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世界から「堺」へ 日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

2021-02-25 00:43:03 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ!  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

前田秀一 プロフィール

 

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

 

                                世界から「堺」へ 日本へ!
                                      1.その出会いと歴史年表 はこちらから
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 大航海時代
 ヨーロッパでは、他の諸国に先駆けて、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心とした中央集権制度が確立した。さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能となった。
 1415年、人口110万人の小国ポルトガルは、財宝溢れるジパングや、生糸・絹織物を産出する富めるアジアを見据え、アジアやアラブ商人が占有するスパイス(香辛料)の直接取引を目指し、西回りで独自の大量輸送が可能なモルッカ諸島(別称:香料諸島)への海上航路の開拓に乗り出しスペインと競う大航海時代が始まった。

   

 蛋白源として魚や動物の肉食を食生活の基盤としていたヨーロッパ人にとって、丁子(ちょうじ)やニクズクなどスパイスは蛋白源保存のための最良の防腐剤として毎日の生活に欠かすことが出来なかった。
 現実には、これらスパイスは、アラブ人やインド人および中国人の手を通して買い求めており、然も、地球上で唯一の生産拠点である香料諸島からの入手経路は陸路にしても海路にしてもオスマン帝国を通ることになり、物品税や通行税を課せられ金に匹敵するほど高価な値段で取引されていた。


 

 1451年、スペインは、イタリア人・コロンブスの地球球体説を受け入れ、支援して東回りで航路可開拓に取り組み新大陸を発見し、その後1545年にはポトシ(ペルー)銀山の発見に繋がった。
 1455年、ポルトガルは、スペイン王国の進出に先手を打ち、ローマ教皇からキリスト教布教を大義名分として非キリスト教世界の征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した(「胡椒と霊魂」戦略)。
 1517年、マルティン・ルターがローマ・カソリック教会の求める免罪符の購入に異議を唱え、聖書を基本とするプロテスタントが独立し、カソリック教会に危機感が迫った。
 1519年、フェルディナンド・マゼランは西回りでモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かい、南米大陸南端のマゼラン海峡を発見してヨーロッパ人で初めて太平洋を横断した。途中彼自身はフィリピンで命を落としたが、その船団が1522年にスペインに帰り、人類で最初に世界周航に成功した。

  

 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇の漂着船により種子島に鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式で大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。
 1549年、ポルトガルの香料諸島への香辛料貿易船に便乗してフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、1550年には京都の天皇への謁見を目指し堺港に上陸した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスは航海技術と造船技術が注目されて徳川家康は外交顧問として処遇した。その後、オランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
リーフデ号には大砲など武器・火薬を積み込んでおり、徳川家康にとって関ケ原の戦い(10月)に向けて戦備強化に活かした。アダムスは帰化して三浦按針を名乗り、徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。

  

                                          上「図」の拡大はこちらか(日本語版English

 ヨーロッパ人が来航する16世紀半ば以前は、中華思想に基づき中国を中核とした朝貢冊封体制(朝貢、勘合貿易)のもと東アジア特有の貿易圏を構成し、建前上は一元的な支配・被支配の国際秩序があり、現実的には相互依存の関係秩序が保たれた貿易構造であった。
 対明朝貢貿易の実態は、朝鮮が1年に数回、琉球王国が1~2年に1回、日本が10年に1回の割合で行われていた。この中にあって、琉球王国は「万国の津梁」(国乏しく仲介貿易拠点に徹す)を国策として明と日本の仲介貿易の役割を果たした。
 16世紀後半になると、アジアの海域は香料取引を巡る東南アジア貿易と、中国産生糸・絹織物の輸入国・日本を巡る東アジア貿易の二つの貿易圏から構成され、この二つの貿易圏は日本の銀を軸として密接につながっていた。
 この香料と銀を軸とするアジア内貿易ルートを開拓したのはポルトガル人であったが、キリスト教布教を目的とするカトリック教派は徳川幕府の禁教令により入港禁止(1624年スペイン、1639年ポルトガル)となり、実質的には、オランダがこれまで琉球王国やポルトガルが担っていた日本と中国の仲介貿易権を独占的に引き継いだ。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
 堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 <引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館

 

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