小間に囲うようにになった。それまでの紹鴎好みの四畳半に飽きたらず、三畳、二畳と狭くした。その方が侘び数寄で落ち着くからだと人に話したし、自分でもそう思った。
 ―― ちがう。あの女がいたからだ。あの女とともに過した狭く枯れた侘びた空間であの女をもてなしてやりたかった。


 利休は、天王山の見晴らしのよいところに堺の浜の小屋を思い起こさせる一辺二尺六寸一分四方の潜り口を設えた一畳台目(一畳と四分の三畳)のほっこりと落ち着く茶室を建て、「待庵」と名づけた。
 「待庵」に秀吉を招いた。名物を使うつもりはない。床には、軸をかけず、花をいけず、虚ろなままにしておいた。利休としては、いまさら柴田の船に乗り換えられない。秀吉に天下を取ってもらわなければ困る。焦らず、時期を待つことだ。待っていれば、かならず雪が深くつもり、街道は閉ざされる。その時こそ勝機、秀吉の出番だ。

 秀吉の使者が伝えた賜死の理由は二つあった。ひとつは、大徳寺に安置された利休の木造は不敬であること、もう一つは、茶道具を法外な高値で売り、売僧となりはてたことであった。
 秀吉に検死役を命じられた蒔田淡路守は、茶の手ほどきを受けた利休に嘘でもよいから頭を下げる真似だけでもと迫るが、「この利休めにとっては、命より、茶が大事でござる」と断った。
 天正19年(1591)2月28日朝、京都・聚楽第・利休屋敷で利休は切腹した。
 宗恩の胸の奥には、秀吉に命じられた死とは別の口惜しさが渦巻いていた。夫にはずっと想い女がいた。悔しいのは、その相手は生きていた女ではなく、心の奥でずっと思っていた女・・・。

 床には、軸も花もなく、白木の薄板と木槿の枝と、緑釉の香合が置いてある。木槿は高麗で、たいそう好まれるとか。花は冥土で咲きましょう。
 なぜ、腹を切らなければならなかったのか。なぜ、死を賜らなければならなかったのか。はっきり分かっていることはひとつある。――くちおしい。
 宗恩は、香合を手に取り、手を高く挙げ、握っていた緑釉の香合を勢いよく投げつけた。香合は石灯籠に当たり、音を立てて粉々に砕けた。

〔読書感想〕
 本書は、茶道史上には知られていない緑釉の香合の存在が際立っていて、思わず関連書籍をひも解かせられた。フィクションと分かってからは歴史書と茶道史書の行間を埋める物語として大変興味の尽きない内容であった。
 利休は、秀吉に出会ったからこそ独創的な侘び茶の世界を大成した。その過程を舞台として相互に能力を認め合う秀吉と利休が、それぞれに茶の湯を通して高めていった審美眼の葛藤の物語として展開し、幾度となく時の為政者の権力が利休の絶対的な自負心の背景を解き明かせようと踏み込んだが、茶の湯の心と目する高麗からの“あの女”への利休の想いを明かさせることを許さなかった。
 また、身近にいながら利休の心の中の想い人“あの女”の存在は、妻・宗恩にとって永年心の中に鬱積した悔しさであり、利休の死の瀬戸際にあって耐えることなく詰問が発せられた。それでも明かされない悔しさは、想い人の緑釉の香合を投げつけ粉々に砕け散らしたが、遺された者として心の中を晴らすことができただろうか。

 今年(平成25年)12月7日、山本兼一原作『利休にたずねよ』が全国東映系で映画化されロードショー公開される。脚本家・今井雅子氏によると「原作」と「脚本」の関係は、例えて言えば、「家」と「リフォーム」の関係にあると説明されている。
 追憶の時を遡る形で展開するこの物語がどのような形でリフォームされるのか大変興味がある。
 なかんずく、利休が決して明かすことがなかったプラトニックなラブ・ロマンスが、茶の湯の表舞台の“陽”に対する“陰”、“心”の部分としてどのように表現されるのか、シーリアスな内容を含む作品としてどのように人々の心に響かせようとするのか公開を楽しみにしている。

 

SDGs魅力情報 「堺から日本へ!世界へ!」は、こちらから

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

動画に見る 緑のミサ(茶道)と紅いミサ(パンとブドウ酒の儀式)

2021-02-25 00:28:53 | 茶の湯

動画に見る 緑のミサ(茶道)と紅いミサ(パンとブドウ酒の儀式)

前田秀一 プロフィール

以下の<関連情報>は、こちらから
      第14回直木賞受賞 山本兼一著『利休にたずねよ』あらすじと読書感
      論文「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」
      論文「茶湯者の覚悟 濃茶呑ヤウ その一考察」

 『山上宗二記』に「茶湯者の覚悟」(茶の湯を嗜む者の心得)が記されており、前報告書において、特に、以下二条に注目した。
 「薄茶ヲ建ルカ専一也、是ヲ眞ノ茶ト云、世間ニ眞ノ茶ヲ濃茶ト云ハ非也、濃茶ノ建様ハ手前ニモ身モカハズ、茶ノカタマラヌヤウニ、イキノヌケヌヤウニ建ルカ習也」
 「濃茶呑ヤウ」
 濃茶は、茶葉の固まらないようにともかく一生懸命かき混ぜることが肝要であり、その点、薄茶の場合は点前の作法の美しさを表現することに意義があり、むしろ薄茶の方が真の茶の湯であるとした。
 濃茶については、むしろその飲み方に意義を見出していた。

 

                                   南宗寺(堺市) 実相庵 濃茶席(平成24年4月27日)


 その一考察として、堺の会合衆(かいごうしゅう)は、日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国の世相にあって、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、自衛組織として幕府や守護と関わる役目があり相互の信頼関係の構築に腐心していた。
千利休をはじめ、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人を含む会合衆にとって、上質の茶葉を用いて手間と時間をかけ丹精をこめて練り点てた濃茶をもてなす席では、一味同心(*1)のもと相互信頼の証として一つの茶碗から相互に回して飲むことを習わしとする一座建立(*2)の思想を創造したと考えた。

 
 杭全神社(大阪市平野区)連歌所 および 連歌の会(杭全神社御由緒より)

*1「一味同心」:同じ目的をもって集まり、飲食を共にして一体感を呼び起こすこと。
   応仁・文明の乱の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わり、世相は荘園領主への請願をはじめ、各種一揆が多発し、その集団意識の深層心理を支えた。
*2「一座建立」:主客が時間と空間をともに一体感を生ずるほどに充実した「場」を形成してゆくこと

         

                   PHP研究所、1995年           現代では、パンの代わりにウェハーを使用

 一方、ロンドン生まれでオックスフォード大学卒業後来日し、1960年よりカトリック司祭として東京純心大学教授であったピーター・ミルワード師が、茶道の本席(濃茶席)において点てられた一つの椀の濃茶が会席者の間で飲みまわされる作法は、カトリックのミサで一つの聖杯にそそがれた赤ぶどう酒をイエスの血として飲みまわす作法と共通していることを指摘され注目されている。
 本論では、茶租・栄西禅師開山による臨済宗・東山・建仁寺に伝わる「四つ頭茶会」をはじめ、伝統的な献茶式およびお茶の点前(稽古)の様子とキリスト教のミサ(聖餐式)の作法の事例動画を収録し比較検証していただく機会を提供できればと考えた。


【緑のミサ(茶道)

茶粗・栄西開山 臨済宗 東山建仁寺に伝わる「四つ頭茶会」
  動画は、こちらから

 
 

                左:抹茶入りの天目茶碗                     僧が、順に、天目茶碗に湯を注いでお茶が点てられる

              右:紅白の紋菓と椿の葉に載せた「ぴりコン(醤油で炊いた蒟蒻)」を盛った縁高

 禅宗では、食事の作法も修業の一つであり、食事の最後の喫茶を取り出した茶礼とした。
 栄西禅師が唐の禅院で学んだ喫茶方で、茶道の原形とされる古式にのっとった禅宗式の茶会。「四ツ頭茶礼(よつがしらちゃれい)」とも称される。
 室町時代に、延暦寺の学僧 玄慧法印(げんえほういん)が茶礼のことを記した「喫茶往来」にのっとり行われる
日本最古の茶法といわれる「四頭」は、中国の禅寺の接客形式。4人の正客(頭)が、各8人の相伴客を連れて席に入る
 献香が焚かれ、茶室の広間の四方に座った客の前に、4人の供給僧が抹茶の粉が入った天目茶碗と菓子盆が配られる。給仕役の別の4人の僧が、茶筅(ちゃせん)と浄瓶(じんびん)を持って入り、順に、天目茶碗に湯を注いでお茶が点てられる。

茶道献茶式    
 崇敬の心をもって、神仏や御霊にお茶をお供えする儀式。
今日では、お家元宗匠のご奉仕により、古式ゆかしく、全国の神社仏閣などで献茶式が斎行されている。

 

                                                                      南宗寺(堺市) 献茶式

  日吉大社 裏千家献茶祭
     動画は、こちらから

 日吉大社のある滋賀県大津坂本は伝教大師由来により日本でのお茶発祥の地として知られており、そのご縁から新緑薫る初夏に西本宮拝殿にて裏千家今日庵家元の千宗室宗匠のお手前により濃茶・薄茶二碗を謹点、ご祭神に捧げられた。

お茶手前(稽古)

  
風炉                                   盆略手前セット

 薄茶点前(裏千家)
    動画は、こちらから


 濃茶手前(裏千家)
    動画は、こちらから    スペインから来た友達とのお茶のお稽古体験

    お茶会(裏千家)
    動画は、こちらから  ミャンマー留学生によるお点前


【紅いミサ (パンとブドウ酒の儀式)

レオナルド・ダ・ヴィンチ作 最後の晩餐(修復前) ウイキペディア

 イエスは、パンをとり、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた「とって食べよ、これは私のからだである」。また、杯をとり感謝して彼らに与えていわれた「みな、この杯から飲め、これは、罪のゆるしを得させるようにと多くの人のために流す私の契約の血である」

ミサ(聖餐式)における“パン”と葡萄酒“の作法の事例
  聖餐式-中央福音教会    動画は、こちらから
 
     クリスマス・ミサ-桜町協会
    動画は、こちらから

高山右近生誕の地

 
                    大阪府豊能郡高山町            高山右近像(茨木市立キリシタン遺物史料館)

 高山右近生誕地のキリシタン遺物
   動画は、こちらから


 キリシタン大名として有名な高山右近の生誕地・大阪府豊能町高山地区へ、カトリック日生中央教会の信者を中心とした人たちが訪問され、地域の郷土史研究家と町立資料館職員のお2人から説明を受けた後、西方寺(旧オラトリヨ)、右近生誕の碑、高札場、マリアの墓、高山城跡など右近やキリシタンに関わる地区内の史跡を見学されました。
 史跡巡りの後、西方寺の本堂でカトリックのミサが行われました。

 聖堂(オラトリヨ)があったと思われる西方寺にてカトリックのミサ
   動画は、こちらから


  2015年は右近の没後400年。その年を前に、弾圧を受けながら神に一生を捧げた高山右近を聖人にしようするカトリック信者と、高山右近をテーマにした町おこしを考える地元住民の思いが結びついて、徳川家康の禁教令(1614年)以前にオラトリヨ(聖堂)がその地にあったといわれる 西方寺の本堂でミサが執り行われました

 

SDGs魅力情報 「堺から日本へ!世界へ!」こちらから


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茶湯者の覚悟「濃茶呑ヤウ」 その一考察

2021-02-25 00:27:41 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟十體 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

前田秀一 プロフィール

はじめに

 「日本の茶の湯と、私が長年親しんできたカトリックのミサが大変よく似ているという感じは、茶会を体験した当初からずっと頭にあった。イギリスのアフタヌーン・ティーとミサが似ているなどとは思ったこともなかったのに、日本の茶の湯とミサの間には一見して明らかな共通性が確かに感じられた。」
 ロンドン生まれでオックスフォード大学卒業後来日し、1960年よりカトリック司祭として上智大学および東京純心大学教授であったピーター・ミルワード師(現在上智大学名誉教授)の言葉である。特に、茶道で点てられた濃茶(スイ茶)の一つの椀が会席者の間で飲みまわされる作法が、カトリックのミサで一つの聖杯にそそがれた赤ぶどう酒をイエスの血として飲みまわす作法との共通性を挙げている点が注目される。
 一方、茶道は禅の思想を規範とするが宗教ではない。点前と称する作法は極めて厳格かつ複雑で、これは一種の儀式と言える。山上宗二は、「茶湯者覚悟十體」の「又十體(追加の十体)」の一つとして「濃茶呑ヤウ(飲み様)」を挙げている。


 ピーター・ミルワード師が指摘されたミサにおけるぶどう酒と茶の湯における濃茶の飲みまわしの共通性に関しては確たる論拠を見出せているわけではなく、相互の慣習の中に見られる形式上の相似性から類推しているように思われる。茶の湯の大成の背景を追って『山上宗二記』に見る茶湯者覚悟「濃茶呑ヤウ」について考察してみる。

 1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運び手前

 キリスト教宣教師が、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった。永禄12年(1569)3月、ルイス・フロイスは茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であると認め、茶室は在地のキリスト教信者を集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であると報告した。

フランシスコ・ザビエル 堺港上陸(1550年)顕彰碑 

 ジョアン・ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡で『日本教会史』を著したことに言及し、「私は日本に45年間滞在して、今では最も古参の者となった。・・・私は関白殿の迫害〔天正15年(1587)伴天連追放令〕前後の日本のことについて、今日までのところ誰よりもよく知っており、日本の言語と歴史に精通し、宗教に関しても特に研究したので何人にもまして知っているからである。日本国のことと習慣については、すでに大部分を正確に記述した。・・・特に一言しておきたいことは、私の目的は事実を明らかにすることであって、文章を整えることではない。文章のことは、その名声とともに、他人のために残しておく。」と書いた。
 茶の湯については正確に理解し、その中で第32章から第35章の4章にわたって詳細に書きあらわし、茶の湯の記録書としても高く評価されている。

 数寄の家(茶室)で特別な客人に濃茶でもてなす作法において、その飲み様について以下のように記している。
 「客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。」
 客に伺いを立てたうえで要望に応えて濃い茶を点て、参加者の内でも主賓に敬意を表して濃茶を飲みまわすと記した記述は、客をもてなす亭主の心を見事に観察した表現である。この記録は、アルメイダやフロイス、なかんずくアルメイダの報告を引用したアレサンドロ・ヴァリニャァーノの形式的な表現を超えて現実を踏みこんで観察したもので、千利休が大成した運び手前の茶の湯の心を十分に理解した記録として貴重である。

 2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

 ジョアン・ロドリゲスが著作『日本教会史』に記録した四種の茶の種類の記録は、天寺屋宗達起筆による『天王寺屋會記』の天文年間後期(1548~1553)に見ることができる。

拡大詳細版は、こちらから

 

 もてなしの手順として、三例(天文17年12月23日、天文18年2月11日、12日)を除けば、先ず、上質の茶葉でもてなし、その後、より品質の低い茶葉で薄茶をもてなしていることから、最初にもてなされた御茶または茶は濃茶であると思われる。
 天文年間以降、『天王寺屋會記』には茶の種類および濃茶の記録は見られなくなったが、天文2年(1533)奈良の塗師・松屋久政が起筆した『松屋會記』および博多の豪商・神屋宗湛が天正14年(1568)11月九州島津征討を計画する秀吉軍の兵站物資調達参画を目的として天王寺屋宗及の招きで上洛したのを機会に起筆した『宗湛日記』では、天正14年から天正18年にわたってコイ茶(スイ茶)の記録がある。
 茶の飲みまわしについて以下の事例がある。

  天正14年9月28日朝(『松屋會記』)   亭主・山上宗二  客・豊臣秀長、松屋久政 

   ・・・茶は極ム、如何ニモ如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、初口(松屋)久政、次(豊臣秀長)也、(山上)宗二取テ参ル、又圍ヘ返シ、呑間ニ壺キンシテ出サル、見ル間ニ何モ水指マテ入ル・・・

  天正17年9月24日朝(『松屋會記』)   亭主・豊臣秀長  

   ・・・スイ茶御手前ニ而御茶被下ル・・・鬮(くじ)取ニ而御座敷ヘ参ル・・・
             一クシ 宗立 宗方 二人          二クシ 宗有 久政 二人
              三クシ 道可 紹斗 二人          四クシ 壽閑 関才次郎 二人
              五クシ 等旧 有俊 久好 三人

 濃茶には、最上級の茶葉を用い、飲みまわしをするが、参会者の人数が多い場合には、その順番をくじ引きで決めることもあった。

 3.茶の湯大成の背景

 「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。・・・」
 これは、松尾芭蕉が貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石の旅をつづった芭蕉第3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に書かれた有名な風雅論の一節である。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張したもので、それぞれの時代の文化の背景を言い得て妙である。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった。
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展していった。

 住吉大社の「開口庄官」などを起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する有力商人たちが台頭し会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った。
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた。
 財政が破たんした室町幕府は、将軍家の所有していた美術品を売却したり、代物弁済するようになっていった。経済力をつけていた堺の豪商はじめ有力者たちは、「東山御物」の唐物絵巻や美術工芸品、茶道具を競って入手した。
 室町時代の文化の特徴は、集団芸能の発達にあり、連歌はその代表例である。複数の人が一ヶ所に集まって、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を分けて交互に詠みつづけて一つの作品を仕上げて行く連作形式の詩である。

 
 杭全神社(大阪市平野区) 連歌所 および 連歌の会(杭全神社御由緒より)

 神津朝夫氏は、『山上宗二記』を精査、解読され通説に対して異論を提唱されている。その論の一端を引用して以下に連歌に関する記述を要訳した。
 武野紹鴎は三条西実隆に連歌の指導を受け、日本の歌論『詠歌大概』から美意識を学び、それを茶の湯に応用して侘び茶を方向付けた。それは、伝統的に評価の確立している茶道具をつかい、そこに新たな趣向を生み出す道具組を編み出すというものであった。
 昔から茶の湯の名人とされる人は、道具一つさえあれば侘び茶を点てることができるといわれている。若いころは格調が高くあっても、ゆく先々には連歌師・心敬が詠んでいるように「枯れて寒々とした」という境地を得るようになりたいものだ、と武野紹鴎は日頃から弟子の辻玄哉に云っていた。
 連歌の一座と同じように、紹鴎は茶の湯の座は、そこに集まる人々が、利害共同者として商売の話や諸大名の動向に関する情報交換など世間雑談を行う場であると口伝したが、宗易(利休)はそれを嫌って、「常」の茶会でも一生にただ一度の会のように亭主を敬い、連歌師・牡丹花肖柏が狂歌に歌っているように世間雑談のないものであることを求めた。

          

天目台 唐物茶碗       焼物茶碗(畳に直接置く)

     
 武野紹鴎は、連歌の世界から学んだ伝統的な美意識を活かして唐物道具を集め、立派な座敷で道具を見せる茶の湯を目指した。
 千宗易は、武野紹鴎の教えを辻玄哉を通して伝え聞いたが、武野紹鴎と違って連歌にも深入りすることなく、伝統的な茶道具を揃えることはしなかった。むしろ運び手前や作法を見せる侘び数寄を大事とし、茶席の振る舞いも一生にただ一度の会(「一期一会」)のように亭主と客人が相互に敬い合い、緊張感を持った静かな一座(「和敬清寂」)とすることを目指した。

 4.「濃茶呑ヤウ」 考察

 『山上宗二記』に「茶湯者の覚悟」(茶の湯を嗜む者の心得)が記されており、その中に本論に関わる二条に注目した。
 「薄茶ヲ建ルカ専一也、是ヲ眞ノ茶ト云、世間ニ眞ノ茶ヲ濃茶ト云ハ非也、濃茶ノ建様ハ手前ニモ身モカハズ、茶ノカタマラヌヤウニ、イキノヌケヌヤウニ建ルカ習也」
 「濃茶呑ヤウ」
 濃茶は、茶葉の固まらないようにともかく一生懸命かき混ぜることが肝要であり、その点、薄茶の場合は点前の作法の美しさを表現することに意義があり、むしろ薄茶の方が真の茶の湯であるとした。
 濃茶については、むしろその飲み方に意義を見出していた。

 

南宗寺 実相庵 松孤軒 濃茶席 (平成24年4月27日)

 ジョアン・ロドリーゲスは、濃茶は、一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記している。
 また、飲む段にあっては、その順番は主賓からと一座の客の間で暗黙の了解があり、主賓の後は、相互に同席の客人に礼を尽くしながら順番に飲みまわしていく互礼の形式として著しており、1596年に司祭の資格を取得していたが、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することなく茶の湯の作法としてのみ記述していた。
 千利休の高弟七人衆(利休七哲)の中には、高山右近をはじめキリシタンとなった大名が4人もいたため利休のキリシタン説が話題にされているが、ロドリーゲスに先立って日本での宣教活動に取り組んでいたルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ、ロドリーゲスとともに、当時、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 一方、天正14年(1586)9月18日朝(『松屋會記』)、山上宗二が亭主として豊臣秀長と松屋久秀をもてなした濃茶飲みまわしの席に事例が見られる。その他特異な例としては、一座の客人数が多い場合に、飲みまわしの順番をくじ引きで決めることもあった(『宗湛日記』:天正15年1月3日、『松屋會記』:天正17年9月24日朝)。
 中世の頃、一揆が社会的に許容され、多くの人々が共同で飲食して一体感を呼び起こす「一味同心」の風潮が強かった。
 自治都市・堺にあっては、会合衆と呼ばれた有力者によって治められており、その顔触れは紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及など10人衆で、高名な茶人を含んでいた。
 これら会合衆は、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、さらに外交・自衛組織となり幕府や守護と関わる役目があり相互の信頼関係の構築と結束が求められる立場にあった。茶の湯を通して一味同心の環境づくりには腐心していたと考えられる。

 まとめ

  ルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ、ジョアン・ロドリーゲスとともに、16世紀後半、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 ロドリーゲスは1596年に司祭の資格を取得していたが、濃茶は一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記し、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することはなかった。
 一方、『松屋會記』や『宗湛日記』など茶会記にも茶の飲みまわしに関する記禄があり、天正14年(1586)9月18日朝、山上宗二が亭主として豊臣秀長と松屋久政を濃茶でもてなす席に飲みまわす事例が見られる。特異な事例としては、参会の客人が多い席にあって、くじ引きで飲む順番を決めることもあった。
 日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国時代にあって、利害の異なる諸集団を一つの
都市としてまとめる調停機能を持ち、自衛組織として幕府や守護と関わる役目があった堺の会合衆は相互の信頼関係の構築に腐心していた。
 千利休をはじめ、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人を含む会合衆にとって、上質の茶葉を用いて手間と時間をかけ丹精をこめて練り点てた濃茶をもてなす席は、一味同心のもと相互信頼の証として一つの茶碗から相互に回して飲むことを習わしとしたと考える。


詳論目次

  はじめに

  1.ジョアン・ロドリゲ‐スが見た「濃い茶」運び手前

  2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

  3.茶の湯大成の背景

  4.「濃茶呑ヤウ」 考察

  5.まとめ

  註および参考文献

 

山上宗二忌 懇話会 奥左から 谷本陽蔵氏 角山 榮氏 神津朝夫氏 小野雲峰氏

(平成25年4月22日 南宗寺塔頭・天慶院)

謝 辞
 昨年(平成23年4月11日)、「はなやか関西~文化首都年~2011“茶の文化”」協賛行事「山上宗二忌」(堺市・臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・天慶院)において主宰者・(株)つぼ市製茶本舗会長 谷本陽蔵様のご厚意により恥を顧みることなく拙論「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」説明の機会をいただきました。
 それを機会に、郷土・堺の文化「茶の湯」について一層関心を高め、ライフワークとして取り組む励みとさせていただきました。
 さらに、谷本陽蔵様には南宗寺献茶式(平成24年4月27日)へお誘いをいただき、初めて濃茶を含む大茶会を体験し「茶の湯」の深淵なる奥に触れさせていただきました。
 奇しくも、千利休の高弟・山上宗二により著された『山上宗二記』に茶湯者覚悟十體の一つして「濃茶呑ヤウ」が挙げられており、その意義について自問するところとなりました。
 その意図するところを掘り下げて学びたいという思いに駆られ本論を起こすことになりました。
 「山上宗二忌」事務局・堺市立泉北すえむら資料館学芸員 森村健一様には、本論をご校閲いただきました上に、再び「山上宗二忌」(平成25年4月11日)においてご説明の機会をお勧めをいただき、谷本陽蔵様にご紹介の労をお取りいただきました。
 我が身の未熟さも省みることなく、思いに任せてお言葉に甘えさせていただくことにしました。これも、ひとえに谷本陽蔵様と森村健一様のご厚意の賜物と深く感謝いたします。
 また、本論の構成に際して、浅学非才の故に先学の多くの玉書・玉論に学ばせていただき、それぞれの成果を幅広く引用させていただきました。ここに原著者各位に寛大なるご容赦をお願いしますとともに厚く御礼申し上げます。 

 

SDGs魅力情報 「堺から日本へ!世界へ!」は、こちらから 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「濃茶呑ヤウ」 はじめに

2021-02-25 00:26:56 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」その一考察

詳しくは こちらから

前田秀一 プロフィール

はじめに 

 「日本の茶の湯と、私が長年親しんできたカトリックのミサが大変よく似ているという感じは、茶会を体験した当初からずっと頭にあった。イギリスのアフタヌーン・ティーとミサが似ているなどとは思ったこともなかったのに、日本の茶の湯とミサの間には一見して明らかな共通性が確かに感じられた。」1)(8頁)
 ロンドン生まれでオックスフォード大学卒業後来日し、1960年よりカトリック司祭として上智大学文学部教授を経て東京純心大学教授であったピーター・ミルワード師の言葉である。特に、茶道で点てられた濃茶(スイ茶)の一つの椀が会席者の間で飲みまわされる作法が、カトリックのミサで一つの聖杯にそそがれた赤ぶどう酒をイエスの血として飲みまわす作法と似ていると挙げている点が注目される。
 キリスト教におけるパンとぶどう酒による共同飲食行為の儀式のルーツは、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」に遡るといわれている。イエスが十字架につかれる前夜、エルサレムのある2階座敷で弟子たちとともにもった記念の晩餐会のことであった。
 イエスは、パンをとり、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた「とって食べよ、これは私のからだである」。また、杯をとり感謝して彼らに与えていわれた「みな、この杯から飲め、これは、罪のゆるしを得させるようにと多くの人のために流す私の契約の血である」
 ミサでは、信者たちの平和の賛歌が唱和される中、司祭はパン(現代ではウエハー)を拝領し、次いでぶどう酒を飲み干す。助祭は次に杯をいただき飲みまわす。そして聖体拝領の歌のなか、信者たちの拝領の儀式が行われる。2)(117頁)
 一方、茶道は禅の思想を規範とするが宗教ではない。点前と称する作法は極めて厳格かつ複雑で、これは一種の儀式と言える。山上宗二は、「茶湯者覚悟十體」の「又十體(追加の十体)」の一つとして「濃茶呑ヤウ(飲み様)」を挙げている。3)(92頁)

 濃茶の飲みまわしについては、天正14(1586)年9月28日朝、豊臣秀長の茶頭・曲音の郡山の屋敷で秀長を迎えて山上宗二がスイ茶(濃茶)を差し上げた記録が初見と思われる。
 「・・・茶は極ム、イカニモ如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、初口(松屋)久政、次(豊臣秀長)也、(山上)宗二取テ参ル、又圍ヘ返シ、呑間ニ壺キンシテ出サル、見ル間ニ何モ水指マテ入ル・・・」4)(124頁)
 天正14年は、千利休が65歳のときで、前年、利休居士号を勅賜され、天下一の茶人として絶頂期にあり、茶の湯が大成していった時期であった。5)(761頁)
 ピーター・ミルワード師が指摘されたミサにおけるぶどう酒と茶の湯における濃茶の飲みまわしの共通性に関しては確たる論拠を見出せているわけではなく、相互の慣習の中に見られる形式上の相似性から類推しているように思われる。茶の湯の大成の背景を追って『山上宗二記』に見る茶湯者覚悟「濃茶呑ヤウ」について考察してみる。                    

                                              目 次

                                                   1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運びの手前   本文はこちらから
                                         2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服おもてなしの事例   本文はこちらから
                                         3.茶の湯大成の背景   本文はこちらから
                                         4.「濃茶呑むヤウ」考察   本文はこちらから
                                         5.まとめ 謝辞  本文はこちらから
                                                 
                                                 註 および参考文献   詳しくはこちらから

 

SDGs魅力情報 「堺から日本へ!世界へ!」は、こちらから


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「濃茶呑ヤウ」 ロドリゲスが見た「濃茶」運び手前

2021-02-25 00:26:14 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

詳しくは こちらから

前田秀一 プロフィール

1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運び手前

 キリスト教宣教師が、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった6)。永禄12年(1569)3月、ルイス・フロイスは茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であると認め、茶室は在地のキリスト教信者を集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であると報告した7)。

フランシスコ・ザビエル 堺港上陸(1550年)顕彰碑(堺市・ザビエル公園)

 天正9年(1581)、日本におけるキリスト教布教状況巡察のため来日したアレサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人の新奇な風習として茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることおよび領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した8)(23頁)。
 「日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲み物が用いられている。彼らの間では、はなはだ重視され、領主たちはことごとく、その屋敷の中にこの飲み物を作る特別の場所をもっている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本では最も尊重されるから、身分の高い領主たちは、この不味い飲み物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲み物を作る。」
 五畿内巡察の後、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」と題する在日イエズス会員の「礼法指針書」を著し8)(256頁)、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際には、「日本の大工により日本風に建築され階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した9)(22頁)。
 その成果は、織田信長自らが安土城のおひざ元に土地を手当し、高山右近の献身的な尽力もあって、天正9年(1581)7月茶室を有する立派なセミナリオ(神学校)として実現した9)(15頁)。
 内容的には、「茶と称する草の粉末」という表現とその後に銘物として「鉄の五徳蓋置」を挙げている点から推察して日比屋了珪の茶室での体験を報告したアルメイダの報告を引用したものであった。
 日本からヨーロッパに茶葉が輸出されたのが1609年、平戸からオランダ船に積み込まれ、バタビアを経て1610年アムステルダムへ運ばれたのが初めてであった10)(155頁)。従って、ヨーロッパ人として茶葉について驚きを持って表現したのはやむを得ない。
 ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡で『日本教会史』を著したことに言及し、「私は日本に45年間滞在して、今では最も古参の者となった。・・・私は関白殿の迫害〔天正15年(1587)伴天連追放令〕前後の日本のことについて、今日までのところ誰よりもよく知っており、日本の言語と歴史に精通し、宗教に関しても特に研究したので何人にもまして知っているからである。日本国のことと習慣については、すでに大部分を正確に記述した。・・・特に一言しておきたいことは、私の目的は事実を明らかにすることであって、文章を整えることではない。文章のことは、その名声とともに、他人のために残しておく。」と書いた11)(40頁)。
 茶の湯については正確に理解し、その中で第32章から第35章の4章にわたって詳細に書きあらわし、茶の湯の記録書としても高く評価されている。
 その一端として、茶葉について高い認識を持っていたことは注目に値する。「通常、茶に四種類、四等級があって、精製の度合いがちがっている。第一のものは最上で、いちばん優れた最初の芽の葉であって、極上(Gocujo)と呼ばれる。すなわち最高級の茶という意味である。それに次ぐ第二のものは別儀(Bechigui)、第三のものは極揃(Gocusosory)、第四のものは別儀揃(Bechiguy sosory)と呼ばれる。これ以下のさらに下等な茶に別の等級があるが、それは問題にされないし、珍重される部類に入らない。ここ数年来、第一級の良質のものの中で、さらに優れたものを精選した。それには名はつけられなかったが、白袋(Xirabucuro)と呼んでいる。」11)(572頁)
 「茶の普通の価格は次のとおりである。第一級の極(Gocu)は一カテにつき銀六テールで、別儀は四テール、そして極揃は二テール、最後に別儀揃は一テールである。」11)(574頁)。

 本論で対象とするお茶のもてなしのあり方については、「碾かれた緑色の粉末は、上質の漆の小筥(棗)、または同じ用途を持った陶土の小さな一種の壺(茶入れ)に入れる。そして、それ専用の竹製の小匙(茶杓)で、これらの粉末を取って一匙か二匙磁器(茶碗)に入れ、この場合のためにいつも用意してある沸騰した湯をすぐその上に注ぎ、かねてこのために調えてある竹製の小さな刷毛(茶筅)で、優雅に、かつ器用にそれを撹きまぜる。そうすると、緑色の茶の粉末が溶けて粒がなくなり、同じ色をした湯のようになる。このようにして茶そのものを飲む。」11)(586頁)「この普通方法のほかに、特殊な歓待と好意をもって、ある客人をもてなすために、別の特殊な方法が移入された。それを茶の湯(chanoju)と呼んだが、今日では数寄(suky)といっている。」11)(587頁)
 数寄の家(茶室)で特別な客人に濃茶でもてなす作法として以下の記述がある。
 「戸を少し開き、戸をあけることで客人に入って来てもよろしいとわからせておいて、奥に引きさがる。客人は手と口を洗ってから、再び家の中に入って、新たにまたそこに置かれたものと茶を飲ませるための道具を最初と同様に改めて見直し、ごく静かに各人の席に帰って着座する。家の主人が出て来て、茶を飲みたいかどうかを聞き、客人が礼を述べて飲みたいというと、主人は必要な器物を持って来る。もし貴重な小壺を持っているならば、碾いた茶をそれに入れ、絹の小袋に包んで持って来て、それから袋を取って小壺を置き、磁器(茶碗)を洗ってきれいにし、その磁器の中に竹製の匙で茶を入れる。粉を小匙一杯注いで、「どうぞ皆様方薄い茶を召し上がってください。それは悪い茶ですので」という。その時客人は、それが上等なものであって、濃くして飲むものだと知っているので、濃くするように家の主人に頼む。そこで、主人は十分なだけさらに茶を加えて、その用途にあった器(茶柄杓)で深鍋から湯を汲みとり、たいそう熱い湯を粉の上に注いで、竹の刷毛でかきまわす。このようにしてそれを客人の前の藁座(畳)の上に置く。
 客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。また、初めて壺の口を開いた時には、どのようになっているかを見るために、最初に家の主人が自分に試飲させてほしいと請うことが往々にある。」11)(630~631頁)
 客に伺いを立てたうえで要望に応えて濃い茶を点て、参加者の内でも主賓に敬意を表して濃茶を飲みまわすと記した記述は、客をもてなす亭主の心を見事に観察した表現である。この記録は、アルメイダやフロイス、なかんずくアルメイダの報告を引用したヴァリニャァーノの形式的な表現を超えて現実を踏みこんで観察したもので、千利休が大成した運び手前の茶の湯の心を十分に理解した記録として貴重である。

 

SDGs魅力情報 「堺から日本へ!世界へ!」は、こちらから


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする