堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

世界遺産登録を目指して 百舌鳥・古市古墳群 発掘調査

2018-06-01 01:59:24 | 世界遺産登録を目指して!

一般公開:平成24年12月1日(土)~2日(日)午前9時~午後4時
主催:堺市  協力:宮内庁

前 田 秀 一

「堺から日本へ!世界へ!」主宰

関連ページ(リンク先): 歩いて見た世界遺産の登録基準 百舌鳥古墳群

                   堺市市政要覧「堺NOW」2003、4頁(堺市長公室、2003年3月)より

                              現地案内板

広瀬和雄「巨大古墳の環大和政権配置」『百舌鳥野の幕開け発表資料集』108頁(堺市、2010年)

 「ニサンザイ」は「ミサンザイ」すなわち「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地」に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが規模が小さいために、こちらを反正天皇陵とする説がある。〔ウイキペディア「土師ニサンザイ古墳」〕

一般公開現地説明資料より(説明文字拡大追記)

 

「墳丘」(宮内庁管理)領域の表示                宮内庁・堺市管理境界(水際)   

<発掘調査の経緯>
 宮内庁では、東百舌鳥陵墓参考地(ニサンザイ古墳)の裾周りで水の浸食により崩落が進んでいるため、護岸整備工事を行うに当たり、工事の工法などを検討するための事前調査が計画された。
 堺市は、ニサンザイ古墳のより適切な保存と活用を図るため、宮内庁管理外の墳丘裾や濠内の遺構・遺物の状況を確認する目的で発掘調査を計画した。
 両者が同時に調査を行い、その成果を共有することで、ニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地)に理解をより深めることができるなどのメリットがあるため、平成24年10月から同時に調査を実施している。
 宮内庁と自治体の同時調査は、2008年の「御廟山古墳」(堺市)に次いで2例目で、同古墳の「墳丘」や「裾」を発掘するのは初めてである。

 

」 表示箇所 「造出し」部               「須恵器 甕」  「埴輪列」 (拡大)

 

            「くびれ」部           表示板(左から) 「一段目斜面」 「転がり落ちた埴輪」 「造出し斜面」

 宮内庁は、管理する「墳丘」部分の19ヶ所を発掘し、「墳丘」最下段の一段目「テラス」や「墳丘」くびれ付近につきだした「造出し」に直径35cmの埴輪の列が検出され、二段目斜面の「下端」や「葺石」が確認された。一段目「テラス」の全周は約1kmと見込まれ、検出された「円筒埴輪」の状況から換算すると約2,800本が並んでいることが推定される。

                                 「」 表示箇所 「墳丘」部

「表示」板(上から) 「二段目テラス」、「二段目斜面」、「位置表示②」、「葺石」、「一段目テラス」、「埴輪列」

 

」 「葺石」拡大                       「埴輪列」拡大

「葺石」事例(五色塚古墳-神戸:ウイッキペディア)

注釈「葺石」:
 古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いた。その祖形は弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数をしめる。〔ウイキペディア「葺石」〕

 「墳丘」から突き出した「造出し」からは、円筒形埴輪や朝顔形、蓋(きぬがさ)形があり、須惠器の甕(かめ)や土師器(はじき)の小型壺、ミニチュア土器などが出土し、テラス状の「造出し」を祭祀場として祭り用具に使われたと見られる。
 これら出土物は、形や製作技術などから5世紀後半のものと考えられる。

  

  

           「」 表示箇所 「墳丘」埴輪列(上部)と「裾」(下部)発掘              「墳丘」テラスの埴輪(上部、拡大)
 

 堺市が所有する周濠の調査区では、濠の底で本来の墳丘「裾」を確認した。そこは、従来の「墳丘」長を計測した地点から5m以上離れており、未調査の前方部でも同等以上の間隔を想定した場合、「墳丘」長が300m(290m+5m×2)を超えるものと見込まれる。

 宮内庁と堺市の調査結果を合わせると「前方」部から「造出し」にかけての状況がほぼ復元できる。「墳丘」二段目の斜面の「下端」から「濠」にかけての古墳築造時の計上を検討することの可能性が得られた。
 従来、「ニサンザイ古墳」は、天理市の渋谷向山古墳(景行天皇陵、全長300m)に次ぐ全国8番目の大きさとされていたが、全国で第7番目の規模であることが分かった。
 百舌鳥古墳群では、全長200mを超える古墳としては大仙(仁徳稜)古墳(全長486m)、石津丘(履中陵)古墳(全長365m)に次いで土師ニサンザイ古墳が第3番目の規模である。

 

<筆者コメント>

 主要な古墳が、天皇陵と伝承されている百舌鳥古墳群において、「墳丘」は宮内庁の管理下にあり一般人は立ち入り禁止区域となっています。
 この伝統的な事実は、「顕著に普遍的な価値を有していることを大前提」としている世界遺産登録の趣旨に対して越えなければならない課題となっています。
 また、世界遺産登録を観光資源として考えた場合、訪問者への公開は必然的条件であり、前方後円墳という日本独特の形式墓をどのように見せるのかを含めて、古墳の見せ方の問題が問われています。
 
今後、堺市と宮内庁では、お互いの調査結果を共有して検討を進め、ニサンザイ古墳の規模や形状などを明らかにされる予定ですが、この協働が百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録に向けてBreakthroughとなることを願っております。

 

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堺ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修会

2018-06-01 01:59:03 | 世界遺産登録を目指して!

彦根ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修交流会


                                日時:平成29年7月2日(日) 午前10時~午後4時
                                場所:堺市博物館、百舌鳥古墳群、さかい利晶の杜
                                指導:堺市・世界文化遺産推進室、堺市博物館
                                参加者:彦根ユネスコ協会 会員 計18名(バス訪問)
                                     堺ユネスコ協会  会員 計  6名

1.「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録について 午前10時~11時30分
 1)VR映像「百舌鳥古墳群 ― 時を超えて ―」上映鑑賞(シアター)

 

   2)解説・講義 講師:堺市世界文化遺産推進室 

 

  ①「歴史・文化のまち 堺」
          古代⇒中世⇒近代⇒現代⇒未来、「大阪」は昔は海だった、もののはじまりなんでも堺
  ②「百舌鳥・古市古墳群」について
     百舌鳥古墳群の概要、古市古墳群の概要、宮内庁との連携(百舌鳥古墳群、古市古墳群、
     同時調査・現場見学会開催(御廟山古墳、ニサンザイ古墳)
  ③世界文化遺産登録実現に向けて
     経過説明、体制づくり、役割分担、シンポジウム開催(大阪、東京)
    堺市独自の取組
     堺まつり、市内各区民まつり、世界文化遺産講演会開催
    市民主体の取組
     「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産を登録応援する堺市民の会」設立(平成27年6月)現在会員2万人
     「仁徳陵をまもり隊」(平成18年以降、年2回古墳周囲清掃活動)
    民間企業・団体などの取組
     大阪府立工科高等学校(ペットボトルキャップアート制作、いたすけ古墳水質浄化)
     金融機関・南海電車PRポスター制作展示
  ④「百舌鳥・古市古墳群」の推薦書原案について
    概要
     〇古墳時代中期(4世紀後半~5世紀後半)に築造され、多様な形と大小さまざまな規
      模の古墳が密集して造られる。
     〇列島最大級の前方後円墳が築造され、全国各地の古墳づくりの見本とされた。
     〇古墳は葺石や埴輪で飾られた。また、墳丘を掘り込んで埋葬施設が造られた。
      墳丘そのものが埋葬の祭りの舞台であった。
    構成資産について
     〇現存89基から古墳時代中期に属し、かつ保存状況の良好な古墳49基45件(百舌
      鳥エリア23基21件、古市エリア26基24件)の古墳を選択
    顕著な普遍的価値
     〇二つの基準を適用
      基準(ⅲ):文化の物証
        ◆古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
        ◆百舌鳥・古市古墳群 各地の古墳築造の中心
      基準(ⅳ):歴史上重要な建築物の顕著な見本
        ◆巨大かつ整美な墳丘=土製モニュメント、儀礼の舞台、大規模な労働力、
     高度な技術
                 ◆百舌鳥・古市古墳群 古代応募の顕著な見本
  ⑤来訪者を迎える「おもてなし」について
    〇古墳を身近に体感してもらえるよう、履中天皇陵北側にビュースポット(視点場)を整備(平成29年5月末完成)
    〇「古墳」の価値や雄大きさを知ってもらうために、「(仮称)百舌鳥古墳群がダンス施設」を建設(平成31年会館を目指す)
    〇堺市博物館に百舌鳥古墳群ガイダンスコーナーを開設
      迫力ある映像で、世界最大級の墳墓・仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群の雄大さを体感していただけるよう
      大型スクリーンで上映する百舌鳥古墳群シアター、百舌鳥古墳群展示コーナーなどを設置
    〇みんなが快適で安心・安全に使えるおもてなしトイレを整備(だれでもトイレ・キッヅトイレ)
    〇さかい利晶の杜や由緒ある神社仏閣のある旧市街地エリアと世界文化遺産登録を目指す仁徳天皇陵古墳や博物館のある大仙公園
      エリアを乗り換えなしで巡ることができる。

2.堺市博物館常設展示視察 午前11時30分~

 

3.昼食交流 Café IROHA(大仙公園内) 12時~13時

   

歓迎の挨拶 堺ユネスコ協会 今堀副会長           会食 自己紹介を兼ねて交流会

4.百舌鳥古墳群視察 午後1時~3時
  基本コース:(A班、B班 各班逆廻り)
   仁徳天皇陵⇒履中天皇陵視点場⇒いたすけ古墳⇒仁徳天皇陵正面(記念写真撮影)

   
仁徳天皇陵 正面 概要説明              履中天皇陵 視点場

 
   いたすけ古墳(猛暑のためか、タヌキの出迎えなし)

 昭和30年(1955年)頃、土砂の採集と住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪(堺市博物館所蔵)は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
 この工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われた。伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となった。橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。タヌキが住んでいるが、暑い為か今日はお出迎えなし。


 
大阪府立堺工科高等学校生徒によるいたすけ古墳堀の水質浄化システム研究説明


参加者 

5.さかい利晶の杜企画展「FUN FUN KOFUNTEN」視察 午後3時30分~

 

 

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「金剛俳句」第6集(平成三十年一月二月~ )

2018-06-01 01:58:42 | 俳句

                         「金剛俳句の趣旨」および自作「入門編」は、こちらから
                         「金剛俳句」自作編 第2集 「小川誠二郎師の遺志を継ぐ」は、こちらから
                         「金剛俳句」自作編 第3集 「新たな自己発見に向けて」は、こちらから
                         「金剛俳句」自作編 第4集 「作句の境地に魅かれて」は、こちらから
                         「金剛俳句」自作編 第5集 「花鳥諷詠 精進の課程」は、こちらから

前田秀一  HP「堺から日本へ!世界へ!」主宰

 

金剛俳句 第四十五回 兼題 こどもの日、薔薇 (平成三十年六月二日)


青き薔薇人智注ぎて夢かなふ
選句:〇〇〇〇〇〇

   
手描き技空翔く堺鯉幟                  胸に薔薇出番幼児目に余裕
選句:〇〇〇                           選句:〇〇〇

 

金剛俳句 第四十四回 兼題 桜 朧   (平成三十年五月三日)

 
咲き満ちて惜しげも無きや散る桜
選句:〇〇〇〇

  
乙女が手桜枝垂れて甘へをり                                金剛の水面に影なく山朧
選句:◎◎                                                     選句:〇〇

 

金剛俳句 吟行「桜観と古寺・最新技術融合歴史体験」

兼題:桜 四月馬鹿(万愚節)   平成三十年四月一日(日)

 
古寺に聴く堺の栄華桜狩り
選句:〇〇〇〇
    

「茅渟の海」さざ波・おもてなしこちらから(動画) 

桜人雅に遊ぶ古寺絵巻
選句:〇〇〇

  
耳遠し相づち笑顔万愚節
選句:◎○○

 

金剛俳句 「大阪城梅林」吟行 兼題 梅 (平成三十年二月二十八日)

金鯱の屋根緑映ゆ梅佳境
選句:〇〇〇

 

梅盛り枝間に雄々し大阪城                  梅が香に詩情を追ひし吟行や
選句:〇〇                                         選句:〇〇

 

 

金剛俳句 第四十三回 兼題 初日   (平成三十年二月四日)

今夜蕎麦過ぎ越し方の味深む
選句:〇〇

 

まるまるとだるま重ねの網の餅                    河内野の悠久の光初日の出
    選句:〇〇                                  選句:〇

 

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泉州堺の石工活躍の背景 家康・宗薫・政宗 その出会いと連携

2018-06-01 01:58:19 | 歴史

<語り部講座>
   仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その2


徳川家康 今井宗薫 伊達政宗 その出会いと連携

前 田 秀 一

「堺から日本へ!世界へ!」主宰


   「関連情報」
     堺の歴史とまち文化  詳しくはこちらから
     仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その1  詳しくはこちらから
     利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康  詳しくはこちらから

 仙台城の石垣造りに馳せ参じ、完成後の移徒式の宴席で踊ったと伝わる泉州堺の石工衆の“粋”(ダイナミズム)に感じて“堺すずめ踊り”の普及活動に取り組み、今年10周年を迎えた。


 

第40回堺まつり 仙臺すずめ踊り 伊達の舞     第30回仙台・青葉まつり 堺すずめ踊り


 図らずも、今年から来年にかけて大坂冬の陣(慶長19年11月)および大坂夏の陣(慶長20年5月)以来400年目を迎えるのを記念して、太閤・秀吉没後の豊臣家や「大坂の陣」についての理解を深める事業「大坂の陣400年天下一祭り」が大坂城公園および周辺地において開催されることになった。

 折しも、30年ぶりの発掘調査の結果、豊臣期大坂城の中枢を占めた重要な石垣の部分が発見され、さらに平成27年(2015年)に向けて全体像が明らかにされる予定である。
   「豊臣石垣コラム」 詳しくはこちらから

 豊臣期大坂城の石垣の築造は、自然石をそのまま積み上げる「野面積(のづらづみ)」方式と言われているが、これは織田期安土城の築城の際に「穴太衆」が駆使した石垣づくりの工法であり、近世初頭の城郭づくりに活かされ広く普及した。

      
安土城 野面積み石垣          自然石の中には、神仏を否定した信長の命で仏石も使用された


 泉州の石工は、近世に和泉国日根郡、現在の大阪府阪南市、泉南市、泉南郡岬町付近を本拠に全国で活躍した石工集団で、近世初期に同じ近畿地方から出て全国で活躍した。
  

  

     宝永4年(1707)堺絵図 「石屋町」、「北石切町」、「南石切町」    泉州・堺の石工頭領 黒田屋八兵衛墓碑


 近江の穴太衆と異なるのは、近世城郭の巨大な石垣建設のための石組み工事より、むしろ石彫を得意とし石材の細密な加工や細かな碑文の製作も可能で、築城が活発でなくなった近世中期以降にもその足跡を各地に残し活動時期が長かったことが知られている。

 泉州・堺の石工が仙台城で築造した石垣は「野面積」であった。
     仙台市文化財調査報告書 第270号「仙台城址3」平成15年度報告書 詳しくはこちらから

 安土城の築造は、「天下布武」を掲げる織田信長が陣頭に立って進め、豊臣期の大坂城は「天下惣無事」令の威容を表す城として築造された。伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て青葉山に登り、徳川幕府の「天下普請」に先駆けて仙台城の縄張りをはじめた。
 関東を超えて遠距離にある奥州・仙台への泉州・堺の石工の派遣は、堺の茶人で商人であった今井宗薫によって斡旋されたが、今井宗薫と伊達政宗の出会いの機会がどのように設けられたのか、それがどのように展開して繋がっていったのか、高橋あけみ氏の研究成果(1)の中に経緯を追ってみた。
 


 伊達政宗と今井宗薫の出会いは、天正18年3月1日、豊臣秀吉が東国征伐の第1段として北条氏の小田原城攻めに出陣した時であった。
 政宗は秀吉の東国征伐の本気度に驚き、あわてて小田原に参陣し6月5日に到着したが、遅参を怒った秀吉が会見を拒否し底倉に待機を命じられた。
 6月7日、施薬院全宗ら5名により尋問を受けた後、翌8日に宗薫が施役院全宗とともに千利休の代理で政宗を見舞い、二人が初対面した。
 6月9日、秀吉に対面して釈明した際、政宗は「千利休の茶の湯を拝見いたしたい」と申し出て秀吉のご機嫌をとり、茶の湯に関心があることに免じて酌量され遅参を許された、
 7月5日、小田原の落城後、奥州知行割仕置をすませ、豊臣秀吉が名実共に天下統一を果たして帰洛する際、8月12日付けで宗薫から政宗宛に手紙が送られ、両者間の初めての文通となった。
 以後、慶長4年から6年の間、天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)を挟んで集中的に宗薫と政宗間の手紙の交換が行われた(表‐1)。確認できたものとして、宗薫と政宗の間には終生計46通が交換され、それらの内、宗薫⇒政宗13通、政宗⇒宗薫33通あった。
 これらのうち、特に注目をひくのが、慶長4年正月、徳川家康の命を受け宗薫が家康の第六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫との婚約を仲介したのを機会に、政宗から宗薫へ家康への誓詞や伝言を含めて手紙が送られるようになり、慶長5年(1600)9月25日には、早々とその内容に関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)や戦後処理のことも含まれるようになった。
 慶長5年(1600)12月24日、政宗は徳川家康の許しを得ていち早く青葉山に登り仙台城の縄張りをはじめた。
 慶長6年(1601)4月21日付の宗薫に宛てた政宗の手紙(6)には、

 「豊臣秀頼は、江戸か伏見か、家康様のおそばにおいて、おとなしく成人させ、無事成人の暁には家康様のご分別でしかるべく取り立てるのがよい。・・・現在のように大坂にふらりと置いておくと、世にいたずら者どもが現れ、秀頼様を大将にまつりあげ、謀反を起こすことにもなりかねない。そのために秀頼様が切腹なされるような事態にでもなれば、それこそ太閤殿下の亡魂に対して申し訳が立たない。」

と13年後の大坂の陣を洞察した内容を書き送り徳川家康の重臣・本多正信への進言を依頼した。


 松平忠輝と五郎八姫は慶長11年(1606)に結婚するが、宗薫は大坂方に睨まれ、慶長19年(1614)11月大坂冬の陣が起こると関東に通じているとして大坂方に捕えられ、家財や茶器などを没収され、大坂城内に監禁された。

 幸いにして織田有楽のとりなしで命拾いした宗薫は高野山に追放となるが、大坂夏の陣では家康のもとで再び政宗のもとへ情報を送っている。


 元和の時代になっても、宗薫は家康と政宗の政治的な連絡役として活躍し、政宗は宗薫に一目置いていたと見られる。
 しかし、宗薫の晩年は、大坂方に家財と茶器を没収されており、今井家秘伝の茶の湯書の元本を仙臺藩士に書写させるなど、当初の勢力はなく息子・平左衛門とともに政宗邸を訪れ茶会にも加わり政宗を頼っている様子がうかがえた。
 
 大坂の陣で灰燼に帰した大坂城は、元和5年(1619)に幕府直轄領(天領)に編入され、翌元和6年(1620)から2代将軍徳川秀忠によって再建が始められ3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)に完成した。
 徳川幕府の目的は、特に伊勢と越中を結ぶ線より以西の大名計65家を対象に、温存されている勢力を削ぐ一策として、西国大名を天下普請と称し大規模な大坂城公儀普請に駆り出し、その財政を逼迫させることにあった。


 徳川期大坂城は、豊臣期大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだため豊臣期大坂城の遺構は地中に埋もれてしまった。
 大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣期のそれを越える規模のものが構築された。

 特に、堀の掘削と石垣構築は過酷とも言える負担として諸大名に割り当てられ、二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模となった。                    

 大量の巨石を積み上げ、しかも石材間の噛み合わせ密にして精度よく築いていた石垣積みの技術(「打込接ぎ」、「切込接ぎ」、「算木積み」)は当時としては最高出の来栄えで、各藩を競わせた成果でり、要した工期10年間はむしろ短期の工期とも言える。

 

 徳川期大坂城石垣の一部には、廃城となった伏見城の石材が、約1/3程度使用されている。
 残りについては、良質な花崗岩の産地であった瀬戸内海の多数の島々から尼崎港や西宮港に陸揚げされ、兵庫県では芦屋や御影近辺、そして生駒山の日下や石切辺りから切り出され運ばれた。
 江戸城の場合は、将軍の居城と言うことで見えるところには刻印は打てなかったが、大坂城の場合は以下の理由で多数の刻印(右図事例)が打たれている。
    1.良質の石を算出する石丁場の確保、印つけ
        -大名家の家紋、担当家臣の印、石工の符丁
    2.石垣を積む担当丁場の区分の明確化
        -石垣普請と言う“いくさ”の戦績誇示
    3.工程表示

 大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく、堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、比類のない巨石が多く使われており、従来の築造技術よりは飛躍的に高度化し全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。

<まとめ>

 泉州堺の石工が馳せ参じた経緯と豊臣期および徳川期の大阪城築城の状況を勘案すると、戦国時代の当時にあって茶人として政治的な地位を得ていたとはいえ、今井宗薫の斡旋で泉州堺の石工が仙台城築城に関わったのは特異なケースと言える。
 さらに今井宗薫はかつて豊臣方から嫌疑をかけられており、そのため、石工たちは仙台城が完成しても秘密保持のため留めおかれ、群雄が割拠している関西(堺)へは帰ることを許されなかったと考察する。

 一方、大阪城普請の場合は、いずれも、時の戦略家(武将)が縄張りを担当し、諸大名に公儀普請を負わせた。
    豊臣期大阪城  縄張り 黒田官平衛   天下惣無事
    徳川期大阪城  縄張り 藤堂高虎     天下普請
 当時城下町ではなかった堺の商人や石工衆(その背景には堺の寺院がある)との直接的な支配関係があったのかどうかは
不明である。
 場合によっては、時の天下人(為政者)による大号令の取り組みであったことを考えると、人海戦術的に駆り出されて参加していたかもしれない。

 

<引用文献>
1.高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義-」
        2003熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』294頁 思文閣出版
2.津村晃佑「現代に生きる伝統芸能-すずめ踊りの人類学的研究」
2003『東北人類学論壇』第2号 39頁(東北大学文学研究科文化人類学研究室)
3.天野光三、左崎俊治、落合東興、川崎勝己、金谷善晴、西川禎亮
  「徳川期大坂城の石積み施工技術に関する考察」1996『土木史研究』第16号 619頁
4.菅野良男2011『刻印で楽しむ三大名城の石垣物語』
5.ウィキペディア フリー百科事典「安土城」、「大坂城」、「仙台城」、「泉州石工」
6.市指定文化財「伊達政宗自筆書状」(河内長野市・観心寺所蔵)
http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/city/shi72.html 

 

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千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

2018-06-01 01:57:51 | 歴史

千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

前 田 秀 一

「堺から日本へ!世界へ!」主宰

「堺の歴史とまち文化」 詳しくはこちらから

 町人の娯楽や情報交換の手段としてたしなまれていた「茶湯」は十六世紀後半に至って新しい展開を始めた。
 足利将軍家(~1573年)では儀礼として用いられていた「茶湯」は、織田信長(~1582年)によって「御茶湯御政道」として政治の道具とされ、後を継いだ豊臣秀吉(~1598年)は千利休を指南役として「御茶湯御政道」の政治的、経済的活用を継続し、さらに千利休の大成により「茶湯」に文化的価値を加えた。
 織田信長の後継争いに勝った豊臣秀吉は、信長の遺志をついで天下統一を目標に掲げ、四国、九州、関東、東北へと兵を進め、その先に「朝鮮出兵」を見据えた。
 奥羽仕置の結果、天正19年(1591)2月4日伊達政宗が上洛し臣従したことにより、豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げることになった。
 反面、これを機会にあたかもご用済みにでもなったかのように、千利休は蟄居の身となり豊臣秀吉から切腹を命じられ辞世に無念を託してこの世を去った。

 千利休の死に関して「茶湯」論に関するものが多いが、その背景を補う「政治的謀殺」論の展開も少なくない。
 カナダ在住のオルガ・ポホリレス氏が『野村美術館研究紀要 第4号』、1頁〔(財)野村文華財団、1995年〕に「千利休の政治的側面」について総論を寄稿している。日本文化の規範に関わる人物について外国人の目からどのように見えたのか大変興味があった。
 文献情報検索の結果、ごく最近(平成26年3月17日)福井幸男氏が大変興味ある研究論文「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究」を桃山学院大学文学研究科に学位論文として提出し、審査の結果、博士(文学)号を授与されていたことが分った。
 近世初頭、堺と仙台両市の象徴的な人物・千利休と伊達政宗が徳川家康を含めて深い関係にあったという事実に奇しき縁を感じた。

 

            第30回仙台・青葉まつり 堺すずめ踊り          第40回堺まつり 仙臺すずめ踊り 伊達の舞

 平成17年(2005)以来、堺にゆかりの深い“すずめ踊り”を絆として堺と仙台の市民交流活動に取り組み、今年〔平成26年(2014)〕で10年目を迎えることになった。

“すずめ踊り”を絆とした堺と仙台の市民交流活動 詳しくはこちらから

 慶長5年(1600)、徳川家康の許可を得て伊達政宗が仙台城築城に取り組んだ。その際、かねて懇意にしていた堺の茶人で商人・今井宗薫が相談に乗り石垣の築造に堺の石工衆を派遣した。
 慶長8年(1603)、新城移徒式の宴席で、招かれた石工衆がお祝いに即興的に飛んだり跳ねたりして踊りを披露した。その踊りが、えさをついばむすずめのようであったことから、伊達家の家紋(「竹に雀」)に因んで“すずめ踊り”と名付けられたと伝わっている。
 その伝説を絆として、「人が輝き、地域を元気に!」を合言葉に堺と仙台両政令都市の市民交流活動が始まった。
 この伝説のダイナミズムの根源として、中近世の象徴的な人物・千利休と伊達政宗、両者を取り巻く徳川家康の奇縁を探ってみた。

 オルガ・ポホリレス氏は、利休の切腹原因に触れた論説を以下のように大別している。
   ・中央集権派(石田三成ほか)が地方分権派(徳川家康ほか)への見せしめの政治的策謀
      朝尾直弘1963「豊臣政権論」『日本歴史9 近世1』岩波講座
      村井康彦1977『千利休』NHKブックス
   ・「身分法令」に抵触し身分を逸脱した商人上がりの御茶頭の抹殺
      芳賀幸四郎1963『千利休』吉川弘文館
      唐木順三1963『千利休』筑摩叢書
      桑田忠親1981『千利休-その生涯と芸術的業績』中央公論社

 朝尾直弘氏は、「利休の死は豊臣政権内部で行われた苛烈な権力闘争の結果もたらされたもので、利休の政治的な役割の側面、特に硬軟拮抗していた東国征伐において政治的な役割を果たしていた利休を勢力の増大した石田三成派が仕組んだ謀殺であった」と説きポホリレス氏は支持した。

 村井康彦氏の論は、「問題とされた大徳寺三門は利休が茶器の不正な鑑定によって得た富で造営したのだと何者にか纔言され」「利休が茶器の鑑定や売買において不正を働いたという点で罪状の第2に挙げられた。」

  

 「しかし、おおよそ天正十四,五年をさかいとして利休の好みと世間一般の嗜好とは明らかに乖離し始めており、たびたび引き合いに出すが、例の黒茶碗の話に示されるように、そうした傾向に対して利休自身は激しい抵抗を試みていた。これ以後の利休は、頑迷になることが自己主張であり、それがおのれの美意識を表明することでもあった。その美意識の断絶が、新義の道具を構えること、すなわち世間の目にはよくないものをいいようにいう、不正と思われるおそれは十二分にあったし、ある場合にはそれを承知で敢えてしていた。ここに至れば利休の「敵」はひとり秀吉に限るものではなく、世間一般であったとすらいえた。 
  不正は利休にとっては世間に対する挑戦であった。その意味で、利休賜死は直接的には三成派による政治的謀殺と考えるが、しかしその観点からだけでは処刑は秀吉側近(一派)の推進するところとなって、肝心の秀吉の意思が宙に浮いてしまうのではないか。仮に側近によるお膳立てであったとしても、最終的には秀吉が同意している以上、右の罪状は秀吉を納得せしめたものであったはずである。この茶器鑑定をめぐる問題は口実にすぎないだろうが、しかし決して虚構されたものとか、賜死の理由として不十分といった軽々な罪状ではなかった。」

 村井康彦氏から大徳寺三門木像問題を表面化させた考証者として名前を挙げられた桑田忠親氏は、「新進歴史学者の異説」(恐らく朝尾直彦氏、村井康彦氏と思われる)に対して以下反論した。
 「利休を地方分権派の荷担者とみなし、伊達政宗謀反の嫌疑を、家康の仲裁で秀吉が赦免し、地方分権派の勝利となったので、それを根に持った石田三成らの中央集権派の人々が、その報復として利休をやり玉に挙げたというのは、どう考えても変である。」
 「利休が好意をもっていたのは、当時、会津の黒川(若松)城に封ぜられていた蒲生氏郷の方である。氏郷は、利休の茶湯の愛弟子(利休七哲の高弟)でもあった。だから、その氏郷が政宗の策謀にかかって苦戦しているのをはなはだ心配しているわけだ。つまり、利休は政宗のことを憎んでいたのである。だから3月になって秀吉が奥州へ出馬し、政宗を討ち、氏郷の危急を救うことを、内心、期待していたに相違ない。ところが、秀吉会津出馬の噂を聞いた政宗は、周章狼狽し、早速、死装束に身をやつして西上し、2月4日に上洛し、罪科を秀吉に詫び、赦免を請うた。秀吉はまたもや政宗の猿芝居にたぶらかされ、奥州再征を中止した。」「利休処罰の動機は、秀吉の東国経営方針などとは無関係であろう。」
 「利休が処罰された原因と動機は、・・・秀吉が天下平定後、日本の国内に封建的な社会秩序を建設するに当たって最も目ざわりだったのは、大名を大名とも、武士を武士とも思わない不敵な堺町人であり、・・・頭の高い、知行三千石取の御茶頭、いや天下一の茶湯の名人千利休であった。」「利休を擁護していた一派の勢力が、豊臣秀長の病気によって弱体化したのに乗じ、前田玄以や木下祐慶ら反体制派の人々が利休の失脚を推進させた。」「反利休派の人々の意見も入れて、もっともらしい罪状として取り上げたのが、大徳寺木像安置の一件と茶道具目利き売買不正の一件であった」

 

   福井幸男氏は、千利休切腹の原因に関する「諸説」を批判的に検討し、「史料記述」および切腹における「特異性」の分析・検討を踏まえて新たな視点・角度から千利休切腹の真相を究明した。
 その結果、主たる罪状は大徳寺三門木像安置と茶湯道具目利き不正売買に集約されたが、この点については「処断当局者による公示罪状である」ということに注意を促している。
木像安置が首罪であると当時の人たちが思ったのは、切腹前に利休の木像を一條戻橋で磔にし、高札で罪状を事前に公示していることや、切腹後にその木像の足で踏ませた形で利休の首を獄門に懸けるなど周囲に対して見せしめとする視覚効果を狙ったと考察した。

 

 一方、首罪の大徳寺三門木像安置に関しては、鎌倉幕府法および分国法の規定や天正17年当時の京都が大坂と並ぶ最重要直轄領として厳重管理されていたこと、さらに江戸期に徳川宗家の菩提寺・知恩院の三門楼上に造営した棟梁・五味金右衛門夫妻の木像が安置されていることを事例に挙げ、木像の落慶法要から問題化されるまでの1年2ヶ月もの長い期間の後であったことを考えると、当初特に問題視されていなかったことを、単に利休処罰のための口実としてでっち上げたにほかならないと考察した。
    
 これらの考察から、「処断当局者による前代未聞の木像磔や切腹にもかかわらず獄門、しかも木像の足で踏みつけると言う特異性は、武門として密かに一目置いている徳川家康に対する官位による威圧と結論付けた。」
 さらに、「切腹直前の利休屋敷の厳重警固(上杉景勝率いる三千人の兵動員)は、側近官僚に捏造された「反朝鮮出兵密談」に利休が一枚噛んでいるという疑いに対する警告および政宗上洛直後、利休は家康、政宗らと妙覚寺で茶会に臨んでおり、万一不穏な動きがあれば断固処断するという警鐘メッセージとして秀吉が利休に切腹を命じた家康へ見せしめの措置であった」と考察した。

  

 千利休像(大仙公園)     臨済宗大徳寺派南宗寺禅堂鬼瓦      伊達政宗像(仙台青葉城跡)

 茶の湯を通して「内々の儀」に深く関わりどの大名や武将よりも剛気に直言し失言など恐れない千利休は、伊達政宗の臣従で東国も手の内に治め、ついに天下人となった関白秀吉にとってもはや疎ましい存在になってきた。
 むしろ、天下統一を果たした関白秀吉は、待望の世継ぎ鶴松の将来のため、豊臣家の態勢固めを念頭に利休に代わって身近に石田三成ら権力派を重用し、さらに朝鮮出兵をまじめに考える今となっては、利休は無用の長物とさえ考えるようになってきた。
 秀吉の参謀として態勢を固めた中央集権派は、武門として一目置く徳川家康への牽制も兼ねて、最大の擁護者・豊臣秀長が亡くなったこの機会に千利休を政治的に謀殺する計画を隠密に進め、口実として大徳寺三門利休木像安置を不敬罪とし、茶湯道具目利き不正売買の風評をでっち上げ、三千石の知行に処せられた身分を建前として利休の切腹を秀吉に進言した。
 その首謀者が石田三成であったことを浮かび上がらせた。

<引用文献>
1)オルガ・ポホリレス1995「千利休の政治的側面」『野村美術館研究紀要 第4号』 (財)野村文華財団 p.1
2)寺本伸明、梅山秀幸、布引敏雄2014年3月17日 
  「博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨」桃山学院大学文学部
     福井幸男 「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死を巡る言説に関する研究」 
3)福井幸男2011「千利休切腹の原因および原因に関する一考察」
            『人間科学 第40号』 桃山学院大学綜合研究所、1頁 2011年3月
4)千 宗室監修2008「利休宗易年譜」『裏千家今日庵歴代第1巻 利休宗易』淡交社 p.138
5)仙台市史編さん委員会編2006『仙台市史 特別編7』仙台市 244頁

 

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キリシタン受容の構図-「茶の湯」文化の発見

2018-06-01 01:57:26 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一

「堺から日本へ、世界へ!」主宰

<本論要旨>は こちらから


3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見

1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告

 1565年1月1日(永禄7年11月29日)、司祭ルイス・フロイスは修道士ルイス・デ・アルメイダ(日本滞在:1552~1583年没)とともに豊後を発ち、約40日を費やして1565年1月27日(永禄7年12月25日)に堺の港に着き日比屋了珪の歓待を受けた。途中、厳しい寒さを耐え忍んで来たので二人とも病気になっていた。フロイスは、司祭ガスパル・ヴィレラに会うために翌日都へ向かったが、アルメイダは、健康を害していたことと堺でなさねばならない用件があったので、堺に留まり了珪の家で保養することにした17)(p216)。
 アルメイダは、25日間にわたる日比屋了珪およびその家族の手厚い看護で健康を回復し、当時、河内国・飯盛山城にいる司祭ガスパル・ヴィレラを訪問しようと日比屋了珪にその旨伝えると、日本の慣習に従い別離に際して示す親愛の情の証として宝物を見せてくれた17)(p268)。
 「それらは、彼らがある粉末にした草を飲むために用いるすべての茶椀と(それに)必要とする道具です。それは茶と呼ばれ(飲み)慣れた人には味が良いばかりでなく、健康増進にも(役立ち)ます。ところでその所作に用いられるすべての品は、日本の宝物であって、我ら(ヨーロッパ人)が指輪、宝石、非常に高価な首飾り、真珠、ルビー、ダイヤモンドを所持しているようなもので、それらの器や価値に精通しており、売買の際に仲介役となる宝石商(のような人)がいます。・・・・(その茶会に)人を招き、そこで上記の道具を見せるために、彼らはまず各人の力に応じて饗宴を催します。これが行われる場所は、この儀式のためにのみ入る特定の室でその清潔さ、造作、秩序(整然としていること)を見ては驚嘆に価します。
 (さて)私は(ディオゴ了珪)の居間の側面から導かれました。そこにはちょうど一人(だけ)が具合よく入れるくらいの大きさの小さい戸口があります。そこから私は真直ぐな狭い廊下を通り、杉材の階段を上りましたが、その(階段)は、まるでそこに人が足を踏み入れるのは初めての事かと思われるほどの印象を与え、あまりにも完璧な造作で、私はそれを筆で言い尽くしえません。
 部屋の片隅には彼らの習わしによって一種の戸棚があり、そのすぐ傍には周囲が一ヴァラ(1.1メートル)の黒い粘土でできた炉がありました。それは真黒の粘土製であるのに、あたかも黒玉のようにきわめて澄んだ鏡に似た非常な輝きを帯びているので不思議(に思える品)でした。その上には感じのよい形の鉄釜が、非常に優雅な三脚(五徳)にかかっていました。灼熱した炭火がおかれている灰は、挽いて美しく篩った卵の殻でできているように思われました。
 すべては清潔できちんと整っており、言語に絶するものがあります。そしてそれを不思議とするに足りないことで、この時(人々は)それ以外のことに注意を注ぐ(余地は決して)ないからであります。その炭は、一般に使用されるものではなくて、非常に遠方から運ばれてきたもので、手鋸で(巧みに)小さく挽いて、消えたり燻ったりすることもなく、わずかな時間で熾となり、火を長らく保たせるのです。
 私たちがきわめて清潔な敷物である優美な畳の上に座りますと、食事が運ばれ始めました。日本は美味(の物産)が乏しい国ですから、私は(差し出された)食物を称賛しませんが、その(席での)給仕、秩序、清潔、什器は絶賛に値します。そして私は日本で行われる以上に清潔で秩序整然とした宴席を開くことはあり得ないと信じて疑いません。と申しますのは、大勢の人が食事をしていても、奉仕している人々からただの一言さえ漏れ聞こえないのであって、万事がいとも整然と行われるのは驚くべきであります。
 食事が終わってから、私たち一同は跪いて我らの主なるデウスに感謝いたしました。こう(すること)は、日本のキリシタンたちのよい習慣だからです。(ついで)ディオゴ(了珪)は手ずから私たちに茶を供しました。それは既述のように(草の)粉末で、一つの陶器の中で熱湯に入れたものです。
 ついで彼は同所に所持する幾多の宝物を私に見せましたが、なかんずく三脚がありました。それは周囲が1パルも少々の(大きさの)もので、釜の蓋を取る時にふたを置くものです。私はそれを手にとってみました。それは鉄製で、年代を経ているためにいろいろの個所がすでにひどく損傷し、二ヶ所は古くなって罅が入りそれを再び接合してありました。彼が語るところによれば、それは日本中でもっとも高価な三脚のひとつで、非常に著名であり、自分は1,030クルザ―ドで購入したが、明らかにそれ以上に評価しているとのことでした。
 彼(了珪)は私に、この他にも高価な品を所蔵していますが、容易に取り出しにくい場所に(しまって)あるので、今はお目にかけられません。しかし御身らが(堺に)帰って来られた際にはそれらをお見せしましょうと言った。」24)、17)(p268~271)

2)ルイス・フロイスの見聞報告

 永禄12年(1569)2月11日、足利義昭と織田信長連合軍による三好政権討伐後、堺衆が二万貫の矢銭を支払って降伏したのを受け、佐久間衛門、柴田勝家、和田惟政(1532~1571)など織田信長の家臣たちが堺の接収にやって来た。当時、高槻城主で高山ダリオ(飛騨守厨書)の主君であった和田惟政は、永禄8年(1565)5月、正親町天皇の伴天連京都追放令により堺へ避難していたフロイスを都に連れ戻し、織田信長に謁見させる計画を立て、あれこれその根回しを行ってフロイスを都へ案内する段取りを進めた18)(p137~139)。
 「信長が都にいたこの頃、三河国主(徳川家康)の伯父(水野下野守信元)で、三千の兵(を率いる)武将である人が、(都にある)我らの教会を宿舎としていた。それゆえ司祭(フロイス)はそこに入ることができなかった。かくて司祭はソーイ・アンタンと言い、非常に名望ある年老いたキリシタンの家を宿とし、そこに百二十日間滞在した。
 (アンタン)は都で改宗した最初の人たちの一人であった。司祭は、彼およびその息子達から大いなる愛情と心遣いをもって遇せられたが、(アンタン)は司祭に一層自分が満足し喜んでいることを示そうとして、(司祭)を茶の湯の室に泊まらせた。(茶室)はその場が清浄(であるために)人々に地上の安らぎ(を与える)ので、キリシタンたちも、異教徒たちも(その場を)大いに尊重しているのである。司祭はそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちはそこに集まった。」18)(p142)

3)巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」

 巡察師として日本の政教事情を視察し、布教発展指導の任務を負ってアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、1579年7月25日肥前・口之津(島原半島)に上陸来日した22)(P254)。
 当時、日本の教会は極めて憂慮すべき事態に置かれていた。その主たる原因は、第3代布教長フランシス・カブラルの偏狭な日本観と、それに基づく誤った布教方針にあった。ヴァリニャーノはその実態把握と日本への布教方針の徹底のため宣教師の報告システムを改定(「日本年報」制度の導入)し、「日本布教長内規」を策定した。日本の布教区を都、豊後(大友領)、下(シモ:豊後を除く九州)に分かち、将来、日本人聖職者の育成を目指して神学校(セミナリオ)、学院、修練院等の教育機関の設立を目指した。日本への布教方針ほか諸件で見解を異にしたため、ヴァリニャーノは総長宛にカブラルの解任を上申した。 
 ヴァリニャーノは、1579年9月8日に口之津を出発して、豊後領府内(大分)に到着した。滞在中に日本人に対する独自のキリスト教教義書「日本のカテキズモ」を作成し、12月24日に臼杵に新設された修練院の開院式で修練士に講義した。
 1581年3月8日(天正9年2月4日)、ヴァリニャーノは五畿内巡察を目的としてルイス・フロイス等を伴って府内を出発し、3月17日(天正9年2月13日)堺に上陸した。堺では、すでに布教拠点となっていた日比屋了珪にもてなされたのを初め、河内、高槻、都、安土で歓迎を受けた20)(p94)。
 3月29日、本能寺で織田信長に拝謁し、4月1日には馬揃えの式典に招待され、その後も安土で並々なら歓待を受けた。4月中旬から5月末まで河内国および摂津国・高槻城など五畿内を巡察し、その後、安土にて巡察結果を踏まえ「日本の風習と形儀に関する注意と助言」と題する在日イエズス会員の礼法指針を著した22)(p256)。同書の第七章には、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際の心得が述べられ、「日本の大工により日本風に建築されるべきであること、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した。20)(p22)。
 茶の湯については、日本人の新奇な風習として書かれた。
 「日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲み物が用いられている。彼らの間では、はなはだ重視され、領主たちはことごとく、その屋敷の中にこの飲み物を作る特別の場所をもっている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本では最も尊重されるから、身分の高い領主たちは、この不味い飲み物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲み物を作る。
 茶の湯を重んずる故にそれに用いる或る容器も大いに珍重される。その主要なものは、彼らが鑵子と称している鋳造の鉄釜と、上述の飲み物を作る時にその鉄釜の蓋を置くのに用いるだけの、ごく小さい鉄の五徳蓋置である。その他に、この茶を飲ませる一種の陶器の茶碗、及びその茶を保存する容器。その内のあるものは非常に大きくて、その草を一年中保存するのに用いられる。さらにその草を粉末に碾いた後入れておく小さい(棗)がある。すべてこれらの容器は、ある特別なものである場合に-それは日本人にしか解らない-いかにしても信じられないほど彼らの間で珍重される。」22)(p23)
 ヴァリニャーノは、日本では茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることを知り、領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した。内容的には、「茶と称する草の粉末」という表現と名物として「鉄の五徳蓋置」を挙げている点では、日比屋了珪の茶室での体験を報告したアルメイダの報告と同じである。
 日本からヨーロッパに茶が輸出されたのが1609年、平戸からオランダ船に積み込まれ、バタビアを経て1610年アムステルダムへ運ばれたのが初めてであった25)(p155)。従って、ヨーロッパ人として茶葉についての概念がなかったのもやむを得ない。
 ジョアン・ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡3)(p40)で『日本教会史』を著したことに言及し、その中で茶の湯について触れた章で茶葉の認識を示した。
「その(茶道具の)中でも、茶を葉のままで保存するために使う大きな壺が正当につけられた高値を保っているのはなぜかというに、それが稀にしかなく、数が限られているほかに、茶の葉を保存する特殊な性質を有しているからである。」と、茶の湯をより正確に理解して記述している3)(p600)。

 

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日本と世界が出会うまち・堺 2017 研究発表会

2018-06-01 01:57:03 | 歴史

研究発表会開催概要(主催:堺市博物館 大阪大学歴史研究会)はこちらから

審査結果と各グループの講評こちらから

日時:2017年11月19日(日)13:30~18:15
場所:サンスクエア堺ホール(JR阪和線「堺市」駅近く)

参加者の所属校(応募順)
 帝塚山学院中学校・高等学校、帝塚山学院泉ヶ丘中学校、金蘭千里中学校、関西大学中等部・高  等部、開明高等学校、大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)、大阪府立堺工科高等学校、大阪府立園芸高等学校、雲雀丘学園高等学校、大阪府立堺東高等学校(パネル展示のみ)


研究対象・テーマ(順不同)
 百舌鳥古墳群、与謝野晶子、堺の和菓子、戦国時代のクリスマスパーティ、中近世・堺の復元、グリコと大阪、堺大空襲、南海ホークス など


激励のお言葉 竹山修身堺市長

                 
審査委員長講評                      堺ユネスコ協会賞 「堺大空襲」
        桃木至朗大阪大学教授                    大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)放送研究会
                                  授与者 岡 貴久雄堺ユネスコ協会会長
      

参加者記念写真

  

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歴史年表「日本と世界が出会うまち・堺」こちらから

 


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堺ユネスコ協会 ESD研修会-近畿ESDコンソーシアム

2018-06-01 01:56:37 | 歴史

平成29年度 近畿ESDコンソーシアム 総会

日時:平成29年7月8日(土) 午後1時30分~4時30分   場所:奈良教育大学 大会議室(管理棟2階)

                                                                            総会議題:
                                                                                      1.開会あいさつ
                                                                                      2.出席者自己紹介
                                                                                      3.近畿ESDコンソーシアム規約について
                                                                                       エリア教育を目指して「奈良教育大学ESDコンソーシアム」を
                                                                                       「近畿ESDコンソーシアム」と改称し規約を変更した。
                                                                                      4.平成29年度近畿ESDコンソーシアム事業計画

ESD研修会


「2005~2015年:ESD ⇒ 2016~2030年:SDGs 移行について」 
近畿ESDコンソーシアム 事務局 中澤静雄氏

 ミレニアム(2005~2015年)開発目標(MDGs)の成果を土台としながら、あらゆる形態の貧困に終止符を打つための取り組みをさらに進めることをねらいとして日本が主導して国連に提唱した「持続可能な開発目標(SDGs)」が2016年1月1日に正式に発効した。
 旧来の「持続可能な社会づくりの担い手を育成すること」(ESD)を目標とした教育から、2030年を目途に「だれ一人取り残さない世界の実現」を目標とする教育の実現を目指すことになった。

 


「国連 持続可能な開発目標(SDGs)の理解と学校実践をつなぐ」
講師 東京都江東区立八名川小学校 教諭 小野瀬 悠里 氏

 八名川小学校はSDGsの取組として「指導目標」ではなく「評価(成果)指標」を目標とした。
 つまり、課題の「入口」というよりは、「出口」にあるものに問題意識を置いた。
       ◆テーマ:「しん(進、芯、心)のある子の育成―カリキュラム・マネージメント~学習過程の確立」
    ◆テーマの狙い:①学びに火をつける、②追求する(探求型の学び)、③まとめる力をつける。
    ◆目標の選択:SDGs目標8「経済成長と人間らしい仕事」
            若者の完全失業率10%、学校から社会へ移行できていない
              ⇒未来(10年後、特に1年後)志向の学び  ⇒「未来に羽ばたけ!~小学校卒業研究~」
    ◆日常活動: 対話的活動
           八名川小学校の立地条件(松尾芭蕉:江東区深川地域のアイデンティティ)を踏まえ俳句による対話(*)を活用した。
               *:作句(季節を感じる言葉を精選) ⇒ 句会(互いの良さを表現する、互いの良さを認め合う)
    ◆成果と展望:
      成果:子どもの視野が広がった。将来への考え方について変容が見られた。「生き方」、「生き様」
      展望:「八名川の出口」⇒八名川で学んできた意味を最後に振り返る。八名川のESDの集大成
                    ⇒疾風怒濤の時代をどんな目的意識をもって生きていくか

  

 

その他のESD活動における注目点
「東大寺寺子屋」 教育と宗教の関わり方についての判断のあり方

 当初は、教育と宗教の関わり方について議論の対象となり、その課題を「世界文化遺産としての登録基準」(*)に照らしてクリャーした。
  *:該当基準
     2.ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観
           デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
     3.現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
     4.人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
     6.顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、
       直接にまたは明白に関連するもの

 

 

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茶の湯におけるキリシタン受容の構図

2018-06-01 01:56:17 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前 田 秀 一
「堺から日本へ!世界へ!」主宰

<本論要旨>
  http://jsmaeda072.webcrow.jp/chayutochristian.html


5.茶の湯とキリシタンの受容

 アルメイダとフロイスは、茶の湯に初めて出会った機会は異なってはいたが、特徴的なことは、共に茶室を清浄で人々に地上の安らぎを与える場であることを認めたことである。さらに、司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。
 ヴァリニャーノは、今回(第1回:1579~1582年)の日本巡察滞在中に著した「日本の風習と形儀に関する注意と助言」でヨーロッパ人と日本人イエズス会員の融和、ならびに聖職者と世俗の人々との円滑な交流のための心得を説いた22)(p100~104)。
「第一に、ヨーロッパの諸条件や態度、行為によって彼らを導こうとせずに、彼らの条件なり方法によって待遇することが必要である。
第二に、進歩のために採らねばならぬ方法は、彼らが心を触れ合いたいと考えることについては、ことごとくこれを教え、説得することである。彼らは生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持ちを起こさせ、納得せしめることが必要である。
 第三は、日本人の風習に従うならば、彼らはただちに我らに同調し、すべてそれを行った人々の経験から知られるように、彼らは我らに愛情を抱くようになるであろう。従って、この点において欠如する危険があるとすれば、彼らの側よりは、むしろ我らの側である。すなわち、彼らはいかなることにおいても、その風習を放棄しはせぬのであるから、すべて我らの方から彼らに順応せねばならず、それは日本では必要なことであり、我らは大いに努力せねばならぬからである。ある場合には、我らは天性までも変え、大いなる苦しみによってそれを成すのであるから、この統一のために必要なことを行う困難は、我らの側にあって日本人の側にではない。」
 上記のうち「第3」はヴァリニャーが日本への布教戦略として提唱した「適応主義」の核心に触れる内容であり、「風習」という表現ながら日本文化の規範として茶の湯を受容する姿勢を示した。
 高山右近は、戦国大名として主従関係にあった摂津国主・荒木村重に茶の湯の手ほどきを受け、千宗易を紹介され師事した。
 山上宗二に茶の湯は「数寄の覚悟は禅宗を全うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ」と説かれ、フロイスに千宗易(後に、利休)は異教徒と言われ21)(p239)たが、キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなる芸道であると悟り精進した3)(p638)。
 すなわち、「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止め、利休高弟七人衆(利休七哲)4)の説得に活かし牧村長兵衛、蒲生氏郷、織田有楽など高名な茶人3人を説得してキリシタンに導いた。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭したのは、関白秀吉が伴天連追放令を発して改易(所領、地位没収)された後、天正16年(1588)、豊臣秀長など多くの貴人からの嘆願により五畿内以外の地での行動の自由を許され、加賀藩・前田利家に茶匠・南坊(南之坊)として迎えられてからである。それは、慶長19年(1614)徳川家康が発した伴天連国外追放令によりフィリピンへ亡命するまでの約26年間であった。

 キリスト教宣教師は、日本の社会支配の重要な位置づけにある有力者が茶の湯を尊敬し、生活文化の規範としていることを発見した。日比屋了珪は、都を目指して堺の港に上陸したキリシタン宣教師に帰依し、自らも洗礼を受けてキリスト教信者となり献身的に布教活動を支え、生活文化としての茶の湯を伝える役目を果たした。
 一方、高槻城主となった高山右近は、1573年、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきを受け、千利休を紹介され師事した。1574年、日本布教長カブラルからキリスト教教理を再教育され、あらためてキリスト教に目覚め、自ら卓抜な説教者となり五畿内キリシタンの柱石となった。
キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、禅宗の一様式としてではなく茶の湯を「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止めた。つまり、仏教に通じる「禅」(座禅)の精神としてではなく、デウスの導きを深め、すがるための体験的な「道」としての時空間(市中の山居)と位置付けた。
 従って、高山右近は、ときおりキリシタン宣教師に「この道(キリスト教信仰)に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった」と言い、また、「デウスにすがるために一つの肖像をかの小屋(茶室)に置いてデウスにすがるために落ち着いて隠退することができた」(ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』、p.638)と語り、茶の湯がキリシタンにとっても相入れ合う様式(文化)であることを伝え、日本巡察師ヴァリニャーノに「礼法指針」への茶室の折り込みを促した。
 キリシタンは、茶の湯を「禅宗」の一様式してではなく「禅」の一様式として、冒頭の山上宗二の記述に従えば「数寄の覚悟は“禅”を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、“禅”よりなるにより出で、悉く学ぶ」と受け止めていたと考察する。

 

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キリシタン受容の構図-五畿内の受容-足掛かり

2018-06-01 01:55:44 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前 田 秀 一

「堺から日本へ、世界へ!」主宰

<本論要旨>は こちらから


2.五畿内におけるキリシタンの受容(表-3)7~11、17~21)

1)五畿内におけるキリスト教布教 -足掛かり

(1)フランシスコ・ザビエルの野望と挫折
 フランシスコ・ザビエルは日本において以下4項の企画をもっていた2)(p30)。
①都にのぼって天皇に拝謁し、全日本で自由に布教する許可を得、さらに、天皇はシナの皇帝と友好関係にあると聞いたので、勘合符を入手してシナ伝道に備える
②日本の大学を歴訪してヨーロッパへくわしい情報をおくり、後続する有能な同志が宗論において日本の諸宗派を論破できる道を開く
③日本‐インド間の定期航路をひらき、堺にポルトガル貿易商館を設置して、布教の財政的な基礎をかためる
④日本人をキリスト教世界に派遣する
 1550年10月末(天文19年10月末)、平戸を出港して、山口(12月17日発)、厳島(12月下旬発)を経由し1551年1月上旬(天文19年12月上旬)に堺港に到着した。1月中旬に都に入ったが、応仁・文明の乱による都の荒廃の中、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、頼るべき政権(第14代将軍足利義輝:在位1546~1565年)が近江朽木に逃れていて拝謁することができず、デウスの種をまくべき状況にないと判断しわずか11日の滞在で都を離れた。
 1551年2月上旬(天文20年1月上旬)ザビエルが堺港を発ってから2)(p33)、永禄2年(1559)9月18日、後継者ガスパル・ビレラが堺に到着するまで約8年半の歳月が流れた。
 フロイスは、ザビエルが堺に向かう途次、立ち寄った港で一人の身分の高い男に堺に住んでいる友人宛の紹介状をもらい、堺に上陸した際に一行が日比屋了珪の家に泊まったと書いた17)(p17)。しかし、『フロイス日本史』翻訳者・松田毅一氏は、その後、ガスパル・ヴィレラが堺に上陸した際に日比屋了珪の家に泊まらなかったことを事例として挙げ、ロドリーゲスが『日本教会史』に記載した「ザビエルは宿泊するところがなかったので、住吉の大明神(宿院御旅所)の松林に赴き、そこの一本松の木の根元に、拾ってきた数枚の古いござで小屋を作り、その中で寝泊まりした」とする説をとり17)(p22)、フロイスが『日本史』を執筆する際に日比屋家に対する配慮から脚色した疑いがあると解説している2)(p38)。

(2)ガスパル・ヴィレラの再挑戦
 永禄2年(1559)10月18日、「ガスパル・ヴィレラ(日本滞在:1556~1570年)が政権の状況調査を目的に再び都をめざして堺に到着した。堺には知り合いもないので航海中にヴィレラの説教を聴聞して受洗したウルスラという女性の紹介で、ソウゼンと言う人の家に泊めてもらった。
 翌日、司祭(ヴィレラ)が伴侶の人たちとともに町を見物していた時、たまたま、パウロ・イエサンと称する山口出身の身分ある五十過ぎのキリシタンの医師に出会い、国主・大内義隆(1507~1551年)の死に際して自分も放遂されて来たと事情を打ち明けられた。彼は(司祭たちに)どこへ行くのかと訊ねたので、彼らは、比叡山に赴き、そこで許可を得て五畿内で教えを説くつもりだ、と答えると、パウロは御身らが(使命として)帯びたことは重要であり難しい企てだと言い、彼はヴィレラらを別の家に連れて行き優遇した。
 堺ではさっそく新奇を求めて数名の人が説教を聞きたいと申し出た。しかし司祭は、比叡山の主な僧侶の一人である西楽院に宛てた山口の国主の書状を携えており、寺院が建っている十六名の上長たち、およびかの大学の学問所を訪ねたく思ったし、自らの使命につき(修道会員として、上長からの)命令に服従して、それを速やかに実行したいと考えたので堺には3日しか滞在しただけだった。」17)(p44)
 「堺を発って、大阪で一泊して淀川を遡り逢坂関を経て大津に至り、三井寺を訪ね、1559年10月22日に坂本のディオゴの家に赴いた。10月23日日本人修道士・ロレンソがまず比叡山に赴き、門弟の大泉坊を訪ねたが体よく断られ、翌24日ヴィレラ自ら比叡山に再訪したが、比叡山での交渉にヴィレラは絶望した。比叡山の許可なくして都へ入ることの無謀さに伴侶たちから止められたが、ヴィレラはたとえ(入京)の当日に殺されても自分の使命を果たすまでは豊後へは帰らないと単身でも都へ入ることを決意した。かの年老いた尼僧の一人は、伴天連に同情し、彼に言った。「御身は異国の方であり、それゆえ、都には多分一人としてお知り合いはおられますまい。私が、あそこにいる知人に宛てて、皆さんを泊めてあげてくださいと手紙を書きましょう」と。そして彼女はそのとおりにした。」17)(p60)
 「都では、説教を聞きに来る人々の殺到ぶりは日増しに高まっていった。時には学識僧との激しい宗論となり都の町の仏僧たちは激昂し始めた。そのような中、全五畿内で最も主だった(寺院の)一つである紫の僧院(大徳寺)から、数人の禅宗の僧侶が、公家を装って訪ねて来たが、彼らは(司祭たちの説教を)聞いただけで、一言も話さなかった。」17)(p86)
 「かくて家主たちは、人から悪口を言われ、仏僧たちの圧迫に恐れをなし、さっそく司祭に、もうこれ以上家を貸しておけぬから出ていってほしいと通報した。・・・というのは、僧侶、親族、友人、隣人たちは、(伴天連)を追い出し、自分のみや妻子に神仏の罪がふりかからぬようにせよ、とひどくせき立てたからであった。」17)(p92)
 「そこへ禅宗の紫の僧院(大徳寺)から、もう八十歳近い老僧が訪ねて来た。彼は齢を重ねていたのと、気分がすぐれぬために、都に自分用に一軒の家を構えていた。生来親切な人で博愛と慈悲の業に心を傾けていた。彼はあの(司祭の)貧しい家に来ると、たいていの人々と同じように、ありふれた好奇心から出た質問を始めた。・・・司祭はその質問に満足な回答をした後に、自分がここで説いている(キリシタンの)教えについて少しぐらい聞きたいと思わぬかと訊ねた。それを聞くと老僧は微笑み、自分はすでに解脱のことは心得ており、インドとヨーロッパの珍しいことを知りたいだけだと言った。
 それはあたかも、(自分が奉ずる)禅宗は、霊魂の不滅とか宇宙の第一原因、至福なる(天国での)果報とか来世(で)の懲罰(といったキリシタンの教え)を否定し、千六百の公案というものが(禅宗に)あって、人々はそれによってあらゆる良心の呵責をなくそうと努めるものである。だから(いまさら)自分たちの職分に大いに反する教えを携えて道を外す必要はない、と言おうとしているかのようであった。
 ところで彼は司祭に同情していたので、他日また戻って来て、少しばかりの食物を持参したが、それは非常に清潔で、上手に料理してあった。・・・司祭は彼の贈物に対して謝意を表すことに決め、さっそく(老僧)に、デウスのことや、理性を備えた(人間の)霊魂(が)不滅であることや、来世のことを話すよう、適当な機会を探し求めた。果たして彼は説教を聞き始め、大いに興味を持つようになり、我らの(教えの)ことに非常に感動し、驚嘆の念を抱いた。そしてその善良な老人は、引き続き説教を聞いた後に聖なる洗礼を受け、その際、ファビアン・メイゾンと名づけられた。
 冬の厳寒の折であるが、ミサを聞きに来て、ダミアンを傍に呼んで言うことには、私は伴天連様がミサを捧げられる時に、毎朝なにもかぶらずに、あんなに長い間立っておられるのを見ると、本当にお気の毒に思う。それにまた、銀の盃から冷酒を召しあがるのを見ると、お身体に障りはしまいかと、いっそうそのように感じる。どうか、私の家には、小さい銅の炉がついた非常にきれいな茶の湯の釜がありますことを、彼にあなたからお伝えください。もしお望みならば、それを彼に贈りましょう。」17)(p94~95)
 「教会は嵐の後、静謐な歩みを保っていた。・・・1559年(永禄2年)11月初め、司祭は公方(第14代将軍足利義輝)様を訪問して、自分の名誉を回復させたり、(先に)下付された允許状を保証して恩恵を示されたことに謝意を述べようとしたところ、公方様はその点、いくらか難色を示し、当地の民衆は挙げて伴天連に反対して騒いでおり、僧侶もまた激しい憎しみを抱いている。したがって予が御身を優遇し、訪問を受けるのを人々が次々と見たならば、かならずや予にも不慮の出来事が起きることであろう。それゆえ、予を訪ねてこないようにと言った。」17)(p138)

(3)商都・堺での捲土重来 - 日比屋了珪の献身
 「司祭(ヴィレラ)は、都においては布教がさしあたってなんら進展しないことが判ったが、(生来)霊魂の救済ということに大いなる熱意を抱いていたので、キリシタンの数が増えぬままでいることには、胸中もはや堪えられなくなった。・・・そして彼には、都以外としては、日本のヴェネツィア(とも言うべき)堺の市街以上に重要な場所はなかろうと思われた。すなわち、その市街は大きく、富裕であり、盛んに商取引が行われるのみならず、あらゆる国々の共通の市場のようで、絶えず各地から人々が参集するところである。
 司祭は、堺には(自分のための)家も知人もないという事情が最初困難として自分の身に起こり得ようと考えたが、その時、我らの主なるデウスは、この市街のはなはだ名望があり、広く親族を有するフクダ日比屋了珪(生没不詳)なる一市民の心を動かし給うた。彼は伴天連がもし同所(堺)に来るならば、自分の邸に泊まってもらいたいと考えて、伴天連を知っていた日向殿(三好日向守長逸)という貴人に宛てて、もし(伴天連)が堺に来ることがあれば拙宅に住まわれるよう説得してほしいと書き送った。」17)(p140)
 1561年(永禄4年)8月、「(司祭)が都から18里距たった堺に来た時に、日比屋了珪はその来訪を非常に喜び、あとう限り歓待した。そして彼がそこで我らの聖なる信仰について説き始めたところ、新奇なことであったので数名の者が説教を聞きに訪れた。これらの人の中には幾人かの学識ある人々もおり、彼らはいくつかの論拠から、いかなる結論を出すべきかを洞察したが、当時それを実行しはしなかった。なぜならば、同市(堺)の住民の自尊心と不遜なことは非常なもので、彼らは貪欲、暴利、奢侈、逸楽をほしいままにしており、加うるに悪魔は滑稽さと奸計によって、キリシタンになることは彼らにとり堕落を意味し、恥辱であると思い込ませていたからである。そのために多くの者は、同国人からのそうした辱めを恐れ、真理を認めながら受け入れず、大勢の人々が司祭に対して、世間の思惑や評判が、自分たちがデウスの教えの心理に従うことを躊躇させるのだと告白した。
 それにもかかわらず、了珪の数人の子どもと親族たちがキリシタンとなり、それから2年後(1563年)には(了珪)も洗礼を受け、自らの生活および行為によって人々を大いに感化し、つねに当市のキリシタンの柱石となり生活の亀鑑であった。そして堺にはまだ我々の同僚たちの家がなく、司祭(ヴィレラ)たちがキリシタンの世話をしたり、布教のために他の用件を片付けようとしてその地に赴いた十八ヶ年以上もの間、彼の家は昼夜とも教会の役目を果たし、彼のものであった二階を司祭たちは居室とし、そこでミサを献げ、告白を聴き、キリシタンたちに他の秘跡を授けたりした。」17)(p140)
 「都や堺の人々は、現地の人の中からキリシタンになる者は少なかったが、他の国から(そこへ)来る人々の(中)で、(キリシタンの教え)を聴いて洗礼を受ける者は、いつも後を断たなかった。」20)(p11)

 

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