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「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

2021-07-24 23:20:19 | 茶の湯

「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

角山 榮「真に、堺衆ということについて」
第2回山上宗二忌講話 平成21年4月11日 南宗寺塔頭 天慶院にて

前田秀一 プロフィール

<時代背景>           
 住吉大社の「開口庄官」を起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する商人たちが台頭した。           
 商人たちは会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った。           
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期(1532年から1555年)以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展した。豪商として財を成した商人たちは、その富を寺に寄進し、堺は商人の町と共に寺町として栄え「まち衆」たちの文化(連歌、茶の湯など)を嗜む拠点として役割を果たした。           

 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった。           
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた。

     「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。           
 しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(四季)を友とす。・・・」    

     松尾芭蕉は、貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石へ旅し、その道中でつづった3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に有名な風雅論を書いた。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。           
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張し、それぞれの時代の文化的背景を的確に言い表した。    

      
<室町文化> 1336年(初代足利尊氏)~1573年(第15代足利義明)           
 八代将軍・足利義政の時(1489~1490)、禅の精神にもとづく簡素さ、枯淡の味わいと風雅、幽玄、侘(わび)を精神的基調とする北山文化(例、鹿苑寺金閣)が開花し、その芸術性が生活文化のなかにとり込まれ根づいた。      

      

 「禅」の系譜 血脈)          

  釈迦牟尼仏(紀元前5,6世紀・仏教開祖)➡1.摩訶迦葉・・・28.菩提達磨(紀元5,6世紀・達磨大師:禅の初祖)➡仏法(印可)を受け継いだ禅師(宗派開祖)           
  「禅」=瞑想=精神統一(坐禅)を通して実戦的体験により自己を整え、「自分という存在」を明らかにする〔「悟り」(真円)の境地に達す〕  。         
      ➡ 仏教から発生した実践哲学 ➡ 教義の根本に坐禅があり、自らが仏となって自らを救おうとする「自力」の教え。

        
 「禅宗」「禅」を旨とする宗派をまとめた「総称」堺の名刹                参考資料:「堺市内禅宗寺院宗派別一覧」こちらから


 「臨済宗」  開祖・栄西禅師(1187~1191年2度目の南宋へ留学)
           生まれつきそなわっている仏性を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かに生きる。
          「真実の自己」へ導く修行として公案(禅の問題)が出題され、座禅実践の中で考え抜き段階的に「悟り」(多角形から真円の境地)を目指す。
          日常のすべてが修行であるとし掃除、畑仕事などの労働も重んじる。
         栄西禅師が南宋から帰国の際、茶樹を持ち帰り、『喫茶養生記』を著して茶の薬効を教え、喫茶文化の切っ掛けを作った 。      
          ➡ 堺の名刹 大徳寺派龍興山「南宗寺」(堺区南旅篭町):千利休「茶の湯」(わび・さび)大成          

あらすじは こちらから

    「曹洞宗」  開祖・道元禅師(1223~1228年南宋へ留学)  
         「人は本来仏である」という言葉に出会い、「どうしてさらに修業して悟りを開く必要があるのか」その解を求めて南宋へ渡った。
           帰国後は、越前・永平寺を創建し「坐禅修行」を広めた。
         仏陀が悟りを開いたのは坐禅によるものであり、坐禅こそ仏教の根幹であると「公案」もなく、一気に「悟り」(真円の境地を)を目指す 。

          ➡ 堺の名刹 天皇山「紅谷禅庵」(堺区三国ヶ丘町):牡丹花肖柏、堺の町人衆に古今和歌集を伝授(「堺伝授」) 
            文明・応仁の乱後戦火を逃れて北摂(池田藩)に地に在った連歌師・詩人牡丹花肖柏が、戦乱となった北摂から堺に移り、
            1518年豪商・紅谷喜平の世話で「紅谷庵」(現・堺区中三国ヶ丘町)に住まい堺のまち衆に和歌や連歌の指導を始た。

       

      中世の文化センター「紅谷禅庵」について こちらから   古今伝授としての「堺伝授」受講ノートは こちらから

 「黄檗宗」  開祖・隠元禅師(1654年、日本からの度重なる招請に応じて明国から弟子20人他を伴って来日)
         坐禅を通して自分の心の中に存在している仏性(阿弥陀仏)に気付き自己解決(自己の究明)する。
         ➡「この世の中に存在するのは心だけで、目に見えるすべての物事や起る現象は、心の働きがもたらしたもの」(唯心)の教えを大切にする。
            隠元禅師は、後水尾法皇や徳川幕府の帰依を受け、宇治・大輪田の約9万坪の寺地を賜り黄檗山満福寺を創建した。
         煎茶、普茶料理など文化・芸術・建築・音楽・医術・印刷など幅広い分野で功績をあげ、皇室から国師号を宣下された。   
         ➡「茶の湯」を政道と位置付けた織田・豊臣時代に対して江戸時代では隠元禅師が後水尾院の帰依を受け公家をはじめ尊王派に煎茶が重んじられた。
          江戸中期では売茶翁の薫陶を受けた伊藤若冲、池大雅、上田秋成、富岡鉄斎など文人が煎茶を嗜み江戸後期に活躍する志士たちに繋がっていった。
            ➡ 小川流煎茶(流祖・小川可進)の流儀は こちらから      小川可進「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、喫するなり」は こちらから
           ➡ 堺の名刹 大寶山「法雲寺」(美原区今井):狭山藩 後北條氏の菩提寺    後北條氏について詳しくは こちらから

   

 

 

SDGs魅力情報「堺から日本へ、世界へ!は こちらから 


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